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みんなの「ニーチェ」ブログ


《ニーチェとピラミッド型の石塊》

2017/08/10 15:33
《ニーチェとピラミッド型の石塊》
瀬谷こけし


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 問題は割合簡単で、出発点になるのは『この人を見よ』の中の『ツァラトゥストラ』の誕生にかかわる次の説明だ。まずはその原文を紹介する。

> Ich ging an jenem Tage am See von Silvaplana durch die Wälder; bei einem mächtigen pyramidal aufgetürmten Block unweit Surlei machte ich halt. Da kam mir dieser Gedanken. (EH, Zar 1)

一応訳しておく。

> あの日わたしはシルヴァープラーナ湖のほとりを、森をいくつも通り抜けながら歩いていた。シューレイからほど遠からぬ、ある力強い、ピラミッド型に積み上げられた塊のそばで、わたしは立ち止った。その時わたしにこの思想がやってきたのだった。(拙訳:逐語訳的)

 このドイツ語の表現では[bei einem mächtigen pyramidal aufgetürmten Block]のところのいくつかの語を正しく押さえておくことが必要である。まずは「ある塊のそばで」と言われていることである。これは、ここで中核とされている名詞が「石」としてではなく「塊」として名指されていることである。もちろんモノとしては「石の塊」ということで理解しておけばよいのだが、ともかく単に石と呼ばれているわけではないことに一応注意しておくことが必要である。まずは「ある塊のそばで」([bei einem ... Block])である。
 次いでこの「塊」を修飾限定している形容詞であるが、二つの形容詞「力強い」(mächtig)と「積み上げられた」(aufgetürmt)が「塊」を修飾限定している。「力強い」の方は普通の形容詞だが、「積み上げられた」の方は過去分詞が形容詞として使われているもので、その過去分詞の不定詞形は[auftürmen]である。「積み上げる」がその基本の意味である。
 そしてこの「積み上げる」という動詞に「ピラミッド型に」という副詞がかかって限定している。つまり「ピラミッド型に積み上げる」という動詞が基本にあり、その過去分詞がここで用いられている。ここに多少誤解しやすい点があるのだが、一つには「ピラミッド型に」の意味である。これは、地元で現物とされている「塊」を見てみれば、この「ピラミッド型に」は「角錐型に」と理解した方がよいように思う。というのも、このあたりでは、一方から見るとピラミッド型に見えるが、他方向からはそう見えない岩塊が数多くあるからである。この「ニーチェ石」と呼ばれている岩塊が特異なのは、湖に出ている方の形は見えないものの、湖に向かって左手から見ても正面から見ても右手から見ても、更には右手奥の方から見ても、この石は角錐に見えるのである。これがこの辺りのとんがり石(ピラミッド型石)の中でもこの石がもつ際立った特性である。
 さらにもう一点注意しておきたいのは、「ピラミッド型に積み上げられた」と表現すると、われわれはエジプトのピラミッドが、四角形の地面の上に水平に石を積み上げていって四角錐の形を作り上げたものだと知っているが、この「ニーチェ石」の方はそうした積み上げ方をしたものではなく、大きな褶曲と切断と落下の結果この場所とこの角度に落ち着いたものに見えるからである。この点に関しては地質の専門家ならもっと適切に形成過程を語れるだろう。ともかくピラミッドのように頂点に向かって積んでいったものではないのだが、そこが誤解されかねない。
 そしてこの石の塊は、大きくみてこの地方の屋根葺き(鱗形屋根)に多く使われているものと同じものでないかと思う。地質学的には結晶片岩と言うのだろうか。この石はアルプスの山塊の北側にも南側(イタリア側)にも広がっているように思う。北イタリアのオルタの町でも、屋根は昔からおおむねこの石で葺かれていたと見えたのを思い出す。
 そして「力強い」であるが、このニーチェ石には、堂々とした張り出しがあると言えると思う。つまり、いわば老孤のような、老獪に秘密の隠しどころや隠し事をたくさんもっているような石ではなく、非常に堂々と、すっきりした形で自分を示しているように見えるのだ。大きさとしては高さ3mにも満たない、巨石と言うほどではない岩塊だが、その270度どちらから見ても美しいとんがり石なので、わたしとしてはある種のかわいらしさを感じたのだった。だが、その細部を見れば、非常に緻密で力強いものを感じる石である。
 実は一昨日にもこのピラミッド型の岩塊の前を通り、多少は気になったのだが、写真を一枚撮るだけで立ち去ってしまったのだった。今は、今度はこれこそが地元で「ニーチェ石」と呼ばれているものだということの認識の上で、ニーチェの散歩道を辿るべく、シルス・マリーアからシルヴァープラーナ湖の東側の湖畔にそって、多少は森を抜けて、ここに着いたのである。一昨日もコルヴァッチ山の山腹・山麓で「ニーチェのピラミッド石」を探して多くの岩塊をみて歩いたが、その経験を踏まえて言っても、地元で「ニーチェ石」と語り伝えられている「石塊」が『この人を見よ』に言われる「力強い、ピラミッド型に積み上げられた塊」であることに間違いないと思う。
 そうして、この石塊に「いつまでもここで元気で居れよ」と心の中で声をかけて、わたしはシューレイのバス停に向かったのだった。




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《ニーチェの新しい思想たちと安らぎ---シルス・マリーア》

2017/08/09 15:50
瀬谷こけし

シールス・マリーアのニーチェの部屋
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滞在中にニーチェが使っていた部屋がシルス・マリーアの「ニーチェハウス」に保存されている。

 1881年8月14日付のケーゼリッツ(Köselitz)宛の手紙でニーチェはこんなことを言っている。発信場所はシルス・マリーアだ。

>それについて私は何も口外しないでおきたい。そして自分自身をゆるぎのない安らぎの中に保っておきたい。 (KSB Bd. 6 Nr. 136)

上記の中の「それ」は、「わたしの地平線に昇ってきた思想たち」であり、そのようなものは「私が見たこともないようなものだ」と語っている。新しい思想が一群となって現れてきているさまが適切に語られている。そしてニーチェは「(この新しい思想群のために)自分はまだ二三年は生きなくてはならないのだろう!」と語る。自分に訪れてきた新しい思想群、それをはっきりと語れる形にするために、自分はもう何年か生きなければならない、と語っているのである。ニーチェの身体の健康状態はじつはこの時非常に危険な状態であったのだ。それは「自分の感情/感覚(Gefühl)のさまざまに異なった強さ(Intensitäten)のせいで震えたり、笑ったりする」そういう状態であり、眼の炎症のせいで一日中部屋を離れられなかったりするが、その原因は、その前日にほっつき歩き(Wanderngen)の途上であまりにも泣きすぎてしまったからなのだ、とわかっているという。そしてその涙もセンチメンタルな涙ではなく、歓呼の涙なのだ。そこで自分は歌を歌ったり、わけのわからないことを語ったりするが、---ここまでは『ツァラトゥストラ』序文の森の聖者のようだが---その歌や語りは彼ニーチェが万人に先駆けてもったある新しい展望(Blick)にみたされてのことなのだ、と記す。この新しい展望は、彼のいう新しい思想群の意味の一つ一つとして見通されてくるものなのである。

 ニーチェの手紙をやや長く紹介しすぎたが、このシルス・マリーアの土地で彼は新しい思想の啓示を受け、その思想がもたらす見晴らしのせいで、泣いたりわけのわからぬことを語ったりしながら、このシルス・マリーアの近辺を日々ほっつき歩いていたのである。
 シルス・マリーアは『ツァラトゥストラ』の思想/詩想群の生誕地である。それは思想/詩想自体の生誕地であるが、それと同時に、この地でニーチェは、「ゆるぎのない安らぎ」の日々を保ちえて、その後の何年かの激しい生を安らげることができたのである。



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《20170808 シルスの岬の先端へ》

2017/08/09 15:42
瀬谷こけし

シルス岬西側の「ニーチェ思想石」 at シルス・マリーア
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 朝食後シルス・マリーアの半島の先端近くにあるという「ニーチェ思想の石」(Nietzsche Gedankenstein)に行った。前日の晩に宿のおねえさんが「Nietzsche Stein」を知らないかと尋ねたところ、教えてくれたものだ。「Nietzsche Stein」と呼ばれているものとは少し違うようなのだけど。
 ともあれ、シルス滞在中この岬にもニーチェはよく来ていたはずだから、ニーチェを理解するためにもよい経験になるはずだ。
 ところが、前日のコルヴァッチ山での難行(なんぎょう)のために、足が重くてゆっくりとしか歩けない。そんな足を引きずって、ゆっくりと、休み休みしながら歩いて、岬の先端にある石のところまで行ったのだが、この経験でよくわかったのは、シルヴァープラーナ湖の方とは違い、シルス・マリーアの方は高齢というより老人といってよい人たちが、ゆっくりと静かな時間の流れをたのしむために訪れる場所だった。静かさを楽しむ場所。この朝のシルスの半島の空気感をニーチェをまねて三つの言葉で言うと「やわらかく、穏やかで、うるおいがある」ということになる。この朝は霧にはならないもののそれに近い湿気がシルスの村に遍在していた。そんなこともあっての形容になる。
 それでゆっくり歩きながら、そして写真を撮りながら、会う人々とこの日の祝福を互いに与えながら、緩やかな時の流れを楽しむという気持ち、きわめて静かな気持ちを得ながら、岬の先端まで行ったのだった。そしてその先端にあるいろいろな岩が、「ニーチェ思想の石」なのだろうと思いながら、それはそれとしてこの場所を楽しみながら宿に戻ったのだった。

