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みんなの「イタリア」ブログ


《ジェノヴァの桜》

2017/04/21 11:31
瀬谷こけし


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 去年、オルタの帰りにジェノヴァに寄った時の桜。フェラーリ広場から海の方へ古い町を少し散歩しているときに見つけた花。3月11日。
 シラーの『フィエスコの叛乱』を読んでいると、提督アンドレアス・ドリア公爵の甥のジャネッティーノの乱脈ぶりは、まるで今の日本の政権のありさまを見ているようだ。

 シラーの『フィエスコの叛乱』をニーチェは読んでいると思うが、あのヘルダーリンも読んでいて、詩の中に「ドーリア」の名前が出てくる。去年ジェノヴァにちょっと寄った時、この本を読んでいれば、アンドレア・ドーリア提督の館がどこにあり(多分今の市庁舎)、フィエスコの館がどこにあって、叛乱を企てた時どこを押さえようとしたか、などよくたどれただろうと思う。ジェノヴァのロレンツォ教会は、どこかライプツイッヒのトマス教会と似た印象がある。それがゴチックとういものか。1547年のジェノヴァが舞台。シラーの技(構成の、文章の、そして人間洞察の)に感心しながら読んでいる。



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《ヴィットーリオ・エマヌエーレ 二世》

2017/03/05 12:39
瀬谷こけし


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ローマの「ヴィットーリオ・エマヌエーレ 二世公園」にて



(去年のこの日、3月5日にローマでFBに書いたものを再録します)

 いちばん下の娘が今日大学を卒業した。
 めでたくて、そして寂しい。

 一か月のイタリアを中心にした旅も今日から(もしかしたら昨日から)後半を迎えた。妻子と一緒に回った、目まぐるしく楽しかった最初の一週間。それは自分の人生の楽しさそのもののようだった。

 今日は休養にあてていたが、気づくと夜の八時を回っていた。---このまま自分の仕事に入れない。さっき弘前の友人にフィレンツェで買ったはがきを書いた。その切手を売っている店がないか、見に駅の方まで探しに歩いてきた。もちろんないに決まっている。タバッキは遅くとも七時には閉まるだろう。確認ができればいいというところだ。それよりなにより外が歩きたかった。子供を育て、子供とともに家族と過ごしてきた楽しい時間…。

 しかし他方、夜の街に出ると、この町を車で走り、高速で走り抜けたいという気持ちがいつでも湧く。ローマならローマ弘前なら弘前。京都なら京都。そんな自分をなだめ、時には解放し、これまで生きてきた。しかしこのスピードの感覚がなくならないように。脱出への加速能力を失わないように…。

 今日は近所のヴィットーリオ・エマヌエレ二世公園で手帳にものを書いていた。ここローマで、そしてシチリアのカターニアで、このエマヌエレ二世の何かに守護されている気がしていた。カターニアの宿で預けていたバッグをとりに行ったとき、宿の若いおねえさんと、今朝朝食で一緒になったフランス青年と、ふたりからあなたはまた戻ってくるまた会おうと言われた。わたしの最後の言葉も「ォルヴォワール」だった。「ル(re)」をはっきり発音しようとした。また来る気がしていた。なぜカターニアの町がたった三日で、こんなに愛しい町になってしまったのか。初日に、大変な困惑の中、助けてもらった経験が大きいのだと思う。そしてその最初のきっかけは、どこを歩いているのかさっぱりわからなくなったとき、道でバスを待つ高齢のおばさんに尋ねたのが、ヴィットーリオ・エマヌエレ通りに行くにはどうしたらよいのか、と尋ねたことだった。駅の方まで戻って行きなおさなければだめだとその人は教えてくれた。地図を見て考えていた確信があったので逆らいたかったが、結局それに従った。そしてそのおかげで正しい道をみつける第一歩に戻れた。そのときにも導いてくれたのはヴィットーリオ・エマヌエレ二世の名だった。前にfbで語った助けてもらった話はさらにその次の段階の話だ。そのときは自分がジョバンニ通りを歩いていることが通り名と地図とで一致してわかっていたからだ。そして宿からのメールに書かれていた通り名と地番は、すでに地図で調べて見つけていたので、その番地に宿が(事務所でなく)存在していれば、自力でたどり着ける可能性は多少ともあったはずだ。---結局わたしは何に導かれていたのか? ヴィットーリオ・エマヌエレ二世の何かではないのか? 彼はイタリア王国を作り上げた。オーストリア帝国から独立を勝ち取るとともに、法王からの破門を受け入れ、法王の権力を最後まで拒否しイタリアを建国したこの王の何か? それに守護されているという気持ちがどこかでしていた。まったく偶然のなりゆきなのだが。

