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《銅心さん》

2017/03/31 03:01

瀬谷こけし


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 二年前の2015年3月31日にFBに書いたものを再録します。銅心さんはいまどうしておられるやら。お会いしたのはさらに数年前のことだったはずだ。

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《銅細工師》
 その時いずれ必ず店を出すのだと言っていた。銀閣寺の参道が一番の狙いのようだった。半畳ほどの店でいいと。
 植物園南の河原で銅細工を作っていた。珍しいので、話かけていろいろ聞いていた。その河原で商売もしていた。かなり高い値段だった。高いものは一万円ほどはしていた。この器でも三千円以上していた。財布の中の有り金をそっくり出して売ってもらった。(そういえばその時、帰りのバス代はあるのかと聞かれて、自転車できているから大丈夫と答えたのだった)。器を何に使ったわけでもない。こんな生き方をしているひとがいるのが嬉しかったのだった。
 写真も撮らせてもらった。焼けた肌。そして引き締まった強そうな筋肉。どこか鬼気を感じさせるところがあった。
 その後遠くから一度だけ見掛けた。その時も加茂の河原にいた。工人名は「銅心」といった。(2015.3.31)

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《若水汲み 芹生へ》

2017/03/31 01:26
《若水汲み 芹生へ》
瀬谷こけし

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 花背峠を越えて、別所を越え、上黒田、灰屋、一の谷を越えて、芹生の山水を汲みに行った。今日はぜひとも春の若水を汲みたかったので、奥まで行った。途中の道、路上には積雪はなかった。
 汲む時石を動かすと沢蟹が一匹いたので、しばらく逃げてもらった。今日は使い損ねたが、明日はこの水でコーヒーかお茶を飲もう。

 そして新緑の杉の葉の美しさ。
 この辺りは桂川の源流域のはずだが、驚いたのは光が当たる杉の葉の美しさ。いや美しいと言うより、それは麗しかった。
 この京都の中では空気も水もきわめて美しいところなのだろう。杉の新しい葉がこんなに美しいものだということをここに来て初めて知った。

写真12枚。カメラ: Nikon Coolpix S9900


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《宮沢賢治賞に推薦した》

2017/03/28 23:16
瀬谷こけし


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 河合雅雄さんを賢治賞(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)に推薦した。ただし郵送でもFAXでもなくホームページのフォームから。

その内容は以下だ。

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第27回宮沢賢治賞推薦 

候補者:
河合雅雄 かわい まさお 

対象となる内容:
『宮沢賢治の心を読む』(I/II/III、2011/2012/2015年、童話屋刊)、及びこれまの宮沢賢治研究および紹介の業績に対して。

推薦の言葉:
宮沢賢治の童話をみずから各地の山野を歩き回った経験と最先端の生態学研究で培った知識教養によって読みとり、賢治童話に隠れている動植物の深く正しい知識を紹介するとともに、同じくそこに隠れている日本の伝統的な感覚(奥山の神聖さ等)を的確に示し、賢治童話を自然への親しみと生態系の知識のもとに読解することの新鮮さ、豊かさを示した。

以上
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 今年は賞選考委員でも理事でもないので、オープンにしてもかまわないだろう。いや、むしろ賞選考の公明正大化にもいくらか役立つだろう。




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《『短歌研究』勉強帖 2017年4月号》

2017/03/26 18:47
瀬谷こけし


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---喜多弘樹の前登志夫論「樹木みな」にまなびつつ---


 少し休んでしまったが「『短歌研究』勉強帖』を再開しよう。2017年4月号から。欠いてしまった号もまた補ってゆくつもりだ。
 2017年4月号巻頭の「12ヶ月の歌」喜多弘樹が前登志夫の歌三首を取り上げて吉野の桜を論じる。引かれる三首の歌は以下だ。

>杉山にとだえもなしにさくら花流るるひと日ひと日を生くる 『樹下集』
>樹木みなある日はゆらぐ行きゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり 『霊異記』
>さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり 『童子』

 前の歌にはある程度親しんでいたつもりだが、こうして桜歌三首を示されると、とても自然に桜を迎えていた歌人の姿が見えて来る。それは西行の、身と心が添わなくなるような浮かれとはまた少し違うものだ。
 一首目の歌は桜の花の流れるさまを歌うが、私は杉山の中にではなく、それをやや距離を取って眺めやる場所にいるようだ。花は流れ来るのではなく流れつづける、とだえもなしに流れつづけるのだ。喜多が「いったい、どこから花が流れてくるのか」と問うのは正しい。その木々の姿が見えずに花だけが杉山に流れつづけるさまはとても不思議だ。花は風の道を流れてゆくのだ。だからかえって普段は見えない風の道が今はどこにあるのかを桜の花は教えてくれるのだ。だから喜多が「現世から他界へと流れていく一筋の〔…〕河だ」と説くのはとても正しい。普段は見えない道を花は流れてゆく。壮麗な景だ。
 だが、ここまで読んでくると、下の句の措辞がとても気になってくる。僭越を承知で言えば、わたしなら「流るるひと日この日を生くる」とするだろう。つまり、とだえもなしにさくらの花が流れる日は、一日しかない、いや、一日もつづかない、と思うからだ。だから前の「ひと日ひと日を生くる」とは、日ごと日ごとを生きるということではないか。毎日を、日々を生きるということでは。「流るる」の連体形は上の方の「ひと日」にかかるが、言ってみればここまでが非常に長い序詞で、その、この上なく壮麗な一日として、毎日を私は生きる、と、そのような生きる決意を歌った歌ではないだろうか。そのひと日のさくら花の流れつづける光景は、日々こころの奥にあって私を生かせると。
 「流るる」の連体形と「ひと日ひと日」の複数性との間の措辞の破綻をしっかりと受け止める必要があるだろう。それによって、歌は毎日毎日とだえもなしに流れる生死の川を壮麗な現実の日々のまことの姿として見せてくれるのである。

