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みんなの「ニーチェ」ブログ


《ナウムブルクにてわが瞠しこと 2016.8.14》

2017/11/13 15:25
瀬谷こけし

 《ナウムブルクにてわが瞠しこと 2016.8.14》
 ナウムブルクにニーチェは父の死後すぐに母に連れられて引越しをするが、今ニーチェ・ハウスと呼ばれている家に住むようになったのは彼が14歳の時のようだ。そして1889年1月トリノで倒れてからも幾つか病院を転院した後、母の看護の下この家で過ごし、その後妹の世話の下ワイマールに移る。
 このナウムブルクの家はとりわけニーチェの生の痕跡の濃いところだ。そのベランダは今も昔と同じようにある。
 このころのニーチェの最期の格闘と平安にふさわしいのはシューマンの晩年の曲だと思うが、今回はワイマールの「イエスの心教会」でたまたま出会ったオルガン曲を使う。即興性の高い、精神性の高い演奏だと思う。作曲者も演奏者もだれかは知らない。


Was ich sah in Naumburg --- Nietzsche.
https://youtu.be/9UErGr2UMK0


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《夕焼け 9月13日》

2017/09/14 00:17
瀬谷こけし


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 今日の夕焼けは特別だった。それはしかし明日への希望に燃えた空というものとは少し違って、また禍々しいことの予兆に見えるというのとも少し違って、また不思議というのでもなく美しいというのでもないようなものだった。確かに壮麗なのだが、喜びをもたらしてはくれない。何なのだろう?
 色合いが特別だった。赤っぽい色が多かった。花で言えば何の花と言えばいいのだろう。思いつかない。台風18号の接近が関係しているのだろうか。
 ところで夕焼けの写真を撮るのは苦手だ。最近はカメラのカラーバランスを変えるよりも、どれだけ露出をアンダーにするかというところを変えるだけで、まずまず目で見たとおりに近い色が出せるようになったが、その上にそれぞれのディスプレイのカラーバランスの調整によって少なからず見え方は違ってくるはずだ。ともあれわたしが見た夕焼けはこんなものだった。撮り始めるのが遅く、華々しいころのものは一枚もないが。写真三枚。

 今日は久しぶりに進々堂で勉強をした。というか、学会発表の準備を。最近自宅以外でよく使う勉強場所は京大の付属図書館なのだが、そこよりも進々堂の方がしっくりくる。人文学なのでテキストをどう読むか、どれだけ正しく深く読み切るかということが勝負なのだが、思考のために場所としてはわたしには進々堂が一番だ。多くの論文をここで書いている。聞こえてくる話もそれぞれの本業のアクチュアルな問題についてのものが多く、いい刺激になる。読んでいたのはニーチェの「救済について」(Zar)だが、その凄まじいリアリティーに驚嘆しながら、これをどうまとめれば人に適切に伝わるかを考えながら読む。問題の肝心なところ、解決法のところで、彼は(ドイツ語の)接続法2式を使っていて、彼にまだ見えていないか、ここではまだ言わないでおくのか、保留をつけた言い方なのだ。翻訳ではそういうところは全く見えない。そして「ewig wieder」(永遠にくりかえして)とういう言葉を、「(行われた)行為をなかったことにはできない」ということに対して使っているのも、驚くべきところだ。氷上英廣さんは「人間存在もまた所業とその罪の負い目を永遠にわたってくりかえすものだ」と訳している(これは適切な翻訳だ)。---これをだれか否定できるだろうか? ミシェル・フーコーが映画《去年マリーエンバートで》を「起こったことと起こらなかったことの区別がつかない」世界の描写として読み取るのも、このニーチェの論点の応用として、そこからの脱出の試みとして、よく理解できるようになる。
 進々堂は、わたしにはきちんとした思考をするのに向いた場所だ。


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《お水取りの十一面観音悔過》

2017/03/11 16:31
瀬谷こけし


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 招待してくれる人があってお水取りに行ってきた(3月10日)。最近はお水取りの「行」の部分に関して、厳しくするようになったようだ。見学に来る人の乱れや安易さに、別当になられた佐川普文さんがたまらなくなったようだ。今日は、見学者の人数も少なく、会式の内容も非常にはっきりと感じることができた。初夜と中夜だけ見て、(早めに)引き上げたが、十分以上に学ぶことがあった。
 初夜の行が「十一面観音悔過」から始まるのも初めてだった。その五体投地。板に身を投げる音が響く。---いや、それは重く激しく響くのだが、それ以上に床板の振動として、伝わってくる。今まさに何が行われているか、が。五体投地は懺悔の行だ。懺悔すべきことがあるのだ。自分にも、世のためにも。その僧侶の行。強く激しい。だが痛ましくはない。わたしが思ったのは、『ツァラトゥストラ』の「大いなる軽蔑の時」にも懺悔の行があるべきだ、ということだった。昨日書いた《『ツァラトゥストラ』の超人論(1)》を読んでくださった方には容易に理解がゆくと思いうが、「大いなる軽蔑の時」の強度は、五体投地のような激しい行によって、表現される形式を伴うべきなのだ。---これはわたしが『ツァラトゥストラ』を越えるための要点のひとつになるだろう。今日は何よりもそれを学んだ。
 もう一つ。直観音楽の演奏としてみれば、わたしたちIMAの演奏は「お水取り」に優っていると思う。奏せられ発せられる様々な音の意味を全力で聴いていたが、その上での判断だ。だが、その最高強度や、その印された最高強度から生まれてくる「ゆとり」という点では、もしかしたらわたしたちの方が負けているかもしれない。---そうではない、と思うが、しかし実際にやって見なければわからない。---それほどに、今日の五体投地は実質があった。右ひざを上げて、その右ひざに全体重がかかるように、体の塊を持って行くようにするのだ。---わたしの見たところでは、ほんとうにそれができたのは、ただ一回だった。7回目にもう一歩のところまできて、8回目に完成した。---ここにお水取り=十一面観音悔過の最も重要なところがある。
 ますます東大寺が好きになった。