 宿の部屋に戻って、昨日もらった地図を見ると、どうやらニーチェ石は岬の先端ではなく、少し西側の方にあるようだった。まあどうでもよいようなものだが、少し気になっていた。また何よりもつかれていたので、宿で休眠を取って、午後3時過ぎに今日は開いているはずの「ニーチェハウス」に行って、それから」ややあって、それで夕方近く、5時ぐらいになって、地図にかかれている「ニーチェ思想石」を見に行こうと思った。まずは宿の前の大きな草原を横切って西の屏風山を近くで見て、何とか遠近感とか細部とかを見て、一応様子を掴んでから、西側から半島に向かった。足が驚くほど軽くなっていた。朝足を引きずっていた老人がが夕方には子供のように足も軽く、ニーチェの石に向かった。西側から近づくメリットはあんまりなかったが、まずあっという間にその石のところに着いた。石には碑文が刻まれていた。刻まれていたのは、「人間よ、用心せよ」から始まる(『ツァラトゥストラ』の)「第二の舞踏の歌」の真夜中の鐘の詩だった。これがニーチェの思想だと称して申し分ないものが選ばれていたのだ。
 歌の詩文は写真から読んでもらえるだろうか。

 きっとここにも訪れていたはずのニーチェ、あるいはこの歌の詩を、ニーチェ自身はこのシルス・マリーアで思いついたかもしれない。そのニーチェの詩文に共感の心を捧げるべく、この碑文の前でわたしはそれを音読することにした。授業でも何度も使っている詩なので難なく読めると思ったが、細部でいくつか読み損じたところがあって、もう一度読むことにした。今度は一カ所、「HERZELEID]を「HERZENLEID」と言いそうになったが、その思想を正しく読むことができた。するとその読みの最後の方で、わたしの耳には反応して「OH! OH!」と言う声が聞こえた。誰かが聞いていて、感応してくれたのかと思って、その人が出て来れるように、わたしは海の方に近づき、石碑とは距離を取った。---だが、だれも現れてはこなかった。あるいは打ち付ける波の音がそのように聞こえただけかもしれないが、わたしには、それはニーチェ自身が共感の声を上げてくれたのだと思えた。
 それからしばらくして、ならばきちんと録音して献呈の証拠としようと思った。「Zum Nietzsche」からはじめて読み始めたが、簡単に失敗してしまう。それで「もう一度」として、四回目になる読みをした。今回も「OH! OH!」と半ば感涙を交えたような声が聞こえた。---それは録音物に入っているだろうか。未確認だがそれはそれでいい。この詩ほどニーチェが「夜」の立場に身を置くこと、そして自分は「よろこび」は「苦しみ」よりも深いという思想によってワグナーを越えていることを明確に示そうとしている詩はない。これがニーチェの思想だと言って何の誤りもないだろう。まさにこれは「ニーチェの思想石」なのだ。

 この(献呈の儀の)あと、わたしは歓呼の声を上げてこの場所を走るように立ち去ったのだった。


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《2017.8.7コルヴァッチの岩雪崩》

2017/08/08 16:32
瀬谷こけし

一度目の岩雪崩 13時43分撮影
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二度目の岩雪崩の走り 14時15分撮影
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 8月7日はほぼ一日中コルヴァッチの山中にいて実にいろいろな経験をしたが、わたしにとって最も驚いたのは、岩雪崩を見たことだった。それも雪崩の下の方にいて、もしこれが途中で止まらなければ、雪崩の流線の外に出るべく必死に動かなければならないと思いながら見たのだった。岩雪崩が起こったのは現地時間13時43分ごろ。急峻なコルヴァッチ山(3451m)の9合目あたりで、轟音とともに大きな岩が、もんどりを打ったように飛び出してきて、それに続いて続々と大小の岩や石や土が流れ落ちてきてやがて土煙が舞い上がって、谷筋を降りてきたのだった。それをビデオや写真に撮っていたりしたのだが、その流れ落ちる音が止まるまで安心ができなかった。岩雪崩は10分以上続いた。

 そんなことで、あ、終わったかと思いひと安心して再びパノラマ道を歩いていると今度は14時15分ごろまた大きな音がして、同じ谷筋を先行して大きな岩が暴れ飛び散りながら流れ落ちて来るのが見えた。続いてその岩のせいでバランスを失って落ちて来る岩屋や石、そして舞い上がりながら落ちて来る土煙。今回はさっきより小規模のようだったが、落下した岩がどっちへどうぶつかるかで、岩雪崩の規模も方向も変わってくるので、ともかくよく見ておかなければならない。今回も途中までで止まって、急いで逃げるような必要はなかったが、山のガレ場がどうしてできるのか、そして下まで落ちて来る大岩がどんな風にして落ちて来るのか、そんなことがわかるようになった。こういうことは、奥飛騨の方でも起こっておかしくないことなのだろう。
 何でこんな光景を見ることになったかというと、ニーチェのいう「ピラミッド型のブロック」を探していて、ニーチェクロニックに乗っている写真と記事を見せながら人に尋ねていたのだが、ある人からは、コルヴァッチのロープウェーの中間駅からパノラマ道をシルスの方に向かって歩いてゆくとこれがあるという風に言われ、それでもってロープウェーに乗り、標高2700m地点の中間駅まで来たが、終点のステーション駅までゆけば標高3303mの展望台までゆけることを知って、この高さはわがしがまだ行ったことのない高さだったので、安易なやり方ではあるが、行ってみたくなったのである。

 上の展望台では、左手近くに大きな氷河が見え、そして全周360度のアルプスのパノラマは、まったく素晴らしく、これがアルプスなのかと驚きとともに実感できたのであった。展望台では、モンテ・ローザ方向表示もあり、この日はとてもよく晴れていたので、多分あれがモンテ・ローザだと思える小さなちいさな白雪の山塊をみつけたが、それがそうだったかは確認できない。宿に戻って受付のおねえさんにモンテ・ローザの話をするとすぐに眉に唾をつけてまともに取り合ってくれないが(岩雪崩のビデオは感心してくれた)、去年イタリアのオルタの方からモンテ・ローザの形はしっかり覚えたので、多分あれだろう、と弁明はしておいた。

 帰路はロープウェーを中間駅で降りて、一応アドバイスされたように探してみようと思って下のコルヴァッチ・タールステイション(谷駅)まで、自分に行けるかどうかの見当をつけた。標高1900mぐらいまでの800mぐらいの比高差なので、比叡山から下まで下りるのとそう変わらない。このところずっと山歩きをしていないとはいえ、下りだから行けないことはないだろうと考えたのだった。そして道も、パノラマ道として整備され、そう無理な道ではなかった。まずはピラミッド岩までと思って歩き出したが、中間駅から離れれば離れるほど、今度は戻ってゆくための体力が心配になる。だが結局歩いて下まで(スールレイまで)行ってしまうことにした。そうすればシルヴァープラーナ湖の湖周の散歩道にも出られ、そこからならニーチェのピラミッド石にも出会えるだろうと思ったのだった。失敗と言うなら、はじめに谷駅に来た時、近くにあった店でパンとアップルショルレでも買っておくのを不要だと思ったことだった。実際買っておけばずっと楽だったろう。実際コルヴァッチ山中にはピラミッド型の石ならいくらでもある。そしてニーチェが中間駅近くまでの標高差を上ったはずがないのは明らかで、ただ写真の石の所在をアドバイスしてくれたひとに従ってみようと思ったのだった。

 その後、下り道の苦労は続くが、京都の滝谷山周辺、、滋賀の権現山周辺、そして津軽の岩木山での経験が活きて、そして下山の山中で尋ねた二人のひとのアドヴァイスのおかげで、疲れ果てたということを除けば、無事に下まで、シルヴァープラーナまで、下りて来れたのだった。