 末の子の大学卒業は子育ての一段落だが、それで終了というわけではない。これからは私の仕事の部分を増やしてゆかなくてはならない。次の旅を考えよう。今日はローマで10度ぐらい、ベルリンやミュンヘンは2度だ。トリノが4度で、ドイツよりは少し暖かい。この時期のローマは暖かくて過ごしやすい。計画を立てよう。


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《今日で今年度の授業が終わった》

2017/01/19 04:41
瀬谷こけし


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 来週の15回目は期末テストにするので実際上の授業は今日で終わった。少しの解放感を味わっている。この解放感はジェノヴァの海の光景とどこか共通する。
 ジェノヴァはまだ歩き方がよくわからず、まだ数日ぐらい歩き回ってみたいところだが、そういえばこの海に船が渡る風景は、高校3年の夏、校舎の3階の教室で湘南の海を見ながら勉強していたときに見た風景とどこか似ている。海はわたしには外の世界に開かれる場所だった。そういえばプリーストリー(J. B. Priestley)の「10日間の船旅」(7日間だったかもしれない)という英語教材を勉強していて、とても深い感銘を受けたことも思い出す。こちらは、船旅の日々の何もない日常が懐かしくなるというテーマのエッセーだったが。そしてもう一つは実朝の「綱手かなしも」だ。江の島でも腰越でも、そんな小舟は何度も見た。それが「かなし」と見える見え方もわたしには遠いものではなかった。長く実朝の歌の世界に惹かれていた。
 ニーチェとの関連では、ポルトフィーノとジェノヴァとの「距離感」を確かめておきたいところだ。1883年だったと思うが、ポルトフィーノにとどまってなかなかジェノヴァに入らなかったことがある。それはどんな意味があるのか?
 イタリアにはいつでも行きたい。今も行きたい。ドイツには、少し計画をしてゆきたい気持ちになるが。


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《新年を迎える前に》

2017/01/01 03:24
瀬谷こけし


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(in Leipzig-Plagwitz)


 2016年を回顧しておきたい。この年はわたしにとって近年でもっとも豊かな年だった。それは主に2月3月の四週間にわたるイタリア旅行、そして8月の三週間のドイツ旅行によってもたらされたものだ。このどちらの旅も、1882年のニーチェの生と思想の探究のために欠かすべからざるものとして行ったものだが、そこから得たものは実に大きなものだった。それはニーチェ研究の視野で言えば、ルー・フォン・ザロメとニーチェとの関係の細かな真実がほぼ掴めるようになったことだ。例えばこれまで日本の研究者で、1882年夏のタウテンブルクでの彼らの共同研究で、ルーの宿泊していた牧師館とニーチェの泊まっていたハーネマンの農場とがどのくらい離れていたかを知っている人がひとりでもいただろうか? ニーチェ/ルー関係について言及している研究者でそれを知って語っているひとの姿がわたしにはひとりも浮かんでこない。---そしてこのニーチェ/ルー関係こそ、ニーチェの主著と言うべき『ツアラトゥストラはこう語った』を生み出した坩堝なのである。あまりにもブッキッシュな知識でこれまでひとはニーチェを論じてきたとわたしは思う。