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間違った選択をしたと

2013/06/02 22:56
瀬谷こけし
考えるカミキリムシ
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(ラミーカミキリ)


 その時は他にしようがないと思ってした選択が間違った選択だったとだいぶ後になって気付いた時、そういう時には、後になってからでも、先の選択決定を改めた方がよい。---そう考えて自分にそういうことがあるかと考えると、何一つ思い付かない。あそこでああしておけばもっと出世していただろうと思うことは幾つかあるが、今の時点で見れば、出世などしなくて、今の通りで、よかったのだと思える。
 数年前のことだが、高校時代のクラブ(バドミントン部)仲間から、あの時は悪意で誤審をしたのだ、と告白されたことがある。わたしにとってはどうでもよいことなのだが、インターハイ予選の校内代表を決める試合の最後のショットでのことだった。40年も告白できない疚しさを彼はかかえていたわけだ。その類のことはわたしには余りにも多いので、加えられた色々な悪意や不正をわたしはほとんど気にしていない。覚えてすらいない。
 過去の出来事はすべて「意志の転がすことのできない石」だが、ニーチェが語るように単に「わたしがそのように欲した」と捉え直す(『ツァラトゥストラ』「救済」)ことではなく、「わたしはそのときはそう欲したが、それは誤りだった」という仕方で捉え直すこともありだとしておくべきだ。

 今、村上春樹の『ノルウェーの森』について小文を書こうと思っていて、その原型となる『螢』という作品があると教えてもらったので、ちょっと前に読み終わった所だ。「直子」がかかえている問題もこの「転がすことのできない石」の問題に違いない。そして『ノルウェーの森』の問題は、直子がその石と心中するように野井戸に落ちてしまうことだ。その石のことを語る言葉を見出せないまま。人々の言葉の行き交う地の上から、遥かはるか遠くに隔たって。




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ヘンリー・パーセル(Henry Purcell)の紹介2  "O Let Me Weep"

2013/05/31 03:19
瀬谷こけし
パーセルで二番目に紹介するのはこれ。
ピナ・バウシュの《Café Müller》の意味もこの曲から考えるべきではないかと思う。
これにデリダの「すべての他者はまったき他者だ」という命題を付加すると、古い神は死んだ、これからは我々自身が神々にならねばならない、というニーチェの思想が読み解けるようになるでしょう。

H. Purcell - The Fairy Queen "O Let Me Weep" Sylvia McNair

http://youtu.be/32NjIl6fH8s



===
そしてピナ・バウシュの《カフェ・ミュラー》
Pina Bausch - Cafe Müller

http://youtu.be/pEQGYs3d5Ys





このピナ・バウシュの作品、he’s gone(彼が死んだ)ということの悲しみ方は沢山ある(あり、すべて許される)というテーマでしょうか? 途中の青衣の女性の土方風の足運びもそのひとつと。最後にcaféに残っているのもその青衣の女性。




 このパーセルの曲も一番のお薦めはこれ。↓
 (ピナ・バウシュもこの演奏版を使っている)

O let me weep

http://youtu.be/C7_8UtQMufQ





↓のCDが元のもの。音質からいって購入をお薦めします。



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《ノルウェーの幻想》--1.Fandango

2013/05/17 09:29
瀬谷こけし
 「ノルウェーの幻想」というか、"fantaisie norvésienne" をあてもなくまとめてみようというシリーズ。村上春樹の『〜の森』を源にしている、と言っておこう。---実際には、スペイン風の舞曲やら勧進帳やら、あたりかまわずの寄せ集めの感が強いが、ニーチェに倣っていうなら、汝の足下にあるのは地獄(Hölle)ではない、というメッセージをイメージにしたものだ。あるいは、地獄ですらない、と言うべきか。
 初回はロドリーゴとカルロス・ボーネルに敬意を表して"Fandango"と名づけておく。


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(ほんもののノルウェーの森がトウヒやカラマツやモミばかりだということは重々承知しております)







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《生への讃歌》 拙訳つき

2013/05/09 12:51
瀬谷こけし
 フリードリッヒ・ニーチェ作曲、ルー・ザロメ作詞の《生への讃歌》(Hymnus an das Leben)の、楽譜上の文字テキストを起したものと、その拙訳を紹介します。併せて参考に、ルー・ザロメの《生への祈り》(Lebensgebet)のドイツ語テキスト(『回想録』のもの)と、その市販訳本日本語訳と拙訳を紹介します。
 誤りを含め、お気付きの点があればお知らせいただければ幸いです。


===============================
HYMNUS an das Leben
für
Gemischten Chor und Orchester
Componiert
von
FRIEDRICH NIIETSCE
LEIPZIG
E. W. Fritsch.