写真は一度目と二度目。どちらも走り始めは小さい。


=== 2017.8.18 写真二枚追加 =========

モンテ・ローザ?
矢印の山がモンテ・ローザではないだろうか? 
コルヴァッチ山ロープウェーの山駅展望台から撮影
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コルヴァッチ山腹のピラミッド岩。
(標高2500mほど)
ロープウェー受付の人が(私が持参した)ニーチェ・クロニークの写真を見て、
これじゃないかと教えてくれた「ピラミッド状の塊」はこれのことだと思う。
 後ろに見える湖はシルス湖(シルヴァープラーナ湖ではない)。
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《2017.8.5 チューリッヒ夕方》

2017/08/06 05:15
瀬谷こけし

 夕方、仮眠から覚めて、かねてから探していたマウスを買いに出かけた。そのためには誰かから情報をもらわなくてはならない。お値打ちの(preiswert)にPC用のマウスを買えるところはないか? 教えてくれとお願いしたのは、宿の受付のおねえさんだ。コンゴの出身だということを昨日誰かと話していたひとだ。ここの受付のおねえさんはみな友好的で感じがいい。昨日さいしょに応対してくれて、荷物を預かってくれたおねえさんも、英語もドイツ語もうらやましくなるほど達者な、アラブ系かな思えるような褐色の肌のひとだった。そのひともとても親切だった。
 コンゴ出身のおねえさんは、中央駅構内のS10電車を降りて上がってすぐの向かい側にある店だとして「Interdiscount!」という店を教えてくれた。わたしが中央駅で降りるときはいつも「アジアの食べ物、持ち帰り」と銘を打ったケバブの店の前に出るので、その電子関係お値打ちの店には気づいたことがなかった。出かけて、言われたとおりにエスカレーターを上ると、左手に、今度は確かに「Interdiscount!」という店があった。カメラもあり、いろいろな電子機器を割安に売っているありがたい店だった。そこでUSBのコード付きの一番安いマウスを買った。店の人は、ほんとならもっといいものがあるので勧めたかったようで、「旅行者なのか?」とわたしに尋ねた。旅行者だと答えると、それならこれでいいと納得して売ってくれた。実際親切な人だ。今回はブルートゥースのマウスをたまたま荷物に入れ忘れて、これまでずいぶん苦労してパソコンを使っていたのだ。その苦労からこれからは解放される! 
 宿のおねえさんは、もう一軒「Medimarket!」」という店も安くて大規模でいいが、チューリッヒの郊外に行かないとないのだということだった。結局は先の店で用事がすんで、「Medimarket!」まで行く必要はなかったのだが。
 そこで早速用事がすんだので、夕方の時間、ペスタロッチ公園まで行った。そこで写真を撮って、芝生に座ったり、ベンチに座ったりして、ゆっくりと沈んで行く太陽と、やっと吹き始めた涼しい爽やかな風を、長く楽しんでいた。ドイツの夏の夕方というのも、とても気持ちのいい時間だったが、チューリッヒでもこの時間はとても素晴らしい時間で、この刻を逃さずに味わうために多くの人が屋外に出てくるようだった。通りにテーブルを並べただけのレストランや喫茶店で、何するともなく、通りを見流している人々も、ただこの刻を、この爽やかな風を味わうためだけに出てきて、コーヒーなりビールなりをテーブルに置いてもらっているようだった。
 ドイツでもそうだったが、夏は夜8時ごろまで、外が気持ちよい。激しかった一日を回顧するための心地よい時間なのだ。

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《ジェノヴァの天気とタウテンブルクの空気》

2017/07/21 02:02
瀬谷こけし

タウテンブルクの野の草 2016年8月17日
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 1882年1月19日の手紙の中でニーチェは先の月々(つまり1881年11月12月あたり)のジェノヴァの天気を三つの言葉で称賛している<frisch, rein, mild>(新鮮で、純粋で、穏やか)の三語である。この三語で天気ないしは空気のよさを言い表すやり方は1882年8月24日の[KSB, 6, Nr. 287]手紙でタウテンブルクの空気を三語で言い表したやり方と似ているが、タウテンブルクについてニーチェはこう言っていた:<klar, mild, kräftig>。訳せば「透明で、穏やかで、力強い」というところだろうか。もちろん主語となっているのは「天気(Wetter)」と「空気(Luft)」で、言葉こそ違うが、言い当てようとしている対象は同じと言ってよいだろう。その両方の原文を紹介しておきたい。ジェノヴァの天気についての表現はバーゼルのオーヴァーベックに宛てた手紙の中のものだ。他方、タウテンブルクの空気についての表現は、ルー・フォン・ザロメ宛のもので、その時まで約三週間一緒にタウテンブルクにいたルーに、渡したか渡そうとしたものと考えられる。

A:
> Das Wetter der letzten Monate war der Art, daß ich nichits Schöneres und Wohlthätigeres aus meinem ganzen Leben dagegen zu setzen hätte --- frisch, rein, mild: wie viele Stunden habe ich am Meere gelegen! Wie viele Male sah ich die Sonne untergehen! [KSB, 6, Nr. 188]より
(先の月々の天気は、いわばわたしの全生涯を探してみてこれ以上に素晴らしく、元気を与えてくれるようなものがあったかと思わせるようなものでした。新鮮で、純粋で、そして温和でした。何時間もわたしは海岸で横になっていたものです! そしてわたしは何度太陽の沈むところを目にしたことでしょう! [拙訳])

B:
> Wie geht es? --- Es gab nie einen schöneren Tag in Tautenburug als heute. Die Luft klar, mild, kräftig: so wie wir Alle sein sollten. [KSB, 6, Nr. 287]より
(ご機嫌はいかがでしょうか? タウテンブルクでは今日以上に晴れやかな日は一日もありませんでした。空気が透明で、穏やかで、そして力強くありました。わたしたち皆もそうありたいものです。 [拙訳])

 このBの手紙でニーチェはルーの彼に対する「英雄主義(Heroismus)」という重要な批判に応答しているのだがその検討はまた別の機会にしたい。Aの手紙ではニーチェはオーヴァーベックにワグナーから遠ざかる気持ちへの理解を求めていて、その結びの部分でこのジェノヴァの冬の日々への称賛を語っているのである。
 穏やかで力強くそして濁りなく透明なタウテンブルクの空気と、穏やかで新鮮で純粋なジェノヴァの空気(天気)。穏やかさは共通しているが、透明で力強いタウテンブルクの空気と、純粋で新鮮なジェノヴァの空気と、どちらがより深い力をニーチェに与えるのだろうか。ジェノヴァの空気は彼に重たい疲労からの回復を与え、タウテンブルクの空気は新しい道を新たに前進して切り開いてゆく力を与えるように思うのだが、どうだろうか?


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《スイスへ、シルス・マリーアへ》

2017/07/14 12:16
瀬谷こけし

トリープシェンのワグナーとコジマの家
いつでも自由に使用できるようにと
この家の二部屋をワグナーはニーチェに提供していた
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写真と解説:ナウムブルクのニーチェハウス


 ほんとはどうやりくりしても海外旅行など無理なところだった。だから今年はほんとはもうあきらめていた。ところがいろいろと思いがけないことが重なって、野田のお祖父さん(清一郎)の遺産の分け前が少し入った。何十万円という程度だ。それで、それがあって、行けるかもしれないという希望が湧いた。しかし調べてみるほどスイスは物価が高い。ローマやベルリンのような節約旅行ができるわけではない。それでかなり絶望的な気持ちになっていた。そしてほぼひと月続いた体調不良。しかし一昨日でその病にもけりをつけるつもりで、晩はアヒージョにした。無理なく、おいしく食べれた。そして昨日は某大学の授業で、今日(体調不良で)一度あきらめてからはじめてネットを探し、フライトと宿を探した。ここ二三日円が高くなっていて、フライトは以前と変わらない値段で手に入れることができた。そしてスイスの物価高に対応するために、滞在日数を減らした。チューリッヒでもまずまず安めの宿が見つかって、予約した。シルス・マリーアでの滞在も5泊間に限ったので、まずまず。ニーチェ・ハウスの近くの宿にこれまで見たこともないような値段で泊まれる宿があって、予約した。十分歩き回れるだろう。
 これで旅行のメインは確保できたが、やはりバーゼルは欠かせない。しかしバーゼルでも、旧市街で、シャワーも共同という古いホテルだが、そこも確保できた。二泊。バーゼル大学も近い。

 だがそこから先はまだ決めていない。ヘルダーリンとの関係でもほんとはボーデン湖をゆったり見てみたいし、また逆にルツェルンの街やトリープシェンのワグナー記念館も見てきたい。帰りのフライトの前日はチューリッヒに泊まるしかないが、この難しい計算を解く解法はあるのだろうか? ともあれ、今回のスイス旅行は、野田のお祖父さんが、「勉強してこい」と言ってプレゼントしてくれたようなものだ。そう思って行ってきたい。



