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みんなの「民俗学」ブログ


《地方地方の季節感覚》

2012/11/06 22:51
瀬谷こけし
 「我々だけは子供らしいと笑われてもよい。あんな傾向からはわざと離背しようとするのである。そうして歴史家たちに疎んぜられている歴史を捜して、もう少し楽々とした地方地方の文芸の、成長する余地を見つけたいと思うのである」(柳田国男「雪国の春」2)。
 今日の「民俗学」の授業では柳田のこの主張を中心に話をした。関西中心、近畿中心、山城盆地中心、京都中心の季節感を至上とする美意識。そういう美意識から離背して、地方地方のひとびとが自分の棲む土地の季節を肯定し、その折節と美しさと力を見つけ出して行くことを励ましてゆきたい。
 この点で、わたしは柳田の考えに全面的に賛同している。




facebookに載せたものを再録します
http://www.facebook.com/index.php#!/masatsune.nakaji





雪国の春 柳田国男が歩いた東北 (角川ソフィア文庫)
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2011-11-25
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1990年イタコ日向恵子の恐山デビューのときに

2011/01/26 02:04
瀬谷こけし
 南部のイタコ、日向恵子が恐山デビューをしたのは1990年だったはずだ。そのときわたしは初めて恐山に行ったのだった。イタコといえばもうお婆さんたちしかいないのだろうと思っていたところ、新鮮だった。その時彼女は二十一歳だったはずだ。そして彼女のホトケ降ろしを長いこと聞いていた。
 その時撮ったビデオがある。バイクで死んだ少年の降ろしだ。すばらしい降ろしだった。見ているわたしまでもらい泣きしていた。
 今日(1月25日)、今年度最後の「民俗学」の授業で学生にそのビデオを見せた。強く感じるところのあった学生が何人かいたようだった。わたしがあのときあそこで得ていた感動が彼らには伝わったようだ。他方で単なるショウ・ビジネスと見る学生も、少数だが、何人かいた。イタコに対して認識を新たにしたという学生が非常に多かった。たいていの学生はテレビか小説かマンガでしか知らない。あのように、イタコマチの中で行われるホトケ降ろし、それは、なかなかシビアーな仕事だと思う。その立派さはわたしの心の中では変らない。喩えて言えば松井須磨子が帝国劇場の舞台に立つのと同じようなことかもしれない。そこに立って主役を演じる覚悟も自信も喜びもあるのだろう。
 それはともかく、日向恵子のバイクの少年の降ろしの語りは凄かった。あの少年も、母親も、少なからず救われたことだろう。
 余談だが、昨日24日の午前0時過ぎに、「日向恵子」で検索をして、わたしのブログに来た人があったようだ。稀なことなのだが、何かあったのだろうか? ともあれ何も知らずに、今日授業でケイ子さんのあのホトケ降ろしを見せようと思ったのは、何かの縁があってのことなのか? わたしは、先週の「民俗学」の授業の後で、多少赤松啓介の「差別の民俗学」のスジの理論や宮本常一の「土佐源氏」と繋げる連想でそのビデオを見せたのだが。あるいは沖浦和光の「悪所」の理論と、もっと深く繋がるかもしれない連関で。深いところまでは学生に説明していない。そのとき、その降ろしを一緒に見ていた赤坂憲雄にその後で訊ねた問いについても。


======
追加:
この授業でわたしが学生たちに出した問いは、「イタコを賤職だと思うか?」という問いだった。追記しておく。
(2011.1.27)




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先週の「民俗学」の授業から(『後狩詞記』収録の「狩之巻」のなかの呪文)

2010/11/02 04:04
瀬谷こけし

書いておこう。『後狩詞記』収録の「狩之巻」のなかの言葉。
「ぐうぐせひのものたすくるといへどたすからず 人に食して仏果に至れ」。
これはまさに「諏訪の勘文」のなまったものだろう。

同書「引導」のところ。
「ひがふぐんせいのもの助るといへども助からず人に食してぶつくわに至れ」。
柳田は「ありがたそうなる経文なれども編者も山中の人と共に夢中にて写しておく」と注記する。
「業尽有情、雖放不生、故宿人身、同証仏果」という「諏訪の勘文」がもとのはずだ。

「ひがふぐんせいのもの」「ぐうぐせひのもの」がよくわからない。「勘文」では「業の尽きた有情」にあたる箇所で、おそらくここは、かれこれの状態の動物は、という意味だったか、もしくは「業の尽きた有情は」を意訳して使っていたものがさらに音が訛って、分からなくなったものだろう。

「助るといへども助からず人に食してぶつくわに至れ」は「勘文」の通りの内容だ。もっとも「食して」は「食されて」になるのだろうが。
この辺の動物の気持ちを、一昨日(10月24日)高山のすし屋で沖村道也さんは的確に語ってくれた。もじょもじょもじょと言う風に10秒ほどで。

この呪文を発見した柳田の興奮はよく分かるが、千葉徳爾がその関連を明確に示してくれていたかどうかがわからない。『狩猟伝承研究』や『狩猟伝承』の当該のところを読んでいても、いつもなにか分からなくなってってしまっている。千葉さんが指摘してくれているはずだと思うのだが。




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『土佐日記』 一 「なくひ」は「名食ひ」?