 二首目の歌を再掲しよう。
>樹木みなある日はゆらぐ行きゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり 『霊異記』

 この歌の解釈の要点、あるいは難点は「行きゆきて」にあるだろう。どこかに原一男監督の映画《ゆきゆきて 神軍》への連想をさそう措辞だが、この歌では花びらの流れてわたってゆく距離の遠さ、はるかさが言い示されているであろう。なべての樹々がゆらぐほど激しい風の吹くある日のことである。その日はじめて桜の花びらは乞食の掌(て)にまで届く。やっと届くのである。そしてそのことによってはじめて桜の花が荘厳される。桜の花を聖化するのはまさにこの乞食なのである。乞食の掌にいっぱいの花びらが盛られることによって、つまり彼が花たちを美(よ)しとすることによって、桜の花は聖化されるのである。そのような乞食が山の奥のおくのどこかにいる。芭蕉が「こもをきてたれ人います花のはる」と元禄三年の歳旦に問うた問いの、これは前の答えでもあろう。

 三首目は、
>さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり 『童子』

である。これはどのような夕べだったのだろう。桜咲く春の季節といっても、西の空が美しく夕焼けに染まることもある。そんなときでも、夕焼けののちに陽が沈んで、光が雲のみを照らし空があわく透明な水色に変わり、さらに色が薄れ沈んでいって、暗くなってゆくことがある。わたしはその夕焼けののちの透明な水いろの空がとても好きなのだが、その暗くなってゆく時の間はそんなに短いものではない。「まで」と区切られる時は、ともあれひとつの死に別れの時だ。そして「めで」と時を区切るのは歌人自身だ。思いを死なしめるのは歌人自らだということだ。その思われびとはすでに歌人のところから去っている。だから歌人がみずから思いを止めるとき、その時ひとつの死が成就する。さくら咲くゆふべの別れと言えるだろうか。鎮魂はこののちは暗くなった空そのものが引き受けてくれるだろう。わたしもこの作を前登志夫のもっとも美しい歌の一つに数えるだろう。


 他の作品を見よう。今号には「特別作品」として十名各二十首の歌が掲載されている。掲載順に、福田龍生「雪の一人旅」、桜井登世子「寒しじみ」、横山岩男「一閃」、野地安伯「睦月きさらぎ」、村木道彦「昏睡」、冬道麻子「ショートステイ」、大辻隆弘「塔の立つ校舎」、荻原裕幸「誰かが平和園で待つてる」、佐藤弓生「誰も見てない」、田中綾「『労働基準法』再読」である。
 目に止まった作を作者別に記そう。
 福田作品
>迢空のたづねし木曽の山里に風船かづらの朱の実あれば和みぬ
(迢空の名を出すことによってふくらみが出て、師の後を追う旅と見えてくる。雪道を歌いながら雪歩きになれてないひとの歌に見える点がそれで納得される)

 桜井作品
>風の匂ひコートにつけて帰宅せし大寒の夜を抱き合ひしか
 (「男のごとき匂ひ」「木材の匂ひ」「風の匂ひ」と「匂い」の歌が多いが、なかでも「風の匂ひ」が新鮮。こういう日常詠をみると古典的仮名遣いの必要があるのか疑問に感じる)

 横山作品
>農家より米買い帰りに十キロを搗くは車にわが乗れるうち
(写生派の日常雑詠集とみえるがこうした自己の限界の自覚には詠嘆につながるものがありホッとする)

 野地作品
>手伝ひのわれら本堂の椅子を置き座布団を敷き 明日節分会
>春早き足柄平野横切りて御殿場線の三輌が行く
 (前の歌は節分会の手伝いを通して歌人のいる社会空間を大変明瞭に語る。後の歌は「三輌が行く」が効いて足柄平野の様を描く。写生派のこれらは達人の技に見える)

 村木作品
>なにげなく見上げし視線のそのさきにきそひあひつつ雲峰ふたつ
>その掌(て)もてわれのまなこをふさぎしか日常と呼ぶ深き昏睡
>旺盛な生命をもつ雑草であることの罪 夏の庭にて
(日常を批判しうる精神の明晰さ、明敏さがが「晩年」にあっても写生派の原理を超えることを示す歌群。日常を維持しようとする力は生命あふれる雑草をその存在から断罪する。道元や山中智恵子が「棄嫌に生ふる夏草」と詠じたレベルを超え、ニーチェ的な権力批判の場に達している)

 冬道作品
>ベッドより救い出されて帰宅せんストレッチャーへの平行移動
 (ショートステイの体験を歌にしたもの)

 大辻作品
>塔の立つ校舎が見えて丘の上は何がなし楽し春が来れば
 (「何がなし楽し」は分析か、分析の放棄か?)

 佐藤作品
>倒れても誰も見ていないところでは樹でも人でもなかった It(それ)は
>人は言う 生んだことばに生かされる存在だから言う 愛してる
>咲くことは傷ひらくこといくたびもさくらの道をゆきかえりして
 (不可視もしくは不可聴の領域にたっぷりと身を置いてこの世を見つ両界のアナロジーを言葉の喩法によってつなぐ。注目すべき認識方法と歌法をもった歌人。三首目はなんと素晴らしい桜歌だろう!)

