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みんなの「ドイツ語」ブログ


《ドイツ語の授業 ヘルマン・ヘッセ 三回目》

2017/04/27 00:59
瀬谷こけし

今日は同志社のドイツ語の授業、今年度三回目。「応用」の方の授業は、早速二回目の読解になった。テキストとして読んでいるヘルマン・ヘッセの「樹々」というエッセーに次のような言葉があった。

>Wer mit ihnen(=Bäumen) zu sprechen, wer ihnen zuzuhören weiß, der erfährt die Wahrheit.

「樹々と語り合うことのできるひと、樹々の語りに耳を傾けることのできるひと、そういうひとはほんとうのことを学び知ることができるのだ」
とういぐらいに訳せるだろうか。樹々は「生きることの根本的な掟」(das Urgesetz des Lebens)を説いてくれるのだとヘッセは言う。

 わたしも数年前に、樹々ではなく空き地の雑草たちだが、三年間通い続けて、彼らからそんなこと、「生きることの根本的な掟」を学び取らせてもらったことがある、と感じている。そうして一度写真の個展を開き、そして『むろのつ』21号に、「地域学のすすめ---草木虫魚悉皆成仏」を書かせてもらったのだった。

 「生の根本法則」、それは仏教的に表現すれば無明ということではないのか? おのおのの生がおのれの内には神があって、(その神の与える)おのれの課題は神聖だと信じること、このことこそ無明なのではないか? ここでヘッセは「神」を無冠詞で使っている、とはいえ(*)。文脈を考えればこの「神」は、「わたしの神」(mein Gott)と呼ぶべきものなのだ。「わたしの神を信じるエゴイズム」これこそ無明な生そのものなのだ。

 仏教は、無明の自覚こそ、覚醒への第一歩だと言い、そしてまたヘッセも、その方向に思考を進めてゆくのではあろうが。


 ともあれここでヘッセはそれを真実(die Wahrheit)と呼んでいる。樹々にも人にも共通する生の無明という根本法則を。





注*
そこのところの原文を紹介しておく。
>Ich vertraue, daß Gott in mir ist. Ich vertraue, meine Aufgabe heilich ist. Aus diesem Vertrauen lebe ich.
(Hermann Hesse, Bäume, Insel Taschenbuch 455, S. 11)




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《「ドイツ語応用」》

2017/04/13 02:34
瀬谷こけし

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吉島家(高山市)の楢の木


 今年は「ドイツ語応用」の授業を担当させてもらえてどんな学生が受講してくれるかと期待していたのだが、受講の動機を書いてもらうと、「時間の都合で取りやすい」とか「卒業単位に必要なので」とか書いてくる学生が多く、少し気落ちしていた。ヘルマン・ヘッセの『樹木』というエッセーと詩をまとめたものを教材に使う読解中心の授業にしたのだが。それでも受講動機を読んでいると、「読解重点の講義を受けたかった」とか「ドイツ文学を読むことで文学自体の理解を深めたい」とか、「ドイツ文学に興味があって」などと言ってくれる学生もあって、気を取り直している。ほんとはゲーテを読ませてみようと思って教材を探していたのだが、そもそも文学を読ませる教材が最近はほとんどなく、ゲーテですらほぼゼロなのだ。結局、前から時々使っているヘッセのものをまた使うことにしたが、ドイツ文学、ドイツ思想について包括的な視野を得るためには、それはゲーテの方がよく、ゲーテこそが最良ではないかと思う。エッカーマンの『ゲーテとの対話』からいくつかを選んだものがあればそれにしたいと思っていたが。
 ともあれ、この授業に取り組んでくれる学生がいてくれたことをありがたいと思ってやってゆきたい。
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《ドイツ語の歌》