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《拙詠一首:皇子フォーゲルフライ》

2017/07/03 18:54
瀬谷こけし

メッシーナの港
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 前にも紹介したことがあるかもしれない。
 拙詠一首:

> 海峡を白い鴎が群れて飛ぶ皇子(プリンツ)フォーゲルフライのあれが友たち


 去年の三月初めにシチリアのメッシーナで見た光景を詠んだものだ。シチリアではニーチェの『プリンツ・フォーゲルフライの歌』にまとめられた数編の詩を読み理解すべく力を尽くしていた。
 「皇子フォーゲルフライ」はニーチェが自分自身を象徴させた形象で、「フォーゲルフライ」とはいわばアンタッチャブルな存在、どこかで野垂れ死にをしても誰も手を貸すべからざる存在、鳥が食い尽くすままに放置される存在のことだ。そういう皇子であると、ニーチェは自分のことを考えていた。---こんなことも以前紹介したことがあるかもしれないが。

 しかし、メッシーナにとどまる日々の中で、ニーチェには新しい生き方に賭けてみようという気持ちが生まれて来る。それが、パウル・レーやルー・フォン・ザロメなどの新しい彼の弟子と言える人たちとの関わりの中で自分の思想を伝え、また発展させてゆきたいという気持ちだ。そしてこの気持ちを確認して(これは同時にワグナーと決別するということでもあった)ニーチェはローマに向かい、そこでレーやマルヴィーダ(フォン・マイゼンブルク)の推すルー・ザロメと会おうとする。1882年4月下旬のことだ。

 ニーチェの詩「皇子フォーゲルフライの歌」の中には、最後に若い鳥たちが出てくる。メッシーナではほとんど鴎を見なかったのだが、帰りの電車の中でかろうじて、数羽の鳥を見た。多くは浜にひとりで留まっている鳥だった、一回だけ数羽で舞う鴎を見た。ニーチェの思いが確認できた気がした。


 わたしもまた、ニーチェと同じように、新しい若い友たちを相手に、仕事を進めてゆくべきではないのだろうか?


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《この夏》

2017/06/12 21:39
瀬谷こけし


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 今年の夏はシルス・マリーア(スイス)に行こうと思っている。ニーチェが『ツァラトゥストラ』第二部を書いたところに、同じ時期に行っておきたいからだ。シルスに一週間ほど泊まりたいと思っている。今年の春はラパッロ(イタリア)を逃してしまった。そこは10日ほどで『ツァラトゥストラ』第一部を書いたところ。去年8月のタウテンブルクから、あるいはローマのサンピエトロ聖堂から、あるいはメッシーナから、あるいはジェノヴァから、オルタ湖畔のモンテサクロを経て、134年前のニーチェの足跡をたどりたいから。とりわけルー・フォン・ザロメとのつながりと距離とをできるだけ的確に押さえたいと思っているからだ。シルス・マリーアは1881年8月はじめの永遠回帰の体験の場所でもある。ルーと共有していた思想(生と大地の思想)を離れ、永遠回帰の体験こそを自分の思想の本源として確認するために、1883年の夏はシルスに行ったのではないだろうか。そこで『ツァラトゥストラ』第二部を書くのだが、それは第三部の永遠回帰の思想を打ち出すための準備でもあり、整理でもあっただろう。
 それで飛行機を探していると、想定していたバーゼル行きのフライトの本数が少なく、そのため割高になってしまう。こうなるとチューリッヒ着・発で動いた方が割安だ。だがバーゼルは是非行っておきたいので、(そしてできればルツェルンも、そしてイタリアのコモ湖のあたりも)いったいどんな風に予定を組めばいいだろう。1882年の5月に、ニーチェはいったんバーゼルに戻って、それからルツェルンで(ルーたちと)再開している。ルツェルンはニーチェにとって、ワグナーと親密に過ごしたいわば彼のアルカディアだ。そうしてニーチェの土地との関係を掴んでゆきたい。ローマのポリベリエラ通りで、サンピエトロで、オルタのモンテサクロで、タウテンブルクで、ライプツィッヒで、そしてベルリンのグリューネヴァルトで、そうした土地に対するニーチェの感覚をわずかなりとも掴んできた。今年はシルス・マリーアで、そしてスイスの幾つかの場所で、掴んできたい。シルスとバーゼル、とりわけこの二か所。



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《生への讃歌》

2017/04/04 02:33
瀬谷こけし

《生への讃歌》

https://youtu.be/FIOIUlDB5yU




 ルー・ザロメの詩にニーチェが作曲したこの曲、この曲についてルーは「それを彼は、一八八二年の夏、彼が私といっしょにチューリンゲン州のドルンブルクに滞在していた間に、作曲したのだ」と言う(原佑訳『ニーチェ 人と作品』。一語引用者が訂正)。「ドルンブルク」はルーの誤りで、正確にはドルンブルクから3kmあまり離れたタウテンブルクなのだが、それはいい。そのタウテンブルクの牧師館で、夜中、ルーを前にピアノを弾きながらこの曲を作曲していたニーチェの姿が思い浮かぶ。この時ニーチェは37歳のはずだが、曲はまるでこの世を去る間際の作のように聞こえる。もうこれ以上のさとりはなくていいのだ。これを絶頂として死ぬならそれは本望だと、そんな風に。そういうつもりで作曲した曲なのだろう。安らぎもある。
 1882年のタウテンブルクはニーチェにとって生の絶頂と言うべき場所だった。永遠回帰の思想が訪れた1881年のシルス・マリーア以上に。そのときそこタウテンブルクで彼らは多くのことを経験した。それはそこで彼らがひとつの対話であり、たがいを聞くことが成就していたからだ。ヘルダーリンが讃歌「平和の祝い」の核心として表白したことがきっとここでひとつ成就したのだ*。
 そしてルー・ザロメとニーチェの合作になる《生への讃歌》は、ヘルダーリンがつづけて「そしてほどなくわれわれは歌になる」と言う「歌」そのもののひとつではないだろうか?



注*
ヘルダーリンの「平和の祝い」(Friedensfeier)には次のような言葉が読める。
〇Viel hat […] //Erfahren der Mensch;(多くを〔…〕//人間は経験した;)
〇Seit ein Gespräch wir sind und hören voneinander,(われわれがひとつの対話であって、たがいを聞いてよりのち、)
〇bald sind wir aber Gesang.(そしてほどなくわれわれは歌になるのだ。)
とか。ルーとニーチェの《生への讃歌》はヘルダーリンのいう意味での「歌」(Gesang)ではないだろうか?
 そこの箇所つづけて書くと、

Viel hat von Morgen an,
Seit ein Gespräch wir sind und hören voneinender,
Erfahren der Mensch; bald sind wir aber Gesang.
(HÖLDERLIN SÄMTLICHE GEDICHTE, 1992)
多くを朝から、
われわれがひとつの対話でありたがいを聞いてよりのち、
人間は経験した。そしてほどなくわれわれは歌となるのだ。
(拙訳)


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タイトル 日 時
《プリンツ・フォーゲルフライ 日本歌人3月京都歌会》
《プリンツ・フォーゲルフライ 日本歌人3月京都歌会》  今日(3月18日)は午後から京都歌会があった。突っ込んだ議論が交わされ、とても有意義な会だった。普段は出詠歌を歌会の後で変更することはないのだが、今回は変更することにした。変更後はこうだ、 ...続きを見る

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2017/03/19 02:32
《お水取りの十一面観音悔過》
《お水取りの十一面観音悔過》  招待してくれる人があってお水取りに行ってきた(3月10日)。最近はお水取りの「行」の部分に関して、厳しくするようになったようだ。見学に来る人の乱れや安易さに、別当になられた佐川普文さんがたまらなくなったようだ。今日は、見学者の人数も少なく、会式の内容も非常にはっきりと感じることができた。初夜と中夜だけ見て、(早めに)引き上げたが、十分以上に学ぶことがあった。  初夜の行が「十一面観音悔過」から始まるのも初めてだった。その五体投地。板に身を投げる音が響く。---いや、そ... ...続きを見る

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2017/03/11 16:31
《『ツァラトゥストラ』の超人論(1) 大地と没落機械》
《『ツァラトゥストラ』の超人論(1) 大地と没落機械》    はじめに: 「国家の外」という問題 ...続きを見る

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2017/03/10 03:05
《『ツァラトゥストラ』の国家論(3) 「国家の終わるところで」》
《『ツァラトゥストラ』の国家論(3) 「国家の終わるところで」》 北イタリアのオルタのモンテ・サクロのフランチェスコ門 ...続きを見る

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2017/03/05 04:26
《『ツァラトゥストラ』の国家論(1) 「民族論」》
《『ツァラトゥストラ』の国家論(1) 「民族論」》 オルタのモンテ・サクロで ...続きを見る