 田中作品
>セヨ、スベシ、シテトーゼンデショ、ネバナラヌ そういうコトバやめてにブチョー!
>けっこういい給料って耳打ちされたのに残業代込みなんてマジかい
>サイテーのこの金額で生き継いだことないヒトが線引く最低賃金(さいちん)
 (こうした批判が労働基準法の各条への違反だということを教えてくれる。啓蒙歌とうい新しいジャンルが創造される)

感想:
 村木、佐藤、田中の作品が抜群に面白い。ほんとうを言えば、批判がなければ短歌も成立しないのだと勉強した。

 2017年4月号の勉強は以上としたい。


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《さくら咲くゆふべの別れ》

2017/03/25 02:28
瀬谷こけし


《さくら咲くゆふべの別れ》
 ---喜多弘樹の論「樹木みな」にまなびつつ---


 『短歌研究』誌2017年4月号巻頭の「12ヶ月の歌」は喜多弘樹が前登志夫の歌三首を取り上げて吉野の桜を論じる。それについて論じてみよう。


引かれる三首の歌は以下だ。

>杉山にとだえもなしにさくら花流るるひと日ひと日を生くる 『樹下集』
>樹木みなある日はゆらぐ行きゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり 『霊異記』
>さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり 『童子』

 前の歌にはある程度親しんでいたつもりだが、こうして桜歌三首を示されると、とても自然に桜を迎えていた歌人の姿が見えて来る。それは西行の、身と心が添わなくなるような浮かれとはまた少し違うものだ。
 一首目の歌は桜の花の流れるさまを歌うが、私は杉山の中にではなく、それをやや距離を取って眺めやる場所にいるようだ。花は流れ来るのではなく流れつづける、とだえもなしに流れつづけるのだ。喜多が「いったい、どこから花が流れてくるのか」と問うのは正しい。その木々の姿が見えずに花だけが杉山に流れつづけるさまはとても不思議だ。花は風の道を流れてゆくのだ。だからかえって普段は見えない風の道が今はどこにあるのかを桜の花は教えてくれるのだ。だから喜多が「現世から他界へと流れていく一筋の〔…〕河だ」と説くのはとても正しい。普段は見えない道を花は流れてゆく。壮麗な景だ。
 だが、ここまで読んでくると、下の句の措辞がとても気になってくる。僭越を承知で言えば、わたしなら「流るるひと日この日を生くる」とするだろう。つまり、とだえもなしにさくらの花が流れる日は、一日しかない、いや、一日もつづかない、と思うからだ。だから前の「ひと日ひと日を生くる」とは、日ごと日ごとを生きるということではないか。毎日を、日々を生きるということでは。「流るる」の連体形は上の方の「ひと日」にかかるが、言ってみればここまでが非常に長い序詞で、その、この上なく壮麗な一日として、毎日を私は生きる、と、そのような生きる決意を歌った歌ではないだろうか。そのひと日のさくら花の流れつづける光景は、日々こころの奥にあって私を生かせると。
 「流るる」の連体形と「ひと日ひと日」の複数性との間の措辞の破綻をしっかりと受け止める必要があるだろう。それによって、歌は毎日毎日とだえもなしに流れる生死の川を壮麗な現実の日々のまことの姿として見せてくれるのである。

 二首目の歌を再掲しよう。
>樹木みなある日はゆらぐ行きゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり 『霊異記』

 この歌の解釈の要点、あるいは難点は「行きゆきて」にあるだろう。どこかに原一男監督の映画《ゆきゆきて 神軍》への連想をさそう措辞だが、この歌では花びらの流れてわたってゆく距離の遠さ、はるかさが言い示されているであろう。なべての樹々がゆらぐほど激しい風の吹くある日のことである。その日はじめて桜の花びらは乞食の掌(て)にまで届く。やっと届くのである。そしてそのことによってはじめて桜の花が荘厳される。桜の花を聖化するのはまさにこの乞食なのである。乞食の掌にいっぱいの花びらが盛られることによって、つまり彼が花たちを美(よ)しとすることによって、桜の花は聖化されるのである。そのような乞食が山の奥のおくのどこかにいる。芭蕉が「こもをきてたれ人います花のはる」と元禄三年の歳旦に問うた問いの、これは前の答えでもあろう。

 三首目は、
>さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり 『童子』

である。これはどのような夕べだったのだろう。桜咲く春の季節といっても、西の空が美しく夕焼けに染まることもある。そんなときでも、夕焼けののちに陽が沈んで、光が雲のみを照らし空があわく透明な水色に変わり、さらに色が薄れ沈んでいって、暗くなってゆくことがある。わたしはその夕焼けののちの透明な水いろの空がとても好きなのだが、その暗くなってゆく時の間はそんなに短いものではない。「まで」と区切られる時は、ともあれひとつの死に別れの時だ。そして「まで」と時を区切るのは歌人自身だ。思いを死なしめるのは歌人自らだということだ。その思われびとはすでに歌人のところから去っている。だから歌人がみずから思いを止めるとき、その時ひとつの死が成就する。さくら咲くゆふべの別れと言えるだろうか。鎮魂はこののちは暗くなった空そのものが引き受けてくれるだろう。わたしもこの作を前登志夫のもっとも美しい歌の一つに数えたい。



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二月堂から大仏殿方面 2017年3月10日



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《プリンツ・フォーゲルフライ 日本歌人3月京都歌会》

2017/03/19 02:32
瀬谷こけし


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 今日(3月18日)は午後から京都歌会があった。突っ込んだ議論が交わされ、とても有意義な会だった。普段は出詠歌を歌会の後で変更することはないのだが、今回は変更することにした。変更後はこうだ、