2009/03/10 03:26
瀬谷こけし
『土佐日記』を読んでいる。読んでいてひとつ思いついたこと。

>おもしろきところに船をよせて、「こゝやいどこ。」と問ひければ、「土佐の泊。」といひけり。
むかし、土佐といひけるところに住みける女、この船にまじれりけり。そが言ひけらく、
「昔、しばしありし所のなくひにぞあなる。あはれ。」といひて、詠めるうた、
  としごろをすみしところのなにしおへばきよるなみをもあはれとぞみる
とぞいへる。
(『土佐日記』岩波文庫pp.44-45。強調は引用者)


この「なくひ」のところ、脚注は
<意味不明。文意から考えると、「同じ名」「似た名」の意と思われる>
と記し、さらに補注を付けている。
その補注も優れた説がないことを記している。

だがわたしの考えだとこれは簡単なことなのだ。
つまり「なくひ」=「名食ひ」なのだ。

女の言ったことは、
<むかし人がしばしばやっていた「名食い」なのだろう>、と訳せるだろうか。
有名な土地の地名を食って、別の土地の名前にしてしまうというやり方だ。今で言えば「田園調布」という名をどこかの町名に付けてしまう、というようなやり方だ。
このことを「なくひ」と言っていたのではないか。

あるいは民俗例があるかもしれない。だが今はそれを探すひまがない。
当っている気がするのだが……。



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『故郷七十年』のなかで柳田国男は (『山の人生』のこと)

2009/01/29 04:03
瀬谷こけし
 『故郷七十年』(1974年、朝日新聞社)のなかで柳田国男は『山の人生』の冒頭の「山に埋もれたる人生ある事」に触れている。こんな風にだ。

 >第一の話は、かつて非常な饑饉の年に、西美濃の山の中で炭を焼く男が、子供二人を鉞(まさかり)できり殺したことがあった。自分の男の子と、どういうわけがあってか一人は育てていた小娘で、ともに十二、三歳になる子供であった。炭は売れず、……

 『山の人生』が刊行されたのは大正十五(1926)年のことだから、すでに五十年も前のことだ。
わたしが注目したいのは、ここでも「西美濃の山の中で」と記されていることだ。
このブログで前にも少し語ったことだが、この子殺しの事件、今日通説になっているように、現在の言い方で郡上市大和町山中の出来事であるとすれば、そのあたりのことを「西美濃と」呼ぶことはない。「奥美濃」と呼ぶべき場所だ。
 そのことを柳田はどう考えていたのだろうか?
先にわたしは、事件が起こった場所を置き換えて言うことで、事件をどこどこの誰々の事件と同定化できないようにした、という配慮したのだろうと言った。
http://25237720.at.webry.info/200901/article_3.html
しかし、事件からおよそ七十年、問題の著書からも五十年を経た時点でも、なお場所を変えて言う必要があったのだろうか、という疑問がどうしても残るのである。

 あるいは、このような子供殺しの事件は、当時はもっと頻繁に起こっていたことで、柳田が特赦を勘当するために調べていた事件というのが実はほんとうに「西美濃」で起こっていた可能性はないのだろうか?

 この件については、一件書類をさる方からいただいていて、大和町山中で起こった寒水のひとの事件だということで、「米も買えずに飢えていて」という動機のでっち上げについてまで、ほとんど疑問はないのであるが、しかしこの件を西美濃山中で起こった事件と考えておく可能性を排除してはならないと思うのである。それは『故郷七十年』の記述で言えば(対比は主に金子貞二著『奥美濃よもやま話三』による。前掲ブログ参照)、
 1.「西美濃」山中と言われている点(「奥美濃」ではなく)
 2.「秋の末」のこととされている点(「夏になりかけたとき」ではなく)
 3.「小屋の敷居の上を枕にして寝た」とされている点(「切り台にする丸太をすえて」「こどものアゴを丸太にかけさせて」ではなく)
などの点においてである。柳田が『山の人生』の冒頭の話として採録したもの、ほんとうに西美濃のどこかで起こった事件ではなかったのか?

 和田佐次郎の事件が「新四郎さ」として記録されたのはむしろきわめて特異な例であっただろう。金子貞二という稀有な民俗学者がたまたま明宝村(奥明方村)におり、そして村に伝わる話を精力的に採話していたことよってはじめて書物に残された事件である。西美濃の然るべきところに別の「金子貞二」がいなかったために柳田だけが書き残すことになった事件ではなかったのか?

 もっとも、父ひとり子ふたりの家族で、父が息子と娘を鉞で殺すというような事件が、当時であれそれほど頻繁に起こっていたとは考えがたく、またそのような事件であればおそらく新聞にも書かれたであろうことを考えれば、柳田が法制局参事官をしていた期間だけでも地元の新聞(『岐阜日々新聞』)をもれなく調べることができればこの件は解決するであろう。だがわたしが岐阜県立図書館で調べたところでは、明治三十五年から大正三年までの新聞で保存されているものは多くない。

 蓋然性ということで言えば、柳田が記した件は奥美濃山中の事件であった可能性が高い。だがそうではなく、実際に西美濃山中で起こった事件である可能性も完全に捨て去ってしまうわけにはゆかない。とりあえず性急な断定は避けておこう。


