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みんなの「ツァラトゥストラ」ブログ


《『ツァラトゥストラ』の超人論(1) 大地と没落機械》

2017/03/10 03:05
瀬谷こけし


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   はじめに: 「国家の外」という問題

 先にわれわれは『ツァラトゥストラ』の「国家=新しい偶像」論を一通り見た。そこでも国家の「外」というものが考えられていたのだった。その「外」は「大地」に拠りどころを持ちつつ、大地の上のどこかの座(Sitz)において、空を仰ぎ、そこに虹を見出し、そして超人への促しに目覚めさせられるべき場所だった。しかしその時、その「国家の外」の場所において超人はどのように働くべきものなのだろうか? 超人の概念が導入され、その要点が説かれるのは『ツァラトゥストラ』の「序説」の三と四においてである。そこで超人は人間の存在を綱渡り見る把握と関連させられつつ、「超人は大地の意味である」(der Übermensch ist der Sinn der Erde )とか、「超人はあなたがたの大いなる軽蔑がそのなかに没することのできる大海である」(… der(=der Übermensch) ist diess Meer, in ihm kann eure grosse Verachtung untergehn)とか言われている。これらの言い方において注目すべきことは、超人が人間の没落(untergehn)との関連において語られていることである。人間は、自己目的ではなく、橋であり(eine Brücke und kein Zweck ist)、過渡であり、没落することこそ本来的なこととされているのである。「人間とは、一本の綱であり、[…]一個の危険な途上なのである」(Der Mensch ist ein Seil, [...], ein gefährliches Auf-dem-Wege)。
 『ツァラトゥストラ』」の超人論において、人間の存在はいわばインテルメッツォ、間奏曲である。そしてこの間奏曲性において、人間は国家の外にあり、没落に本来的に隣しているのである。そして、このようなツァラトゥストラの教えが人間にとって避けることのできないある必然的な強制力を捉えているとすれば、われわれはその教説を「没落機械」として分析することができるだろう。


1.大いなる軽蔑の時

 それではこの「没落機械」はどのように作動するのだろうか? それを説明するために『ツァラトゥストラ』は「大いなる軽蔑の時」(die Stunde der grossen Verachtung)、という概念を導入する。

> あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか? それは「大いなる軽蔑」の時である。あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪をおぼえ、同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。(『ツァラトゥストラはこう言った』第一部、「ツァラトゥストラの序説」3、氷上英廣訳、岩波文庫。以下同じ。「序説」4も参照のこと)
> Was ist das Grösste, das ihr erleben könnt? Das ist die Stunde der grossen Verachtung. Die Stunde, in der euch auch euer Glück zum Ekel wird und ebenso eure Vernunft und eure Tugend. (『Also sprach Zarathustra (German Edition)』Kindle。以下同じ)

おのれの幸福に対して嘔吐をもよおし、おのれの理性に対しても、またおのれの徳に対しても嘔吐をもよおす時、それが「大いなる軽蔑の時」と呼ばれる「時」である。それは耐えがたい嘔吐感によってすさまじい自己嫌悪に苦しめられる恐るべき時である。その時ひとはおのれの幸福やおのれの理性、おのれの徳など、おのれの誇りにするものの貧弱さ(Armuth)、不潔さ(Schmutz)、満足のみじめさ(ein erbärmliches Behagen)に耐え難くなるのである。

> あなたがたがこう言う時である、「わたしの幸福は何だろう! それは貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」
> Die Stunde, wo ihr sagt: "Was liegt an meinem Glücke! Es ist Armuth und Schmutz, und ein erbärmliches Behagen. Aber mein Glück sollte das Dasein selber rechtfertigen!"

 すぐに見て取れることだが、ひとは「おのれの幸福」のこのようなみじめさに嘔吐をもよおすとき、同時に「幸福」の本来のありようを、本来の姿として、はっきりと自覚的に把握しているのである。わたしの幸福は、本来、現実の存在(Dasein)そのものを是認する(rechtfertigen)ものであるべきなのである。おのれの満足への軽蔑とおのれの本来性への目覚めとが、この「大いなる軽蔑の時」においては同時に生じる。「自己への軽蔑」と「自己の本来性への目覚め」という相異なる二つの方向性が、一体で分かつことのできないものとして、この「大いなる軽蔑の時」というステージにおいて、同時に生じるのである。この経緯は、「おのれの幸福」のみではなく、「おのれの理性」「おのれの徳や善悪」「おのれの正義」「おのれの同情」についても同じである。これらの小ささ、貧しさ、不潔さ、みじめさなどの、自己軽蔑の対象となる咎は「罪」ないしは「罪過」として(ドイツ語で「Sünde」として)概念化されるが、しかしそうした「罪」が自覚され、「罪」そのものが声を上げることは稀である。

> あなたの罪が天の審(さば)きを求めて大声をあげているのではない。叫んでいるのはむしろあなたがたの自己満足だ。あなたがたの罪のけちくささそのものだ!
> Nicht eure Sünde - eure Genügsamkeit schreit gen Himmel, euer Geiz selbst in eurer Sünde schreit gen Himmel!