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2017/02/23 18:32
《『ツァラトゥストラ』の真理の水 これは何なのだろう?》
《『ツァラトゥストラ』の真理の水 これは何なのだろう?》  ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の中に「真理の水」という言葉が(私の知る限り)二度出てくる。いずれも第一部の「三段の変化」と「純潔」の中でだ。その後者の方を紹介したい。 ...続きを見る

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2017/02/20 01:16
《1883年2月13日---『ツァラトゥストラ』の誕生》
《1883年2月13日---『ツァラトゥストラ』の誕生》 写真はジェノヴァから東の半島を遠望。この半島の東端がおそらくポルト・フィーノで、半島の東側付け根の湾がラパッロ) ...続きを見る

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2017/02/14 23:13
《ヘルダーリンの「生の半ば」》
《ヘルダーリンの「生の半ば」》  わたしが30歳ぐらいのことだったと思う。生協の食堂で上田閑照先生をみつけて、少し話したことがある。わたしは最近ヘルダーリンの「H&auml;lfte des Lebens」を読んで考えていると言ったつもりだったのだが、わたしは「H&auml;lfte」の発音に自信がなく、よく通じないようだったので、ヘルダーリンの「命の半ば」を読んで考えていると言いなおしたのだった。  先生は、人生の半ばを過ぎると、後は衰えてゆくばかりだ、という感慨を語られた。主に体力的なことを言って... ...続きを見る

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2017/02/08 03:18
《大きな遺産を相続すること》
《大きな遺産を相続すること》 ワイマールの野 ...続きを見る

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2016/12/08 00:30
《トム・シュルツさんから詩を献呈していただいた》
《トム・シュルツさんから詩を献呈していただいた》 荷車(2016.8.19、タウテンブルクで) ...続きを見る

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2016/10/22 05:38
《タウテンブルクとニーチェの南国熱中時代 ――ニーチェ研究資料1882年(3)》
《タウテンブルクとニーチェの南国熱中時代 ――ニーチェ研究資料1882年(3)》 ニーチェが「パラダイス」と呼んだタウテンブルク その塔へと向かう道 ...続きを見る

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2016/10/07 20:36
《ナウムブルクのマリアの塔》
《ナウムブルクのマリアの塔》  ナウムブルクで現地時間の8月15日午後5時過ぎ、ニーチェ・ハウスを見終えて、その旧市街を包むような深い堀と壁が気になった。どうやら全体が高い壁で囲まれた閉鎖都市だったようだ。その壁がどこまで続くものかが気になって、宿の近くのマリアの塔の裏側も見てみた。はっきりはわからないもののこのマリアの塔の壁面もその閉鎖壁の一部で北東の角にあたるようだ。町の東側北の壁にはマリーエンマウアーという名がついている。ちなみに旧市内の南東内側に位置するニーチェハウスは、ヤーコ... ...続きを見る

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2016/09/11 06:56
《ニーチェ研究資料1883年(1)−ロバの歩み》
《ニーチェ研究資料1883年(1)−ロバの歩み》 ナウムブルクのニーチェハウス このときニーチェはジスル=マリーア、妹エリザベトはナウムブルク ...続きを見る

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2016/09/06 17:00
《ゲストハウス[Zur Tautenburg] 最後の夜》
《ゲストハウス[Zur Tautenburg] 最後の夜》  タウテンブルク滞在の最後の夜、その日は夕食を屋外でとった。気持ちがよいのでそうしたのだが、この晩はやや曇り気味で、星も一つしか見えなかった。タウテンブルクは知る人も知るヨーロッパ最大の望遠鏡(ツァイス製の2mの反射望遠鏡)のある場所で、ヨーロッパの各地から天文学の研究のためここに滞在してゆく人がいるという。それほどに空のきれいなところ、空気のきれいなところなのだ。 ...続きを見る

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2016/09/02 13:42
《ライプツィッヒ・アウエルンシュトラーセ 26》
《ライプツィッヒ・アウエルンシュトラーセ 26》 《Auenstra&szlig;e 26》 ...続きを見る

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2016/08/27 17:27
《ニーチェが死んだ》
《ニーチェが死んだ》  8月23日、ワイマールのニーチェ・アルヒーフに行った。あまり色々なものはないところだという印象だった。ニーチェの死後の出来事にわたしはあまり興味がない。  展示室に『ニーチェ・クロニーク』という本が置いてあった。最近の研究者ならだれでもが座右に置いている本ではないかと思うが、わたしは持っていない。見せてもらってその死に近い日々を読んでいた。館のおばさんに「今日8月23日はニーチェが最後の処方箋を書いてもらった日ですね?」と尋ねた。「Rezept」の語を繰り返さ... ...続きを見る

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2016/08/24 10:06
《タウテンブルクへの旅が終わった》
《タウテンブルクへの旅が終わった》  朝10時57分の電車でドルンブルクの駅を発ったところで私のタウテンブルクへの旅は終わった。1882年といえば134年前ということになるが、その年の8月26日にルー・ザロメもまたドルンブルクの駅を去り、その翌日にはニーチェもここを発った。彼らにとっては、この先にまだつながっている共同研究の企画があった。それを台無しにしたのは嫉妬に駆られて手が付けられなくなったパウル・レーだった。そのころのレーの手紙は、幼稚で、どうしようもない。ああいう手紙を見れば、ルーの心もレーから決定的に離れるだろう... ...続きを見る

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2016/08/21 04:23
《城山の風》
《城山の風》 (写真の中央に見える建物の位置に1882年8月14日にニーチェとルーが入ったレストランがあった; シャウマン教授のご教示) ...続きを見る

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2016/08/20 06:44
《ニーチェ》
《ニーチェ》  ナウムブルクに行ったのは、ニーチェが少年時代を過ごした場所を、そしていわゆる精神錯乱後に母親に心づくしのいたわりを受けながら過ごした場所を見て、そして感じておきたかったからだ。大都会ではなく、あの巨大なドームがあり、かつまたヒルデブラントのオルガンのあるヴェンツェル教会のある特別な環境のまさにその中で成長した人間として見ておきたかったし、またいわゆる狂気におちいったあとのほんとの姿はどんなものだったかを、考えるきっかけがほしかったからだ。幸い、「ニー... ...続きを見る

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2016/08/17 07:17
《カラヴァッジョ》
《カラヴァッジョ》  イタリア人アンジェロ・ロンゴーニ監督のこの『カラバッジョ』は、あのイギリス人の監督作品よりはるかに面白い。カラバッジョの時代の権力状況の追跡が相当行き届いているし(例えばジョルダーノ・ブルーノの処刑シーンを見つめるカラヴァッジョやマルタ騎士団のローマ社会における位置も適切であるように思う)、しかしそれ以上に、芸術家の生き方の本質をきちんと描いていると思う。それはニーチェ風に言えば一本の矢、あるいは一本の槍というようなことだ。彼の場合には光と物との関係の最もデリケートなと... ...続きを見る

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2016/07/18 01:47
《水汲み》
《水汲み》  一昨日(7月14日)水汲みに行った。ほんとは花背峠で水を汲んで、それから久しぶりに大見尾根を歩いてみようと思ったのだが、途中鞍馬にかかるころから雨が降り出した。せっかくの水汲みの水に降り出しの雨が混じるのはいやだったので、水汲みはもっと奥の芹生へ行くことにした。そして大見尾根歩きはあきらめた。水汲みはわたしにとって、コーヒーを淹れるための水として、そして米を研ぐときの最初の水として、蓄えがなくなる前に必ず行くことにしている。米はこうして研ぐと、水道水... ...続きを見る

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2016/07/17 00:44
 《『ニーチェの馬』---これは一体どこの生活習慣?》
 《『ニーチェの馬』---これは一体どこの生活習慣?》  この『サクリファイス』(タルコフスキー)の二番煎じのような映画をわたしは好まない。2011年ハンガリーの作品。監督はタル・ベーラという。第61回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品だという。国際批評家連盟賞も受賞しており、いわば鳴り物入りで評論家たちの頭の中をかけまわっている映画だ。しかし少しも面白くない。   しかし見るところがないわけではない。例えば馬の横に轅をつなぐ馬車の繋ぎ方。馬小屋の扉の作り。荷馬車小屋の作りと格納及び引き出しのやり方。毎食ゆでたジャガイモ一つだけの食事、そういった... ...続きを見る

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2016/06/10 23:05
《メッシーナ・オレンジ》
《メッシーナ・オレンジ》  1882年4月20日づけの手紙の中でパウル・レーはニーチェに次のように書いている。  「親愛なるメッシーナ男へ!   いとも美しく、樹液豊かで、よく整地されたメッシーナ・オレンジの畑よ、万歳! そしてそこのオレンジの木々が落とすただひとつの影の面が、実在しますように! そんなことがありうるんだね! 大兄はこの行動でなによりもあの若いロシア女性をびっくりさせ、悩ませてしまった。というのも彼女は大兄に会って、話をしたくてうずうずしていたんです。それで、彼女はジェノヴァ経由で... ...続きを見る