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柳田国男の『山の人生』 --- 和田佐次郎のこと少し

2009/01/08 17:19
瀬谷こけし
柳田国男の『山の人生』の冒頭に挙げられている子殺しの話。柳田が法制局にいて、警察関係の書類からその件を知ったのであれば、ああいう話になるのは仕方がないところもある。ただあれだけ米にこだわったストーリーに仕上げたのは、柳田が山の生活を、山の人生をほとんど知らなかったということが大きく響いている。奥美濃の話を、西美濃の話に置き換えて語った配慮はわからないではないが、しかしかといって寒水の村では当時も焼畑による畑作が普通に行われていたことぐらいはちょっと調べればわかるはずのことだ。そいう村であれば、アワやキビやヒエやソバや豆や川魚やミズナラの実など、山での生活はそう不自由なくできただろうことは想像がつく。住処(「新四郎屋敷」)の近くに茗荷のちょっとした群生があるのは(それを川野和昭さんが発見した)、そこに普通に人が住んでいたことの証拠だ。

 ともあれその「山の人生」の主人公、斧(ヨキ)で二人の子供を惨殺した男の名は和田佐次郎というらしい。谷川健一の『柳田国男の民俗学』*)の中にその名が出てくる。それもまたどうでもいい話だが。

 問題は『奥美濃よもやま話』**)の「新四郎さ」の話を知っているはずの人たちの力不足だ。読解力不足。つまり娘を村の有力者のところに女中に出すことのできる家がどういう家かということだ。ここに立ち止まって、少し考えるならば、「新四郎」の実家の家柄が相当によいものだったろうことは想像がつく。果たして数年前に、川野和昭さんと科研の調査のついでに行った寒水で、S氏から聞いた話しでは、新四郎(=佐次郎)の兄が庄屋であったということだった。さもありなんだ。ちなみにS氏は、寒水の村で、この新四郎の話を語ることが許されている二人のうちのお一人だ。そのS氏をわたしは、村の人とのそれまでの付き合いもあり、紹介してもらうことができた。

 まずはこのことだけを紹介しておく。先日赤坂憲雄さんにこのことを話したら、ともあれそれを公にしておくことを勧められたからだ。なかなか一本の論文として記す時間がないので、まずはこの形で公にしておく。


*)谷川健一、『柳田国男の民俗学』、2001年、岩波新書736
**)金子貞二、『奥美濃よもやま話』三、昭和四十九年、奥美濃よもやま話刊行会


=================補注================
内田隆三(『柳田国男と事件の記録』 )を信憑している方は、ぜひともまずは金子貞二の『奥美濃よもやま話』を十分に読み、 当時の山村生活一般についても理解を深め、当時の奥明方村の村の生活(人々のかかわり)がどのようにして成り立っていたか、誤った理解をもたないように十分に留意してほしい。(2014.5.15)


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淵沢小十郎のモデル松橋和三郎をめぐる高橋健二氏からの聞書き

2008/09/12 01:20
20060924高橋健二画像

 写真: 高橋健二さん(右)と 2006年9月24日、雫石町歴史民俗博物館にて 渡辺洋一氏撮影

瀬谷こけし
淵沢小十郎のモデル松橋和三郎をめぐる高橋健二氏からの聞書き
(宮沢賢治学会イーハトーブセンター『宮沢賢治AnualVol.17』 2007年3月発行)


     ◆ はじめに

 宮沢賢治の作品『なめとこ山の熊』の猟師淵沢小十郎のモデルが誰か、という問題がこの何年かの間追究されて来た。研究の結論は、猟師小十郎のモデルは賢治がそれを執筆した昭和二年当時豊沢に住んでいた猟師松橋和三郎である、というところに落ち着いている。わたしもその説に特に異論があるわけではないのだが、この度、一説にその和三郎から猟を学んだことがあると言われた、雫石町在住の高橋健二氏(明治四十五年生)にお会いし、話をうかがうことができたので、そのお聞きした話を紹介したい。
 しかしまずはじめに、小十郎のモデルについての研究史を、私が現在認識している範囲で簡単に紹介しておきたい。

     ◆ 淵沢小十郎のモデルの研究史

 『なめとこ山の熊』の猟師淵沢小十郎のモデルの研究史において、まずはじめに上げるべきものは牛崎敏也氏の研究である。

1) 牛崎氏は論文「『なめとこ山』の原風景---童話『なめとこ山の熊』の周辺---」(1990)において、和三郎を小十郎のモデルに擬する高橋亀三郎の説を紹介しつつ、当時花巻西山には松橋和三郎(父子)の他にはマタギと呼べる者がいなかったと説いている(1)。これが現在まで私が認識している限りで、もっとも早い松橋和三郎モデル説である。ちなみに高橋亀三郎氏は、その説を牛崎氏に語ったのであり、特に何かに書き残しているということではないようである。

2) 牛崎氏はまた「小十郎の行方---童話『なめとこ山の熊』の周辺」(1992)において、松橋和三郎の孫の松橋勝美氏からの聞書きによって「明治三十九年以降、豊沢地区で熊捕りをしていたのは松橋氏の家族以外なかったから、小十郎のモデルが松橋和三郎氏であることは、まちがいないといってよいだろう」と明確に語っている(2)。和三郎の孫の勝美氏からの直接の聞書きであり、その当時の豊沢のでの生活や熊狩りについての豊富な具体的説明によって、小十郎のモデル=和三郎説はこの論文で確立されたと言ってよいであろう。