 おのれの罪が天へと叫びを上げるということは稀で、ひとびとが天へと叫びをあげる時ですらその叫びを発しているのはおのれの自己満足であり、おのれの罪のなかにあるケチ根性そのものなのである。

 こうしてツァラトゥストラの「大いなる軽蔑の時」という教えは深刻な危機に直面する。「大いなる軽蔑」を行う者がまれであり、「大いなる軽蔑の時」という高いステージに達するまで自分を追い詰める者がきわめて稀なのである。その激しさに達するためにはほとんど稲妻に打たれるような強さが必要であり、狂気に突き動かされる激しさが必要なのである。そのような稲妻はどこにある? そのような狂気はどこにある? それこそが問題になるのである。

> だが、その舌であなたがたをやきほろぼすような稲妻はどこにあるのか? あなたがたに植えつけられなければならない狂気はどこにあるのか?
> Wo ist doch der Blitz, der euch mit seiner Zunge lecke? Wo ist der Wahnsinn, mit dem ihr geimpft werden müsstet?

 その答えが超人である。

> 見よ、わたしはあなたがたに超人を教えよう。超人こそ、この稲妻、この狂気なのだ!---
> Seht, ich lehre euch den Übermenschen: der ist dieser Blitz, der ist dieser Wahnsinn! –

 必ずしも明瞭に述べられているわけではないが、「大いなる軽蔑の時」というひとが体験できる最大のものに達するために、それに必要とされる強度をひとが受け取りうるために、超人が将来され、呼び出されているように見える。しかし、稲妻に打たれることは、人間にはなかなか難しいことであるように見える。しかしそれは、人間に可能な経験として幾たびか語られてきたことである。こうして稲妻=超人という最高度の強度的契機を導入することによって、少なくとも成立可能なひとつの経験領域として、「大いなる軽蔑の時」が持ち来たらされたと見ることができるだろう。だが、超人という強度的な装置が、国家の外で作動する没落機械の中にどのように(組み立ての)変化をもたらすのか、われわれはまだほとんど何も理解していない





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《『ツァラトゥストラ』の国家論(3) 「国家の終わるところで」》

2017/03/05 04:26
瀬谷こけし


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北イタリアのオルタのモンテ・サクロのフランチェスコ門


   3.「国家の終わるところで始まること」

 国家は終わる。そう『ツァラトゥストラ』は記す。しかしそれがどんな終わり方をするかは「新しい偶像」のアフォリズムの中では記されない。まずはこの国家という新しい偶像、この冷ややかな怪獣の放つ悪臭から逃れ身を守ることをツァラトゥストラ自分の弟子たちに勧める。先にも見たように、「余計な者たち」の「国家」という「偶像」はみずから悪臭を放つが、同時にこの偶像の崇拝者たちも残らず悪臭を放つのである。腐敗はまず嗅覚で感じ取られるもののようだ。

> かれらの偶像、この冷ややかな怪獣は悪臭を放つ。かれら、この偶像を崇拝する者ことごとく悪臭を放つ。
> Übel riecht mir ihr Götze, das kalte Unthier: übel riechen sie mir alle zusammen, diese Götzendiener.

 まずは彼ら偶像の崇拝者(Götzendiener)たちが口と欲望から発散している毒気や汚臭に窒息することを避けるべく、教える。

> わが兄弟たちよ。あなたがたは、かれらの欲望の口もとから出てくる毒気(Dunste)のなかで窒息する気なのか? むしろ窓を打ち破って、外へ飛び出すがいい!
> Meine Brüder, wollt ihr denn ersticken im Dunste ihrer Mäuler und Begierden! Lieber zerbrecht doch die Fenster und springt in's Freie!

 ここにはまだ「外」があるのである。国家にはまだ「外」があり、窒息死を避けるべく身を処する可能性は残っている。

> 悪臭(dem schlechten Geruche)から逃れよ! あらずもがなの人間たちが営む偶像礼拝(Götzendienerei)から逃れよ!
  悪臭から逃れよ! この人身御供からたちのぼる濛気(もうき; dem Dampfe)から脱出せよ!
> Geht doch dem schlechten Geruche aus dem Wege! Geht fort von der Götzendienerei der Überflüssigen!
Geht doch dem schlechten Geruche aus dem Wege! Geht fort von dem Dampfe dieser Menschenopfer!