2017/01/23 18:15
瀬谷こけし

 最近のわたしのお気に入りのアルバムはウド・リンデンベルクの『UNPLUGGED』なのだが、この中には「人生(Das Leben)」のような非常に重要な思想を歌うもがもあり、これについては歌詞を調べて自分で訳して誤解が少ないように努力をした。だがそのほかの曲については歌詞を調べて訳するような努力をしていない。中にはきちんと理解したいと思う曲も多い。福島原発事故を歌った「No Future」とか、なぜ戦争が現に存在しているのかを問う「Wozu sind Kriege da」とか、もうお前を愛していないと否定的な内容を歌う「Ich liebe dich überhaupt nicht mehr」がなぜ大人気なのかなど、その話の内容をきちんと理解したいと思うものがあるのだが、まだ歌詞を調べようともしていない。もっともこのライブ・アルバムには歌詞がついていないので、調べようとするとちょっと手間がかかる、ということもある。ともあれ調べることもせず何度も聞いている。そして、ある時耳にある短い文句が残って、それを頭の中でむすびつけて、そういうことなのかと納得したりしている。「戦争」については、「まだ子供だから」ということが彼の出した結論なのかと考えたり、「福島原発事故」に関しては、「歌うしかない」というのが彼の結論なのかと考えたりしている。だがこうした理解は、実に怪しい。いわばわたしが勝手に妄想しているというレベルの納得で、公の場で紹介できるような理解ではない。しかしわたしは、そのような妄想レベルの納得を結構楽しんでいるのだ。外国語の歌の楽しみ方には、そのような妄想的なところがあるのではないか? あってもよいのではないか? もちろん歌詞を調べ訳してみるなどの努力をしてひとに一応は紹介できるようなレベルの理解とははっきりと違うものだとわきまえているつもりだが。---そういえばムスタキの「私の孤独」とか「ジョゼフ」とかも、きちんとした理解ができないまま、好んでいた曲だった。---そういうものたちも、妄想なら妄想なりにわたしに詩想や、場合によったら思想も、与えてくれていると思う。






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《西洞院通りの豆腐売り》

2016/12/29 00:44
瀬谷こけし

今日初雪
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 今日は今年の授業の最終日だった。もう一歩物足りなさが残ったが、そこは来年一月の授業で補えるだろう。つまり、ブルーノ・ガンツ(Bruno Ganz)朗読のヘルダーリン(Hölderlin)の「Vom Abgrund nämlich」を「r」音の聞き取りの練習のために学生に聞かせて、相当に学生の聞き取り力向上のためのヒントを与えることができたと思っているが、本当は後でドイツ語のテキストを配布した上でもう一度聞き取りをさせたいところだった。CDで喉彦振動音で「r」を発音しているところは、ほとんど全部私もその場で再現して、聞き取りに資したつもりだが、喉彦振動させない「r」字の確認練習ができなかった。例えばGanzは「Erde」の「r」はそういう発音をしない等々。他にももっとよい対応ができたはずだと思うところが残った。
 そんな幾つかの足りなさの残った日だったが、ちょっと嬉しいこともあった。それは西洞院通りを歩いていて、自転車で小さめのリヤカーを引いてゴム球式の昔ながらのラッパを鳴らしながらの豆腐売りを見かけたことだ。子供のころにはよく聞いていたこの音。「トープー、トプー、トプー」というあの鳴らし方はその時はしていなくて、「お報せ」の「プー、プー」という音だけだったが、ほんとうは「トプー、トプー」もやりたがっている雰囲気だった。年齢も60歳を過ぎているひとだったと思うが、変わらず元気にこの昔ながらの移動販売を続けているところが、何かとてもうれしい気持ちにさせてくれた。こういうところはさすが京都と思う。



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《ゲーテとベルリン》

2016/10/31 13:10
瀬谷こけし
ベルリン シャルロッテンブルク城の前
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 (同じく)1823年12月4日の『対話』の中でゲーテはベルリンについてこう語っている。これはわたしには少なからず驚くことだ。

> Es lebt aber, wie ich an allem merke, dort ein so verwegener Menschenschlag beisammen, daß man mit der Delikatesse nicht weit reicht, sondern daß man Haare auf den Zähnen haben und mitunter etwas grob sein muß, um sich über Wasser zu halten.(下線強調は引用者)


 ここのところ。キンドル版の訳を紹介しておく。

> 私の見るところによると、総じてあそこには向こう見ずな連中がより多く集まっている。それでお上品なだけでは暮らしてゆけないんだ。安全に暮らそうと思えば、時には粗野にさえ振る舞わなければならないんだよ。(下線強調は引用者)


 このゲーテの発言は、ツェルターについての意見を求められたときエッカーマンが、ただ「気持ちのよい性格のひとだ」(das durchaus Wohltätige seiner Persönlichkeit)と、あまりはかばかしいことを言わなかったことに対して、ゲーテが補足しつつ、彼(ツェルター)の多少武骨(derb)で粗野(roh)なところを弁護するような形で語っているところだ。実際その前の部分ではツェルターの振る舞いがやや厚かましくみえるように叙述されているのだ。