3) 田口洋美氏は「列島開拓と狩猟のあゆみ」(2000)において、「松橋和三郎というマタギは、作家宮沢賢治とも親交があり童話『なめとこ山の熊』の主人公淵沢小十郎のモデルとなったと思しき人物である」(強調は引用者)と記している。残念ながら論文中にその論の根拠は示されていない(3)。

4) さらに田口洋美氏は「阿仁マタギの世界---秋田県北秋田郡阿仁町---」(2001,3)の中で、「現在雫石町在住の高橋健二氏は松橋和三郎を師匠とし、猟を学んだ人である。彼の話によれば当時花巻で暮らした賢治の周辺には和三郎以外にマタギと呼べるプロの猟師は存在していない。現時点では状況証拠でしかないが、この松橋和三郎が『なめとこ山の熊』の主人公淵沢小十郎のモデルになったと考えられるのである」(強調は引用者)と述べている(4)。

5) さらに佐藤孝氏の『宮澤賢治に誘われて』(2001,6,1)も、松橋勝美氏からの聞書きに基づいて、「氏の祖父和三郎さんこそが、地元で『淵沢小十郎』のモデルと言われている秋田阿仁マタギの流れをくむ人物で、明治三十九年に阿仁から豊沢村に移住して、生涯二百頭も捕り、昭和五年に七十九歳で没している」と、和三郎の生没年も明らかにして報告している(5)。

6) さらにこれらの後に拙論「なめとこ山の熊の胆」(2007,1)を置きたいのだが、煩瑣を避けてここでは内容紹介を控えたい(6)。

     ◆ 僥倖、高橋健二氏健在

 ところで、以上のような研究史の中で、わたしは最近まで田口氏の説しか知らなかった。だが二〇〇六年八月、ある僥倖によって松橋和三郎、勝治父子の生没年を知ることができたのである。松橋和三郎1852-1930、勝治1893-1968である。そうすると上記の4)で言われているように、高橋健二氏が松橋和三郎から猟を学んだとすると、仮に健二氏十五歳の時七十歳の和三郎から学んだとしても、高橋健二氏は一九〇七年の生れだということになる。とすれば、二〇〇六年当時、もはや達者にしておられるものかどうかかなりあやうい所であると思われたのである。ご達者であるかどうかぜひとも早く確かめたい、そしてできれば松橋和三郎さんの話を聞きたい、と気持ちは大いに急いていたのである。幸い九月二十二日以降、津軽での仕事の帰り雫石に寄ることができたのであった。そして雫石ではこれまた大変な僥倖に恵まれ、渡辺洋一氏にお会いすることができたのである。この渡辺洋一氏こそ、雫石町歴史民俗資料館の専門指導員として、本人からの聞き取りを通じて、高橋健二氏のライフヒストリーを纏めようとされていたのである。高橋健二さんも、九十四歳のご高齢とはいえ、まだまだ達者であるということであった。
 この出会いに、わたしは個人の力を越えた大きな力の祝福を感じずにはいられなかった。そして一日空けた九月二十四日朝九時から、歴史民俗資料館において、渡辺氏とともに高橋健二さんから話を聞く機会を持つことができたのである。ちなみに、渡辺洋一氏の父上文雄氏は、県の猟友会の常勤職を長く勤めてこられた方であった。高橋健二氏とも親交が厚い。
以下、当日の聞き取りから、松橋和三郎に関わるところを録音から起こして紹介する。この聞き取りの録音は渡辺洋一氏と私とが独立に取っているが、今回は私が録音したものによって起こしている。

     ◆ 高橋健二さんからの聞き取り

 わたしははじめの高橋健二氏と松橋和三郎との関わりについてたずねた。だがお聞きした話は驚きばかりだった。聞き取りはまずこう始まる。

中路正恒:「『マタギ』という田口洋美さんの本の高橋さんから聞いた話として、豊沢ダムで水没したあそこに松橋和三郎さんという方がいた、と書いてあるんです。それで高橋さんご自身と松橋さんとの関わりをお聞きしたかったんですけど?」
高橋健二:「あのね、わたし会ったことねえんですよ。」
中路:「あったことないんですか!」
高橋:「ええ。」