HYMNUS an das Leben

Gewiss, so liebt ein Freund den Freund,
wie ich dich liebe, räthselvolles Leben !
Ob ich gejauchzt in dir, geweint,
ob du mir Leid, ob du mir Lust gegeben,
ich liebe dich mit deinem Glück und Harme,
und wenn du mich vernichten musst,
entreisse ich mich schmerzvoll deinem Arme,
wie Freund sich reisst von Freundes Brust,
wie Freund sich reisst von Freundes Brust.

Mit ganzer Kraft umfass' ich dich.
Lass deine Flamme meinen Geist entzünden
und in der Gluth des Kampfes,
mich die Räthsellösung deines Wesens finden !
Jahrtausende zu denken und zu leben wirf deinen
Inhalt voll hinein !
Hast du kein Glück mehr übrig mir zu geben,
wohlan ! Noch hast du deine Pein...
wohlan ! Noch hast du deine Pein...

http://www.nietzschesource.org/facsimiles/DFGA/HYM


生への讃歌(拙訳)

きっと、私がお前を愛するように、謎にみちた人生よ!
そのように友は友を愛するのだ ---
私がお前の中で歓声を上げたにせよ、涙したにせよ、
お前が私に苦悩を与えたにせよ、快を与えたにせよ、
私はその幸(さいわ)いと悲嘆とともにお前を愛している、
そしてもしお前が私を破滅させねばならないならば、
私は苦しみいっぱいにみずからをお前の腕から救い出す
友が友の胸から自分をもぎ離すように。
友が友の胸から自分をもぎ離すように。

全力で私はお前を抱擁する!
お前の炎が私を燃え上がらせるにまかせよ、
そして闘争の灼熱の中でわたしが
お前の存在の謎を解き明かすのを許せ!
数千年間生き、考えつづけたい、そうすればおまえの中身を
すっかりとそこに投げ入れることができる!
お前はもはや私に与える幸(さいわい)を何も残していないのか ---
ならばよし --- お前はまだお前の責め苦をもっている。
ならばよい --- お前はまだお前の責め苦をもっている。


http://youtu.be/FIOIUlDB5yU


===================

Lou Saloméの<< Lebensgebet (生への祈り)>>

 ルー・ザロメ(Lou Salomé)の《生の祈り》(Lebensgebet)の原文と邦訳と拙訳。まずはルーのテキストから。典拠は、Lou Andreas-Salomé, Lebensrückblick, Verlag tredition GmbH, Hamburg。詩はその32頁。


Lebensgebet 

Gewiß, so liebt ein Freund den Freund,
Wie ich Dich liebe, Räselleben -
Ob ich in Dir gejauchzt, geweint,
Ob Du mir Glück, ob Schmerz gegeben.

Ich liebe Dich samt Deinem Harme;
Und wenn Du mich vernichten mußt,
Entreiße ich mich Deinem Arme
Wie Freund sich reißt von Freundesbrust.

Mit ganzer Kraft umfaß ich Dich!
Laß Deine Flammen mich entzünden,
Laß noch in Glut des Kampfers mich
Dein Rätsel tiefer nur ergründen.

Jahrtausende zu sein! zu denken!
Schließ mich in beide Arme ein:
Hast Du kein Glück mehr mir zu schenken --
Wohlan -- noch hast Du Deine Pein.
(イタリックは原著者)


 次に参考のために、山本尤氏の訳を示す。

生の祈り

確かに、一人の友が友を愛する
私があなたを愛するように、謎の生---
私があなたの中で歓声を上げたか、泣いたかどうか、
あなたが私に幸福を、苦しみをくれたかどうか。

私はあなたを愛する、あなたの深い悲しみともども、
もしあなたが私を滅ぼさねばならないなら、
私はあなたの手から身を振りほどく、
友が友の胸から身をもぎはなすように。

私は全力でもってあなたを抱く!
あなたの炎で私を燃やせ、
戦いの火の中で私に
あなたの謎をもっと深く突き止めさせよ。

何千年でも考えること!
二つの腕の中に私を囲め、
あなたは私に幸福を贈ることはない---
よろしい、あなたは今もあなたの苦しみをもっている。
(山本尤訳、『ルー・ザロメ回想録』、2006年ミネルヴァ書房、pp.33-34)


 次に拙訳を示す。

生への祈り(拙訳)

きっと、私がお前を愛するように、謎である人生よ、
友は友を愛するのだ ---
私がお前の中で歓声を上げたにせよ、涙したにせよ、
お前が私に幸(さいわい)を与えたにせよ、苦痛を与えたにせよ。

私はお前の与えた悲嘆とともにお前を愛している。
そしてもしお前が私を破滅させねばならないならば、
私はみずからをお前の腕から救い出す
友が友の胸から自分をもぎ離すように。

全力で私はお前を抱擁する!
お前の炎が私を燃え上がらせるにまかせよ、
闘争の灼熱の中でわたしが
お前の謎をひたすら深く解き明かすのを許せ。

何千年も生きたい! そして思考したい!
私をお前の両腕の中に閉じ込めよ:
お前はもはや私に贈る幸(さいわい)を何も残していないのか ---
ならばよし --- お前はまだお前の責め苦をもっている。



