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みんなの「ヘルダーリン」ブログ


《ヘルダーリンとシューマン》

2017/06/11 23:01
瀬谷こけし


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 ロベルト・シューマンの曲と同名の《早朝の歌》という曲の第一曲で、ハインツ・ホリガーはシューマンの《早朝の歌》(op.133)の第一曲にヘルダーリンの最晩年(1843年)の「春」の詩を重ねて歌わせ、ひとつの驚くべき音楽世界を作っている。シューマンのその曲はあたかも日の出の時の荘厳さを音楽にしたような曲だが、しかしその日の出のように見えるときはわずかに4小節しか続かず、それは明るい日中につづくことなく、すぐにもとの暗闇に戻ってゆくような趣きの曲なのだ。

 ホリガーの解釈では、その力強い荘厳な日の出の4小節は、ちょうど「Aus Höhen glänzt der Tag」の詩句と重なり、この重なりによって、その「高みから」(Aus Höhen)という異次元の、異世界から与えられる一瞬の特異性を強調し、異界からの輝きのないその後のその余の時間の暗さ、つらさを描いている音楽として、シューマンのこの曲の一貫した解釈を提供している。

 シューマンが晩年ヘルダーリンに惹かれていたことは知られているが、この最晩年の「春」の詩を、《早朝の歌》の解釈に導入したホリガーの鋭さにはまことに驚嘆させられる。
 ここに確かにヘルダーリンとシューマンを結びつけるひとつの碑が築かれている。


 以下、「春」詩の原典とその手塚富雄訳、そして拙訳を上げておく。私にとってはいまだ二か所、文法的な整合性が確認できていない箇所があるので、拙訳については試訳と理解しておいていただきたい。誤りなどご教示いただければ幸いです。


Der Frühling

Die Sonne kehrt zu neuen Freuden wieder,
Der Tag erscheint mit Strahlen, wie die Blüte,
Die Zierde der Natur erscheint sich dem Gemüte,
Als wie entstanden sind Gesang und Lieder.

Die neue Welt ist aus der Tale Grunde,
Und heiter ist des Frühlings Morgenstunde,
Aus Höhen glänzt der Tag, des Abends Leben
Ist der Betrachtung auch des innern Sinns gegeben.

Mit Untertänigkeit
d. 20 Jan. 1758. Scardanelli.

http://www.textlog.de/17887.html




(手塚富雄訳)

太陽は新しい喜びへ立ち帰り
日々は花のように かがやいて出現する、
自然のよそおいは心をたのしませ
あたかも歌声が起こったようだ。

新しい世界は谷々の深みから生まれ出、
春の朝は時ごとに晴れやかだ、
高みからは真昼はかがやく、夕べの生は
内なる思いのためにも与えられている。

                 敬白
1758年1月20日       スカルダネリ
(1843年に成立)



(拙訳・試訳)

太陽が再び戻ってきてうれしい、
日々には陽射しがともない、花咲くように見える、
自然の装(よそお)いは、ひとの心には、あたかも
歌や声が生まれて来たかのようにみえる。

新しい世界は谷々の底から生まれ、
春の朝の刻々はとりわけ晴れやかだ、
昼の日は高みから輝き、夕べの生にも
考察によって内的な意味が与えられる。




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《スカルラッティ》

2017/05/16 11:43
瀬谷こけし

 スカルラッティはいつでも知性を取り戻させてくれる。そんな音楽家は他にない。「いやらしく知性を掻き立てる」と評する人もいるかもしれないが。ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』や晩年のシューマンの幽明の境の世界に限界的な想像力で入り込んでいると、時にスカルラッティがとてもありがたくなる。もっともわたしが知っているのはスコット・ロスのスカルラッティだけで、それ以外は特に何も知らないのだが。ともあれロスのスカルラッティは素晴らしい。


Domenico Scarlatti Harpsichord Sonatas K339 - K355 Scott Ross 22
https://youtu.be/MKltybWhnEs






Scarlatti: The Complete Keyboard Sonatas
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2014-06-02