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2016/04/08 20:39
 《ジェノヴァ1》
 《ジェノヴァ1》  ニーチェはどうしてジェノヴァから、突然メッシーナに向かったのか? この海の写真を見ていると、その答えがなんとなく見えてくる気がする。シチリアはまっすぐこの先にある、という感覚。試してみたくなる気持ち。  そこにもう一つ、コロンブスから学んだ冒険への意志。  そうしたものではないのか? ...続きを見る

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2016/03/26 02:30
《ポルヴェリエラ通り6番》
《ポルヴェリエラ通り6番》 《ポルヴェリエラ通り6番》  午前中で、明日からのシチリア行きの飛行機と宿の手配ができたので、午後からあのマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク女史の住居のあったポルヴェリエラ通り6番の地を探しに出かけた。一昨日とは違う通りを通ったので、「明日香村」は通れず、少し道に迷った。今どこにいるかを確認するのが、いつも難しい。ある広場のベンチに腰掛けて、地図を開けて確かめ始めると、隣に座っていた女性が「ツーリストで道を探しているのが」と(たぶん英語で)声をかけてくれた。ここに行きたいのだと、「Tou... ...続きを見る

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2016/03/01 14:56
《マルヴィーダがコモ湖への旅で考えたこと》
《マルヴィーダがコモ湖への旅で考えたこと》  1876年6月3日、イタリア北部のコモ湖で、朝8時から四時間の湖上遊覧を楽しんだ後、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークはその日の手紙で若い友人パウル・レーに次のような考えを語っている。この手紙からはマルヴィーダの、沈着冷静に世のすべて、ひとの活動のすべてに眼差しを注いでいる姿がとてもよく伝わってくる。この彼女の意見は今日でも有効なものだ思う。私がふと思うのは、都会の中にも静安の場所というところもあって、創造的な思索のためにはそういう場所が必要ではないかということだ。私にと... ...続きを見る

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2016/01/15 03:20
《フリードリッヒ・ニーチェの永遠回帰の思想》
《フリードリッヒ・ニーチェの永遠回帰の思想》  昨日今日と(やっとつける時間がとれて)「哲学」のスクーリングのレポートを採点していたが、今回は、永遠回帰の思想の恐ろしさを、如実に感じたということを示してくれたレポートが何通かあった。こんなことは私が記憶する限り初めてのことだ。だからそれについて、その恐ろしさについて、きちんと書いておきたいと思っている。そのほんとうの恐ろしさ---それを多分ピエール・クロソウスキーも誤解している。それは自らの「死」から「次のおなじ生への回帰」までの時間経過の問題なのだが。クロソウスキー... ...続きを見る

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2015/07/06 21:03
《ニーチェから賢治へ ---献身と計算》 レジュメ--- 退任特別講義「哲学の時」
《ニーチェから賢治へ ---献身と計算》 レジュメ--- 退任特別講義「哲学の時」 《ニーチェから賢治へ ---献身と計算》 レジュメ 退任特別講義「哲学の時」 2015年3月21日 京都造形芸術大学人間館NA412 ...続きを見る

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2015/03/21 09:25
《ニーチェから賢治へ 資料5 補足『ツァラトゥストラ』》
《ニーチェから賢治へ 資料5 補足『ツァラトゥストラ』》 ○Zar,IV, Der h&auml;sslichste Mensch(『ツァラトゥストラ』IV、「最も醜い人間」 > Aber er musste sterben: er sah mit Augen, welche Alles sahn, --- er sah des Menschen Tiefen und Gr&uuml;nde, alle seine verhehlte Schmach und H&auml;sslichkeit. [...] > Der Gott, de... ...続きを見る

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2015/03/21 08:58
《ニーチェから賢治へ 資料3 ---間奏曲:ポトラッチ》
《ニーチェから賢治へ 資料3 ---間奏曲:ポトラッチ》  文化人類学事典はポトラッチ(potlatch)についてその通常の意味を次の様に説明している。 ...続きを見る

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2015/03/19 14:14
《ニーチェから賢治へ 資料2 ---ニーチェとルーの聖なる遊び:生への献身》
《ニーチェから賢治へ 資料2 ---ニーチェとルーの聖なる遊び:生への献身》 ◇ところでニーチェが遺した彼の考案になる聖なる遊びは何だったのだろう? 文章においても、そうしたものを幾つか上げることができるが、彼が作曲した《生への讃歌》(Hymnus an das Leben)はその最上のものの一つとみなせる。それについて数年後彼はこう語っている。 ...続きを見る

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2015/03/17 00:32
《ニーチェから賢治へ 資料1補足「余談」 ---神の死:危険な開口部が生れた》
《ニーチェから賢治へ 資料1補足「余談」 ---神の死:危険な開口部が生れた》   余談 ...続きを見る

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2015/03/16 01:14
《ニーチェから賢治へ 資料1 ---時代と課題》
《ニーチェから賢治へ 資料1 ---時代と課題》 ○山中智恵子『みずかありなむ』「会明」 >膚(はだへ)立つ杉の深処(ふかど)に神をみず 金山毘古(かなやまびこ)は嘔吐(たぐり)の神ぞ ...続きを見る

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2015/03/10 20:52
《半歩先、一歩先、もっと先》
《半歩先、一歩先、もっと先》  世の中、半歩先のことを言う人は感心され、尊敬される。半歩先を言うためには、すでに言われていることを器用にアレンジするだけでよいのだ。だがほんとうに一歩先のことを言うと排斥され、侮蔑され、石を投げられる。真実には必ず本質的に耳に痛いことが含まれているからだ。変わらなければならない、というメッセージがあるからだ。そしてさらに二三歩先のことになると、あまり排斥されないのだが、そもそも何も理解されない。何を言っているか分からないから、排斥もされずまともに相手にもされない。神が死んだというメッセージ... ...続きを見る

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2015/01/04 13:21
《善悪の彼岸》
《善悪の彼岸》 [AL DI LA' DEL BENE E DEL MALE]を観た。リリアナ・カヴァーニのフィルム。イタリア語が分からないので細かいことは分からないが(日本語字幕もない)、最後がルーもまたモンテ・サクロの思い出を奮えるように美しい瞬間として思い出しているという終り方はいい。最後に馬車に同乗している青年はリルケか? 恋は十年。いのちを滅ぼす。  いや、少し違う。むしろ十年のいのちを(=時を)与える。 ...続きを見る

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2014/12/14 21:44
《ヘッセの詩:「眠りにつこうとして」》(Beim Schlafengehen)
《ヘッセの詩:「眠りにつこうとして」》(Beim Schlafengehen) Beim Schlafengehen Hermann Hesse ...続きを見る

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2014/07/26 10:42
哲学コラム5  神の視線と草木虫魚
哲学コラム5  神の視線と草木虫魚  「哲学」の講義では、毎年ニーチェの「神の死」の概念を語るために『悦ばしい知識』の序文の次の語りを紹介している。 ...続きを見る

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2013/11/14 20:00
秋の日
秋の日  昨日は久しぶりの休日だった。たいしたことをしていない。「ふたばや」が休業日らしく閉まっていたために、予定が狂った。それで市原野に行った。---透明で穏やかな秋の日差し。どこかで「あと二日の南国のような日差しを彼らに与えて下さい」というリルケの言葉がひびく。ルー・ザロメとJ.H.マッケイ(「モルゲン」の作詞者)の間に交流があることを知ったのは、ルーの『回想録』の中でだった。ニーチェとR.シュトラウスをつなぐ糸の一つだ。「モルゲン」の中にはニーチェの本質的な影が落ちていないか? とりわけその"... ...続きを見る

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2013/09/18 14:24
間違った選択をしたと
間違った選択をしたと 考えるカミキリムシ (ラミーカミキリ) ...続きを見る

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2013/06/02 22:56
ヘンリー・パーセル(Henry Purcell)の紹介2  "O Let Me Weep"
ヘンリー・パーセル(Henry Purcell)の紹介2  "O Let Me Weep" パーセルで二番目に紹介するのはこれ。 ピナ・バウシュの《Caf&eacute; M&uuml;ller》の意味もこの曲から考えるべきではないかと思う。 これにデリダの「すべての他者はまったき他者だ」という命題を付加すると、古い神は死んだ、これからは我々自身が神々にならねばならない、というニーチェの思想が読み解けるようになるでしょう。 ...続きを見る