 ゲーテはまず、ベルリンには大胆な(向こう見ずな)種族の人間が集まっている、と彼のまず第一に注意している点を語っている。わたしはこの指摘が、ゲーテの並々ならぬ感受性を示していると思う。ベルリンとは、今もそういう街ではないだろうか? また、例えばウド・リンデンベルク(Udo Lindenberg) の傑作「ヘルミーネ」(Hermine)を聴いても、ベルリンの街のその性格が顕著に示されているように思う。

 そういう町で生活してゆくとなると、万事につけそういう連中との付き合いが重要になり、「Delikatesse」(繊細な感覚)だけでは出世してゆけない。
 そして「歯の上に髪を乗せて」(Haare auf den Zähnen haben)(激しい自己主張をこととして)、そして時々いささか粗野にならなければならない。そうでないと、自分の身を水の上方に保っておくこと(sich über Wasser zu halten)ができないのだ。つまり、川の中に投げ込まれるはめになる、と言う。
 ベルリンではご用心をということであるが、長いことベルリンにいて多少とも出世しようと思うなら、どうしても自分を粗野にしなければならないのであり、そういうことを理解しておけばツェルターという人間は、いささか武骨で粗野であっても同時に脆弱繊細(zart)でもある、とても稀有な人間なのだ、というのである。
 ゲーテの、大変デリケートな広範にわたる知識をもち、繊細でありつつ寛容で、きわめて大きな包容力のある人柄を如実に示すエピソードであろう。









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《ゲーテの詩の巧みさ HEIDENROESLEIN》

2016/10/13 23:39
瀬谷こけし
Morgenschön !
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20.8.2016, InTautenburg.




 初回の授業で「ドイツには朝がある」などという途方もないことを言ってしまったので、そしてその際その考えを補強すべくゲーテの「morgenschön」という造語のことを説明したので、昨日の授業でその語の出てくるゲーテの詩を短くだが紹介することにした。知る人はみな知っているようなことだが、その詩は「野ばら」。シューベルトの曲などで知っている人も多いはずの詩だ。目的がドイツの「朝」のイメージのことだったので、紹介したのは第一聯だけだ。それが以下だ:


HEIDENRÖSLEIN

Sah ein Knab’ ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah’s mit vielen Freuden,
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

 詩の分類で言えばこの詩はバラードに属するだろう。詩節の最後にリフレーンがつくし、内容は物語的な語りになっている。
 改めて読んで、ゲーテの巧みさに目を開かされた。それはここだ:

>War so jung und morgenschön,

少年が荒れた野原のなかでかわいいバラの花をみつけて駆け寄ってゆき、その発見、出会いをよろこぶという話の中の「それがこんなにも若く、朝の瑞々しい美しさだったので…」というところだ。ここでゲーテは「so」を入れている。この「so」はもちろん暗黙の「so…daß」の構文の力で次行の「Lief」以下を因果的につなぎ、引き寄せているのだが、しかしそれ以上にこの「so」は、「こんなにも」と、かわいい野ばらをみつけた少年の経験の現場に、否応なく読者のこころも巻き込んでしまう措辞なのだ。こんなにも若く朝のように瑞々しく美しいバラをみつけたその現場に。この三連からなる「野ばら」の詩の中で、読者がこのバラードの物語のなかで心を着け、共感すべき場所はまさにこの場所、一本の小さなバラが「かくも若く、朝のごとくに瑞々しく美しく咲いている」というところなのだ。「so」(=こんなに、かくも)と言われても、それがどんなかということを、読者は(この)少年のように視覚によって共感することはできず、ただゲーテの言葉によって、なるほどそんなに瑞々しくまた美しかったのだな、と共感し、納得するしかないのである。

 わが国の歌論において、ダメな和歌の分類項目のひとつに「無着心所」とういものがある。歌のどこにも心を寄せられる場所のない歌のことだ。ゲーテのこの詩では、まさに心を着けるべき場所が提示されており、それが「War so jung und morgenschön」というここのところなのだ。

 バラードにおいても、あるいはまさにバラードだからこそ、心の着けどころを、さりげなく、しかしきちんと示しておかなければならない。それを、軽々とやって見せるゲーテの言葉の能力には、やはり感心するほかない。そして、「morgenschön」という、ドイツの風土のなかでこそ強く共感される朝(Morgen)の光の力強く、花たちの新鮮で瑞々しい美しさを引き立たせる言葉を発明するゲーテの、感覚と言葉を総合する力にも驚嘆するほかない。ドイツには朝がある、ということを、「Guten Morgen!」という挨拶言葉とともに心に留めておいてほしい。




