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zoom RSS テーマ「飛騨学」のブログ記事

みんなの「飛騨学」ブログ


《橋本繁蔵》

2017/06/30 01:15
瀬谷こけし

 わたしが、飛騨人の生活と文化を読み取るための窓口として、橋本繁蔵さんに教わったことを最も深い手掛かりにしている、ということは何度も語ってきたことだ。実際2001年から、2011年まで11年間、毎年繁蔵さんにクマ狩りに同行させてもらってきた。そしてそのクマ狩りの期間(決して長くはないが)、毎晩繁蔵さんの家に寝泊まりさせてもらってきた。そして食事も三食とも一緒だ。
 そういう風にしてクマ狩り期間の中の何日かを繁蔵さんと一緒に過ごしてきた。その間に教えてもらってきたことはとてもたやすく語れるようなことではない。民俗にも、言葉にも、繁蔵さん自身の生い立ちにも関わることだ。その間、橋本さんの技や読み取りのの数々について、繁蔵さんの技の卓越については何一つ疑問を抱くようなところはなかった。男の中の男、猟師の中の猟師と呼ぶべき人物だった。
 その間一度だけトラブルがあって、関係が悪くなったことがあった。それは、狩りからの帰り、繁蔵さんが往復に使ったわたしの車(スカイライン)のなかで煙草を吸おうとして、わたしがそれを拒否したことだった。---その事件に含まれている問題については、科研費補助金による研究の報告書の中で書いた。『東アジアにおける人と自然の対抗/親和の諸関係にかんする宗教民俗学的研究』(課題番号 16320011)の中の「飛騨の熊猟から人間と自然の関係を見る」という報告書のことだ。その中でわたしは熊狩りにおけるリーダーの権力はクマ狩りをする山中においては絶対的なものであっても、平地での生活では制限を行う必要がある、という論点を提示したのであった。この論点はこれまで正しく提出されたことがなかったとわたしは考えている。
 その後、この報告論文を書いたこと、そしてわたしの方から和解のしるしのプレゼントをしたことで、わたしと繁蔵さんとの関係は修復された(繁蔵さんはその報告書を大いに喜び、もう一冊姉にもくれとわたしに求めた)。
 だが今ここで語っておきたいのはもう一つのことだ。それは2011年2月に以後修復されることなく橋本さんとの関係が絶たれた理由のことだ。もう猟期も最後になろうという日の夜わたしは繁蔵さんに、飛騨での学問の分野で一番信頼しているのは誰だ、と問われた。わたしは何のためらいもなくある先生の名を上げた。その方の名前も、人物も、評判も知っていて、その人物で間違いないと繁蔵さんは言った。そしてその人物を自分は信用しない、と言った。---繁蔵さんがその人物をほんとうに直接知っていたのかどうか、そして何をもとにその不信感を懐いたのか、その辺のことをわたしは突き止めることができていない。あるいは猟師仲間からの風評にすぎない事だったかもしれない。あるいは実際上の細かな利権に関する問題かもしれない。だから何をもって繁蔵さんはその方への不信をぬぐい難くしたのかを知らない。だが、そのことに関してもう議論の余地はなかった。
 わたしはその時その晩、すべての荷物をまとめて繁蔵さんの家を出て、妻の実家の方に泊めてもらうようにする他はなかった。これまでの恩義に対して礼を言って、わたしは橋本邸を後にした。それ以後、彼に家に行ったことは一度もない。
 それからニ三年ほどして、彼の訃報を聞いた。わたしは京都から車を走らせて彼の葬儀に参加した。


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《ゴミとゴミ箱、そして一燈》

2016/10/01 23:30
瀬谷こけし
 ゴミがある。ゴミ箱が要る。それはよくわかる。
ゴミがいる。ゴミ箱がいる。しかしそれは必要なのか?
わたしは疑問に思う。
むしろ必要なのは一燈をともし続ける人だ。
だからわたしはゴミ箱人間は必要ないと思う。
わたしは、西村宏一という一燈を灯し続けたひとりのひとの縁で飛騨学をはじめた。
人間に関してはゴミ箱は不要だと思う。
そしてわたしが思うのは、私自身がひとつの燈でありたいということだ。それ以外のことは何もない。
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《獅子の視線を読む》

