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zoom RSS テーマ「シルス・マリーア」のブログ記事

みんなの「シルス・マリーア」ブログ


《ホテル・マリーア》

2017/08/12 13:06
瀬谷こけし


 シルス・マリーアで泊まった宿は「ホテル・マリーア」というところだった。ここのホテルのひとびとから(スタッフから、また客として来た人々から)デリケートな挨拶をいろいろと学んだ。まず朝一番に会ったときは「モルゲン!」(Morgen!)。日本の「おはよう」に近いのだと思うが、朝に相手を認知したことを互いに確認し合うというのが一番の意味のようだ。この場合「グーテン・モルゲン!」(Guten Morgen!)とはしない。「グーテン」をつけてしまうと、「あなたによき朝を」というような予祝の言葉になってしまうからだ。すでに朝なのにそれをすると、とてもおかしなことになってしまう。
 この「モルゲン!」という挨拶を、原則会う人みなに対してする。朝の食堂では会う人が多いが、そのそれぞれに「モルゲン!」ということで、「今日もまたお会いできましたね、だから良い日を迎えられたわけです!」、あるいは「初めてお会いしましたね、これからもどうぞよろしく!」というような意味になる。互いに「モルゲン!」を交わすことで、その食堂全体がとても親和的な空間になるのだ。そのご別のところでまた会ったとき、あるいは確か前にもお会いしましたね、という時、それだけで互いに声をかけやすくなるのだ。

 それで、食堂で席を立って近隣の人たちに声をかけるときは、「(アウフ)ヴィーダーゼーエン!」(Auf Wiedersehen!)、そしてもっといいのが「シェーネンターク!」(Schönen Tag!)という言葉をかけることだ。前者は「またお会いしましょうね」の意味で、「今回の出会いはよいことでしたね」という相手への好感の表現だし、後者は「あなたにとって今日の日がよい(=素敵な)日になりますように」という予祝の言葉になる。こう予祝してもらえると、ありがとう、あなたにも素敵な日でありますように、と返したくなるのが自然の感情で、当然そうなって、たいていはもっと会話が広がってゆく。
 そんな風に、食堂から出たところにある受付の女将さんか若女将さんが時宜にあった、そして関係の浅さ深さに応じた適切な挨拶の声をかけるので、わたしなどでもそれなりに話しかけやすくなるのだ。わたしなどには、その日のプランに大いに参考になる。高齢者の客の多いホテルなので、とてもいたわりや配慮のゆたかな人間関係になってゆく。このホテルから学ぶことはとても多かったし、また言葉がもっと豊富にわかり使えるようになったら、もっとたくさん気持ちのよい会話ができるようになるだろう。そしてシルス・マリーアの村全体がそんな、成熟した大人風の雰囲気の場所になっているのだ。夏にも涼しい場所だというだけでなく、そんな心の居心地のよさでも、病みつきになるひとびとの気持ちがよくわかる経験だった。

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《ニーチェの新しい思想たちと安らぎ---シルス・マリーア》

2017/08/09 15:50
瀬谷こけし

シールス・マリーアのニーチェの部屋
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滞在中にニーチェが使っていた部屋がシルス・マリーアの「ニーチェハウス」に保存されている。

 1881年8月14日付のケーゼリッツ(Köselitz)宛の手紙でニーチェはこんなことを言っている。発信場所はシルス・マリーアだ。

>それについて私は何も口外しないでおきたい。そして自分自身をゆるぎのない安らぎの中に保っておきたい。 (KSB Bd. 6 Nr. 136)

