「世界という大きな書物」  中路正恒ブログ

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help リーダーに追加 RSS 虚数世界に生くるものらの(2) --- 狂気と短歌

<<   作成日時 : 2007/06/30 00:38   >>

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瀬谷こけし
すでに言ったかもしれないが『山中智恵子全歌集』上巻が発刊された。奥付によれば五月二十四日の発行である。山中さんが亡くなられてから一年二ヶ月余での発行である。大変な編集作業だっただろうと出版社の方々のご苦労が察せられる。しかしこれで山中智恵子の歌の全体が大いに見やすくなった。まずは私にとって、この『全歌集』によってはじめて目に入ってきた歌をひとつ紹介させてもらおう。それは『星肆』「花火」の、

  虚数世界に生くるものらのやさしくて植物のごとき手足をひらく

の歌である。おそらくは「鈴鹿山麓の水沢高原の病院」の患者たちの姿を歌っているものだ。「虚数世界に生くるものら」という名ざし方はとてもやさしく、そして真実をついている。そこでひとびとはおおむねこのように「虚数世界」に生きているのだ。実在しない世界に。だからそのひとらが何を生きているのか、どのような意味の生をいきているのか、ひとはほとんど知ることができない。その生において手掛かりにし、またそれに頼っているその「意味」を、その「意味の世界」を、その余のひとは知ることができない。にもかかわらず彼らにはその頼っている「意味の世界」があるのであり、ひとには見えず、頒つこともできないその「虚数」のような「意味の世界」でみずからを解釈することによって、やさしい生をいきえているのである。そしてその手足を、介護の人たちに、あらがうことなく開くのである。
そのやさしさが心にしみる。そして山中智恵子自身も、そのやさしき植物のごときひとびとのひとりとなって、そのひとりとして、水沢におり、そしてここに歌われているのである。
しかし山中智恵子の場合は歌があった。そしてそれによってその「意味の世界」は、「虚数世界」から救い出され、正しく心のはし(緒)を言葉に結びとめる数々の歌になったのである。その無力な者たちの生によせるやさしいことばとまなざしが美しい。

わたしがこのような歌に心が行ったことには、最近の小泉義之氏のおどろくべくねばり強い思索に目を覚まさせられたということがある。氏の近著『病の哲学』(ちくま新書)は、脳死状態・植物状態・末期状態が、そのままで意味をもっているとする思想を成立させようとして、その成立の根拠をねばりづよく、とことんまで探求しようとしているのである。山中智恵子のこの歌には、このような生を肯定する根拠の何かがつかみ取られているであろう。それは、誤解をおそれずに言えば、「正述心緒」の可能性そのものであろう。山中智恵子自身、その「正述心緒」の歌を詠みつづけることによってみずからの病から立ち直り、そして『喝食天』『夢之記』『玲瓏之記』などの恐るべくも永遠の慰謝にみちた歌を歌い継いだのである。

  千年の歌のちぎりの嬉(うるは)しくはた虚しきを誰か知らなむ
                    『玲瓏之記』「すばる満時」

わかる気がする。


(本稿の一部は「山中智恵子論8」『日本歌人』八月号掲載予定と共通しますが、本稿はむしろ哲学系のひとを読者として想定しています。ご了承下さい。)


玲瓏(もゆら)之記―歌集
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