 ニーチェ研究の場を離れたところでもこれらの旅行がもたらしてくれたものは多い。シチリアについての多くの関心もこの旅行から生まれた。それまではヴィスコンティの『揺れる大地』や、バッハに擬せられるフルート曲の「シチリアーノ」ぐらいしか、それにあえて加えればギリシア世界の中でのシラクーサやエンペドクレスのエトナ山のほかには知ることがなかった。それが、カターニアでの経験がわたしにシチリアへの関心を大きく開いてくれた(マフィアをも含めて)。カラバッジョへの関心もメッシーナの美術館での経験から広がっていったと言える。

そしてローマをはじめとした各地でのマリア敬慕とフランチェスコ敬慕のありさまにはヨーロッパ世界のいわゆるキリスト教信仰のより深いところにあるほんとうの複合的な実体を推知させた。ローマ世界からドイツ文化を見るというこの視野は、とても多産的なものだと思う。わたしがゲーテに広い共感を持つようになったのも彼の「ローマ悲歌」に表れるローマ精神への共感を共有しているという思いからだった。ローマを経由してゲーテを発見した、と言うのが、わたしの場合正しいと言えるだろう。

 そしてゲーテによって、ドイツ精神をわたしは学び始めている。それは現代のベルリン問題にまでつながる。現代のロック歌手、ウド・リンデンベルクの再発見もいわばゲーテのおかげだ。

 そして夏のドイツ旅行は、ワイマール、ライプツィッヒ、ナウムブルク、タウテンブルク、ドルンブルク、イエーナ、そしてベルリンなどの旧東ドイツ(DDR)各地の独特な精神世界の深さや伝統を驚きをもって感じさせてくれるものだった。各地で話し相手になってくれた人すべてから多くのことを学ばせてもらった。

 来る2017年は、さらに追加的な勉強をした上で、しかるべき論文をいくつか纏めてゆきたい。




====== 補足2017.1.2 (写真説明を兼ねて)======

 ライプチヒ市内ではあるがプラークヴィッツは移民の多い町に見えた。そしてレイシズムこそが問題だと住民自らが訴える。旧市街で写真を撮っているときに話しかけてくれたおじさんの勧めに従って、プラークヴィッツに行ったおかげでドイツの、そしてライプチヒの別の面が見えてきた。ベルリンでも、そして弘前でもそうだが、私の足は導かれたように貧しい町に向かっている。



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《ドメニコ・スカルラッティ ソナタ K.491》

2016/04/23 13:59
瀬谷こけし
 ドメニコ・スカルラッティの明確さ、晴朗さ、そして強さ、ソナタ ニ長調 K.491は彼の最良の曲の一つだと思うが、YouTubeで探してもなかなかお勧めできるようなものが見つからない。私はスコット・ロスのチェンバロのもの(WPCS-21069)が最良の演奏だと思っているのだが。音を濁らしても気にしない演奏者が多くて(笑)。さすがにホロヴィッツの演奏はその点ではとてもよいのだが、力強さと多層的な面白さがない。Belderの演奏は晴朗感がない。結局このペライアの演奏が、YouTubeの中では最良だろうか。赤松林太郎のものもよい。


SCARLATTI ● Sonata L 164 K 491 ● MURRAY PERAHIA ● MADRID




D. Scarlatti - Keyboard Sonata in D Major K.491 / L.164 - Vladimir Horowitz




D.スカルラッティ/ソナタ ニ長調, K.491, L.164 pf.赤松林太郎





Scott Rossの演奏もありました。下記の24分24秒くらいから:

Domenico Scarlatti Harpsichord Sonatas K485 - K500 Scott Ross 30

https://youtu.be/ignlqruGA9I?list=PLNjEEpAb2UpbJBBFqRinTmND9k3NeD1LO







スカルラッティ:ソナタ選集
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ロス(スコット)

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======2016.4.28補足======
わたしの言いたいことは、わたしが聴いた中ではスコット・ロスの演奏の中にだけ聖と接する歓喜(狂気)がある、ということだ。それは後半部で9回打たれるD(レ)音。その、聖なるものと接する歓喜の音の鋭さ! (16分音符で4回、4分音符で6回、そして最後にもう一度16分音符で)