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《初夏の野の草の色》

2013/05/08 00:08
瀬谷こけし
 いつもの市原の野。しばらく行ってなかったが。

地下では水争いがあるらしく
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最初に負けるのはいつもよもぎ

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昔はこんなに地面が乾くこともなかったように思うが

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巻くものは巻き

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渇くものは渇き


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咲くものは咲く

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日の光には美しい色をしめす
そのことが植物の太陽に対するSegnen(祝福)だと思う。

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初夏の野の草の色

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今年もアワダチソウが育っている。
日の光には美しい色で答えている

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もともとすっきりした形の美しい草なのだが。
この時期にはまだ踊りはじめていない
もうじき全身で踊りはじめるはずだ



 ニーチェはルー・ザロメを弟子かつ後継者として欲していた。

 芭蕉にとっての一笑(金沢の)も同じような存在だったのだろう。





 





 
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ニーチェのビゼー論(2)(『ヴァ-―グナーの場合』抜き書き)

2013/04/24 22:36
瀬谷こけし
 昨日の夜から喉風邪を引いて、何もまともに考えることが出来ない。単純作業として、ニーチェの『ヴァーグナーの場合』(原佑訳、ちくま学芸文庫)からの抜き書き、他。
(注、ニーチェがここで語っているのは、ヴァグナーの音楽ではなく、ビゼーのカルメンのこと。誤解ないように)

> この音楽は私には完全なものと思われる。それは、軽やかに、しなやかに、慇懃にやってくる。それは愛嬌があり、それは汗をかくことがない。「優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る」、これが私の美学の第一命題である。(pp.288-289)

> Diese Musik scheint mir vollkommen. Sie kommt leicht, biegsam, mit Höflichkeit daher. Sie ist liebenswürdig, sie schwitzt nicht. "Das Gute ist leicht, alles Göttliche läuft auf zarten Füssen" : erste Satz meiner Aesthetik. (KSA, S.13)

拙訳:
> この音楽は完全なものに見える。それは軽やかに、柔軟に、礼儀をわきまえて近づいて来る。それは愛想がよく、汗ばむことがない。「優れたものは軽やかであり、神的なものはすべてしなやかな足で走る」、これがわたしの美学の第一命題である。

*[mit Höflichkeit]を「慇懃に」と訳すのはどうか? ここもワグナーとの対比は明らか。「礼儀正しく」ぐらいに訳しておきたい。
*[zart]を「華奢な」と訳すのも誤解を生みそうだ。「しなやかな」と訳すのが訳すのがよいと思う。[biegsam]は曲げやすさという意味での可塑性を言う。


> この音楽は意地わるで、洗練されており、宿命論的である、しかもそれはあくまで大衆的であり---それは、個々人の洗練さではなく、種族の洗練さをもっている。それは豊かである。それは精密である。それは築き、組織し、仕上げる、このことでそれは、音楽における多足類とは、「無限旋律」とは反対のものとなる。人はかつてこれ以上に悲痛な悲劇的強音を舞台のうえで聞いたことがあろうか? またこの強音がどのようにして達成されていることか! 渋面をつくらずに! 贋造なしで! 大げさな様式という虚言なしで! ---最後に、この音楽は聴衆を、知性ある者として、音楽家としてすら遇する、---それはまたこのことでヴァーグナーの反対でもあり、ヴァーグナーは、その他のことは別としても、いずれにせよ世界の最も無礼な天才であった。(p.289)

> Diese Musik ist böse, raffinirt, fatalistisch: sie bleibt dabei popular --- sie hat das Raffinement einer Rasse, nicht eines Einzelnen. Sie ist reich. Sie ist präcis. Sie baut, organisirt, wird fertig: damit macht sie den Gegenatz zum Polypen in der Musik, zur "unendlichen Melodie". Hat man je schmerzhaftere tragische Accente auf der Bühne gehört? Und wie werden dieselben erreicht! Ohne Falschmünzerei! Ohne die Lüge des grossen Stils! --- Endlich: diese Musik nimmt den Zuhörer als intelligent, selber als Musiker, --- sie ist auch da mit das Gegenstück zu Wagner, der , was immer sonst, jedenfalls das unhöflichste Genie der Welt war. (S.13f)

拙訳:
> この音楽は悪意的で、抜け目なく、運命論的である:だがそれは大衆的なものから離れない。それは、個人的な抜け目なさではなく、ある人種のもつ抜け目なさを備えているのである。それは豊かである。それは精細である。それは築き、組織し、うまく仕上げる:そうやってそれは音楽におけるポリープ、すなわち「無限旋律」と反対のものを作る。ひとはこれまで舞台の上でこれ以上に悲痛な悲劇的アクセントを聞いたことがあるだろうか? そして、この悲劇的アクセントはどのようにしてどのようにして到達されるのか! 贋金づくりなしで! 大いなる様式という嘘もなしに! ---最後に、この音楽は聴き手を知的な者とみなし、さらには音楽家とさえみなしている---それはこの点でもヴァーグナーの反対物である。ヴァーグナーというのは、その他の点はともあれ、間違いなく世界で最も無礼な天才だったのだ。



 ニーチェがビゼーの『カルメン』に「運命的なもの」(fatalistisch)を読み取っているのは、言われてみればよくわかることであり、そしてまたニーチェ自身の思想との関りにおいても、それゆえ西洋思想史・文化史においても注意すべきことだろう。「この音楽は悪意的で、抜け目なく、運命論的である」という把握は、非常に適切であると思う。ドン・ホセが郷土と母の方に傾き、そして行動したならば、カルメンとの関係は決して修復されるはずもない。妥協的ないやらしさがないところが、『カルメン』の素晴らしさのひとつだろう。