これは大きな驚きだった。「高橋健二氏は松橋和三郎を師匠とし、猟を学んだ人である」という前掲の田口洋美説と全く違っている。それは更に具体的に確認されてゆく。

渡辺洋一:「会ったことねえということは話をしたことがないという意味?」
高橋:「話したことはない。」
渡辺:「ただその家の前は……。」
高橋:「そこは住んだということは分かった。そこの前通ったからね。うん。」
中路:「前を通ったことはあるわけですか。」
高橋:「うん。」
渡辺:「何回も?」
高橋:「あーん、二三回あるんだろな。」
渡辺:「一回だけではねーてことだな。」
高橋:「あそこの川があるところ、今はダムになっているけんど、あの川に鴨を獲りに行った。」
中路:「高橋さんが鴨を獲りに行った時に和三郎さんの家の前を通ったと。」
高橋:「ああ通った。」
中路:「家の前を通ったことはあるけどお顔を見た事はないんですか?」
高橋:「ない」
中路:「ああそうなんですか。」
渡辺:(ため息をつくように)「ああそうか。ああそうか。」
中路:「なら一緒の写真とかももちろん無いわけですよね。」
高橋:「はん。」
中路:「ああそうか。なら和三郎さんの息子さんで、勝治さんの方、松橋勝治さんという方がやっぱりそこに住んでいたと思うんですけど、勝治さんの方もお会いしたことがないんですか。」
高橋:「ないね。」
中路:「というと、いわば豊沢の狩をする人と、この雫石の狩をする人と、あんまり……。」
高橋:「交流はなかった。」
中路:「ああそうですか。なら雫石の人はむしろ沢内の方とは関係があったとか?」
高橋:「沢内とは幾らか関係があった。幾らかですよ。」
中路:「ああ、そうですか。なら松橋さんのことは名前で聞いていた、有名な熊とりさんやったやろうし、名前は聞いていたということですか?」
高橋:「雫石町南畑、電話番号は695−20**。ここにね、あのー、秋田から来て、泊ってはいた。そこから今度は豊沢ダムの方か移ったんだね。ここはね、高橋今朝吉という人だ。このひとに60ぐらいまでは狩猟やってたな。熊だったら百頭以上獲った。」
中路:「なかなか大変な人ですね。」
高橋:「その息子はハンターやってたけどもなくなった。今孫が家にいる。田茂木野という部落なんですよ。」
(写真で今朝吉さんを確認する)

中路:「宮沢賢治さんのことをいろいろ調べていたんです、わたし自身、それで、宮沢賢治さんの『なめとこやまの熊』という話があって、その中に熊狩りをする猟師が出てくるんですね。そのモデルが和三郎じゃないかということを田口さんは言ってるんですけど。」
高橋:「さーてなー。和三郎さんの方がずっと新しいんじゃないかな。」
中路:「宮沢賢治より? そんなことはないんですよ。和三郎さんの方が四十歳ぐらい上なんですよ。宮沢賢治より。」
高橋:「はは。」
中路:「逆に年が離れすぎてるんじゃないかなと思ったりするんです。」

中路:「宮沢賢治は『すがめのごりごりした赫黒いおやじで胴は小さな臼ぐらいあった』と言ってて、太ってたんやろうね。仙太郎マタギさんの写真を見るとこんな雰囲気だったんだろうかなという気がしたんやけど。」
高橋:「これは仙太郎だ。いや、これよりは優しいような格好だな。」
渡辺:「和三郎さんの実際は見ないけども、うわさとか?」
高橋:「うわさとか、家の前にいたの。さっと、こう、見たことはある。」

渡辺:「それ何歳ごろ? 健ちゃんが何歳ごろ? というのはね、健ちゃんが二十歳前後のころと、和三郎さんが死ぬあたりとがあぶないのさ。ぎりぎりなの。」
高橋:「うーん。昭和十二年あたりかな。」
中路:「昭和の五年に和三郎さん亡くなってるんですよ。」
高橋:「ほーーー。」
中路:「もしかしたらその息子の勝治さんなら明治の二十六年生れなんですよ。」
高橋:「そういえばその人みたいだな。」
中路:「見たの勝治さんの方かもしれないですね。」
高橋:「息子の方なのかもな」
中路:「年齢だと健二さんより二十歳ぐらい上なんです。」
高橋:「息子だな。」
渡辺:「息子さん。その一緒に来た子という意味での息子。そうなると犬はどうなるの?」

渡辺:「その松橋さんのとこだということは確実なの? 家は。」
高橋:「確実だ。家は。」

高橋:「その、松橋という犬はこういう格好の犬で、ここの(目の上を指す)茶色の、何ていうんだかな。二つ、対であったけね。あまり大きな犬でなかった。」
中路:「その犬は覚えているわけですね。」
高橋:「うん。」
中路:「この辺は黒かったんですか?」
高橋:「背中はしろくて。ここらも黒くて、ここだけ茶色で。四つ目といっててな。」
渡辺:「四つ目ね。仲間ではそういうわけだ。」
高橋:「柴犬よりはちょっと大きいか。」

 この松橋家の犬についての高橋さんの記憶はきわめて正確なものだということが、その翌日に判明する。というのも、豊沢から花巻に移ったひとりである高橋美雄さんが、その松橋勝治さんの犬のことをよく覚えており、同じ様を語ってくれたからである。さらにまたその犬の子孫が現在も生きており、それもまた四つ目の柴より少し大きいぐらいの犬なのだと言うのである。後日その犬の写真も撮って来たいと思う。
 この後聞き取りはこの地方の狩猟をめぐって更に続き、『なめとこ山の熊』の背景をよく照らしてくれるのだが、それらについてはまた別の機会に公表することにしたい。
 結局、田口洋美さんの言う「高橋健二氏は松橋和三郎を師匠として猟を学んだ人である」という主張は、何を根拠に言われているのか? 私には理解できない。和三郎と賢治との親交の話も、根拠があるのなら示してもらいたいところである。 地元の人からの誠実な聞書きによって、宮沢賢治が懐いていたものはさらにはっきりと見えて来るのである。