上記の中の「それ」は、「わたしの地平線に昇ってきた思想たち」であり、そのようなものは「私が見たこともないようなものだ」と語っている。新しい思想が一群となって現れてきているさまが適切に語られている。そしてニーチェは「(この新しい思想群のために)自分はまだ二三年は生きなくてはならないのだろう!」と語る。自分に訪れてきた新しい思想群、それをはっきりと語れる形にするために、自分はもう何年か生きなければならない、と語っているのである。ニーチェの身体の健康状態はじつはこの時非常に危険な状態であったのだ。それは「自分の感情/感覚(Gefühl)のさまざまに異なった強さ(Intensitäten)のせいで震えたり、笑ったりする」そういう状態であり、眼の炎症のせいで一日中部屋を離れられなかったりするが、その原因は、その前日にほっつき歩き(Wanderngen)の途上であまりにも泣きすぎてしまったからなのだ、とわかっているという。そしてその涙もセンチメンタルな涙ではなく、歓呼の涙なのだ。そこで自分は歌を歌ったり、わけのわからないことを語ったりするが、---ここまでは『ツァラトゥストラ』序文の森の聖者のようだが---その歌や語りは彼ニーチェが万人に先駆けてもったある新しい展望(Blick)にみたされてのことなのだ、と記す。この新しい展望は、彼のいう新しい思想群の意味の一つ一つとして見通されてくるものなのである。

 ニーチェの手紙をやや長く紹介しすぎたが、このシルス・マリーアの土地で彼は新しい思想の啓示を受け、その思想がもたらす見晴らしのせいで、泣いたりわけのわからぬことを語ったりしながら、このシルス・マリーアの近辺を日々ほっつき歩いていたのである。
 シルス・マリーアは『ツァラトゥストラ』の思想/詩想群の生誕地である。それは思想/詩想自体の生誕地であるが、それと同時に、この地でニーチェは、「ゆるぎのない安らぎ」の日々を保ちえて、その後の何年かの激しい生を安らげることができたのである。



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《20170808 シルスの岬の先端へ》

2017/08/09 15:42
瀬谷こけし

シルス岬西側の「ニーチェ思想石」 at シルス・マリーア
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 朝食後シルス・マリーアの半島の先端近くにあるという「ニーチェ思想の石」(Nietzsche Gedankenstein)に行った。前日の晩に宿のおねえさんが「Nietzsche Stein」を知らないかと尋ねたところ、教えてくれたものだ。「Nietzsche Stein」と呼ばれているものとは少し違うようなのだけど。
 ともあれ、シルス滞在中この岬にもニーチェはよく来ていたはずだから、ニーチェを理解するためにもよい経験になるはずだ。
 ところが、前日のコルヴァッチ山での難行(なんぎょう)のために、足が重くてゆっくりとしか歩けない。そんな足を引きずって、ゆっくりと、休み休みしながら歩いて、岬の先端にある石のところまで行ったのだが、この経験でよくわかったのは、シルヴァープラーナ湖の方とは違い、シルス・マリーアの方は高齢というより老人といってよい人たちが、ゆっくりと静かな時間の流れをたのしむために訪れる場所だった。静かさを楽しむ場所。この朝のシルスの半島の空気感をニーチェをまねて三つの言葉で言うと「やわらかく、穏やかで、うるおいがある」ということになる。この朝は霧にはならないもののそれに近い湿気がシルスの村に遍在していた。そんなこともあっての形容になる。
 それでゆっくり歩きながら、そして写真を撮りながら、会う人々とこの日の祝福を互いに与えながら、緩やかな時の流れを楽しむという気持ち、きわめて静かな気持ちを得ながら、岬の先端まで行ったのだった。そしてその先端にあるいろいろな岩が、「ニーチェ思想の石」なのだろうと思いながら、それはそれとしてこの場所を楽しみながら宿に戻ったのだった。

 宿の部屋に戻って、昨日もらった地図を見ると、どうやらニーチェ石は岬の先端ではなく、少し西側の方にあるようだった。まあどうでもよいようなものだが、少し気になっていた。また何よりもつかれていたので、宿で休眠を取って、午後3時過ぎに今日は開いているはずの「ニーチェハウス」に行って、それから」ややあって、それで夕方近く、5時ぐらいになって、地図にかかれている「ニーチェ思想石」を見に行こうと思った。まずは宿の前の大きな草原を横切って西の屏風山を近くで見て、何とか遠近感とか細部とかを見て、一応様子を掴んでから、西側から半島に向かった。足が驚くほど軽くなっていた。朝足を引きずっていた老人がが夕方には子供のように足も軽く、ニーチェの石に向かった。西側から近づくメリットはあんまりなかったが、まずあっという間にその石のところに着いた。石には碑文が刻まれていた。刻まれていたのは、「人間よ、用心せよ」から始まる(『ツァラトゥストラ』の)「第二の舞踏の歌」の真夜中の鐘の詩だった。これがニーチェの思想だと称して申し分ないものが選ばれていたのだ。
 歌の詩文は写真から読んでもらえるだろうか。