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ニーチェのビゼー論(1)(『ヴァ-―グナーの場合』抜き書き)

2013/04/23 02:35
瀬谷こけし
 ニーチェの『ヴァーグナーの場合』(原佑訳、ちくま学芸文庫)からの抜き書き、他。

> 私は昨日---あなたは信用なさるでしょうか? ----ビゼーの傑作を聞いたが、これで二十回目である。私はまたもや穏やかに心を傾けて持ちこたえた、私はまたもや逃げ出しはしなかった。私の焦燥に対するこうした勝利に私は驚いた。そうした作品はいかに人々を完成させてくれることか! 人はおのれ自身がそのさい「傑作」となるのである。 (p.288)

> Ich hörte gestern --- werden Sie es glauben? --- zum zwanzigsten Male Bizet's Meisterstück. Ich harrte wieder mit einer sanften Andacht aus, ich lief wieder nicht davon. Dieser Sieg über meine Ungeduld überrascht mich. Wie ein solches Werk vervollkommnet! Man wird selbst dabei zum "Meisterstück".
(KSA, S.13)

*wie 以下拙訳。
> そうした作品はひとをどれほど完成させるものなのだろう! ひとはそのさいみずからが「傑作」になるのである。

*「そうした作品」:ひとを穏やかな気持ちで最後まで聴き通させるような作品。


> ---そして実際、カルメンを聞くたびごとに私は、平生思っているよりも、私がいっそう哲学者であるような、いっそう優れた哲学者であるような気がした。たいへん気長に、たいへん幸福に、たいへんインド的に、たいへん腰のすわったものになったような気がした……五時間坐りつづけていること、これが神聖さへの第一段階である!(p.288つづき)

> --- Und wirklich schien ich mir jades Mal, dass ich Carmen hörte, mehr Philosoph, ein besserer Philosoph, als ich sonst mir scheine: so langmüthig geworden, so glücklich, so indisch, so sesshaft… Fünf Stunden Sitzen: erst Etappe der Heiligkeit! (S.13)

*[sesshaft]:辞書に「定住性の、長っ尻の」。じっと腰を落ちつけている、というイメージ。


> ---私はビゼーの管弦楽の音色こそ、私がいまなお持ちこたえるほとんど唯一のものと言って差しつかえなかろうか? (p.288つづき)

> --- Darf ich sagen, dass Bizet's Orchesterklang fast der einzige ist, den ich noch aushalte? (S.13)

拙訳:
> ビゼーのオーケストラの響きは、わたしがまだ我慢できるほとんど唯一の響きだと言ってよいだろうか?

*[Klang]は「音色」というより「響き」。
*[aushalten]は耐える、我慢するという意味。ここでは他動詞として使われている([den]が目的語)。「持ちこたえる」という原の訳語は通じにくい。ストレートに「我慢できる」とか、「耐えられる」とか訳すのがよい。
 ここからビゼーと対比して、ワグナーの「響き」の批判に入り、ニーチェはそれをシロッコ(熱風:Scirocco)と呼んで纏めるが、そこは省略。





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タイトル 日 時
近代の本質 ---『ヴァーグナーの場合』から
近代の本質 ---『ヴァーグナーの場合』から  ニーチェのこの近代の本質の捉え方は重要だ。とりわけわれわれがこの克服のためにどのような方途を取りうるのかを考えるために。無差異的な自然回帰などではないのだ。 ...続きを見る

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2013/04/11 03:12
《友情への讃歌》(HYMNUS AN DIE FREUNDSCHAFT)
《友情への讃歌》(HYMNUS AN DIE FREUNDSCHAFT)  ルー・ザロメ/ニーチェの《生への讃歌》ないしは《生への祈り》を「友情への讃歌」と解釈する人間がいる。それが誰かを正確には知らないが、そのタイトルの曲を演奏しているのはJOHN BELL YOUNGだ。よい演奏だと思う。  だがそれ以上に、このタイトル《友情への讃歌》(HYMNUS AN DIE FREUNDSCHAFT)という翻案には、一層すばらしい着想があるように思う。少なくとも、ルーが自作の詩「生への祈り」で言おうとしている「生」は、ほぼ友情に近いものに思えるからだ。このことについて... ...続きを見る

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2013/04/07 23:55
ビゼーの《カルメン》--ニーチェの『ワグナーの場合』を読むために
ビゼーの《カルメン》--ニーチェの『ワグナーの場合』を読むために  まずは最終場面のドンホセがカルメンを自らの手で殺すところから: http://www.youtube.com/watch?v=BJpTzRG1D30&feature=share&list=PL4FEAF05D7E2B4AD9 ...続きを見る

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2013/04/05 03:03
フリードリッヒ・ニーチェの《クリスマスオラトリオ序奏》
フリードリッヒ・ニーチェの《クリスマスオラトリオ序奏》 演奏: http://youtu.be/GPX8xBp7rJI ...続きを見る