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《シューマン》

2017/05/13 15:39
瀬谷こけし

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 音の響きを確かめたくて、そしてできるならシューマンのこころを探りたくて、何十年ぶりかにピアノを開けた。郡山で子どもたちのために買ったピアノだが、子どもたちも触らなくなって久しい。
 弾きたかったのは《早朝の歌》Op.133。シューマン自身が出版した最後の曲だという。そして、わたしの感じでは、早朝の霧のそよぎに、宇宙の動き、宇宙のリズムを感じ取っている曲だ。鍵盤を押してみて初めて分かったのは霧の重なり、霧の波の重なりを音符で示す非常に簡単で巧妙な作り方。最初の四小節だけ、ともあれたどれるようになった。
 ヘルダーリンが存在の全一性として語っていることと、非常によく呼応していると思う。これがシューマンの最高の曲ではないだろうか。チェロ協奏曲(Op.129)は、悲しみの場所(I)、この世からの別れの場所(=脱領土化)(II)、まではよいのだが(III)宇宙的な自然の力との呼応のところで、模索にとどまっていると思う。宇宙(自然)との一体性は、この《早朝の歌》のなかでもっともよくとらえられているのではないだろうか。和音のひとつひとつ、そしてその動きに、美を感じる。ヘルダーリン(たとえば『ヒュペーリオン』)の言う美も、このようなものだと思う。

> …そしてわれわれは歌(Gensang)となる。 (ヘルダーリン「平和の祝い」)


Schumann- Gesänge der Frühe, Op. 133: I. Im ruhigen Tempo
ピアノはアンデルシェフスキ。

https://youtu.be/Warv9woLZvY




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《生への讃歌》

2017/04/04 02:33
瀬谷こけし

《生への讃歌》

https://youtu.be/FIOIUlDB5yU




 ルー・ザロメの詩にニーチェが作曲したこの曲、この曲についてルーは「それを彼は、一八八二年の夏、彼が私といっしょにチューリンゲン州のドルンブルクに滞在していた間に、作曲したのだ」と言う(原佑訳『ニーチェ 人と作品』。一語引用者が訂正)。「ドルンブルク」はルーの誤りで、正確にはドルンブルクから3kmあまり離れたタウテンブルクなのだが、それはいい。そのタウテンブルクの牧師館で、夜中、ルーを前にピアノを弾きながらこの曲を作曲していたニーチェの姿が思い浮かぶ。この時ニーチェは37歳のはずだが、曲はまるでこの世を去る間際の作のように聞こえる。もうこれ以上のさとりはなくていいのだ。これを絶頂として死ぬならそれは本望だと、そんな風に。そういうつもりで作曲した曲なのだろう。安らぎもある。
 1882年のタウテンブルクはニーチェにとって生の絶頂と言うべき場所だった。永遠回帰の思想が訪れた1881年のシルス・マリーア以上に。そのときそこタウテンブルクで彼らは多くのことを経験した。それはそこで彼らがひとつの対話であり、たがいを聞くことが成就していたからだ。ヘルダーリンが讃歌「平和の祝い」の核心として表白したことがきっとここでひとつ成就したのだ*。
 そしてルー・ザロメとニーチェの合作になる《生への讃歌》は、ヘルダーリンがつづけて「そしてほどなくわれわれは歌になる」と言う「歌」そのもののひとつではないだろうか?



注*
ヘルダーリンの「平和の祝い」(Friedensfeier)には次のような言葉が読める。
〇Viel hat […] //Erfahren der Mensch;(多くを〔…〕//人間は経験した;)
〇Seit ein Gespräch wir sind und hören voneinander,(われわれがひとつの対話であって、たがいを聞いてよりのち、)
〇bald sind wir aber Gesang.(そしてほどなくわれわれは歌になるのだ。)
とか。ルーとニーチェの《生への讃歌》はヘルダーリンのいう意味での「歌」(Gesang)ではないだろうか?
 そこの箇所つづけて書くと、

Viel hat von Morgen an,
Seit ein Gespräch wir sind und hören voneinender,
Erfahren der Mensch; bald sind wir aber Gesang.
(HÖLDERLIN SÄMTLICHE GEDICHTE, 1992)
多くを朝から、
われわれがひとつの対話でありたがいを聞いてよりのち、
人間は経験した。そしてほどなくわれわれは歌となるのだ。
(拙訳)