 きっとここにも訪れていたはずのニーチェ、あるいはこの歌の詩を、ニーチェ自身はこのシルス・マリーアで思いついたかもしれない。そのニーチェの詩文に共感の心を捧げるべく、この碑文の前でわたしはそれを音読することにした。授業でも何度も使っている詩なので難なく読めると思ったが、細部でいくつか読み損じたところがあって、もう一度読むことにした。今度は一カ所、「HERZELEID]を「HERZENLEID」と言いそうになったが、その思想を正しく読むことができた。するとその読みの最後の方で、わたしの耳には反応して「OH! OH!」と言う声が聞こえた。誰かが聞いていて、感応してくれたのかと思って、その人が出て来れるように、わたしは海の方に近づき、石碑とは距離を取った。---だが、だれも現れてはこなかった。あるいは打ち付ける波の音がそのように聞こえただけかもしれないが、わたしには、それはニーチェ自身が共感の声を上げてくれたのだと思えた。
 それからしばらくして、ならばきちんと録音して献呈の証拠としようと思った。「Zum Nietzsche」からはじめて読み始めたが、簡単に失敗してしまう。それで「もう一度」として、四回目になる読みをした。今回も「OH! OH!」と半ば感涙を交えたような声が聞こえた。---それは録音物に入っているだろうか。未確認だがそれはそれでいい。この詩ほどニーチェが「夜」の立場に身を置くこと、そして自分は「よろこび」は「苦しみ」よりも深いという思想によってワグナーを越えていることを明確に示そうとしている詩はない。これがニーチェの思想だと言って何の誤りもないだろう。まさにこれは「ニーチェの思想石」なのだ。

 この(献呈の儀の)あと、わたしは歓呼の声を上げてこの場所を走るように立ち去ったのだった。


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《20170808 夕方の読書 シルス・マリーア》

2017/08/09 04:08
瀬谷こけし


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 ちょうど夕方の鐘が三回鳴ったころ、つまり夜の7時ごろ、ある作業場の外で本を本でいる人がいた。いっぱい字の詰まった本だった。
 少し離れて写真を撮らせてもらった。断りなしに。ただ彼の方に手を合わせて。
 屋内だともう暗くて、本が読めないのだろう。
 セガンティーニの世界にいるようだった。


 
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《2017.8.7コルヴァッチの岩雪崩》

2017/08/08 16:32
瀬谷こけし

一度目の岩雪崩 13時43分撮影
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二度目の岩雪崩の走り 14時15分撮影
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 8月7日はほぼ一日中コルヴァッチの山中にいて実にいろいろな経験をしたが、わたしにとって最も驚いたのは、岩雪崩を見たことだった。それも雪崩の下の方にいて、もしこれが途中で止まらなければ、雪崩の流線の外に出るべく必死に動かなければならないと思いながら見たのだった。岩雪崩が起こったのは現地時間13時43分ごろ。急峻なコルヴァッチ山(3451m)の9合目あたりで、轟音とともに大きな岩が、もんどりを打ったように飛び出してきて、それに続いて続々と大小の岩や石や土が流れ落ちてきてやがて土煙が舞い上がって、谷筋を降りてきたのだった。それをビデオや写真に撮っていたりしたのだが、その流れ落ちる音が止まるまで安心ができなかった。岩雪崩は10分以上続いた。