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《イタリアの田植え》

2016/04/11 08:36
瀬谷こけし
後ろの白雪の山々がモンテ・ローザ
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 北イタリアのオルタは、たった一泊しかしていないのに、忘れられない場所になった。それは、そこのモンテ・サクロがニーチェの聖地だったこともあるが、それ以上にこれ以上ないほど美しい場所だったこともある。
 そのオルタ・ミアッジーノ駅で2時間余りの時間ができて、その駅近くの家々にはペイントがあるから見てきたらどうだと、駅の食堂の働き者のおねえさんに言われて、見て回ったことは前にも言った。駅は、線路が少し高いところを走っているので、この駅近くの集落からは、モンテ・ローザが見える。そして、家々の壁の思い思いのペイントを見て回っていると、教会近くの家の壁に、どう見ても田植え風景と見える絵があった。人物の顔だけ変えれば、そのまま昔の日本の田植え風景だ。はじめは日本のそれを想像で描いたのかと思ったが、多分そうではない。思い出したのは中学か高校の地理の時間に、北イタリアのロンバルジア地方でも米がとれる、という話だった。そうなのだ。これはきっとその田植え風景を描いたものなのだ。
 だが考えてみると、田植えをしているということは苗代で種から育てて、その苗を後で田植えしているということだ。そんなところまで日本と共通しているのだ。日本人が思っているよりイタリアでは米が食べられている。ローマの宿で二回夕食に呼ばれたが、その二回とも主食は米だった。フィリピン出身の女性も多い宿だったから、というところもあるかもしれないが、そこではイタリア出身のご亭主からして、普通に夕食には米を主食にして食べていた。
 絵は1999年の銘が入っている。馬を使ってする田植えは、その当時でも珍しくなっていたに違いないと思うが、今、北イタリアの米作りはどうなっているのだろう。ちょっと気になる問題だ。



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《メッシーナ・オレンジ》

2016/04/08 20:39
瀬谷こけし

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 1882年4月20日づけの手紙の中でパウル・レーはニーチェに次のように書いている。
 「親愛なるメッシーナ男へ!
  いとも美しく、樹液豊かで、よく整地されたメッシーナ・オレンジの畑よ、万歳! そしてそこのオレンジの木々が落とすただひとつの影の面が、実在しますように! そんなことがありうるんだね! 大兄はこの行動でなによりもあの若いロシア女性をびっくりさせ、悩ませてしまった。というのも彼女は大兄に会って、話をしたくてうずうずしていたんです。それで、彼女はジェノヴァ経由で帰りたいと言っていた。ところが…」(拙訳、眞田収一郎訳参照)
 (Lieber Herr Messineser!
  Es lebe die schönste, saftigste, arrondirteste Messina-Apfelsine, und möge die einzige Schattenseite, welche sie dort findet, der umbra realis sein! Ist es nur möglich! Sie haben am meisten die junge Russin durch diesen Schritt in Erstaunen und Kummer versetzt. Dieselbe ist nämlich so begierig geworden, Sie zu sehen, zu sprechen, daß sie deßhalb über Genua zurückreisen wollte, und...)(原文)