 注
(1) 牛崎敏也、「『なめとこ山』の原風景---童話『なめとこ山の熊』の周辺---」、『北の文学』第二十号、一九九〇(平成二)年五月二十日、岩手日報社、一〇九頁。
(2) 牛崎敏也「小十郎の行方---童話『なめとこ山の熊』の周辺」、『北の文学』第二十四号、一九九二(平成四)年五月八日、岩手日報社、三一、三十二頁。
(3) 田口洋美「列島開拓と狩猟のあゆみ」『東北学』Vol.3、2000年10月25日、東北芸術工科大学 東北文化研究センター、九十四頁
(4) 田口洋美「阿仁マタギの世界---秋田県北秋田郡阿仁町---」、『東北の風土に関する総合的研究 平成十二年度報告書』平成十三年三月三十一日、東北芸術工科大学 東北文化研究センター、六十二頁。
(5) 佐藤孝『宮澤賢治に誘われて』、平成十三年六月一日、自家出版、十三頁。
(6) 中路正恒「なめとこ山の熊の胆」、『季刊東北学』第十号2007年1月15日、東北芸術工科大学 東北文化研究センター、二〇五〜二〇九頁


補足: 宮沢賢治学会イーハトーブセンター『宮沢賢治AnualVol.17』 2007年3月発行に発表したものを再録します。聞取りをした時の高橋健二さんの写真を付加えました。しっかりしたご様子が分かることと思います。ご自宅から聞取り場所の雫石歴史民俗資料館までご自分で車を運転してこやって来られました。
 本文内容の変更はないと思っていますが、字句の若干の修正はあったかもしれません。ご関心のある方は雑誌の方と対照して下さい。
 わたしはこの原稿を書いた時点では松橋菊蔵さんのことを知りませんでしたが、教えて下さる方があり、和三郎の次女の婿養子として豊沢に住んでいたことがわかっています。高橋健二さんが「和三郎の家の前を通った時に見かけた」と言っているのはもしかしたら勝治さんではなく、菊蔵さんかもしれません。
 民俗学を研究する人も不誠実なことをしてはいけません。そのことを言いたくて本稿をブログにも発表することにしました。

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はじめて「民俗学」の授業をした: 晴れ晴れと (民俗学講義1)

2008/07/28 00:46
瀬谷こけし
今年、2008年の前期、はじめて「民俗学」の授業を受け持った。わたし自身民俗学に近いところで仕事をしているが、しかし自分の仕事を民俗学と呼んだことはない。あくまで宗教哲学者として仕事をしており、その仕事の今の狙いを示す時には「地域学」という名称を使うことがある。だからいつも民俗学とは少し距離を取っている。
 ともあれ今年は「民俗学」の授業をした。そして、最終回七月二十二日の授業を除けばまずまず面白い授業ができたと思う。といってもわたしに常用している民俗学の定義があるわけではない。授業ではその定義から探してゆかなけれならなかった。

 わたしは授業を柳田国男の「雪国の春」からはじめた。この論文にはつつけば面白いところがたくさんある。遊動と定住の問題、広域近畿地方と東北地方の問題、中央と地方の問題、暦と季節感の問題、同胞と同胞ならぬものの問題等、いろいろな問題を引き出すことが出来る。民俗学の定義ないしは狙いは何かという問題もこの論文から引き出すことが許されるだろう。この大正十五年一月の論文公刊の時点での柳田の考えを読み取ろうとするのである。そこでわたしが見出したのは第二節の中ごろで言われているこの文言である。「だから我々だけは子供らしいと笑われてもよい。あんな傾向からはわざと離反しようとするのである。そうして歴史家たちに疎んぜられている歴史を捜して、もう少し楽々とした地方地方の文芸の、成長する余地を見つけたいと思うのであ」。この「歴史家たちに疎んぜられている歴史」こそ、「民俗学」と呼ばれるべきものと言えるだろう。歴史学の一種ではあるが、中央の政治経済史に収斂されるような歴史とはことなり、また研究方法として文献のみを信奉する文献史学ともことなる歴史、それは方法としては伝承者からの聞書きを基礎とし、そこから聞取られる伝承されている民間の生活の歴史を内容とするような学問だ。「雪国の春」から民俗学の輪郭をさぐりだせば、おおおよそそのような輪郭の学問が出てくるであろう。

 しかしわたしはここで既に二つの問題点を指摘しておきたい。ひとつは「いかなる血筋の人類でも、こういう好い土地に来て悦んで永く留まらぬ者はあるまい」(第二節)という主張である。柳田はここで瀬戸内海を囲む平地を念頭に置いているのであるが、こういう断定は、山間の地を狩猟採集のための好適地と考える(縄文系の)人々の存在を切り捨てていることになるだろう。
 そして第二は、第一のことを密接に結びつくが、「閇伊や男鹿島の荒蝦夷の住んだ国にも、入れ代わって我々の神を敬する同胞が、早い昔から邑里を構え満天の風雪を物の数ともせず、伊勢の暦が春を告ぐるごとに、出でて古式を繰り返して歳の神に仕えていた名残である」(第六節)という東北観である。前に別のところでも言ったが、この「入れ代わって」とは何なのだ。そこの、先住民はどうなったのか。殺されたのか、移住させられたのか、さらに北に追いやられたのか。柳田はこのいずれとも答えようとしない。切り捨てて顧みようとしないのである。先住民の問題である。柳田は「民俗学」の対象を「我々の神を敬する同胞」の民俗学に限ろうと、あらかじめ決めてしまっているのである。

 この問題に対して、われわれはみなひとりひとり遺伝子の底の底まで孤独であること、そしてまたみながみなその血に何の正当性ももたない混血者であること、このことをわれわれは民俗についての学問の根底に置いておかねばならないと、わたしは言っておきたい。このような前提条件を課すことによって、民俗学は、晴れ晴れと、「常民の民俗学」を脱することができるだろう。



*「大正七年五月」と記していたものを「大正十五年一月」に修正。なぜ「大正七年五月」と記していたのか、目下不明。(2011年10月13日)


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伊波普猷の普天間権現?