>海峡に鴎が数羽群れて飛ぶ皇子(プリンツ)フォーゲルフライのこれが友たち

 「プリンツ・フォーゲルフライの歌」はニーチェが1882年シチリアのメッシーナで作った詩のタイトルだが、これからはこれまで導いてくれたワグナーから離れて、自分の弟子たちと新しい道を開いてゆこうという決意を歌った詩だと理解している。わたしも去年の3月、メッシーナに行って、帰り道の電車の中でやっ鴎を見ることができた。メッシーナはイタリア半島との海峡の町。ゲーテの『イタリア紀行』でひとは大地震で崩壊して間のないころのこの町の様子を読むことができる。ニーチェも多分読んでいただろう。

 「プリンツ」は「皇子」だが、「フォーゲルフライ」は法の保護を奪われた存在、野たれ死にしても鳥がつつき食い破るままに捨ておかれる存在を意味する。庇護を失った存在。流離の存在。「プリンツ・フォーゲルフライ」は日本語では「野ざらし皇子」ぐらいの意味になるだろう。ニーチェの詩はその皇子の志を一羽の鳥の立場で歌っている。

 メッシーナの海岸ではあまり鴎を見かけなかった。鴎を見かけても浜に一羽でいる鳥、一羽で飛んでいる鳥が多かった。メッシーナを少し離れかかって、はじめて群れ飛ぶ鴎を見た。

 シチリアの町はどこも深い思いを残すが、メッシーナもその例外ではなかった。カターニアに向かった帰路では、右手にエトナ山が見えた。昨日はそのエトナ山が噴火をしたというニュースが流れていた。


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《東大寺修二会 お松明 3月10日》

2017/03/14 02:44
瀬谷こけし

 東大寺のお水取りの練行衆上堂のための松明。一枚加えて写真10枚。


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《お水取りの十一面観音悔過》

2017/03/11 16:31
瀬谷こけし


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 招待してくれる人があってお水取りに行ってきた(3月10日)。最近はお水取りの「行」の部分に関して、厳しくするようになったようだ。見学に来る人の乱れや安易さに、別当になられた佐川普文さんがたまらなくなったようだ。今日は、見学者の人数も少なく、会式の内容も非常にはっきりと感じることができた。初夜と中夜だけ見て、(早めに)引き上げたが、十分以上に学ぶことがあった。
 初夜の行が「十一面観音悔過」から始まるのも初めてだった。その五体投地。板に身を投げる音が響く。---いや、それは重く激しく響くのだが、それ以上に床板の振動として、伝わってくる。今まさに何が行われているか、が。五体投地は懺悔の行だ。懺悔すべきことがあるのだ。自分にも、世のためにも。その僧侶の行。強く激しい。だが痛ましくはない。わたしが思ったのは、『ツァラトゥストラ』の「大いなる軽蔑の時」にも懺悔の行があるべきだ、ということだった。昨日書いた《『ツァラトゥストラ』の超人論(1)》を読んでくださった方には容易に理解がゆくと思いうが、「大いなる軽蔑の時」の強度は、五体投地のような激しい行によって、表現される形式を伴うべきなのだ。---これはわたしが『ツァラトゥストラ』を越えるための要点のひとつになるだろう。今日は何よりもそれを学んだ。
 もう一つ。直観音楽の演奏としてみれば、わたしたちIMAの演奏は「お水取り」に優っていると思う。奏せられ発せられる様々な音の意味を全力で聴いていたが、その上での判断だ。だが、その最高強度や、その印された最高強度から生まれてくる「ゆとり」という点では、もしかしたらわたしたちの方が負けているかもしれない。---そうではない、と思うが、しかし実際にやって見なければわからない。---それほどに、今日の五体投地は実質があった。右ひざを上げて、その右ひざに全体重がかかるように、体の塊を持って行くようにするのだ。---わたしの見たところでは、ほんとうにそれができたのは、ただ一回だった。7回目にもう一歩のところまできて、8回目に完成した。---ここにお水取り=十一面観音悔過の最も重要なところがある。
 ますます東大寺が好きになった。




東大寺お水取りの声明
キングレコード
2008-07-09
東大寺-山僧侶

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《『ツァラトゥストラ』の超人論(1) 大地と没落機械》

2017/03/10 03:05
瀬谷こけし


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   はじめに: 「国家の外」という問題

 先にわれわれは『ツァラトゥストラ』の「国家=新しい偶像」論を一通り見た。そこでも国家の「外」というものが考えられていたのだった。その「外」は「大地」に拠りどころを持ちつつ、大地の上のどこかの座(Sitz)において、空を仰ぎ、そこに虹を見出し、そして超人への促しに目覚めさせられるべき場所だった。しかしその時、その「国家の外」の場所において超人はどのように働くべきものなのだろうか? 超人の概念が導入され、その要点が説かれるのは『ツァラトゥストラ』の「序説」の三と四においてである。そこで超人は人間の存在を綱渡り見る把握と関連させられつつ、「超人は大地の意味である」(der Übermensch ist der Sinn der Erde )とか、「超人はあなたがたの大いなる軽蔑がそのなかに没することのできる大海である」(… der(=der Übermensch) ist diess Meer, in ihm kann eure grosse Verachtung untergehn)とか言われている。これらの言い方において注目すべきことは、超人が人間の没落(untergehn)との関連において語られていることである。人間は、自己目的ではなく、橋であり(eine Brücke und kein Zweck ist)、過渡であり、没落することこそ本来的なこととされているのである。「人間とは、一本の綱であり、[…]一個の危険な途上なのである」(Der Mensch ist ein Seil, [...], ein gefährliches Auf-dem-Wege)。
 『ツァラトゥストラ』」の超人論において、人間の存在はいわばインテルメッツォ、間奏曲である。そしてこの間奏曲性において、人間は国家の外にあり、没落に本来的に隣しているのである。そして、このようなツァラトゥストラの教えが人間にとって避けることのできないある必然的な強制力を捉えているとすれば、われわれはその教説を「没落機械」として分析することができるだろう。