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《『ツァラトゥストラ』の真理の水 これは何なのだろう?》

2017/02/20 01:16
瀬谷こけし


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 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の中に「真理の水」という言葉が(私の知る限り)二度出てくる。いずれも第一部の「三段の変化」と「純潔」の中でだ。その後者の方を紹介したい。

> 認識に生きる者が、真理の水のなかにはいるのをいとうのは、真理が汚らわしいときではなく、真理が浅いときである。

 認識をこととする者にも当然価値評価があって、彼も浅い真理を探究し認識したいとは思はないということだ。---これはこれで当然のこととしてよくわかることだが、しかしそもそも「真理の水」とは何なのだろう? 「水」はどんな風に「真理」とかかわるのだろう? 
 こんな疑問をもつのも、ヘルダーリンの「生の半ばに」(Hälfte des Lebens)という詩に、「お前ら〔白鳥たち〕は頭をくぐらせる/貴くも冷やかな水の中に」(川村次郎訳、岩波文庫、〔〕内は引用者の補足)という詩行があるからである。このヘルダーリンの白鳥たちが頭をくぐらせる水はどのような水かという問題にぜひともこだわりたいからだ。前にも言ったが、ヘルダーリンはここで「Tunkt ihr das Haupt / Ins heilichnüchterne Wasser」と記しているのだ。この白鳥たちが頭を浸す水も「真理の水」と言えるような性質を持っているのだろうか? ここにある覚醒や正気の水のその神聖な冷ややかさの正体は何なのだろう? それはニーチェが「真理の水」と言うときに感じていたものと共通するものではないのだろうか?

 ここでは問題を提起しておくだけにとどめよう。最後に上記の『ツァラトゥストラ』のドイツ語の原文を紹介しておく。

> Nicht, wenn die Wahrheit schmutzig ist, sondern wenn sie seicht ist, steigt der Erkennnende ungern in ihr Wasser.

「真理の水」は「ihr Wasser」であり、「ihr」が「真理」を受けるのは疑問の余地もないが、しかしこうして「ihr Wasser」と「ihr」を所有冠詞として使う使い方には、読み込むべきところがあるだろう。真理が持ち場としている場所をニーチェは「水」と名指しているのだろうか? そういういわば(ニュートラルで)「冷ややかな場所」なのだと。とすればヘルダーリンの白鳥が頭を浸す水と、共通性を感じておくことができるだろう。




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《ヘルダーリン1802年12月2日の手紙》

2017/02/09 11:30
瀬谷こけし


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 ヘルダーリンの1802年12月2日付のべーレンドルフ宛の手紙の最後の部分をみてみよう。ここでヘルダーリンはすぐに返信をくれと切望しているのだが、それはプシュケあるいは「われわれの思想の発生」についての非常にデリケートな事情を明らかにしてくれているように思う。
 まずはそこのところ、原文の紹介から。

≫ Schriebe doch nur mir bald. Ich brauche Deine reinen Töne. Die Psyche unter Freunden, das Entstehen des Gedankens im Gespräch und Brief ist Künstlern nötig. Sonst haben wir keinen für uns selbst, sondern er gehöret dem heiligen Bilde, das wir bilden. Lebe recht wohl!
Dein H.

 実を言えばこの文章の「Sonst」から始まる一文の意味が、わたしには今一歩よくつかみきれないのだ。この文中の「keinen」は「keinen Gedanken」のこととしか捉えようはなく、またその後の「er」も「Gedanken」を受けているとしか理解しようがない(男性名詞は他にはFreundしかない)。しかしそうなると、「sondern」の手前までは、《「友たちの間で分かちもたれる魂(Psyche)」や「対話や手紙の中での思想(Gedanke)の発生(Entstehen)」、---それは芸術家たちに必要なものなのだが、---それの他にはわたしたちはわたしたち自身のために何(の思想)ももっていないのだ》という文意になる。上記の「魂の共有」と「思想の発生」は、同じ事態のことを表現を変えて言っていると考えられ(「ist」と単数として受けている)、これこそが(芸術家にとって)極めて大事なことであり、この手紙のやり取りでもわたしが君に求めているものなのだ、ということである。ここまでのことは大変よくわかる。