2015/10/29 22:39
瀬谷こけし
村山軍鳳、「狂い獅子」の中の車噛みの獅子*
(秋の高山祭・豊明台 下段正面)
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 秋の高山祭(八幡祭)豊明台の獅子(下段正面、村山軍鳳作)。御所車の車輪に噛み付くという意匠も斬新で面白いが、それ以上にこの獅子の語っていることを読み取りたいと思う。しかしどう見ればよいのか? カメラはそのひとつの方法を教えてくれる。獅子の右目の視線は、2枚目の写真の位置で真直ぐ合っているだろう。しかし左目は、上目使いになっているがそれでも合っていない。3枚目の写真は、この位置で両目の視線がこのカメラ位置でまずまず合う。顔の表情もこの位置で鑑賞し、解釈すべきだろう。目によって像が心を語る位置があるのだ。そしてその位置は相当に狭い。この位置からは、車輪に噛み付く獅子の本心が読み取れるようだ。ここでも少し上目使いになり、目を向ける相手を、自分より多少とも高い存在として、おのれの心を語りたい存在にしているようだ。その者の言うことなら聴こう、という姿勢。この獅子にとっては、親獅子のいた位置かもしれない。きっとそのような存在だ。そのような者の位置を像の視線は極めて精密に設計している。谷口与鹿の「(八幡祭)鳳凰台」の「舌なめ獅子」は、(村山作品より)より深く強く烈しい存在にとっての視線の(向け先の)設計をしている。そこには他に何かを求める弱さは寸部もない。油断のない睨みをあたりに広く強く放散しているが。さらに一点、ぴたっとまなざしを向ける位置をもっている。そこに在るべき相手は誰か? 与鹿の作る獅子には、その児獅子にすら弱さはない。
 まずは軍鳳作品の写真3枚から。わたしはカメラを以って、彫り物のこういう読み取りをしている。



*注: この彫刻の作者や呼び名について、確実な情報を持たないが、長倉三朗著『高山屋台雑考』(pp.107-109)に従って、「村山軍鳳:作の「狂い獅子」と理解しておく。「車噛みの獅子」という呼び方は、多数の「狂い獅子」の中でこの獅子を特定して呼ぶために私が名づけたものである。そう呼ぶ慣例があるというわけではない。与鹿の獅子像についても「舌なめ獅子」という呼び方が定着しているわけではないが、像を特定して指すためにさしあたりこの呼び名を使う。許されよ。


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《高山紅葉》

2015/10/24 00:14
瀬谷こけし
 きのうは午前中幕末・明治の日記を読むという講座を受けて、夜は遅くまであんらく亭で友人たちと飲んでいた。今日は、昨日あれほど飲んだ割には調子が悪くなかった。それで今日は欲しかった電気製品を買いに行った。まずはヘアードライヤー。これからは風呂やシャワーの後に欠かせないから、どうしても欲しかった。他は無くてはならないと言うほどではないが、いくつか買った。オーブントースター、T-falの湯沸し。それからもうひとつおまけに買ったのがハンディーマッサージャー。店で試して肩に当ててみると、結構効きそうだったから。今日はほんとは辺地廃村を回ってみたかったのだが、朝早く起きれなかったのでそれは諦めた。明日は城についての講演会が図書館であるので、聴講に行くつもり。
 高山でも紅葉が始まっていて、しかし紅葉もせずに枯れてゆく葉も多い。
 この色合い、そして頂の尖りの角度など、どこか祭りの屋台の造形とも共通している気がしている。高山にいるとしきりと津軽がなつかしくなる。紅葉の色も、ネブタ・ネプタの賑わいも。高山で最近進んでいる番所の研究、隣地とのものの出入りの研究は、「差異をもって外と関係する飛騨的な力の研究」という私の飛騨学についての定義と同じ方向の研究にみえ、とても心強い。私に何ができるか、何をするか、ぼちぼち決めてゆかなければならない。


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《鷹の湯》

2015/01/18 08:08
瀬谷こけし

鷹の湯(高山市)
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この銭湯入口の下足棚に背の高い段がある。
雪の中を歩いて長靴で来る人が多いのだ。
冬用に段を外しているのだと思うが。

 高山生活二日目の昨日、夜銭湯に行った。宗猷寺の向かいにあるところ。大新町の自宅の風呂が壊れていて、まだ修理していないからだが、夜の9時に家を出て、風呂から出たのが10時20分だった。歩いて行ったわけではなく近所で止めさせてもらている車で。
 午前中は二時間ほど溝の雪さらいをやった。やっていると近所の男性も出てきてくれて、三人がかりでやって、下の太い水管のあるところまで流れるようになった。流れ出すときはものずごい速い流れになる。そうして流れが回復すると今度は別のところからもこの溝に雪を流しに来て、全体道の雪が早く消える。みんな流す要領はよく知っていて、多くを流しすぎて詰まらせるようなことはしない。おかげで夜中に風呂から帰ってきた時にも溝の水はよどみなく流れていた。午後は全室に掃除機をかけて、それから窓や扉のすべての可動部に油差しをした。それから食事と買出しに行った。そして帰ってからは寝る部屋の窓にプチプチを貼った。カーテンはまだない。風呂に行ったのはそのプチプチ貼りが一段落してから。古い中古住宅を住める家にしてゆくには随分手がかかる。お金もかかる。はじめは布団もなしで泊まれるか不安があったが、-25℃対応の冬山用寝袋はまだ随分余裕があった。折角この時期高山に来ていて、山の中に入らないで帰るのは残念だが、ここで住むための手順は少しずつ見えてきた。---雪かき用のシャベルも買った。表札も出さなくては。