 その「外」は、「大地」が、国家と独立して存立していることによって開かれているのである。

> 大地はいまもなお、大いなるたましいたちのためにひらかれている。孤独なるひとりぼっちの者、ふたりぼっちの者のために、いまもなお静かな海の香りが吹きめぐる多くの座がある。
> Frei steht grossen Seelen auch jetzt noch die Erde. Leer sind noch viele Sitze für Einsame und Zweisame, um die der Geruch stiller Meere weht.

 ここで多少注意しておくべきことは、この大地の国家からの独立した(frei)存立は、「いまもなお」(auch jetzt noch)という時代的限定がつけられているところである。国家による、あるいは余計な人間たちによる、世界規模の汚染から、大地がいつまでものがれて存続しうることを『ツァラトゥストラ』が保証しているわけではない。『ツァラトゥストラ』の叙述も、ここで内面性への傾きをもつことになる。

> 大いなる魂たちのために、いまもなお自由な生活がひらかれている。まことに、物を持つことのすくない者は、それだけ心を奪われることもすくない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!
> Frei steht noch grossen Seelen ein freies Leben. Wahrlich, wer wenig besitzt, wird um so weniger besessen: gelobt sei die kleine Armuth!

 ここにはアシジのフランチェスコへのニーチェの共感が読み取れるように思うが、清貧の教えは『ツァラトゥストラ』のこの箇所においても肯定されている。

 こうして弟子たちに国家崇拝の毒気からの一時退避を勧めた後で、『ツァラトゥストラ』は国家の終わりについて記す。

> 国家が終わるところ、そこにはじめて人間が始まる。余計な人間でない人間が始まる。必要な人間の歌が始まる。一回限りの、かけがえのない歌が始まる。
> Dort, wo der Staat aufhört, da beginnt erst der Mensch, der nicht überflüssig ist: da beginnt das Lied des Nothwendigen, die einmalige und unersetzliche Weise.

 国家が終わるところ、そこでではじめて「人間」がはじまる、というのである。それは、国家とともに生まれた「余計な人間」ではなく、また国家以前の民族の中で生まれた人間でもなく、新たな人間、国家による疎外から回復し、一回的で取り換えのきかない仕方でのおのれの生を生きる必然的で必要な人間であり、またそのような必然的な人間を歌い讃える歌である。必然的な人間を歌う歌が、国家や民族に向けてではなく、宇宙に向けて歌い開かれるのである。宇宙に向けて、彼方に目を向けることをツァラトゥストラは勧める。

> 国家が終わるところ、---そのとき、かなたを見るがいい、わが兄弟たちよ! あなたがたの眼にうつるもの、あの虹、あの超人への橋。---
> Dort, wo der Staat aufhört, - so seht mir doch hin, meine Brüder! Seht ihr ihn nicht, den Regenbogen und die Brükken des Übermenschen? - Also sprach Zarathustra.

 そこに君たちは虹を見るのではないだろうか、とツァラトゥストラは問う。虹は超人へのさまざまな橋(die Brükken)なのである、という。---ここにわたしは「大道無門、千差有路」という『無門関』の偈と同じ教えを見るのだが、どうだろうか?




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《『ツァラトゥストラ』の国家論(2) 「国家論」》

2017/03/03 02:10
瀬谷こけし


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   2.「国家」について

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』の国家論は大層特異なものに見える。その特異さは、何よりも、国家の消滅したその先のところから国家を捉え直しているところにあるように見える。かつてニーチェは哲学者を性格づけて「国家以上の理想をもっているもの」と語っていた(『反時代的考察』)。『ツァラトゥストラ』においてわれわれは国家以上の理想をもった者のまなざしに映る国家を、しっかりと見て取ることができる。しかしわれわれはここですでに「国家以上の理想」と言うに加えて「宗教以上の理想」とつけ加えておくべきではないだろうか? 『ツァラトゥストラ』がここで提示してくる国家の消滅後に現れてくる世界像は「宗教」と呼ぶべきものでもないのではないだろうか? それは、少なくとも、終末論的世界観とはまったく異なったものである。---しかし急ぐのはやめよう。そしてまずは『ツァラトゥストラ』が語っているところを適切に理解するように努めよう。『ツァラトゥストラ』によっれば、国家は次のような性質をもっている。


1) 国家は最も冷ややかなものであり、冷ややかに嘘をつくものである。
 国家は民族を死滅させて登場してくるものであるが、それはその登場の出発から嘘をつきながら登場してくる。