 そんなことで、あ、終わったかと思いひと安心して再びパノラマ道を歩いていると今度は14時15分ごろまた大きな音がして、同じ谷筋を先行して大きな岩が暴れ飛び散りながら流れ落ちて来るのが見えた。続いてその岩のせいでバランスを失って落ちて来る岩屋や石、そして舞い上がりながら落ちて来る土煙。今回はさっきより小規模のようだったが、落下した岩がどっちへどうぶつかるかで、岩雪崩の規模も方向も変わってくるので、ともかくよく見ておかなければならない。今回も途中までで止まって、急いで逃げるような必要はなかったが、山のガレ場がどうしてできるのか、そして下まで落ちて来る大岩がどんな風にして落ちて来るのか、そんなことがわかるようになった。こういうことは、奥飛騨の方でも起こっておかしくないことなのだろう。
 何でこんな光景を見ることになったかというと、ニーチェのいう「ピラミッド型のブロック」を探していて、ニーチェクロニックに乗っている写真と記事を見せながら人に尋ねていたのだが、ある人からは、コルヴァッチのロープウェーの中間駅からパノラマ道をシルスの方に向かって歩いてゆくとこれがあるという風に言われ、それでもってロープウェーに乗り、標高2700m地点の中間駅まで来たが、終点のステーション駅までゆけば標高3303mの展望台までゆけることを知って、この高さはわがしがまだ行ったことのない高さだったので、安易なやり方ではあるが、行ってみたくなったのである。

 上の展望台では、左手近くに大きな氷河が見え、そして全周360度のアルプスのパノラマは、まったく素晴らしく、これがアルプスなのかと驚きとともに実感できたのであった。展望台では、モンテ・ローザ方向表示もあり、この日はとてもよく晴れていたので、多分あれがモンテ・ローザだと思える小さなちいさな白雪の山塊をみつけたが、それがそうだったかは確認できない。宿に戻って受付のおねえさんにモンテ・ローザの話をするとすぐに眉に唾をつけてまともに取り合ってくれないが(岩雪崩のビデオは感心してくれた)、去年イタリアのオルタの方からモンテ・ローザの形はしっかり覚えたので、多分あれだろう、と弁明はしておいた。

 帰路はロープウェーを中間駅で降りて、一応アドバイスされたように探してみようと思って下のコルヴァッチ・タールステイション(谷駅)まで、自分に行けるかどうかの見当をつけた。標高1900mぐらいまでの800mぐらいの比高差なので、比叡山から下まで下りるのとそう変わらない。このところずっと山歩きをしていないとはいえ、下りだから行けないことはないだろうと考えたのだった。そして道も、パノラマ道として整備され、そう無理な道ではなかった。まずはピラミッド岩までと思って歩き出したが、中間駅から離れれば離れるほど、今度は戻ってゆくための体力が心配になる。だが結局歩いて下まで(スールレイまで)行ってしまうことにした。そうすればシルヴァープラーナ湖の湖周の散歩道にも出られ、そこからならニーチェのピラミッド石にも出会えるだろうと思ったのだった。失敗と言うなら、はじめに谷駅に来た時、近くにあった店でパンとアップルショルレでも買っておくのを不要だと思ったことだった。実際買っておけばずっと楽だったろう。実際コルヴァッチ山中にはピラミッド型の石ならいくらでもある。そしてニーチェが中間駅近くまでの標高差を上ったはずがないのは明らかで、ただ写真の石の所在をアドバイスしてくれたひとに従ってみようと思ったのだった。

 その後、下り道の苦労は続くが、京都の滝谷山周辺、、滋賀の権現山周辺、そして津軽の岩木山での経験が活きて、そして下山の山中で尋ねた二人のひとのアドヴァイスのおかげで、疲れ果てたということを除けば、無事に下まで、シルヴァープラーナまで、下りて来れたのだった。

写真は一度目と二度目。どちらも走り始めは小さい。


=== 2017.8.18 写真二枚追加 =========

モンテ・ローザ?
矢印の山がモンテ・ローザではないだろうか? 
コルヴァッチ山ロープウェーの山駅展望台から撮影
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コルヴァッチ山腹のピラミッド岩。
(標高2500mほど)
ロープウェー受付の人が(私が持参した)ニーチェ・クロニークの写真を見て、
これじゃないかと教えてくれた「ピラミッド状の塊」はこれのことだと思う。
 後ろに見える湖はシルス湖(シルヴァープラーナ湖ではない)。
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《スイスへ、シルス・マリーアへ》

2017/07/14 12:16
瀬谷こけし

トリープシェンのワグナーとコジマの家
いつでも自由に使用できるようにと
この家の二部屋をワグナーはニーチェに提供していた
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写真と解説:ナウムブルクのニーチェハウス