 問題は「sondern」以下である。ここまでのことを極めて大事なこととして理解するとき、「sondern」以下の文はどういう意味をもつことになるだろう? 「sondern」は前文の否定語「keinen」に対比される。《われわれは「こうして発生した思想」をわれわれのものとしてもっているが、それ以外には(どんな思想も)ももっていない》と先に確認された。しかしここでヘルダーリンが「er(それ)」を使うとき、この「er」は厳密に「こうして発生したわれわれの思想」を受けていると取らねばならない。そして《こうして発生したわれわれの思想は神聖な像に属するのだ》と言われる。そしてさらに敷衍して「この神聖な像」は《われわれのかたちづくった》ものだと説かれる。「sondern」以後をまとめると《こうして発生したわれわれの思想は、まさにわれわれのかたちづくる神聖な像に属するのものなのだ》と訳せるだろう。神聖な像はこのようにしてわれわれによって形作られるのだというのである。対話において生まれる「魂」や「思想」がストレートに「神聖な像」の形成に結び付く。神聖な像の神聖さは、対話の中で生まれる泡立ちの泡の神聖さのように思える。---対話は、神聖を生み出す竈なのだと、ヘルダーリンの主張を語ってよいだろうか? 「生み出す竈(Entstehungsherd)」という語は、ニーチェの使う用語であるが。

 ともあれこの最後の部分、「er」の捉え方で混乱を導きやすいが、このように理解してヘルダーリンの考えと相違することはないだろう。そして、まったく外連味のない書き方をする彼の文章の性格とも相反することのない解釈となるだろう。

 最後にここのところの浅井健二郎の「ドイツの人々」(『ベンヤミン・コレクション3』ちくま文庫)の訳を紹介しておく。

≫ どうかすぐに便りをくれるように。君のうちから湧き出る純粋な響きを、ぼくは必要としている。友人同士のあいだに魂(プシュケ)が通うこと、会話や手紙のなかで思想が生まれ出ること、そういったものが芸術家には必要なのだ。それ以外にぼくたちは、自分自身のためのいかなる思想ももってはいない。そしてぼくたちの思想は、ぼくたちがかたちづくる神聖な像に捧げられるのだ。それじゃあ、お元気で! 君のH

 「捧げられる」という語にやや違和感を感じるところあるかもしれないが、ヘルダーリンが考えまた実践したことは、このようにまさに献身といえるような純粋な行為であっただろう。




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《ヘルダーリンの「生の半ば」》

2017/02/08 03:18
瀬谷こけし


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 わたしが30歳ぐらいのことだったと思う。生協の食堂で上田閑照先生をみつけて、少し話したことがある。わたしは最近ヘルダーリンの「Hälfte des Lebens」を読んで考えていると言ったつもりだったのだが、わたしは「Hälfte」の発音に自信がなく、よく通じないようだったので、ヘルダーリンの「命の半ば」を読んで考えていると言いなおしたのだった。
 先生は、人生の半ばを過ぎると、後は衰えてゆくばかりだ、という感慨を語られた。主に体力的なことを言っておられたようだが、また気力の衰えのようなことも含めて言ってらっしゃるように感じた。先生はわたしより二回り年上なので、そのころ55歳ぐらいだったことになる。それからのお仕事ぶりを拝見すれば、衰えどころか、さらに明晰に西田哲学の、あるいは禅の、本質を語ってゆかれるところにさしかかっていらしたはずだ。いわば命の半ば、命の頂点に到達されていたように思う。
 今わたしは再びヘルダーリンの「Hälfte des Lebens(生の半ば)」について少し論じたいと思っている。それはその詩の中の「heilichnüchternes Wasser」にこだわりたいからだ。この「heilichnüchternes Wasser」の中には「聖なる夜」というべきものがあって、それはアポロン的なものとディオニュソス的なものの両方を含むものではないか、と思うからだ。そしてそれはニーチェが「アポロン的なもの」「ディオニュソス的なもの」と概念化するとき取り逃がしていたものではないかと思えるからだ。あるいは言い換えれば、ヘルダーリンの言う詩人=バッコスの司祭とは、聖なる夜の覚醒的な本質を保ち続ける者のことではないかと思えるからだ。それはニーチェの語る「Rausch(陶酔)」とは微妙に違う。大変デリケートな概念化が要求されるが、それをやってゆきたい。