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2013/04/04 02:35
ルー・ザロメの《生への祈り》 拙訳--(《生への讃歌》7)
ルー・ザロメの《生への祈り》 拙訳--(《生への讃歌》7) Lou Salom&eacute;の&gt;  ルー・ザロメ(Lou Salom&eacute;)の《生の祈り》(Lebensgebet)の原文と拙訳を示し、若干の解説をする。まずはルーのテキストから。典拠とするテキストは、Lou Andreas-Salom&eacute;, Lebensr&uuml;ckblick, Verlag tredition GmbH, Hamburgである。詩はその32頁にある。 ...続きを見る

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2013/03/25 23:20
ニーチェのインスピレーションとリズム2(『この人を見よ』)
ニーチェのインスピレーションとリズム2(『この人を見よ』)  ニーチェが自分のインスピレーション体験について記している『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」3は、ニーチェの文章の中でも破天荒なことこの上なく、ドイツ語としてぎりぎりまでメチャクチャに近い文章だと思う。といっても、ぎりぎりの約束ごとは守られており、読めないドイツ語ではないのだが、省略、飛躍に満ちみちていて、解読も解説も容易でない。先に川原栄峰の日本語訳を紹介したが、これはこれで訳として立派なものだと思うのである。今問題にしようと思っている箇所を、再び引用しよう。今度はドイツ語を先にして。 ... ...続きを見る

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2013/03/19 02:38
ニーチェのインスピレーションとリズム(『この人を見よ』)
ニーチェのインスピレーションとリズム(『この人を見よ』)  ニーチェは『この人を見よ』の中で、自分のインスピレーションの経験を記しているが、これは直観音楽の演奏と非常深く共通し、示唆多く、そして重要なテキストだ。広く紹介しておきたい。  まずは、「リズム的な諸関係の本能」と呼んでいるものについて。 ...続きを見る

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2013/03/18 01:35
生の全体性 ルー・ザロメ『回想録』のエピグラフから
生の全体性 ルー・ザロメ『回想録』のエピグラフから  ルー・アンドレアス-ザロメの『回想録』のエピグラフを訳し、紹介したい。  まずドイツ語から。 ...続きを見る

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2013/03/13 20:39
《生への讃歌》6 検討2 --<<Raetselleben(謎の生)>>とエロス
《生への讃歌》6 検討2 --<<Raetselleben(謎の生)>>とエロス 検討2 &gt;  本来ならルー・ザロメの《生の祈り》(Lebensgebet)の拙訳を試訳としてでも示すべきなのだが、おそらくルー自身が特別な創意によって作った合成語について、多少面倒でも検討をしておかなければならないので、今回も「検討」を中心にする。基本にするテキストは、Lou Andreas-Salom&eacute;, Lebensr&uuml;ckblick, Verlag tradition GmbH, Hamburgである。詩はその32頁にある。 ...続きを見る

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2013/03/12 15:24
《生への讃歌》5 検討1 <<Lebensgebet(生の祈り)>>
《生への讃歌》5 検討1 <<Lebensgebet(生の祈り)>>  ルー・ザロメの『回想録』(Lebensr&uuml;ckblick)の中の&gt;(生の祈り)という詩について検討する。その際典拠とするのは、Lou Andreas-Salom&eacute;, Lebensr&uuml;ckblick, Verlag tradition GmbH, Hamburgである。詩はその32頁にある。 ...続きを見る

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2013/03/11 22:45
《生への讃歌》4 『神をめぐる闘い』の中の《生の祈り》
《生への讃歌》4 『神をめぐる闘い』の中の《生の祈り》  ルー・ザロメは1885年の著作『神をめぐる闘い』(Im Kampf um Gott …)の第五章の終わりの所で、&gt;(生の祈り)というタイトルの詩を紹介している。これは、彼女が晩年『回想録』の中で提示している同名の詩とかなり違っていて、むしろニーチェが作曲した&gt;(生への讃歌)の歌詞と非常に近いものだ。便宜のためにまずその詩を紹介しておく。 ...続きを見る

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2013/03/11 03:38
《生への讃歌》3 ルー・ザロメの《生の祈り》と《生への讃歌》
《生への讃歌》3 ルー・ザロメの《生の祈り》と《生への讃歌》  ルー・ザロメの『回想録』(Lebensr&uuml;ckblick)から&gt;&gt;Lebensgebet&gt;Hyumnus an das Leben&gt;LebensgebetLebensgebet ...続きを見る

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2013/03/05 23:52
《生への讃歌》2 --ルー・ザロメの『ニーチェ 人と作品』から
《生への讃歌》2 --ルー・ザロメの『ニーチェ 人と作品』から  やはりはじめにドイツ語を上げておく。 > Je h&ouml;her er sich, als Philosoph, zur vollen Exaltation der Lebensverherrlichung erhob, je tiefer litt er, als Menschen, unter seiner eigenen Lebenslehre. Dieser Seelenkampf, die wahre Quelle seiner ganzen letzt... ...続きを見る

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2013/03/04 02:10
《昨日の月と夕日--- 大学から》
《昨日の月と夕日--- 大学から》  この月が満月になると小正月。だが小正月には何をするのか?  昔であれば一年の予祝行事だろう。  この時代、この年には、何をすればよいのか? 歳神さまに期待できる何があるというのか?  戦争の愚を避けてほしいということ? 多国籍巨大企業のなすがままにされる国にしないこと(TPP他)? どうも、歳神さまはあんまり本気で考えてくれそうにない。  では何をすればよいのか、小正月には? ...続きを見る