 ほんとはどうやりくりしても海外旅行など無理なところだった。だから今年はほんとはもうあきらめていた。ところがいろいろと思いがけないことが重なって、野田のお祖父さん(清一郎)の遺産の分け前が少し入った。何十万円という程度だ。それで、それがあって、行けるかもしれないという希望が湧いた。しかし調べてみるほどスイスは物価が高い。ローマやベルリンのような節約旅行ができるわけではない。それでかなり絶望的な気持ちになっていた。そしてほぼひと月続いた体調不良。しかし一昨日でその病にもけりをつけるつもりで、晩はアヒージョにした。無理なく、おいしく食べれた。そして昨日は某大学の授業で、今日(体調不良で)一度あきらめてからはじめてネットを探し、フライトと宿を探した。ここ二三日円が高くなっていて、フライトは以前と変わらない値段で手に入れることができた。そしてスイスの物価高に対応するために、滞在日数を減らした。チューリッヒでもまずまず安めの宿が見つかって、予約した。シルス・マリーアでの滞在も5泊間に限ったので、まずまず。ニーチェ・ハウスの近くの宿にこれまで見たこともないような値段で泊まれる宿があって、予約した。十分歩き回れるだろう。
 これで旅行のメインは確保できたが、やはりバーゼルは欠かせない。しかしバーゼルでも、旧市街で、シャワーも共同という古いホテルだが、そこも確保できた。二泊。バーゼル大学も近い。

 だがそこから先はまだ決めていない。ヘルダーリンとの関係でもほんとはボーデン湖をゆったり見てみたいし、また逆にルツェルンの街やトリープシェンのワグナー記念館も見てきたい。帰りのフライトの前日はチューリッヒに泊まるしかないが、この難しい計算を解く解法はあるのだろうか? ともあれ、今回のスイス旅行は、野田のお祖父さんが、「勉強してこい」と言ってプレゼントしてくれたようなものだ。そう思って行ってきたい。



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《この夏》

2017/06/12 21:39
瀬谷こけし


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 今年の夏はシルス・マリーア(スイス)に行こうと思っている。ニーチェが『ツァラトゥストラ』第二部を書いたところに、同じ時期に行っておきたいからだ。シルスに一週間ほど泊まりたいと思っている。今年の春はラパッロ(イタリア)を逃してしまった。そこは10日ほどで『ツァラトゥストラ』第一部を書いたところ。去年8月のタウテンブルクから、あるいはローマのサンピエトロ聖堂から、あるいはメッシーナから、あるいはジェノヴァから、オルタ湖畔のモンテサクロを経て、134年前のニーチェの足跡をたどりたいから。とりわけルー・フォン・ザロメとのつながりと距離とをできるだけ的確に押さえたいと思っているからだ。シルス・マリーアは1881年8月はじめの永遠回帰の体験の場所でもある。ルーと共有していた思想(生と大地の思想)を離れ、永遠回帰の体験こそを自分の思想の本源として確認するために、1883年の夏はシルスに行ったのではないだろうか。そこで『ツァラトゥストラ』第二部を書くのだが、それは第三部の永遠回帰の思想を打ち出すための準備でもあり、整理でもあっただろう。
 それで飛行機を探していると、想定していたバーゼル行きのフライトの本数が少なく、そのため割高になってしまう。こうなるとチューリッヒ着・発で動いた方が割安だ。だがバーゼルは是非行っておきたいので、(そしてできればルツェルンも、そしてイタリアのコモ湖のあたりも)いったいどんな風に予定を組めばいいだろう。1882年の5月に、ニーチェはいったんバーゼルに戻って、それからルツェルンで(ルーたちと)再開している。ルツェルンはニーチェにとって、ワグナーと親密に過ごしたいわば彼のアルカディアだ。そうしてニーチェの土地との関係を掴んでゆきたい。ローマのポリベリエラ通りで、サンピエトロで、オルタのモンテサクロで、タウテンブルクで、ライプツィッヒで、そしてベルリンのグリューネヴァルトで、そうした土地に対するニーチェの感覚をわずかなりとも掴んできた。今年はシルス・マリーアで、そしてスイスの幾つかの場所で、掴んできたい。シルスとバーゼル、とりわけこの二か所。



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