 これによればニーチェはレーに、メッシーナからそこのオレンジについて語り伝えたようだ。メッシーナのオレンジはけだし有名なものだったのだろう。「Messina-Apfelsine」(メッシーナ・オレンジ)と産地名付きで呼ばれるぐらいなのだから。
 それでわたしも、シチリアからの土産にオレンジを買って帰ることに決めていた。とはいえ日本に郵送するわけにもゆかないので、このプレゼントはお世話になっている宿の人たちにと考えていた。カターニアでもそこかしこでオレンジは目についた。土産物なら駅の近くでも買えると思っていたが、二日目に市場を発見し、そこのオレンジが魅力的に思えたが、メッシーナに持ってゆくわけにもゆかない。それで結局オレンジを買うのは三日目ということにした。だが、三日目もこの日はカターニアの街歩きと決めていたので、多量のオレンジを持って歩くわけにもゆかない。それで結局は、街歩きを終え、5時過ぎに宿に預かってもらっているスーツケースを受け取って、それから、ということになった。
 駅へ向かう途中、市場の前を通ったが、もうオレンジの店はやっていなかった。それから、ボルセリーノ広場を過ぎ、ドゥスメット通りを通ってマルティリ広場の手前のところで、オレンジをたくさん置いてある店を見つけた。店内を見ると、30歳前後と見える若い、インテリジェンスを感じさせる男性が店番をしていた。この店で買うことにした。どこかに店番をする宮沢賢治を連想しながら。キログラム単位の値段がついていたが、一つ何グラムぐらいか見当がつかない。それで「10個くれ」と頼んだ。彼は普通サイズのレジ袋に一つずつ確かめながら、オレンジを入れていった。五つ入れたところでほどほどのサイズになった。10個という注文は多すぎたかもしれない、とわたしも思った。彼も同じことを思った気がする。それからは実の選び方がより慎重になった。どういう選択基準なのかよく分からなかったが、大きいものは避けていたようだった。一つずつ選んで入れて、10個になって秤に乗せた。何キロだったかも幾らだったかも覚えていない。7、8ユーロでなかったかと思う。たっぷりのお土産ができた。勘定をして別れるとき、彼は何を言おうか、ちょっと考えていた。そして考え出した言葉は「good luck!」だった。これはとてもうれしかった。
駅では最終便のシャトルバスに間に合って、また飛行機では荷物のトラブルもあって、ローマの宿に戻った時には真夜中を越えていた。大扉の鍵が合わなかったので、呼び起こして開けてもらった。わたしの旅行中に鍵を変えたらしい。
 部屋に戻り、自分用に三つを取って、残りを「お土産のメッシーナのオレンジ」と言ってまだ起きていた宿の長老風のおばさんに渡した。翌日にでも、宿のマネージメントをしているお姉さんに渡した方がよかったかもしれない。ともあれそのお姉さんのところにも届いたということは、後日、だいぶ日が経ってから、呼ばれた夕食の時の話の中で分かった。メッシ−ナに行ったこと、カターニアに行ったことをわたしはちょっと自慢にしていた。そしてカターニアのウルシーノ城市立美術館の常設展の展示の中に、宿の食堂に掛けてある絵とそっくりの、果物たちがとても美味しそうに描かれている絵があったことを話し、そしてその画像を見せた。メッシーナのオレンジ、それはパウル・レーが語っている通り、とてもジューシーでとても美味しかった。



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《世界遺産》

2016/04/02 04:54
瀬谷こけし

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 オルタ湖のあたりのモンテ・サクロ(サクロモンテ)は世界遺産に指定されている。頂上のフランチェスコ教会にその簡易な肩掛けバッグが売ってあったので、購入して、カメラバッグを入れたり、ガイドブックや地図を入れたりして重宝して使っていた。だがこれには他にも効能があった。ベルリンの博物館島を歩いていたとき、街頭で物売りをしていたお兄さんが、ふと「ノヴァーラ」と声をかけたのだ。---ああ、あのノヴァーラの駅からゆくオルタ湖あたりの世界遺産を知っているのだ、と気づいて、「知っているのか?」と私は振り返ってきき返した。彼は何も言わなかったけれど、ちょっとはにかんだような嬉しそうな表情をした。こんな高くもないただの袋(10ユーロだったと思う)がコミュニケーションのきっかけになるのだ。
 世界遺産、それはきっと空しいのものではない。単にツーリズムのためのものではない。そこには人類の光となるものがあるべきだ。本来の「観光」の目的となるべきものが。


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 《ジェノヴァ1》

2016/03/26 02:30
瀬谷こけし
 ニーチェはどうしてジェノヴァから、突然メッシーナに向かったのか? この海の写真を見ていると、その答えがなんとなく見えてくる気がする。シチリアはまっすぐこの先にある、という感覚。試してみたくなる気持ち。
 そこにもう一つ、コロンブスから学んだ冒険への意志。
 そうしたものではないのか?


