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zoom RSS 《『短歌研究』勉強帖 2017年1月号》

<<   作成日時 : 2017/04/05 21:07   >>

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瀬谷こけし


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---加藤治郎の岡井隆論にまなびつつ---

 遅れ馳せだが2017年1月号「『短歌研究』を勉強しよう。巻頭の「12ヶ月の歌」は加藤治郎が「蒼穹は」というタイトルで岡井隆の『人生の視える場所』の中の「一月五日のためのコンポジション」を取り上げている。引用するのは次の三首だ。

>蒼穹(おほぞら)は蜜(みつ)かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶
>戸の外を流るる音のしろがねの気配のごとく寒さきて居り
>日のさせばそこはかとなき青空も巻きたる雲もいのちとぞ思ふ

 一首目の歌を加藤は「信濃路の夕空を遠望している。蒼と蜜の色が鮮やかである」と言う。しかしこの読解の出発点からしてわたしにはよく理解できない。加藤はさらに続ける。「蒼穹は器のようだ。器を傾けると蜜は細く垂れ、雲の流れとともに拡がってゆく。至福の風景である。蜜は甘美だ…」。やはりわからない。蜂蜜のビンを傾ければ細く蜜が垂れ流れてゆっくことは日常の経験からたやすくわかることだが、それが空を舞台に広げられるどのような天然現象を描いているものか、ほとんど掴むことができない。あるいは加藤の説明はやや当を逸していて、岡井の歌はほんとうは一筋糸を引いて流れてゆくような「蜜」のさまを言っているのではなく、青空の端のところから、テーブルの上に蜜が広がってゆくように、西空いっぱいに広がってゆく夕焼けの広がるさまをこう詠んだのではないだろうか? この垂れた蜜液のように広がってゆく空の色の移り変わりは止めることができない。移り変わり過ぎ去ってゆくこの流れこそ時であり、それは、なにものにもとどめることができない。この流れを、抗わず、わたしも肯定しよう、と歌人は歌っているようである。ならばよく理解できる一首だ。しかしこの肯定には、わずかではあるが、コンフォーミズムの、順応主義の、においがする。それは歌から肯定の手前の契機が見えてこないからだ。時は、この歌人にとって、いつから「伴侶」になったのだろうか? いつ伴侶にしたのだろうか? これがおそらくは大きな問題である。

 二首目の「戸の外を」の歌は、冬の夜寒が足元から近づいてくるような気配を「流るる音のしろがねの気配ごとく」と、ひんやりとしたしろがねのイメージを、平仮名の音で示すことによって、実に的確に気配を語ることばとしている。さほどシャープには見えないところに、鋭さを抑えた、妙観の刀のような名工の味わいがある。

 三首目の歌も空を歌っているが、もう一度引いておこう。

>日のさせばそこはかとなき青空も巻きたる雲もいのちとぞ思ふ

雲に隠れていた太陽がそこから現れて、光が青空や巻雲に注がれる。すると、空のその辺りの粒子も、そして巻雲を作る水分などの粒子も、日の光を受けて、何か喜ばしいような表情を見せる。そうなのだ、明るい光に会って、その喜びの表情を見せる空や雲、そのような変化や受け止め、喜ばしい受け止めは、それらのものたちの生命の表現なのだ。われわれは例えば原っぱの草が、日の光を受けると、喜ばしい表情に変わることを日ごろから経験することができる。そしてそこにそれらのいのちを見る。その喜びの表情を、歌人はそこはかとない青空にも、空の上で巻くようにする雲にも見るのである。そこには、本質的に、生命あるものと生命のないものとの違いは存在しない。ひとはそのようなものの感じ方を失ってしまったのだろうか。加藤は「どうといいうこともない青空も雲もいのちと思う。自らの生を風景に託している」と読む。しかしこれは正しい読みだろうか? 歌人はもっと先を、生命一如の感じ方に進み入っているのではないだろうか? わたしにはそう思える。


 他の作品として「新春三十首」を取り上げる。岡井隆「旧友の死そして私の授賞式前後の歌」、そして馬場あき子「眼鏡と夢」である。新春のめでたい作であると思われるが、しかし簡単に見るにとどめよう。
岡井作品では次の二首が気になった。
>わたくしがなんの果実をみのらせしや前のめりに動く烏(からす)みたいだ
>妻とともに壇上にカメラをうくるとき新しい雪をふむ音がした
 一首目。こう言われると、そういえば烏は前のめり風の生き方のスタイルをしているように見えるな、それは何なのだろう、という風に考えさせられる。ここには何かの発見があるのだ。そんなかそやかな発見を歌人は幾つも蓄えているのだ。敏な感覚を開いて生きている人のようだ。
 また二首目では、「うくる」と平仮名で書かれると、これは「受苦」とか「銃弾を受ける」とか、受動性の苦しみを連想させ、また新雪を踏む音をわたしもとても楽しむのだが、彼が壇上で聞いた新雪の音とはどんな音だったのだろうか、あのキュッキュという締まった音なのだろうかなど、これまたいろいろと考えさせられる。人生を、自然の様々な音、様々な形の印象とともに生きる人は、とても豊かな人生を送っているひとだと思う。岡井隆のそんな面を、今号ではとてもよく感じさせられた。

 今号の馬場作品はわたしには苦しい。
>目先のことに飛びつきやすく忘れやすく稀に冴えてるひと日仕事す
 三十首を読んで、この述懐に納得させられたと言うと、たぶんとても失礼なのだろう。だが明澄な意識が稀にしか訪れない日々をすごすということが、歌人としてどのような作を残すことなのか、ということは示してくれたと言えるだろう。以下は黙す。

以上

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