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《ヴィスコンティの「仕事中」》

2016/07/20 14:17
瀬谷こけし

 『ボッカチオ'70』というオムニバス作品の中の一つだが、ロミー・シュナイダー主演の伯爵夫人が夫とのセックスを「セックスというお仕事」にする悲しみがテーマという上野千鶴子好みの作品。それはそれでいいのだが、シュナイダーのドイツ語とイタリア語の使い分けがとても面白い。夫の伯爵はドイツ語が分からないという設定になっている。逆に執事の一人とはドイツ語が通じる。
 だが夫の伯爵はフランス語はできるようだ。読んでいる小説がロブ=グリエの『消しゴム』(当時の最新のフランス小説)だというところがもう一つ面白いところだが、映画の内容と『消しゴム』の内容とが交差しないところが、いまいちと言えばいまいち。ロブ=グリエの小説こそ表面をなぞる視線の繰り返しの無限性という(バロック的な)恐ろしさを現代化したものに思えるが、その点から見ればヴィスコンティはまだ「人間的」な作家かもしれない。
(この記事は2016年7月15日にfacebookに掲載したものです)






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愚人 …… Verschwender mit tausend Haenden

2007/08/17 13:40
愚人 Verschwender mit tausend Händen

瀬谷こけし
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』第四部の「蜜の供え物」のなかにこの「Verschwender mit tausend Händen」という言葉は出てくる。わたしの気に入りの言葉だ。ツァラトゥストラが自分のことをそう自称しているのである。「千の手を持つ浪費家」というような意味だ。

>いったい何を供えるというのだ! わたしはこの身に贈られたものを惜しみなく使ってしまう。わたしは千の手を持つ浪費家だ。どうしてこのわたしがいまさら---供え物を捧げるなどと言える柄だろう!  (氷上英廣訳、岩波文庫)
>>Was opfern! Ich verschwende, was mir geschenkt wird, ich Verschwender mit tausend Händen: wie dürfte ich Das noch --- Opfern heissen! (KSA)

「千の手を持つ浪費家」という訳語の「千の手を持つ」のところは動かない。どう訳し変えても大差がでないだろう。それで、わたしが問いたいのはこの"Verschwender"の方のことなのだ。それを「愚人」とは訳せないだろうか?

まずは"verschwenden"という動詞から考えないといけない。この"verschwenden"という動詞に対して、『フロイデ独和辞典』は「浪費する、無駄遣いする、惜しげもなく注ぎ込む」という訳語を上げている。これらの訳語で、上記の引用の "Ich verschwende"の"verschwende"の語義はほぼ尽されているだろう。まずはこれ以上問うことがあるようには見えないのだが、しかしこれらの訳語に対してなお疑問を呈するとすれば、それはその「浪費行為」の源になっている経験はどのような行為なのだろうかという疑問にこれらの訳語は答えてくれないことである。どういうタイプの「無駄」が考えられているのかという疑問である。

この疑問に答えるためには、"verschwenden"という語から、前綴り"ver-"取り除いた"schwenden"という語から考えてゆくことが必要だろう。それで"schwenden"を調べようとすると前出の『フロイデ独和辞典』には、この語は見出しに載っていない。代ってわれわれはその近くに"Schwende"という名詞を見出すのである。"Schwende"とは「(森を焼いてつくった)開墾地、焼き畑」という意味だという。ちなみにもう少し大きな『独和大辞典』を見ると"schwenden"という動詞の方も出ていて、「(特に森林を焼いて)開墾する」という語義が載っている。「森林を焼いて開墾地を作る」という行為が、"schwenden"と"verschwenden"の源にある行為に違いない。そうすると、おおむね「錯誤」を意味する"ver-"という前綴りをつけた"verschwenden"の語は、おそらく森を焼いてせっかく開墾地を拓いたにもかかわらず、その開墾地が利用されないままになってしまうというような経験、あるいは、苦労してやったものの、森を大きく焼き過ぎてしまった、というような経験をもともとの経験として持っている語なのであろう。
こうした経験は、ある種の愚かさと言いうるものではないだろうか?

ちなみに、『グリムのドイツ語辞典』では"schwenden"の中高ドイツ語の語義のひとつを、"etwas zerstören, besonders durch feuer"(何かを破壊すること、とりわけ火によって)と説明している。"Verschwenden" の"überreichlich spenden"(大いに惜しみなく与える)、とか"hingeben"(献身する)というような語義は、この言葉の歴史の中で、大いに穏やかになり、精製された語義なのであろう。その源には、やはりおそろしい愚かさがあるように見えるのである。

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