1.大いなる軽蔑の時

 それではこの「没落機械」はどのように作動するのだろうか? それを説明するために『ツァラトゥストラ』は「大いなる軽蔑の時」(die Stunde der grossen Verachtung)、という概念を導入する。

> あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか? それは「大いなる軽蔑」の時である。あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪をおぼえ、同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。(『ツァラトゥストラはこう言った』第一部、「ツァラトゥストラの序説」3、氷上英廣訳、岩波文庫。以下同じ。「序説」4も参照のこと)
> Was ist das Grösste, das ihr erleben könnt? Das ist die Stunde der grossen Verachtung. Die Stunde, in der euch auch euer Glück zum Ekel wird und ebenso eure Vernunft und eure Tugend. (『Also sprach Zarathustra (German Edition)』Kindle。以下同じ)

おのれの幸福に対して嘔吐をもよおし、おのれの理性に対しても、またおのれの徳に対しても嘔吐をもよおす時、それが「大いなる軽蔑の時」と呼ばれる「時」である。それは耐えがたい嘔吐感によってすさまじい自己嫌悪に苦しめられる恐るべき時である。その時ひとはおのれの幸福やおのれの理性、おのれの徳など、おのれの誇りにするものの貧弱さ(Armuth)、不潔さ(Schmutz)、満足のみじめさ(ein erbärmliches Behagen)に耐え難くなるのである。

> あなたがたがこう言う時である、「わたしの幸福は何だろう! それは貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」
> Die Stunde, wo ihr sagt: "Was liegt an meinem Glücke! Es ist Armuth und Schmutz, und ein erbärmliches Behagen. Aber mein Glück sollte das Dasein selber rechtfertigen!"

 すぐに見て取れることだが、ひとは「おのれの幸福」のこのようなみじめさに嘔吐をもよおすとき、同時に「幸福」の本来のありようを、本来の姿として、はっきりと自覚的に把握しているのである。わたしの幸福は、本来、現実の存在(Dasein)そのものを是認する(rechtfertigen)ものであるべきなのである。おのれの満足への軽蔑とおのれの本来性への目覚めとが、この「大いなる軽蔑の時」においては同時に生じる。「自己への軽蔑」と「自己の本来性への目覚め」という相異なる二つの方向性が、一体で分かつことのできないものとして、この「大いなる軽蔑の時」というステージにおいて、同時に生じるのである。この経緯は、「おのれの幸福」のみではなく、「おのれの理性」「おのれの徳や善悪」「おのれの正義」「おのれの同情」についても同じである。これらの小ささ、貧しさ、不潔さ、みじめさなどの、自己軽蔑の対象となる咎は「罪」ないしは「罪過」として(ドイツ語で「Sünde」として)概念化されるが、しかしそうした「罪」が自覚され、「罪」そのものが声を上げることは稀である。

> あなたの罪が天の審(さば)きを求めて大声をあげているのではない。叫んでいるのはむしろあなたがたの自己満足だ。あなたがたの罪のけちくささそのものだ!
> Nicht eure Sünde - eure Genügsamkeit schreit gen Himmel, euer Geiz selbst in eurer Sünde schreit gen Himmel!

 おのれの罪が天へと叫びを上げるということは稀で、ひとびとが天へと叫びをあげる時ですらその叫びを発しているのはおのれの自己満足であり、おのれの罪のなかにあるケチ根性そのものなのである。

 こうしてツァラトゥストラの「大いなる軽蔑の時」という教えは深刻な危機に直面する。「大いなる軽蔑」を行う者がまれであり、「大いなる軽蔑の時」という高いステージに達するまで自分を追い詰める者がきわめて稀なのである。その激しさに達するためにはほとんど稲妻に打たれるような強さが必要であり、狂気に突き動かされる激しさが必要なのである。そのような稲妻はどこにある? そのような狂気はどこにある? それこそが問題になるのである。

> だが、その舌であなたがたをやきほろぼすような稲妻はどこにあるのか? あなたがたに植えつけられなければならない狂気はどこにあるのか?
> Wo ist doch der Blitz, der euch mit seiner Zunge lecke? Wo ist der Wahnsinn, mit dem ihr geimpft werden müsstet?

 その答えが超人である。

> 見よ、わたしはあなたがたに超人を教えよう。超人こそ、この稲妻、この狂気なのだ!---
> Seht, ich lehre euch den Übermenschen: der ist dieser Blitz, der ist dieser Wahnsinn! –

 必ずしも明瞭に述べられているわけではないが、「大いなる軽蔑の時」というひとが体験できる最大のものに達するために、それに必要とされる強度をひとが受け取りうるために、超人が将来され、呼び出されているように見える。しかし、稲妻に打たれることは、人間にはなかなか難しいことであるように見える。しかしそれは、人間に可能な経験として幾たびか語られてきたことである。こうして稲妻=超人という最高度の強度的契機を導入することによって、少なくとも成立可能なひとつの経験領域として、「大いなる軽蔑の時」が持ち来たらされたと見ることができるだろう。だが、超人という強度的な装置が、国家の外で作動する没落機械の中にどのように(組み立ての)変化をもたらすのか、われわれはまだほとんど何も理解していない





ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)
岩波書店
2014-12-18
ニーチェ

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《ヴィットーリオ・エマヌエーレ 二世》

2017/03/05 12:39
瀬谷こけし


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ローマの「ヴィットーリオ・エマヌエーレ 二世公園」にて



(去年のこの日、3月5日にローマでFBに書いたものを再録します)