> 「このわたし、国家は、すなわち民族である」、こんな嘘がかれの口から出てくる。(『ツァラトゥストラはこう言った』I-11「新しい偶像」、氷上英廣訳、岩波文庫。以下同じ)
> …und diese Lüge kriecht aus seinem Munde: "Ich, der Staat, bin das Volk." (『Also sprach Zarathustra (German Edition)』Kindle。以下同じ)

  「わたしは民族だ」と嘘を言いながら国家は登場してくるというのである。民族の破壊者である国家は。

> いま多数の人間に対しておとしあなを仕掛け、それを国家と呼んでいるのは、破壊者たちである。かれらはそのおとしあなの上に、一本の剣と百の欲望とを吊下げる。
> Vernichter sind es, die stellen Fallen auf für Viele und heissen sie Staat: sie hängen ein Schwert und hundert Begierden über sie hin.

 (民族の)破壊者たちこそが多数の人間にむけて落とし穴を仕掛け、ただ一つの覇権と多くの欲望を目指してやってくる人々を国家という落とし穴に落とし込むのである。この国家という落とし穴に群がり集まるとき人々は、それと気づくことなく、おのれの育ってきた民族の善悪を、風習と掟を、捨て去ってしまっているのである。

> 国家は、善と悪についてあらゆる言葉を駆使して、嘘をつく。---国家が何を語っても、それは嘘であり、---国家が何を持っていようと、それは盗んできたものだ。
> Aber der Staat lügt in allen Zungen des Guten und Bösen; und was er auch redet, er lügt - und was er auch hat, gestohlen hat er's.

 国家はあらゆる民族の舌(Zungen、ことば(複数))の善悪を語る。あらゆる民族の善悪が盗み取られ混雑雑然と通用せられる。

> 善悪に関することばの混乱。わたしはこの徴候を、国家の徴候としてあなたがたに教える。まことに、この徴候は死への意志を示す。まことに、この徴候は死の説教者たちに目くばせして、かれらを招く!
> Sprachverwirrung des Guten und Bösen: dieses Zeichen gebe ich euch als Zeichen des Staates. Wahrlich, den Willen zum Tode deutet dieses Zeichen! Wahrlich, es winkt den Predigern des Todes!


2) 余計な人間たちのために国家は発明された。
 国家がこのような一つの覇権とさまざまな欲望という落とし穴の罠の下に集められた出自の雑多な多数の人間の集合体だとすると、そのようなものはだれのために発明されたものだと言えるだろう? ここに『ツァラトゥストラ』の国家論のもっとも傑作なところがある。
 
> あまりにも多数の者が生まれてくる。余計な人間たちのために国家は発明されたのだ!
> Viel zu Viele werden geboren: für die Überflüssigen ward der Staat erfunden!

 「余計な人間たちのために」というのが国家の存在理由である。---民族においては、だれひとりとして余計な人間は存在しなかった、と言えるだろう。だが国家においては、万人が余計な者なのだ、というわけである。---ニーチェが「死の説教者」のにおいを嗅ぎつけるのは彼が国家の本質とみなすこの性質においてである。「余計な人間たち(die Überflüssige)」とは、「おのれの存在理由を自覚しない者たち」という意味ではなく、まさしく「存在理由をもたない者たち」の意味である。だからその誘惑の声はツァラトゥストラの弟子たちの心の中にも入ってくる。

> ああ、あなたがた大いなる魂よ、あなたがたの耳にも、国家はその暗鬱な嘘をささやく。ああ、国家は、惜しげなく自己をささげる豊かな心情の持主をすかさず見抜いているのだ!
 そうだ、またあなたがた、古い神を征服した者たちよ! 国家はあなたがたの心中をもすかさず見抜いている。あなたがたはその戦闘によって疲れている。そこでいまは、あなたがたのその疲労が、新しい偶像につかえることになる!
> Ach, auch in euch, ihr grossen Seelen, raunt er seine düsteren Lügen! Ach, er erräth die reichen Herzen, die gerne sich verschwenden!
Ja, auch euch erräth er, ihr Besieger des alten Gottes! Müde wurdet ihr im Kampfe, und nun dient eure Müdigkeit noch dem neuen Götzen!