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《K's電気へ》

2017/02/08 02:10

瀬谷こけし


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 午後意を決してK's電気へ歩いて行った。こんな時期道を歩いている人などほとんどでいない。何ということもないのだが、ほんのちょっとのことで行倒れになる可能性だってある。ただの当たり前の午後なのだが。K's電気ではイヤホンを買った。1000円以内で、1,2mはあって、ウェストポーチに入れて持ち運べるもの。ちょうどこの条件に合うものがあった。

 それとハズキメガネがあって、試しているうちに、やっぱり使いやすそうで買ってしまった。大型のブルーライト対策のしてあるものは置きがなく、注文に一週間かかるということなので、あきらめて、普通の大型のものを買った。

 帰りも歩いて帰った。体力的にこれがいっぱいだった。あとはスープを飲んでパンを食べてバッファリンを飲んで寝ているだけ。これで体力の限界。咽喉の風邪から熱が出ているようだが、薬屋による気にもならなかった。あと、ヘルダーリンの1802年のベーレンドルフ宛の手紙。ベンヤミンが「ドイツの人々」で取り上げている手紙だが、それのドイツ語テキストをキンドルから作って、プリントした。プリントにしておくとずいぶん使いやすい。最後のところが読み切れない。けれんみのある書き方をする人ではないのだが、ここはやはりまっすぐな書き方というわけではないと思う。「自分たちの思想」の誕生する契機を、実に的確に捉えた文章だと思う。いずれ紹介したい。



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《Heilichnuechternes Wasser(ヘルダーリンの「生の半ば」の中の)》

2017/01/18 04:20
瀬谷こけし


[nüchtern]の語源についてWebのDudenは次のように言っている。
http://www.duden.de/rechtschreibung/nuechtern

[mittelhochdeutsch nüehter(n), althochdeutsch nuohturn, nuohtarnīn < lateinisch nocturnus = nächtlich, ursprünglich = vor dem Frühgottesdienst noch nichts gegessen habend]。語源説明は「朝の神の奉仕の前のまだ何も食べていない状態の」ぐらいに訳せるだろか? だが、ヘルダーリンの「Hälfte des Lebens」
http://www.teeweg.de/de/varia/hoelder/haelfte.html

の中の[ins heilichnüchterne Wasser]の[nüchtern]の意味を考えようとすると、「酔いの中にも神聖な正気があるように」という神への願いを読み取るのがよいと思うし、そうなるとその神聖をもたらす神の名は夜の神バッコス=ニュクテリオス(ディオニュソス)であると取るべきで、
そうなると、ヘルダーリンのこの祈願の源にはオヴィディウスの『恋愛指南』(Ars Amatoria)の567-568行目(Nycteliumque patrem nocturnaque sacra precare, /Ne iubeant capiti vina nocere tuo.)があったと理解すべきではないだろうか(岩波文庫p.40)? 酒の酔いと接吻の酔いが変わっただけで、その酔いが正気を妨げないように、という祈願だ。

異論のある方はお知らせいただければ幸いです。


 ヘルダーリンの「生の半ばに」の原文は以下です。

HÄLFTE DES LEBENS

Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
Ihr holden Schwäne,
Und trunken von Küssen
Tunkt ihr das Haupt
Ins heilignüchterne Wasser.

Weh mir, wo nehm ich, wenn
Es Winter ist, die Blumen, und wo
Den Sonnenschein,
Und Schatten der Erde?
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen.