 いちばん下の娘が今日大学を卒業した。
 めでたくて、そして寂しい。

 一か月のイタリアを中心にした旅も今日から(もしかしたら昨日から)後半を迎えた。妻子と一緒に回った、目まぐるしく楽しかった最初の一週間。それは自分の人生の楽しさそのもののようだった。

 今日は休養にあてていたが、気づくと夜の八時を回っていた。---このまま自分の仕事に入れない。さっき弘前の友人にフィレンツェで買ったはがきを書いた。その切手を売っている店がないか、見に駅の方まで探しに歩いてきた。もちろんないに決まっている。タバッキは遅くとも七時には閉まるだろう。確認ができればいいというところだ。それよりなにより外が歩きたかった。子供を育て、子供とともに家族と過ごしてきた楽しい時間…。

 しかし他方、夜の街に出ると、この町を車で走り、高速で走り抜けたいという気持ちがいつでも湧く。ローマならローマ弘前なら弘前。京都なら京都。そんな自分をなだめ、時には解放し、これまで生きてきた。しかしこのスピードの感覚がなくならないように。脱出への加速能力を失わないように…。

 今日は近所のヴィットーリオ・エマヌエレ二世公園で手帳にものを書いていた。ここローマで、そしてシチリアのカターニアで、このエマヌエレ二世の何かに守護されている気がしていた。カターニアの宿で預けていたバッグをとりに行ったとき、宿の若いおねえさんと、今朝朝食で一緒になったフランス青年と、ふたりからあなたはまた戻ってくるまた会おうと言われた。わたしの最後の言葉も「ォルヴォワール」だった。「ル(re)」をはっきり発音しようとした。また来る気がしていた。なぜカターニアの町がたった三日で、こんなに愛しい町になってしまったのか。初日に、大変な困惑の中、助けてもらった経験が大きいのだと思う。そしてその最初のきっかけは、どこを歩いているのかさっぱりわからなくなったとき、道でバスを待つ高齢のおばさんに尋ねたのが、ヴィットーリオ・エマヌエレ通りに行くにはどうしたらよいのか、と尋ねたことだった。駅の方まで戻って行きなおさなければだめだとその人は教えてくれた。地図を見て考えていた確信があったので逆らいたかったが、結局それに従った。そしてそのおかげで正しい道をみつける第一歩に戻れた。そのときにも導いてくれたのはヴィットーリオ・エマヌエレ二世の名だった。前にfbで語った助けてもらった話はさらにその次の段階の話だ。そのときは自分がジョバンニ通りを歩いていることが通り名と地図とで一致してわかっていたからだ。そして宿からのメールに書かれていた通り名と地番は、すでに地図で調べて見つけていたので、その番地に宿が(事務所でなく)存在していれば、自力でたどり着ける可能性は多少ともあったはずだ。---結局わたしは何に導かれていたのか? ヴィットーリオ・エマヌエレ二世の何かではないのか? 彼はイタリア王国を作り上げた。オーストリア帝国から独立を勝ち取るとともに、法王からの破門を受け入れ、法王の権力を最後まで拒否しイタリアを建国したこの王の何か? それに守護されているという気持ちがどこかでしていた。まったく偶然のなりゆきなのだが。

 末の子の大学卒業は子育ての一段落だが、それで終了というわけではない。これからは私の仕事の部分を増やしてゆかなくてはならない。次の旅を考えよう。今日はローマで10度ぐらい、ベルリンやミュンヘンは2度だ。トリノが4度で、ドイツよりは少し暖かい。この時期のローマは暖かくて過ごしやすい。計画を立てよう。


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《『ツァラトゥストラ』の国家論(3) 「国家の終わるところで」》

2017/03/05 04:26
瀬谷こけし


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北イタリアのオルタのモンテ・サクロのフランチェスコ門


   3.「国家の終わるところで始まること」

 国家は終わる。そう『ツァラトゥストラ』は記す。しかしそれがどんな終わり方をするかは「新しい偶像」のアフォリズムの中では記されない。まずはこの国家という新しい偶像、この冷ややかな怪獣の放つ悪臭から逃れ身を守ることをツァラトゥストラ自分の弟子たちに勧める。先にも見たように、「余計な者たち」の「国家」という「偶像」はみずから悪臭を放つが、同時にこの偶像の崇拝者たちも残らず悪臭を放つのである。腐敗はまず嗅覚で感じ取られるもののようだ。

> かれらの偶像、この冷ややかな怪獣は悪臭を放つ。かれら、この偶像を崇拝する者ことごとく悪臭を放つ。
> Übel riecht mir ihr Götze, das kalte Unthier: übel riechen sie mir alle zusammen, diese Götzendiener.

 まずは彼ら偶像の崇拝者(Götzendiener)たちが口と欲望から発散している毒気や汚臭に窒息することを避けるべく、教える。

> わが兄弟たちよ。あなたがたは、かれらの欲望の口もとから出てくる毒気(Dunste)のなかで窒息する気なのか? むしろ窓を打ち破って、外へ飛び出すがいい!
> Meine Brüder, wollt ihr denn ersticken im Dunste ihrer Mäuler und Begierden! Lieber zerbrecht doch die Fenster und springt in's Freie!

 ここにはまだ「外」があるのである。国家にはまだ「外」があり、窒息死を避けるべく身を処する可能性は残っている。

> 悪臭(dem schlechten Geruche)から逃れよ! あらずもがなの人間たちが営む偶像礼拝(Götzendienerei)から逃れよ!
  悪臭から逃れよ! この人身御供からたちのぼる濛気(もうき; dem Dampfe)から脱出せよ!
> Geht doch dem schlechten Geruche aus dem Wege! Geht fort von der Götzendienerei der Überflüssigen!
Geht doch dem schlechten Geruche aus dem Wege! Geht fort von dem Dampfe dieser Menschenopfer!