2007/09/07 20:07
瀬谷こけし
原田禹雄さんからはがきをいただいた。『日本歌人』2007年9月号に書いたわたしの「山中智恵子論 <9>」の「をなり神」論についてだ。とりわけ伊波普猷が「をなり神」信仰の核心にあるものとして上げている普天間権現の由来譚についてだ。伊波はこう書いていた。

>父と長男とが支那に行った時の話である。ある晩妹が睡眠中、大きな声を立てて、もがくので、一緒に寝ていた母が、なぜそんなことをするかと、一方の手をつかまえてゆり起こしたら、惜しいことをした、二人の乗った船が、今難船にあったところで、右の手で兄さんを助けて、左の手でお父さんをつかまえようとするところを、手が動かなくなって、お父さんはとうとう助けることが出来なかったといった。程経て、支那にいった兄から手紙が来て、行く途中難船にあって、自分は助かったが、父は溺死した、ということであったので、皆々びっくりした。

こういう話しである。この話にはわたしも少なからず疑問を感じるところがあって、このブログの「疑問 伊波普猷の『をなり神』?」というページで述べた。
http://25237720.at.webry.info/200707/article_19.html
このテキストでは、父ではなく兄を助けることになるのは単に偶然のことに読めるからであり(母がたまたま娘の左手をつかまえたから)、この話からは「父」以上に「兄(男兄弟)」を助ける力をもった「をなり神」という存在は浮かんでこないからだ。
原田さんは、この伊波が語る話の源にあると思われる中国の文献を紹介してくれた。『勅封天后誌』という書にある「機上救親」の話だ。再録してみよう。

>秋九月、父与兄渡海北上、時西風正急、江上狂涛震起、后方織、忽于機上閉睫、顔色頓変、手持梭、足踏機軸、状有所狭而惟恐失者、母怪急呼之醒、而梭墜、泣曰、阿父無恙、兄没、頃而報至、果然、……
(原典をすぐには参照できないので、原田禹雄氏からの九月六日付けの葉書による。この引用紹介の責任は一切引用者中路にある。)

これをみると、伊波が普天間権現の由来譚として紹介している話は、もとはここに記されていることのようである。そしてお分かりのように、ここでは娘に助け出されるのは父親の方であって、兄の方は残念ながら水死してしまうのである。

このような話があるからには、われわれは普天間権現信仰の由来について、慎重な伝承研究をしなければならないだろう。原田さんはさらに「普天間権現の話にしても、古い話しには、伊波が書いたような話はありません」と教えてくれる。伊波の語ることはとても鵜呑みにできる話ではないのだ。

原田さんはさらに、「琉球関係の、殊に民俗学関係の、特に柳田国男・折口信夫・伊波普猷の書いたものは、漢文資料をほとんど読まず、日本と琉球との相似点についてのひどい断定が多いので、引用されますときは、注意されることが必要かと存じます」と言ってくれる。こと琉球の民俗や文化に関しては柳田も折口も伊波の説をほとんど疑っていないように見える。われわれは十分に注意をする必要があるだろう。


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民俗学の未来 2 (権力民俗学へ)

2007/08/20 04:08
瀬谷こけし
民俗学の未来 2 (民俗的権力の分析学へ)

「民俗学の未来」
---質問に答えて---

質問:
>「これまで民俗学が引き受けて来た問題」が現代人にとっていささかも問題ではない、ということに民俗学が関心を寄せない、ということが問題なんでしょうか?

答え:
「地」、ないしは「地域」のための学として何が必要なのか、ということを現代の問題として本気で考えていないということが問題なのだと思います。
都市民俗学に逃げるのも目先を変えているだけで、それをやるぐらいなら「村」と心中をした方がはるかにマシです。
ただわたしが一番不満をもっているのは、民俗学がミクロの権力分析をしないことなのです。
わたしの「人身御供譚解釈」が決定的に新しいのは、そこに村社会の権力者の権力維持システムを読み取っているからです(『柳田国男研究』第2号参照)。
民俗学はそのような村社会の権力維持システムを批判的なまなざしをもって徹底的に分析すべきなのです。
それは今でも非常に鬱陶しい働きをしているし、安部内閣のような体制ではさらに鬱陶しいものになってゆく可能性が大いにあります。民俗学者はその問題をどうして放置できるのでしょう?
これまでどうして放置して来たのでしょうか? 
わたしには大いに疑問です。
権力分析のできる民俗学者が育ってきてほしいと思っています。

