![]() ある方から鶴見和子の歌集『回生』(藤原書店)を送っていただいた。入院して歌を作りはじめたということは新聞などで紹介されていて知っていたが、実際に目にしたことはなかった。 手にとって読んでみると、素晴らしい。その一端を紹介してみよう。こんな歌たちだ。 一、我もまた動物となりてたからかに唸りを発す これのみが自由 二、水、水、といいてウランの火に灼かれしヒバクシャの惨苦あらせてはならぬ カタストロフィ カタストロフィ 三、楡若葉そよぐを見れば大いなる生命(いのち)のリズム我もさゆらぐ 四、猿も鹿も猪も棲むとう七沢に片手片足(へんしゅへんそく)の我 山姥(やまうば)となれり 五、玄関の扉(とびら)開けば山々を渡り来(こ)し風はそこに待ちてあり 六、フル・スピードもて燕(つばめ)自在に飛び交えど衝突せぬを不思議と思う 七、花道を杖もて歩む静(しずか)われ 昔を今になすよしもがな 八、おおらかに死を語りあう友のありてかがよい熄(や)まず我が老いの日々 こうして八首を上げてみると、この歌集の特質の幾つかは見えてくる気がする。第一首にあげた「我もまた」の歌は、ベッドに拘束される入院という状態の中でも自分に思いっきり自由にできることを発見するのである。それが「唸る」こと。ただこの自由を得るためにはみずから人間の枠を壊し、動物への変身を果たさなければならない。作者はそれを断然やってしまうのである。その素晴らしさ。その肯定的な、生ることへの明確な姿勢に瞠目させられる。 「水、水」の歌も入院中のみずからの渇きをもとに発想されている。ヒバクするとはこうして渇くことなのだ。「ヒバクシャ」を片仮名で記す修辞は、一瞬思考を中絶させ、読者を「ウランの火に灼かれた」ひとびとの現実の苦しみに直面させてくれるものだ。「被爆者」といってしまったら、あの広島、長崎の被爆者のことね、とあっさりと出来合いの概念だけでことを捉えてしまうだろう。それではあのたまらない「渇き」に、直面しがたくなってしまうはずだ。必ずみずからの身体感覚を出発点にして、そこから物事を考えてゆくこと、この姿勢がすばらしい。ニーチェ的な方法だ。 三首目の「楡若葉そよぐを見れば」の歌には直観音楽的なものがある。あとがきで言われる「経験と歴史とをへて到達した「実存」ともいうべき新しい境地」とは、まさにこの一首の中に言われていることだ.。宇宙のリズムを感じ、そして呼応する、そういう営みだ。この世界がどれだけ豊かなものであるか、ご存命であればお伝えしたいことだ。 山姥宣言の歌は、痛快なものだ。みずからを山姥と名乗って恥じないひとは極々まれだ。半身不随の異形になって、作者ははじめてその地位を手に入れた。山姥になるとは、悲惨と栄光を同時にわがものにすることなのだ。 五首目の「山々を渡り来し風」の歌はこの上なく爽やかな歌だ。五月に時々感じることのできるその風は、山々の緑を渡って遠くからやってくる風で、日本の季節の味わいの最良のものの一つのはずだ。この風を、わが師、山中智恵子も歌っていた。「風とほくわたらふ五月」と(『虚空日月』)。この歌集のこの歌で、わたしははじめて山中智恵子の歌った五月の風が再び捉えられたと感じた。 六首目の、フル・スピードもて自在に飛び交う燕の歌に関しては、わたしは多少の疑問を感じるところがある。これもまた五月であろう。この国に渡り来て、巣場所を見つけ、そして全力で飛び交う燕たち。それもまた五月のめざましいできごとであるが、それを彼ら燕たちはペアリングの行動としておこなっているのだ。激しさも当然である。全力、全速力も当然である。伴侶を得た喜びもそのフル・スピード飛行にはある。この歌で物足りなく思うのは、そのペアリングの必死と歓喜を作者が見落としているところだ。わたしはまた燕の歓喜も感じ取りたいと思う。 七首目の「静」の歌はまことに巧みに詠まれた歌である。左注によれば作者は国立小劇場で「賤(しず)の苧環(おだまき)」を踊ったことがあるという。静御前の思いと我が思いを重ねてうたう歌は、どこかに(詩歌管弦の)遊びの愉しみを隠していて優雅である。 わたしが先に引いた最後の八首目の歌である。「かがよい熄まず我が老いの日々」。こういう姿勢をもってみずからの老いを祝福する姿には感動するほかはない。われらはみなこうありたい。われもまたこうありたいと思う。 最後にもう一首だけ付け加えておこう。多分目立たない歌である。 ほとほとと病室の扉(と)を叩く音 三日つづきて直輔昇天を知る この「ほとほと」は折口(信夫)が説くまれびとの来訪を告げる音だろう。こんなところに、こっそりと、さりげなく、作者のしっかりとした民俗的感性をみることができる。作者はたぐいまれな稟質をもった方なのだと知られる。 ◇ ◇ こうして数首あまりを取り出しただけで、この歌集が、生まれることの稀な、秀逸な歌集であることがわかるだろう。ここには感覚と身体によって感得されたのっぴきならないことだけが歌われている。歌い方は過剰、過度なところがまったくなく、すべてが的確を旨として歌われている。この歌集は、わが国の歌壇にとって、またわが国の歌の歴史のなかで、記念され、そして後の歌人によって必ず学ばれるべき一集である。このような歌集が生まれ、そしてそれに触れられたことを、わたしは率直に喜びたい。 |
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鶴見和子歌集『花道』 二十四首を読む
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「世界という大きな書物」 中路正恒ブロ... 2008/10/08 12:45 |
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