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2013/02/22 11:24
『この人を見よ』の中の《生への讃歌》について
『この人を見よ』の中の《生への讃歌》について  ニーチェの『この人を見よ』の中の《生への讃歌》についての記述を紹介しておく。はじめにドイツ語で。 ...続きを見る

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2013/02/20 01:57
生への讃歌
生への讃歌  「生への讃歌」のテキストを紹介しておきます。意外とこのテキストは手に入れにくいものだと思います。原典はライプツィヒのフリッチュ社から発行された楽譜です。今は注釈も、日本語訳もつけずに、原典の紹介を旨とします。役立てていただければ幸いです。 なお全体を一度見直しましたが、まだ誤りがあるかもしれません。お気付きの方はご指摘いただければ幸いです。 ...続きを見る

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2013/02/10 02:08
神の死について考えるために(1)
神の死について考えるために(1)  神の死について考えたい。しかし、問題を明確にしておかなければならない。神も、神々も、それをわがものとする力に応じて多様であり、神の死も神々の死も、同じく多様である。だが神の死の問題として重要なことは多くない。それは、ある決定的な歴史の分岐、ないしは切断の点として、重要なのである。神の死によって死んだもの、それはまず第一に人間のある種のメンタリティーであり、神の生を前提にして支えられていた関係の有り様である。  はじめにニーチェを取り上げるべきであるが、彼が神の死について語っていることは、... ...続きを見る

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2013/02/10 00:16
ホイットニー・ヒューストン もう一度
ホイットニー・ヒューストン もう一度  歌詞(Lyrics)つきの映像が見つかったので再録。歌詞はわたしが買ったCDにも付いていたはずなのだが、車の中に置いているうちに、ケースが壊れて、紛失してしまった。 ...続きを見る

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2012/07/23 01:33
無縁のひとはたとへ…
無縁のひとはたとへ…  伊東静雄の詩の一行だが。 ...続きを見る

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2012/07/22 13:00
『笈の小文』(芭蕉)の芸術論を確認しておこう
『笈の小文』(芭蕉)の芸術論を確認しておこう 芭蕉の『笈の小文』の芸術論を確認しておこう。 ...続きを見る

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2012/05/29 09:52
戦わないこと(四) 「わたしは生かされている」 FW. 276.  ――「ニーチェ探検」(2−4)
戦わないこと(四) 「わたしは生かされている」 FW. 276.  ――「ニーチェ探検」(2−4) この『悦ばしい知識』(Die Fr&ouml;liche Wissenschaft) 276のアフォリズムからもうひとつ引いておこう。 ...続きを見る

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2012/04/19 22:48
ナウシカアの別れの言葉
ナウシカアの別れの言葉 >「ではお客様、御機嫌よう、国へお帰りになっても、いつかまたわたくしのことを思い出して下さい、誰よりも先にあなたの命をお助けした御縁があるのですから」。 (『オデュッセイア』第8歌、松平千秋訳、岩波文庫) ...続きを見る

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2010/11/07 05:01
ニーチェの言葉---高山樗牛の原典
ニーチェの言葉---高山樗牛の原典 次は高山樗牛の言った言葉だそうだ。 ...続きを見る

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2010/10/05 20:46
「森の聖者」 "Einsiedler", "Zweisiedler"(ツァラ・ゼミ14)
「森の聖者」 "Einsiedler", "Zweisiedler"(ツァラ・ゼミ14) 新年度の「ツァラトゥストラ・ゼミ」が始まってもう数回目になる。ここで前々から書いておきたいと思っていた序説2の「森の聖者」のことを記しておく。ちなみに表題の中の”Zweisiedler”の言葉は『ツァラトゥストラ』第4部に出てくる。 ...続きを見る

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2009/06/01 13:34
「超人」の教えは「大いなる軽蔑」を含む (ツァラ・ゼミ13)
「超人」の教えは「大いなる軽蔑」を含む (ツァラ・ゼミ13) 京都造形芸術大学(通学部)の「総合演習・ツァラトゥストラを読む」の授業が昨日で終わった。演習で学生たちと議論を交わしていると、どんな風な語りをすれば話が通じやすくなるか、問題が共有されるようになるかということが少しずつわかってきて、わたしにとってもおおいに勉強になる。もちろん、『ツァラトゥストラはこう言った』の中でニーチェが何を言っているか、何を語っているかを読み解く授業であるから、「語りかた」といっても、テキストを離れた議論ではない。テキストのここのところをきちんとアクセントをつけて読めば... ...続きを見る

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2008/07/23 09:29
山田晶先生からいただいた一通の手紙
山田晶先生からいただいた一通の手紙  山田晶先生から一度お手紙をいただいたことがある。一九九七年のことだ。拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』をお届けさせていただいた、そのご返事としてである。わたしはそのお手紙にずっと励まされてきた。以下その文面を紹介させていただきたい(上はそのコピーである)。 ...続きを見る

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2008/06/30 21:36
わたしは人間を愛しているのです (ツァラ・ゼミ 10)
わたしは人間を愛しているのです (ツァラ・ゼミ 10) わたしは人間を愛しているのです (ツァラトゥストラ・ゼミナール10) ...続きを見る