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=====2016年3月29日補=====

 次の句をつけておきます(まだ上の句がない)。

> まだ見ぬ島になほ向かはなむ








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《カルボナーラ》

2016/03/13 16:08
瀬谷こけし

 ローマ滞在もあとわずかになったので、ローマならではの有名な店に行っておこうと思って、「ホスタリア・ラ・カルボナーラ」というカルボナーラ発祥の店に行った。ガイド本にも出ている店なので、混んでいるだろうと思って午後二時直前に着くように行った。ちょっと高齢というか60代ぐらいの細身の女性が店を取り仕切っているようだった。ここはフランス語で行こうと思って、「食事できるか?」(今の時間で一人での意味)と尋ねたら、一人か? OK。ここで待っておけ、と入口のバーのところで待つように言われた。少し日本語も入っていた。予想通り日本人の多く来る店なのだろう。まあ20分ぐらい待たされた。その間、食べ終わった日本人の卒業旅行風の学生の10人ほどの組と、三人の家族と、若い女性の二人組と、見るからに日本人とわかる人たちが出て行った。店の中の壁はいろんなひとの落書きで埋まっている。わりと和気あいあいとした店なのだが(お高くとまった店ではないのだが)、シャープなものもそこここに感じる。それは、きちんとした身なりをして短いあごひげを生やした(給仕長の?)男性のためだと分かる。身動きがとてもきびきびしている。
 席に案内され、メニューを出された。一応隅々まで見たが、コース料理を食べたいわけではないので、カルボナーラと、それとワインを頼んだ。「ワイン、あ、ヴィーノね」という感じの応対。対応してくれたのはあの給仕長。その次がいい。「ルージュか?」と聞いてきた。その「r」が、イタリア語の舌先巻舌風の「r」ではなく、軟口蓋をこすって出すフランス語の「r」。わたしもここは同様に、きちんとフランス語の「r」で「ルージュだ」と答えた。このやりとりがとても面白かった。
 初めにパンが出て、それからワイン。味見をして「OK」を出す。ここは正しいフランス語の言い方があるのかもしれないが、「ビヤン」とか「サヴァ」で通してもらった。
 ちょっと待ってスパゲッティが出てきたが、とろみとかクリーミーなところとかはほとんどなく、無駄なく正しく作ったものという印象がした。特にここがどうという味ではないが、例えば上からかけてあるチーズも「粉」ではなく、手でチーズおろしでおろして作ったもの。もちろん卵が熱で固まったようなところは少しもない。オーソドクスとはこういうものだと感じながら美味しくいただいて、喜んで帰った。パンはつき出しのようなもので、2ユーロ取られていた。サービス料を取っていないので、その代わりなのだろう。こういう店が好きな有名人がきっとたくさんいるだろう。
 あ、それともう一つ。えんじ色の紙ナプキンが、口を拭くのに、すごく使いやすかった。

追記:
 あの「給仕長」の男性の身のこなし、足の使い方のしなやかさも特筆ものだった。うまく説明できないが、狭い通路で、速足で歩きながら、わずかに方向を変えることで、ひととぶつかるのを見事に避けていた。足さばきの巧みさ!


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(パスタの色がオレンジ色がかっているのは照明のせい。写真1.の色です)
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タイトル 日 時
《樹の上に止まる鳩たち》
《樹の上に止まる鳩たち》 《樹の上に止まる鳩たち》(公園での手記) 2016.3.4 15:39 ローマ ...続きを見る

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2016/03/05 17:49
《エトナ山五景---ベッリーニ公園から》
《エトナ山五景---ベッリーニ公園から》 《エトナ山五景---ベッリーニ公園から》 ...続きを見る

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2016/03/04 16:51
《カターニアで》
《カターニアで》 《カターニアで》  イタリア人のひとあたりの暖かさというのは、ローマでもずいぶんと感じたことだが、ここシチリアのカターニアに来ると、それがもっと深い気がする。(ひとあたりが)やわらかで懇ろで、困っている心の深いところまでなんのけれんみもなく入ってくる。  実を言えば今日は二回道に迷った。はじめは駅からホテルを探していて。これはもう二時間は迷って、八方ふさがりで、どうしようもなくなっていたところで、B&Bホテルの別のところの案内標識をみつけて、そこに行けば予約をしている同系のホテルの案内を... ...続きを見る

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2016/03/02 06:58

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