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2013/05/31 03:19
《ノルウェーの幻想》--1.Fandango
 「ノルウェーの幻想」というか、"fantaisie norv&eacute;sienne" をあてもなくまとめてみようというシリーズ。村上春樹の『〜の森』を源にしている、と言っておこう。---実際には、スペイン風の舞曲やら勧進帳やら、あたりかまわずの寄せ集めの感が強いが、ニーチェに倣っていうなら、汝の足下にあるのは地獄(H&ouml;lle)ではない、というメッセージをイメージにしたものだ。あるいは、地獄ですらない、と言うべきか。  初回はロドリーゴとカルロス・ボーネルに敬意を表して"F... ...続きを見る

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2013/05/17 09:29
《生への讃歌》 拙訳つき
 フリードリッヒ・ニーチェ作曲、ルー・ザロメ作詞の《生への讃歌》(Hymnus an das Leben)の、楽譜上の文字テキストを起したものと、その拙訳を紹介します。併せて参考に、ルー・ザロメの《生への祈り》(Lebensgebet)のドイツ語テキスト(『回想録』のもの)と、その市販訳本日本語訳と拙訳を紹介します。  誤りを含め、お気付きの点があればお知らせいただければ幸いです。 ...続きを見る

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2013/05/09 12:51
《初夏の野の草の色》
 いつもの市原の野。しばらく行ってなかったが。 ...続きを見る

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2013/05/08 00:08
ニーチェのビゼー論(2)(『ヴァ-―グナーの場合』抜き書き)
 昨日の夜から喉風邪を引いて、何もまともに考えることが出来ない。単純作業として、ニーチェの『ヴァーグナーの場合』(原佑訳、ちくま学芸文庫)からの抜き書き、他。 (注、ニーチェがここで語っているのは、ヴァグナーの音楽ではなく、ビゼーのカルメンのこと。誤解ないように) ...続きを見る

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2013/04/24 22:36
ニーチェのビゼー論(1)(『ヴァ-―グナーの場合』抜き書き)
 ニーチェの『ヴァーグナーの場合』(原佑訳、ちくま学芸文庫)からの抜き書き、他。 ...続きを見る

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2013/04/23 02:35
近代の本質 ---『ヴァーグナーの場合』から
 ニーチェのこの近代の本質の捉え方は重要だ。とりわけわれわれがこの克服のためにどのような方途を取りうるのかを考えるために。無差異的な自然回帰などではないのだ。 ...続きを見る

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2013/04/11 03:12
《友情への讃歌》(HYMNUS AN DIE FREUNDSCHAFT)
 ルー・ザロメ/ニーチェの《生への讃歌》ないしは《生への祈り》を「友情への讃歌」と解釈する人間がいる。それが誰かを正確には知らないが、そのタイトルの曲を演奏しているのはJOHN BELL YOUNGだ。よい演奏だと思う。  だがそれ以上に、このタイトル《友情への讃歌》(HYMNUS AN DIE FREUNDSCHAFT)という翻案には、一層すばらしい着想があるように思う。少なくとも、ルーが自作の詩「生への祈り」で言おうとしている「生」は、ほぼ友情に近いものに思えるからだ。このことについて... ...続きを見る

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2013/04/07 23:55
ビゼーの《カルメン》--ニーチェの『ワグナーの場合』を読むために
 まずは最終場面のドンホセがカルメンを自らの手で殺すところから: http://www.youtube.com/watch?v=BJpTzRG1D30&feature=share&list=PL4FEAF05D7E2B4AD9 ...続きを見る

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2013/04/05 03:03
フリードリッヒ・ニーチェの《クリスマスオラトリオ序奏》
演奏: http://youtu.be/GPX8xBp7rJI ...続きを見る

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2013/04/04 02:35
ルー・ザロメの《生への祈り》 拙訳--(《生への讃歌》7)
Lou Salom&eacute;の&gt;  ルー・ザロメ(Lou Salom&eacute;)の《生の祈り》(Lebensgebet)の原文と拙訳を示し、若干の解説をする。まずはルーのテキストから。典拠とするテキストは、Lou Andreas-Salom&eacute;, Lebensr&uuml;ckblick, Verlag tredition GmbH, Hamburgである。詩はその32頁にある。 ...続きを見る

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2013/03/25 23:20
ニーチェのインスピレーションとリズム2(『この人を見よ』)
 ニーチェが自分のインスピレーション体験について記している『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」3は、ニーチェの文章の中でも破天荒なことこの上なく、ドイツ語としてぎりぎりまでメチャクチャに近い文章だと思う。といっても、ぎりぎりの約束ごとは守られており、読めないドイツ語ではないのだが、省略、飛躍に満ちみちていて、解読も解説も容易でない。先に川原栄峰の日本語訳を紹介したが、これはこれで訳として立派なものだと思うのである。今問題にしようと思っている箇所を、再び引用しよう。今度はドイツ語を先にして。 ... ...続きを見る

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2013/03/19 02:38
ニーチェのインスピレーションとリズム(『この人を見よ』)
 ニーチェは『この人を見よ』の中で、自分のインスピレーションの経験を記しているが、これは直観音楽の演奏と非常深く共通し、示唆多く、そして重要なテキストだ。広く紹介しておきたい。  まずは、「リズム的な諸関係の本能」と呼んでいるものについて。 ...続きを見る

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2013/03/18 01:35
生の全体性 ルー・ザロメ『回想録』のエピグラフから
 ルー・アンドレアス-ザロメの『回想録』のエピグラフを訳し、紹介したい。  まずドイツ語から。 ...続きを見る

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2013/03/13 20:39
《生への讃歌》6 検討2 --<<Raetselleben(謎の生)>>とエロス
検討2 &gt;  本来ならルー・ザロメの《生の祈り》(Lebensgebet)の拙訳を試訳としてでも示すべきなのだが、おそらくルー自身が特別な創意によって作った合成語について、多少面倒でも検討をしておかなければならないので、今回も「検討」を中心にする。基本にするテキストは、Lou Andreas-Salom&eacute;, Lebensr&uuml;ckblick, Verlag tradition GmbH, Hamburgである。詩はその32頁にある。 ...続きを見る

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2013/03/12 15:24
《生への讃歌》5 検討1 <<Lebensgebet(生の祈り)>>
 ルー・ザロメの『回想録』(Lebensr&uuml;ckblick)の中の&gt;(生の祈り)という詩について検討する。その際典拠とするのは、Lou Andreas-Salom&eacute;, Lebensr&uuml;ckblick, Verlag tradition GmbH, Hamburgである。詩はその32頁にある。 ...続きを見る

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2013/03/11 22:45
《生への讃歌》4 『神をめぐる闘い』の中の《生の祈り》
 ルー・ザロメは1885年の著作『神をめぐる闘い』(Im Kampf um Gott …)の第五章の終わりの所で、&gt;(生の祈り)というタイトルの詩を紹介している。これは、彼女が晩年『回想録』の中で提示している同名の詩とかなり違っていて、むしろニーチェが作曲した&gt;(生への讃歌)の歌詞と非常に近いものだ。便宜のためにまずその詩を紹介しておく。 ...続きを見る

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2013/03/11 03:38
《生への讃歌》3 ルー・ザロメの《生の祈り》と《生への讃歌》
 ルー・ザロメの『回想録』(Lebensr&uuml;ckblick)から&gt;&gt;Lebensgebet&gt;Hyumnus an das Leben&gt;LebensgebetLebensgebet ...続きを見る

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2013/03/05 23:52
《生への讃歌》2 --ルー・ザロメの『ニーチェ 人と作品』から
 やはりはじめにドイツ語を上げておく。 > Je h&ouml;her er sich, als Philosoph, zur vollen Exaltation der Lebensverherrlichung erhob, je tiefer litt er, als Menschen, unter seiner eigenen Lebenslehre. Dieser Seelenkampf, die wahre Quelle seiner ganzen letzt... ...続きを見る

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2013/03/04 02:10
《昨日の月と夕日--- 大学から》
 この月が満月になると小正月。だが小正月には何をするのか?  昔であれば一年の予祝行事だろう。  この時代、この年には、何をすればよいのか? 歳神さまに期待できる何があるというのか?  戦争の愚を避けてほしいということ? 多国籍巨大企業のなすがままにされる国にしないこと(TPP他)? どうも、歳神さまはあんまり本気で考えてくれそうにない。  では何をすればよいのか、小正月には? ...続きを見る

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2013/02/22 11:24
『この人を見よ』の中の《生への讃歌》について
 ニーチェの『この人を見よ』の中の《生への讃歌》についての記述を紹介しておく。はじめにドイツ語で。 ...続きを見る

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2013/02/20 01:57
生への讃歌
 「生への讃歌」のテキストを紹介しておきます。意外とこのテキストは手に入れにくいものだと思います。原典はライプツィヒのフリッチュ社から発行された楽譜です。今は注釈も、日本語訳もつけずに、原典の紹介を旨とします。役立てていただければ幸いです。 なお全体を一度見直しましたが、まだ誤りがあるかもしれません。お気付きの方はご指摘いただければ幸いです。 ...続きを見る