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《女青(かはねぐさ)》

2015/05/27 00:40
瀬谷こけし
 久しぶりに原っぱに行った。はじめは何も目に入らなかったが、そのうち、今までもったことのない視覚が生まれてきた。三脚をつけて撮っていたのがよかったのかもしれない。D7100にシグマの標準系ズーム(17-70mm)で三脚をつけて撮るひとも多くないと思うが、撮れたのは三脚なしでは撮れない写真ばかりだ。撮りながら浮かんで来たのが山中智恵子の:

> 女青(かはねぐさ)水に伏したり生くる日の限りにありて対(むか)ふこころを
     「虚空日月 二の抄」

の歌だ。ヘルダーリンの〈das heilichnüchterne Wasser〉(「生の半ば」(Hälfte des Lebens))が気になっていたからかもしれない。〈Nüchtern〉(ニュヒテルン)という概念。水がなぜ神聖なのか? 素っ気ないものだからか? 多分ひとつには水は恋をしないからだ。醒ましてくれるもの。水に首を沈めるヘルダーリンの白鳥とロベルト・シューマンの水想の思いとを繋ぐものの間に山中智恵子の女青(かはねぐさ; 「かはほね」とも記す)が入って来る(1)。原っぱにカワホネグサがあったわけではない。わたしの頭の中で響いていたのはむしろ歌の後半、〈生くる日の限りにありて対(むか)ふこころを〉の方だ。もちろん、原っぱの草たちがどれも女青に見えたからだが。
 葛はもうすでに今年の絡みを始めていた。すさまじい絡み。ほとんどギャングを思わせる。原っぱのギャングスター。今年の格闘はすでに始まっている。

註(1) http://blogs.yahoo.co.jp/nametokogenmai3gou/41622227.htmlを参照。


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タイトル 日 時
詩人
詩人  「パンと葡萄酒」の中でヘルダーリンが語る詩人像は、わたしにはこれこそまことの詩人と思えるものだ。そこのところ、川村二郎の訳で紹介するとこうだ。 ...続きを見る

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2013/12/19 01:36
《乏しい時代の詩人》: ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」1
《乏しい時代の詩人》: ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」1  まずは抜き書きからはじめよう。 ...続きを見る

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2013/08/01 23:07
ヘルダーリンの「メノンのディオティーマ哀歌」5
ヘルダーリンの「メノンのディオティーマ哀歌」5 ヘルダーリンの「メノンのディオティーマ哀歌」5の原典と川村二郎氏の標準的な日本語訳とわたしの試訳、そして若干の註解です。 ...続きを見る

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2012/12/02 21:46
秋草抄 その三
秋草抄 その三 これからヘルダーリンに取り掛かる。 その前に《秋草抄 その三》を。 ...続きを見る

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2012/12/02 10:27
今しも夜が明ける
今しも夜が明ける  朝の一時、窓から陽の光が入りはじめる時がある。今日は8時前だった。このごろは、比叡山の上から陽が射して来るので、山の上に乗る雲の厚さによって、その時は違うが、今日も陽が射して来た。  室内はこの時に一気に温度が上がる。あまり上がらないようにと、カーテンを広げる。クーラーを点ける時もある。  今日は、見ると雲や光のさまが特別だった。それで写真を撮りに二階に上がったが。 ...続きを見る

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2012/08/05 08:52
試訳 ヘルダーリン:「短さ」(Die Kuerze) 1798年
試訳 ヘルダーリン:「短さ」(Die Kuerze) 1798年   短さ ...続きを見る

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2010/08/23 01:43
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『ヘルダーリン詩集』川村二郎訳、岩波文庫 書評というよりは、本と詩人の紹介になるのだろう。ともかく以下がそれだ。 ...続きを見る

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2010/01/17 00:44
ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」最終行 (承前)
ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」最終行 (承前) ヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」の最終行はこうである: ...続きを見る

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2009/11/03 23:28
ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」 “Brot und Wein” von Hoelderlin
ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」 “Brot und Wein” von Hoelderlin ヘルダーリンの詩の朗読CDが手に入った。朗読はBruno Ganz。正確な韻律で読んでいるものと思う。 エレギー、とかオーデとか。 自分の思っていた読み方とずいぶん違うので、驚くと同時に、ヘルダーリンの詩が普通の詩人の詩とまったく別物なのだということがわかる。 ほとんど呪詛に聞こえるのだ。多くのドイツ人にとってもそうなのだと思う。 「〜はどこにある、〜はどこにある」、などということを本気で真っ正面から疑問にして問うているのだから。 たとえばあの(ギリシアの)玉座や神殿はどこにある、... ...続きを見る

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2009/11/03 19:31

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