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2008/05/21 00:09
カッコを付け直してみる (ツァラ・ゼミ 9)
カッコを付け直してみる (ツァラ・ゼミ 9) 先に「ツァラ・ゼミ 5」 http://25237720.at.webry.info/200711/article_14.html で語ったことだが、ここで議論をもう少し分かりやすくしておこう。 『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(岩波文庫、2006年7月5日、第63刷)の中で、氷上英廣氏は次のような訳を示している。 ...続きを見る

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2008/05/20 00:26
Ein Buch fuer Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8)
Ein Buch fuer Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8) ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討するためにはドイツ語の原文に戻って点検しなければならない。このブログでは、前と同じように、論を進めてゆく。日本語がわかれば論旨は理解ができるようにするが、その論証... ...続きを見る

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2008/04/17 20:45
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2 (承前) デリダはこう言っている。マタイ伝6-6の「隠れたところで見ておられる父は……」(共同訳)を註釈して語っているところにおいてである。(ちなみに邦訳『死を与える』ちくま文庫p.186の「in absconditio」は「in abscondito」の誤り。また、"abscondito"は対格ではなく奪格なので、それを「隠れたことを見ておられる」とする訳も誤りであろう) ...続きを見る

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2008/02/28 22:45
距離のパトス ニーチェ対デリダ1
距離のパトス ニーチェ対デリダ1 (承前) われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。 ...続きを見る

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2008/02/27 00:13
「きみたち」(lasst !):ニーチェの代名詞の技法 (ツァラ・ゼミ 7)
「きみたち」(lasst !):ニーチェの代名詞の技法 (ツァラ・ゼミ 7)  今日(2008/1/11)の授業で初めて気がついたことがある。思想としてさほど重要なことではないのだが。テクニックとして、技法として、やはり見逃せない。  それは"nun lasst uns ihn auch sehen!"の"lasst"だ。  氷上英廣さんはそこをこう訳している:「さあ、実際にやって見せてくれ!」だ。この訳だと氷上さんもそれに気づいているかよくわからない。ちなみにそこのところ吉沢伝三郎氏(ちくま学芸文庫)の訳は「今度はわれわれに綱渡り師を実際に見せてくれ!」であり、... ...続きを見る

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2008/01/14 20:13
ニーチェ論の余白に
ニーチェ論の余白に 子供たちに時には美味しいものを食べさせてやりたい。わたしにはこれが非常に大きな喜びだ。そして肉は美味しい。旧石器時代の男たちもそういう喜びを感じながら獣を捕え、倒していたのだろう。  そのことを肯定できない人は、自分がこの世に生きていることも肯定できないだろう。 ...続きを見る

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2008/01/09 21:38
いきなり超人 (ツァラ・ゼミ 6)
いきなり超人 (ツァラ・ゼミ 6)  今回は少し飛んで序説の3の方を見てみよう。とはいえとりあえず序説の2が「この年老いた聖者は自分の森の中にいてまだそのことについて何も聞いていないのだ、つまり神が死んでいるということについて」という容易ならぬ言葉で終わっていることだけは確認しておく。 ...続きを見る

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2007/12/05 03:11
「ツァラトゥストラ」と「あなた」 (ツァラ・ゼミ 5)
「ツァラトゥストラ」と「あなた」 (ツァラ・ゼミ 5)  『ツァラトゥストラはこう言った』の序説2でわたしが悩むのは人称代名詞の問題だ。こんな悩みは並外れていて、どうにも共感しにくいものかもしれないが、『ツァラトゥストラ』を舐めるように読んでゆくと、どうしても気にならざるをえないことなのだ。  ところで、後半の「われわれ」が誰のことなのかというのが問題になるのは当然のことで、わたしも次に考えたいと思うのだが、わたしとしてはそれ以前に悩んでしまうところがあるのだ。その箇所をはじめに氷上英廣さんの訳で紹介しておく。 ...続きを見る

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2007/11/22 22:46
ツァラトゥストラは変身し…… テキストの紹介 (ツァラ・ゼミ 4)
ツァラトゥストラは変身し…… テキストの紹介 (ツァラ・ゼミ 4)  『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の2でニーチェがツァラトゥストラの「変身」について語っているところのテキストを紹介しておきます。 ...続きを見る

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2007/11/22 00:37
ツァラトゥストラは子どもになった 交流とは変身すること? (ツァラ・ゼミ 3)
ツァラトゥストラは子どもになった 交流とは変身すること? (ツァラ・ゼミ 3) 交流というのは、結局のところ、国際交流も、動物や植物との交流もふくめて、相手にむかって、成ること(werden, devenir)、変身すること(sich verwandeln)、ではないのか?  ...続きを見る

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2007/11/21 22:21
ツァラトゥストラの「祝福」(segnen) それは贈与か交換か肯定か? (ツァラ・ゼミ 2)
ツァラトゥストラの「祝福」(segnen) それは贈与か交換か肯定か? (ツァラ・ゼミ 2) 『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1はニーチェ的な贈与の問題を語っている。そのエッセンスを捉えてみよう。 ...続きを見る

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2007/11/11 12:47
ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している (ツァラ・ゼミ 1)
ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している (ツァラ・ゼミ 1) 『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1の最後に、こんな言葉があった。 ...続きを見る

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2007/10/26 04:23
愚人 …… Verschwender mit tausend Haenden
愚人 …… Verschwender mit tausend Haenden 愚人 Verschwender mit tausend H&auml;nden ...続きを見る

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2007/08/17 13:40

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