![]() 『津軽学』3号には三上寛のエッセイが載っている。「『想い続け』て津軽。」という変わったタイトルだ。「ふるさと」について語ったものだが、わたしはとりわけその祖父についての語りに感嘆した。はじめにちょっと長いが、そこのところを引用しよう。「自分と向き合う」とはどういうことかについての思索の流れで語られたことだ。 > ただ、自分と向き合うという手段を会得している人たちが、この世の中にどれだけいるだろうか。 わたしの祖父は学歴もない、無学な人だった。 漁のない冬の時期、八戸から送られてくる漁場の道具一式の手入れを済ました後は、ただ一言も言わずストーブの前に座っていた。 冬の間、一日中、「ただそうして座っていた。 自分と向き合うためには、それ相当の語彙も必要だろう。情報だって必要だったかも知れない。 だが祖父は、その時自分と向き合っていたのだ。 陸の生活ではほとんど意味もなく不必要な潮の流れや空の気配、あるいは発動機の音を祖父は、そのことを言葉の代用として用いながら、自分を、おのれを探り、格闘していたのだろう。そうでなければ命を預けて、荒れる海に出れるはずもないだろう。 > 津軽のひとたちは、皆、そうやって、言葉の代用になる、さまざまな経験を駆使して、自分を見つめてきたのではないだろうか。 何かを『想い続けて』きたのではないだろか。 その無数の、無名の、北の人たちの『想い続けて』が、『津軽』という『ふるさと』を積み上げてきたのだ。 引用はここまでである。わたしはここからわたしの「テクスト」の概念を導き出したい。 家のストーブの前に坐りながら、「潮の流れや空の気配、あるいは発動機の音」を祖父は言葉の代用として用い、おのれを探り格闘していた、と三上はいう。そうして祖父は自分と向き合っていたと。 「自分と向き合う」とは思考することの一つである。わたしは、思考するとはテクストを織ることであると言いたいのだ。そしてすべてのものがテクストになる。言葉ももちろんテクストであるが、「潮の流れ」も「空の気配」も、そして「発動機の音」も、そして心の中に浮かぶそれらのイメージも、テクストなのである。それらのテクストを織ってゆくこと、折り合わせ、そして織り変えてゆくこと。思考するとはそういう作業のことなのだ。 「自分と向き合う」とは、その上、その時の現実の知覚を離れ、記憶の中のテクストを引きだし、そしてそこからあるべきおのれの関与を思索し直すことなのだろう。長い冬の間を、じっと、そうして思索を続ける人がいる。それまでのさまざまな経験、その経験のイメージをテクストとして、ひとり思索を続ける思索家たち。この列島のひとびととその生活の深みのひとつは、まさにそのような思索によって鍛えられてきたものなのであろう。 津軽学―歩く見る聞く津軽 (1号(2005))
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