 その「外」は、「大地」が、国家と独立して存立していることによって開かれているのである。

> 大地はいまもなお、大いなるたましいたちのためにひらかれている。孤独なるひとりぼっちの者、ふたりぼっちの者のために、いまもなお静かな海の香りが吹きめぐる多くの座がある。
> Frei steht grossen Seelen auch jetzt noch die Erde. Leer sind noch viele Sitze für Einsame und Zweisame, um die der Geruch stiller Meere weht.

 ここで多少注意しておくべきことは、この大地の国家からの独立した(frei)存立は、「いまもなお」(auch jetzt noch)という時代的限定がつけられているところである。国家による、あるいは余計な人間たちによる、世界規模の汚染から、大地がいつまでものがれて存続しうることを『ツァラトゥストラ』が保証しているわけではない。『ツァラトゥストラ』の叙述も、ここで内面性への傾きをもつことになる。

> 大いなる魂たちのために、いまもなお自由な生活がひらかれている。まことに、物を持つことのすくない者は、それだけ心を奪われることもすくない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!
> Frei steht noch grossen Seelen ein freies Leben. Wahrlich, wer wenig besitzt, wird um so weniger besessen: gelobt sei die kleine Armuth!

 ここにはアシジのフランチェスコへのニーチェの共感が読み取れるように思うが、清貧の教えは『ツァラトゥストラ』のこの箇所においても肯定されている。

 こうして弟子たちに国家崇拝の毒気からの一時退避を勧めた後で、『ツァラトゥストラ』は国家の終わりについて記す。

> 国家が終わるところ、そこにはじめて人間が始まる。余計な人間でない人間が始まる。必要な人間の歌が始まる。一回限りの、かけがえのない歌が始まる。
> Dort, wo der Staat aufhört, da beginnt erst der Mensch, der nicht überflüssig ist: da beginnt das Lied des Nothwendigen, die einmalige und unersetzliche Weise.

 国家が終わるところ、そこでではじめて「人間」がはじまる、というのである。それは、国家とともに生まれた「余計な人間」ではなく、また国家以前の民族の中で生まれた人間でもなく、新たな人間、国家による疎外から回復し、一回的で取り換えのきかない仕方でのおのれの生を生きる必然的で必要な人間であり、またそのような必然的な人間を歌い讃える歌である。必然的な人間を歌う歌が、国家や民族に向けてではなく、宇宙に向けて歌い開かれるのである。宇宙に向けて、彼方に目を向けることをツァラトゥストラは勧める。

> 国家が終わるところ、---そのとき、かなたを見るがいい、わが兄弟たちよ! あなたがたの眼にうつるもの、あの虹、あの超人への橋。---
> Dort, wo der Staat aufhört, - so seht mir doch hin, meine Brüder! Seht ihr ihn nicht, den Regenbogen und die Brükken des Übermenschen? - Also sprach Zarathustra.

 そこに君たちは虹を見るのではないだろうか、とツァラトゥストラは問う。虹は超人へのさまざまな橋(die Brükken)なのである、という。---ここにわたしは「大道無門、千差有路」という『無門関』の偈と同じ教えを見るのだが、どうだろうか?




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ニーチェ

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《『ツァラトゥストラ』の国家論(2) 「国家論」》

2017/03/03 02:10
瀬谷こけし


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   2.「国家」について

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』の国家論は大層特異なものに見える。その特異さは、何よりも、国家の消滅したその先のところから国家を捉え直しているところにあるように見える。かつてニーチェは哲学者を性格づけて「国家以上の理想をもっているもの」と語っていた(『反時代的考察』)。『ツァラトゥストラ』においてわれわれは国家以上の理想をもった者のまなざしに映る国家を、しっかりと見て取ることができる。しかしわれわれはここですでに「国家以上の理想」と言うに加えて「宗教以上の理想」とつけ加えておくべきではないだろうか? 『ツァラトゥストラ』がここで提示してくる国家の消滅後に現れてくる世界像は「宗教」と呼ぶべきものでもないのではないだろうか? それは、少なくとも、終末論的世界観とはまったく異なったものである。---しかし急ぐのはやめよう。そしてまずは『ツァラトゥストラ』が語っているところを適切に理解するように努めよう。『ツァラトゥストラ』によっれば、国家は次のような性質をもっている。


1) 国家は最も冷ややかなものであり、冷ややかに嘘をつくものである。
 国家は民族を死滅させて登場してくるものであるが、それはその登場の出発から嘘をつきながら登場してくる。

> 「このわたし、国家は、すなわち民族である」、こんな嘘がかれの口から出てくる。(『ツァラトゥストラはこう言った』I-11「新しい偶像」、氷上英廣訳、岩波文庫。以下同じ)
> …und diese Lüge kriecht aus seinem Munde: "Ich, der Staat, bin das Volk." (『Also sprach Zarathustra (German Edition)』Kindle。以下同じ)

  「わたしは民族だ」と嘘を言いながら国家は登場してくるというのである。民族の破壊者である国家は。

> いま多数の人間に対しておとしあなを仕掛け、それを国家と呼んでいるのは、破壊者たちである。かれらはそのおとしあなの上に、一本の剣と百の欲望とを吊下げる。
> Vernichter sind es, die stellen Fallen auf für Viele und heissen sie Staat: sie hängen ein Schwert und hundert Begierden über sie hin.