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2013/02/10 02:08
神の死について考えるために(1)
 神の死について考えたい。しかし、問題を明確にしておかなければならない。神も、神々も、それをわがものとする力に応じて多様であり、神の死も神々の死も、同じく多様である。だが神の死の問題として重要なことは多くない。それは、ある決定的な歴史の分岐、ないしは切断の点として、重要なのである。神の死によって死んだもの、それはまず第一に人間のある種のメンタリティーであり、神の生を前提にして支えられていた関係の有り様である。  はじめにニーチェを取り上げるべきであるが、彼が神の死について語っていることは、... ...続きを見る

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2013/02/10 00:16
ホイットニー・ヒューストン もう一度
 歌詞(Lyrics)つきの映像が見つかったので再録。歌詞はわたしが買ったCDにも付いていたはずなのだが、車の中に置いているうちに、ケースが壊れて、紛失してしまった。 ...続きを見る

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2012/07/23 01:33
無縁のひとはたとへ…
 伊東静雄の詩の一行だが。 ...続きを見る

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2012/07/22 13:00
『笈の小文』(芭蕉)の芸術論を確認しておこう
芭蕉の『笈の小文』の芸術論を確認しておこう。 ...続きを見る

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2012/05/29 09:52
戦わないこと(四) 「わたしは生かされている」 FW. 276.  ――「ニーチェ探検」(2−4)
この『悦ばしい知識』(Die Fr&ouml;liche Wissenschaft) 276のアフォリズムからもうひとつ引いておこう。 ...続きを見る

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2012/04/19 22:48
ナウシカアの別れの言葉
>「ではお客様、御機嫌よう、国へお帰りになっても、いつかまたわたくしのことを思い出して下さい、誰よりも先にあなたの命をお助けした御縁があるのですから」。 (『オデュッセイア』第8歌、松平千秋訳、岩波文庫) ...続きを見る

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2010/11/07 05:01
ニーチェの言葉---高山樗牛の原典
次は高山樗牛の言った言葉だそうだ。 ...続きを見る

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2010/10/05 20:46
「森の聖者」 "Einsiedler", "Zweisiedler"(ツァラ・ゼミ14)
新年度の「ツァラトゥストラ・ゼミ」が始まってもう数回目になる。ここで前々から書いておきたいと思っていた序説2の「森の聖者」のことを記しておく。ちなみに表題の中の”Zweisiedler”の言葉は『ツァラトゥストラ』第4部に出てくる。 ...続きを見る

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2009/06/01 13:34
「超人」の教えは「大いなる軽蔑」を含む (ツァラ・ゼミ13)
京都造形芸術大学(通学部)の「総合演習・ツァラトゥストラを読む」の授業が昨日で終わった。演習で学生たちと議論を交わしていると、どんな風な語りをすれば話が通じやすくなるか、問題が共有されるようになるかということが少しずつわかってきて、わたしにとってもおおいに勉強になる。もちろん、『ツァラトゥストラはこう言った』の中でニーチェが何を言っているか、何を語っているかを読み解く授業であるから、「語りかた」といっても、テキストを離れた議論ではない。テキストのここのところをきちんとアクセントをつけて読めば... ...続きを見る

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2008/07/23 09:29
山田晶先生からいただいた一通の手紙
 山田晶先生から一度お手紙をいただいたことがある。一九九七年のことだ。拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』をお届けさせていただいた、そのご返事としてである。わたしはそのお手紙にずっと励まされてきた。以下その文面を紹介させていただきたい(上はそのコピーである)。 ...続きを見る

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2008/06/30 21:36
わたしは人間を愛しているのです (ツァラ・ゼミ 10)
わたしは人間を愛しているのです (ツァラトゥストラ・ゼミナール10) ...続きを見る

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2008/05/21 00:09
カッコを付け直してみる (ツァラ・ゼミ 9)
先に「ツァラ・ゼミ 5」 http://25237720.at.webry.info/200711/article_14.html で語ったことだが、ここで議論をもう少し分かりやすくしておこう。 『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(岩波文庫、2006年7月5日、第63刷)の中で、氷上英廣氏は次のような訳を示している。 ...続きを見る

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2008/05/20 00:26
Ein Buch fuer Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8)
ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討するためにはドイツ語の原文に戻って点検しなければならない。このブログでは、前と同じように、論を進めてゆく。日本語がわかれば論旨は理解ができるようにするが、その論証... ...続きを見る

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2008/04/17 20:45
隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2
(承前) デリダはこう言っている。マタイ伝6-6の「隠れたところで見ておられる父は……」(共同訳)を註釈して語っているところにおいてである。(ちなみに邦訳『死を与える』ちくま文庫p.186の「in absconditio」は「in abscondito」の誤り。また、"abscondito"は対格ではなく奪格なので、それを「隠れたことを見ておられる」とする訳も誤りであろう) ...続きを見る

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2008/02/28 22:45
距離のパトス ニーチェ対デリダ1
(承前) われわれはここでひとつニーチェを紹介しておかなければならない。「距離のパトス」(Pathos der Distanz)。この概念である。われわれは「距離」の感情をもって関係し合うのである。そして「絶対的な隔たり」(デリダの「まったき他者」"tout autre")とはいつも錯覚であり、妄想であり、あるいは便宜であり、実用的のための道具である。 ...続きを見る

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2008/02/27 00:13
「きみたち」(lasst !):ニーチェの代名詞の技法 (ツァラ・ゼミ 7)
 今日(2008/1/11)の授業で初めて気がついたことがある。思想としてさほど重要なことではないのだが。テクニックとして、技法として、やはり見逃せない。  それは"nun lasst uns ihn auch sehen!"の"lasst"だ。  氷上英廣さんはそこをこう訳している:「さあ、実際にやって見せてくれ!」だ。この訳だと氷上さんもそれに気づいているかよくわからない。ちなみにそこのところ吉沢伝三郎氏(ちくま学芸文庫)の訳は「今度はわれわれに綱渡り師を実際に見せてくれ!」であり、... ...続きを見る

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2008/01/14 20:13
ニーチェ論の余白に
子供たちに時には美味しいものを食べさせてやりたい。わたしにはこれが非常に大きな喜びだ。そして肉は美味しい。旧石器時代の男たちもそういう喜びを感じながら獣を捕え、倒していたのだろう。  そのことを肯定できない人は、自分がこの世に生きていることも肯定できないだろう。 ...続きを見る

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2008/01/09 21:38
いきなり超人 (ツァラ・ゼミ 6)
 今回は少し飛んで序説の3の方を見てみよう。とはいえとりあえず序説の2が「この年老いた聖者は自分の森の中にいてまだそのことについて何も聞いていないのだ、つまり神が死んでいるということについて」という容易ならぬ言葉で終わっていることだけは確認しておく。 ...続きを見る

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2007/12/05 03:11
「ツァラトゥストラ」と「あなた」 (ツァラ・ゼミ 5)
 『ツァラトゥストラはこう言った』の序説2でわたしが悩むのは人称代名詞の問題だ。こんな悩みは並外れていて、どうにも共感しにくいものかもしれないが、『ツァラトゥストラ』を舐めるように読んでゆくと、どうしても気にならざるをえないことなのだ。  ところで、後半の「われわれ」が誰のことなのかというのが問題になるのは当然のことで、わたしも次に考えたいと思うのだが、わたしとしてはそれ以前に悩んでしまうところがあるのだ。その箇所をはじめに氷上英廣さんの訳で紹介しておく。 ...続きを見る

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2007/11/22 22:46
ツァラトゥストラは変身し…… テキストの紹介 (ツァラ・ゼミ 4)
 『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の2でニーチェがツァラトゥストラの「変身」について語っているところのテキストを紹介しておきます。 ...続きを見る

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2007/11/22 00:37
ツァラトゥストラは子どもになった 交流とは変身すること? (ツァラ・ゼミ 3)
交流というのは、結局のところ、国際交流も、動物や植物との交流もふくめて、相手にむかって、成ること(werden, devenir)、変身すること(sich verwandeln)、ではないのか?  ...続きを見る

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2007/11/21 22:21
ツァラトゥストラの「祝福」(segnen) それは贈与か交換か肯定か? (ツァラ・ゼミ 2)
『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1はニーチェ的な贈与の問題を語っている。そのエッセンスを捉えてみよう。 ...続きを見る

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2007/11/11 12:47
ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している (ツァラ・ゼミ 1)
『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1の最後に、こんな言葉があった。 ...続きを見る

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2007/10/26 04:23
愚人 …… Verschwender mit tausend Haenden
愚人 Verschwender mit tausend H&auml;nden ...続きを見る

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2007/08/17 13:40

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