鷹の湯の情報は:
http://hidakankocompany.com/hidatakayamacity/sento/sentokobetu/takanoyu.html
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先日義父の一周忌の法要をした

2009/12/22 05:28
瀬谷こけし
先日義父の一周忌の法要をした。

義父が亡くなって、
わたしは大きな支えを失った。
生活のことでもそうだし、
また飛騨学のことでもそうだ。

義父に対して、わたしは
安心してものをたずね、
そして間違えのない答えを得ることができた。
飛騨のこと、飛騨の山中での生活のこと。
雪山の中で、どうして枯れた木を見分けられるのか、とか。
橋本繁蔵さんが、難無く枯れた木を見つけ、そして薪にしているので、その秘訣を知りたかったのだ。
木の裏側を見るのだと義父は言った。

義父が亡くなって、わたしは知恵袋を失った。

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飛騨が終わる

2009/02/17 09:12
瀬谷こけし
飛騨が終わる。そんな予感がする。よそ者の単なる感傷に過ぎないのかもしれないが。冬に雪のない飛騨、そんなものは飛騨でない気がする。
 白川村の尾神に育った義父の話を聞きたかった。だが結局それをしなかった。なぜしなかったのか? よく考えると、彼の人生を民俗誌にしたくなかったからだ。そんな気がする。ひとつの民俗誌のようなものには。彼はいまや数少ない昔ながらの飛騨びとであったと思う。柳田国男が明治の末の旅の途中、白川村で出会った飛騨びとのような。
 飛騨びとについてわたしにはこんなイメージがある。谷底のわずかな平らのなかに小さな家を建て、そこにへばりつくようにして暮らしている人々。そこにねばり強く、決してくじけることなく、生を営んできた……。(もっとも飛騨地方には大きな家も少なくはないのだが……)
 だが高山はそうではない。高山は別だ。高山は都会だ。大都会だ。そこには旦那衆がいる。そしていろんな楽しみがある。娯楽があり遊興がある。苦しさを忘れることができる。高山にいると、それだけでひとは「飛騨」を忘れる。忘れてしまうのだ。
 
 飛騨は雪国だ。意外に思う人がいるかもしれないが、実は雪国なのだ。その上標高が高い。雪国で、そして山国なのだ。たとえば六厩(むまい)でひとは標高千メートルを越える厳しさのなかで暮らしてきた。飛騨を知るためにはひとは雪の季節に訪れなければならない。たとえば車で、雪道の中を走り続けなければならない。雪の中でしか見えない飛騨がある。
 「飛騨に生きる人々と技」を新聞に連載していたころ、わたしは何度も雪の西ウレ峠を越えた。夜になることが多かった。真夜中を過ぎて越えることもあった。出会う車もなく、追い越してゆく車もない。減速の加減をあやまりハンドルを取られてしまったらそれだけで命が危なくなる。止まって動けなくなっても暖がとれるように、ガソリンはできるだけいっぱい積んでゆく。飛騨の峠道には、そして飛騨に入る峠道にも、死のけはいがいつもただよっているのだ。夜に、道が凍結しているかもしれない時刻に峠を走ることは、無謀なことなのだが、だがそれが避けられないこともある。雪道の中、行き倒れになったひとの思いが身近に感じられるのはそういう時だ。その無念の思いがこころに届く。行き倒れの話はきっと飛騨の各地に伝えられているだろう。

 だがそんな飛騨の姿も、このまま温暖化が進み、雪の降らない冬が続けばきっと昔話になってしまうことだろう。飛騨びとはずっと雪のきびしさと戦ってきた。谷底に雪に埋もれているような家も、平屋で、小さくとも、丈夫に造られているものだ。飛騨の家々は飛騨びとの姿をそのまま示している。しかし、そんな飛騨びとの姿も、温暖化とともにすっかり消え去ってしまうかもしれない。飛騨が終わる。わたしがそんなことを予感するのも、当然のことかもしれない。だが、だからこそ今飛騨学を興したい。ねばり強く、決してくじけることのない飛騨びとの姿を、書きとどめておきたいのだ。どこかに、義父の思い出とともに。
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「軽岡峠はえらかった」 飛騨を愛する