 (民族の)破壊者たちこそが多数の人間にむけて落とし穴を仕掛け、ただ一つの覇権と多くの欲望を目指してやってくる人々を国家という落とし穴に落とし込むのである。この国家という落とし穴に群がり集まるとき人々は、それと気づくことなく、おのれの育ってきた民族の善悪を、風習と掟を、捨て去ってしまっているのである。

> 国家は、善と悪についてあらゆる言葉を駆使して、嘘をつく。---国家が何を語っても、それは嘘であり、---国家が何を持っていようと、それは盗んできたものだ。
> Aber der Staat lügt in allen Zungen des Guten und Bösen; und was er auch redet, er lügt - und was er auch hat, gestohlen hat er's.

 国家はあらゆる民族の舌(Zungen、ことば(複数))の善悪を語る。あらゆる民族の善悪が盗み取られ混雑雑然と通用せられる。

> 善悪に関することばの混乱。わたしはこの徴候を、国家の徴候としてあなたがたに教える。まことに、この徴候は死への意志を示す。まことに、この徴候は死の説教者たちに目くばせして、かれらを招く!
> Sprachverwirrung des Guten und Bösen: dieses Zeichen gebe ich euch als Zeichen des Staates. Wahrlich, den Willen zum Tode deutet dieses Zeichen! Wahrlich, es winkt den Predigern des Todes!


2) 余計な人間たちのために国家は発明された。
 国家がこのような一つの覇権とさまざまな欲望という落とし穴の罠の下に集められた出自の雑多な多数の人間の集合体だとすると、そのようなものはだれのために発明されたものだと言えるだろう? ここに『ツァラトゥストラ』の国家論のもっとも傑作なところがある。
 
> あまりにも多数の者が生まれてくる。余計な人間たちのために国家は発明されたのだ!
> Viel zu Viele werden geboren: für die Überflüssigen ward der Staat erfunden!

 「余計な人間たちのために」というのが国家の存在理由である。---民族においては、だれひとりとして余計な人間は存在しなかった、と言えるだろう。だが国家においては、万人が余計な者なのだ、というわけである。---ニーチェが「死の説教者」のにおいを嗅ぎつけるのは彼が国家の本質とみなすこの性質においてである。「余計な人間たち(die Überflüssige)」とは、「おのれの存在理由を自覚しない者たち」という意味ではなく、まさしく「存在理由をもたない者たち」の意味である。だからその誘惑の声はツァラトゥストラの弟子たちの心の中にも入ってくる。

> ああ、あなたがた大いなる魂よ、あなたがたの耳にも、国家はその暗鬱な嘘をささやく。ああ、国家は、惜しげなく自己をささげる豊かな心情の持主をすかさず見抜いているのだ!
 そうだ、またあなたがた、古い神を征服した者たちよ! 国家はあなたがたの心中をもすかさず見抜いている。あなたがたはその戦闘によって疲れている。そこでいまは、あなたがたのその疲労が、新しい偶像につかえることになる!
> Ach, auch in euch, ihr grossen Seelen, raunt er seine düsteren Lügen! Ach, er erräth die reichen Herzen, die gerne sich verschwenden!
Ja, auch euch erräth er, ihr Besieger des alten Gottes! Müde wurdet ihr im Kampfe, und nun dient eure Müdigkeit noch dem neuen Götzen!

 こうして国家が大いなる魂たちの耳にささやきかける「暗鬱な嘘」(seine düsteren Lügen)とは、「地上にはわたしより大いなるものはない。わたしは神が秩序を与える指である」("Auf der Erde ist nichts Grösseres als ich: der ordnende Finger bin ich Gottes")という嘘であり、この嘘の前に、大いなる魂の持主たちもひざまずきかねないのである。たとい彼らが「わたしが神の指だ」と言う国家の嘘を見抜いているにしても、である。それは彼らもおのれの存在理由のなさをおのれ自身によっては克服することができないからである。


3)国家とはすべての人間の緩慢な自殺が「生きがい」と呼ばれるところである。
 「人生」とは緩慢な自殺のことである、とはいかにもゆったりとした規定である。一方ではもちろん適度な人生の刺激もあり(「教養」など)、他方でだれにも王座(覇権)につこうとする狂気に取りつかれることがゆるされる場所である。---しかしそうしたことはまだ国家の記述にすぎないだろう。『ツァラトゥストラ』の国家の本質規定としてはやはり次の言葉に依拠しなければならないだろう。

> 善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺---それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。
> Staat nenne ich's, wo Alle Gifttrinker sind, Gute und Schlimme: Staat, wo Alle sich selber verlieren, Gute und Schlimme: Staat, wo der langsame Selbstmord Aller - "das Leben" heisst.

 われわれはこの規定を最大限重要視しなければならない。「民族」は民が毒を飲むところではなかった。そこでは生きることは緩慢な自殺ではなかった。しかし国家においては、すべての人間の緩慢な自殺が生であり、生きがいであり、それこそが生きることだと規定されるのである。
 2)で見たように、国家の成員は「余計な者たち」である。そしてその彼らに崇拝される偶像が国家である。

> かれらの偶像、この冷ややかな怪獣は悪臭を放つ。かれら、この偶像を崇拝する者ことごとく悪臭を放つ。
> Übel riecht mir ihr Götze, das kalte Unthier: übel riechen sie mir alle zusammen, diese Götzendiener.

 『ツァラトゥストラ』の国家理解はこのようなものである。しかしツァラトゥストラ自身は、弟子たちに対して、この悪臭立ちのぼる毒気に満ちた場所から外へ逃れることを勧めるだろう。次にはそこのところを見てみたい。




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