ペルセポリス(高速度ゼミナール)「民俗学の未来」1-3


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タイトル 日 時
民俗学の未来
民俗学の未来 柳田国男の「稗の未来」に倣ったわけではないのですが、民俗学に本当に未来があるのかどうか、それをいろいろな試行を試みつつ探求したいと思います。 経世済民のための学として有効か。それならいい。だがこれからもそう言えるのか。 学問のための学問としての民俗学。あるいは知的好奇心を満たすための民俗学。それは何か道を間違えたものに思える。 ...続きを見る

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2007/08/19 00:40
折口信夫の「妣が國へ・常世へ」2
折口信夫の「妣が國へ・常世へ」2 折口信夫の「妣が國へ・常世へ」(大正九年五月)は、「妣が国論」ばかりでなく、その「常世論」もおもしろい。こうだ。 ...続きを見る

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2007/08/14 03:42
折口信夫の「妣が國へ・常世へ」
折口信夫の「妣が國へ・常世へ」 折口信夫の「妣が國へ・常世へ」(文庫全集第2巻)はとてもおもしろい。 迷いながら、試行錯誤のようにしながら、論を立て、問題を整理してゆこうとするところ。 何よりもあの大王ヶ崎の経験を、「常世」の経験とは呼んでいないことだ。 「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王ヶ崎の盡端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかった。」 「わが魂のふるさと」と呼んでいる。 そしてそれを、「常世」というよりは、むしろ「妣の国」へのあこがれの心を掴んだ経験... ...続きを見る

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2007/08/13 07:03
諏訪春雄の『折口信夫を読み直す』をよんだ
諏訪春雄の『折口信夫を読み直す』をよんだ 諏訪春雄の『折口信夫を読み直す』(1994年、講談社現代新書)をよんだ。最後まで読んだのだが何も理解できなかった。それはつまり、諏訪氏は折口を読み解き、読み破るべく、幾つかの概念化を試みているのだが、その概念化がわたしには納得できなかったということである。 とはいえ氏の「一見複雑で壮大な折口学説の体系も、解きほぐしてみれば、それほどわかりにくいものではない」(p.198)という主張がわからないわけではなく、わたしとしても本書のおかげで折口と多少組みやすくなったという気はする。だがしかし本書... ...続きを見る

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2007/08/09 15:48
疑問 伊波普猷の「をなり神」?
疑問 伊波普猷の「をなり神」? 伊波普猷の「をなり神」に関心のある人はいないだろうか。 わたしが感じる疑問。 1.「をなり神」は生きていないと力がないのだろうか? 2.なぜとりわけ遠く離れた航海中の男兄弟を守るのか? 距離はどう関係するのか? 3.むしろ普天間権現の伝承から発想されているのではないか? 4.その普天間権現の由来伝承でも、兄を助けたが父を助けられなかったのは単なる偶然にも読めるのではないか? 5.他家に嫁ぐと、兄弟を守る力は弱まるのか? ならばなぜ? 6.「をなり」は「をみなり」と同じ語で、つま... ...続きを見る

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2007/07/31 23:20
トルコの魔除け
トルコの魔除け アイブル=アイベスフェルトの『ヒューマン・エソロジー』(ミネルヴァ書房)p.798に掲載されている写真。 目はこれ一つだけだと目玉焼きにしか見えないが、左右揃えばかなりの威嚇効果があるかもしれない。 ...続きを見る

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2007/07/17 11:40
飛騨の熊猟から人間と自然の関係を見る(中村科研報告書『東アジアの……』)
飛騨の熊猟から人間と自然の関係を見る(中村科研報告書『東アジアの……』) 中村科研の報告書に私が書いたものは、大胆なのでなかなかいい。 ...続きを見る

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2007/06/20 11:28
拙稿「〜高橋健二氏からの聞書き」、『宮沢賢治研究Annual17号』に
拙稿「〜高橋健二氏からの聞書き」、『宮沢賢治研究Annual17号』に 「宮沢賢治学会に研究ノートを投稿した」について ...続きを見る

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2007/05/21 10:26
宮沢賢治学会に研究ノートを投稿した
宮沢賢治学会に研究ノートを投稿した 宮沢賢治学会に研究ノートを投稿した。 タイトルは「淵沢小十郎のモデル松橋和三郎をめぐる高橋健二氏からの聞書き」という長ったらしいもの。 非常に丁寧な録音起こしをした。高橋さんの明確なもの言いと、記憶の確かさと、誠実さがよく出るように。 それをしなければならなかった状況がつらい。 しかしすることは決然としなければならない。臨済義玄のように。 臨済が励ましになる。 ...続きを見る

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2007/05/08 01:30
柳田国男の『雪国の春』--- 民俗学の方法と肯定
柳田国男の『雪国の春』--- 民俗学の方法と肯定  柳田国男の『雪国の春』。これは民俗学という知の方法は何を目指してきたのか、これから何を目指したらいいのか、それを考えるための絶好の本である。この本を疑問をもちながら読めば、新しい知の可能性がいくつも見えて来るだろう。実際目覚ましい活躍をしている赤坂憲雄さんの、「東北学」についての仕事のほとんどは、柳田のこの『雪国の春』を発想の源にしている。そこで述べられていることを確認したり、疑問をもってさらに追究したり、そしてさらに柳田の『雪国の春』の構想そのものに問題はないのだろうかと問い直したりする... ...続きを見る

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2007/03/28 14:45

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