2007/11/17 10:33
瀬谷こけし
 「軽岡峠はえらかった」という言葉を義父から聞いたのはもう七、八年も前のことだ。軽岡峠は飛騨の荘白川方面から高山へと向かう三つの峠の一つで、荘白川に一番近い方のものだ。昔は辞表峠(辞職峠?)と呼ばれたものだということを高山の人から何回か聞かされた。高山から教員の辞令をもらって荘白川に赴任してゆくひとが、この三つめの峠にかかると心細さを通り越し、辞表を書いて職務をあきらめた、ということだという。よほどさびしいことだったとみえる。若い新任の先生であれば、そのさびしさは並み大抵のことではなかったのだろう*。似たような話は青森でも聞いたことがあって、弘前大学の教育学部を出たばかりの人が、下北半島の寒村の小中学校の教諭に任ぜられたとき、赴くか辞めるか悩むということを聞く。新採用の教員はそういうところに任ぜられることが多いという。あえて言えば「僻地」。女性であればなおのこと迷うというのも当然な気がする。
 しかしわたしが言いたいのはそういうことではない。そういうまなざしではない。むしろ正反対のまなざしのことだ。義父は白川村の尾神という集落の出身だ。村の寺の一番下の子どもだった。親からは可愛がられたのだろう。兄弟も多かった。
 わたしは冒頭に挙げた言葉を長く義父自身のことばだと思っていた。だがどうやら義父の父親の言葉だったようだ。その祖父は、もちろん寺もやっていたのだが、主な仕事は馬車運送の仕事だった。白川村から樹を切り出して、馬車で高山まで運んでいた。原木ではない。製品だという。つまり製材した木材で、尾神にも製材所があったのだ。そこで柱とかに製材した製品を運んでいたのである。軽岡峠を通ってゆく。そしてその峠を越えたところで夜になり、その六厩(むまい)で一泊して、翌日高山に向かったのだという。六厩には駅逓があり、そうした馬車引きなど泊まる簡易な宿泊所があったそうである。今はもう六厩に泊まる人などないであろう。
 そうして翌日高山に着き、荷を届けて、その日は高山に泊まる。そして帰りは荷が軽いので、一日で尾神まで戻るのである。
 軽岡峠には何回か道が付け替えられた。今は東海北陸自動車道の軽岡トンネルのあるところだ。そして一般国道の軽岡峠もある。そして昔のバス道の軽岡峠があり、そしてさらに旧道の軽岡峠がある。そして道とともに人の生活があった。「軽岡峠はえらかった」。この言葉とともに飛騨びとのひとつの生活がある。わたしにとっては、もっともリアリティーのある飛騨びとの生活だ。七、八年前に岐阜新聞で「飛騨に生きる人々と技」という連載をさせてもらった。五十六回続いた。飛騨の人々からの聞書きをつづったものだ。それをしてみようと思った切っ掛けには、一つには畏友赤坂憲雄さんの「最上に生きる」の連載があった。今は『東北学へ』2(作品社)に収められている仕事だ。その仕事に大いに惹かれていた。そして、それともう一つは、義父に魅せられていたことがある。何でもできる人だった。林業もできる、コケ(茸)取りもできる、木工もできる、円空彫りもしていた、漬物もできる、農業もできる、イモでもネギでもハクサイでも、市販のものに負けないほど立派なものを作る、建設業もできる、小屋でも棚でもなんでも一人で作ってしまう、電気工事もできる、生活に関ることの何でもできた。その義父に感嘆し、尊敬していた。義父を通して飛騨びとの生きざまを知った。高山の町衆の生き方とは違う。もっともっと野太いものだ。それが飛騨びとについて知りたいと思った何よりのりゆうだった。その義父も三年前に病にかかり、近ごろはめっきり身体が弱くなってしまった。わたしとっては誰にも勝る「飛騨」についての先生だった。わたしもまた飛騨びとを愛すると言わせてもらいたい。
 その飛騨びとの生活をもっともくっきりと示す言葉が、わたしにとっては「軽岡峠はえらかった」という言葉だ。わたしはこの言葉を忘れない。


*注
「教員や警察なんぞ、転勤がついて廻る勤め人の仲間うちでは、最初の小鳥峠をびっくり峠、次の上小鳥と六厩の間(あいさ)の松ノ木峠を思案峠、三つ目の軽岡峠を辞職峠と呼んで、誰しもみんな、荘白川へ行くのをこわがっておったものよ。/辞令をもらったきりで行かずじまいの者や、せっかく赴任しても、三月か半年で逃げて帰ってまう代用教員も仰山おったでな」(林格男『土座物語』208頁)。
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