 こうして国家が大いなる魂たちの耳にささやきかける「暗鬱な嘘」(seine düsteren Lügen)とは、「地上にはわたしより大いなるものはない。わたしは神が秩序を与える指である」("Auf der Erde ist nichts Grösseres als ich: der ordnende Finger bin ich Gottes")という嘘であり、この嘘の前に、大いなる魂の持主たちもひざまずきかねないのである。たとい彼らが「わたしが神の指だ」と言う国家の嘘を見抜いているにしても、である。それは彼らもおのれの存在理由のなさをおのれ自身によっては克服することができないからである。


3)国家とはすべての人間の緩慢な自殺が「生きがい」と呼ばれるところである。
 「人生」とは緩慢な自殺のことである、とはいかにもゆったりとした規定である。一方ではもちろん適度な人生の刺激もあり(「教養」など)、他方でだれにも王座(覇権)につこうとする狂気に取りつかれることがゆるされる場所である。---しかしそうしたことはまだ国家の記述にすぎないだろう。『ツァラトゥストラ』の国家の本質規定としてはやはり次の言葉に依拠しなければならないだろう。

> 善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺---それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。
> Staat nenne ich's, wo Alle Gifttrinker sind, Gute und Schlimme: Staat, wo Alle sich selber verlieren, Gute und Schlimme: Staat, wo der langsame Selbstmord Aller - "das Leben" heisst.

 われわれはこの規定を最大限重要視しなければならない。「民族」は民が毒を飲むところではなかった。そこでは生きることは緩慢な自殺ではなかった。しかし国家においては、すべての人間の緩慢な自殺が生であり、生きがいであり、それこそが生きることだと規定されるのである。
 2)で見たように、国家の成員は「余計な者たち」である。そしてその彼らに崇拝される偶像が国家である。

> かれらの偶像、この冷ややかな怪獣は悪臭を放つ。かれら、この偶像を崇拝する者ことごとく悪臭を放つ。
> Übel riecht mir ihr Götze, das kalte Unthier: übel riechen sie mir alle zusammen, diese Götzendiener.

 『ツァラトゥストラ』の国家理解はこのようなものである。しかしツァラトゥストラ自身は、弟子たちに対して、この悪臭立ちのぼる毒気に満ちた場所から外へ逃れることを勧めるだろう。次にはそこのところを見てみたい。




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《『ツァラトゥストラ』の国家論(1) 「民族論」》

2017/02/23 18:32
瀬谷こけし


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オルタのモンテ・サクロで


    はじめに

 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』第一部には重要な国家論がある。「新しい偶像」のアフォリズムがそれだ。その深さ、鋭さは、今日でもまだ未来の彼方に輝き続けているように見える。例えばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(Imagined Communities)やドゥルーズ&ガタリの『アンチ・エディプ』(L’Anti-Œdipe)はそれに本質的な示唆を受けて考察を進めた仕事だと思われるが、しかし彼らの仕事によっても『ツァラトゥストラ』の思考の深さは汲みつくされていないと思う。それについて論じるのは今日でも危険な行為であるように見える。ニーチェの超人論もここから論じられるべきだと思う。論じることは、今なお難しい。しかしわたしは、この『ツァラトゥストラ』の国家論を世界の知性は理解すべきだと思う。---とはいえわたしもここではそれをきちんと論じるのではなく、要点の幾つかを提示するにとどめるだろう。いわば「万人のために」。---こういう問題を、1882年8月のタウテンブルクで、ニーチェとルー・フォン・ザロメは議論していたのだ。

    1.「民族」について

 彼は、国家と民族を区別すべきことをその議論のはじめに据える。

> いまもまだどこかに民族と畜群が残っているだろう。しかし、われわれのところにはない。わが兄弟たちよ。ここにあるのは国家である。 (『ツァラトゥストラはこう言った』I-11「新しい偶像」、氷上英廣訳、岩波文庫。以下同じ)
> Irgendwo giebt es noch Völker und Heerden, doch nicht bei uns, meine Brüder: da giebt es Staaten.  (『Also sprach Zarathustra (German Edition)』Kindle。以下同じ)

 われわれは民族ではなく、国家の中にいる、という認識であり、自覚である。ごれが議論の出発点である。
 それでは「民族」とは何なのだろう。『ツァラトゥストラ』はこう言う。

> 民族の特徴を、わたしはあなたがたに教えよう。民族は、どの民族でも、善と悪について、独自のことばを語っている。隣の民族にはそれが理解できない。民族はみずからのことばを、みずからの風習と掟のなかでつくりだしたのである。
> Dieses Zeichen gebe ich euch: jedes Volk spricht seine Zunge des Guten und Bösen: die versteht der Nachbar nicht. Seine Sprache erfand es sich in Sitten und Rechten.

 氷上は「Zunge」を「ことば」と訳している。けだし適訳だろう。「Zunge」は「舌」であり(英語の「tongue」に相当する語であり)、「seine Zunge」は独自の発音や話しぶりをも含む「ことば」で、それぞれの民族は(おのれの)「善と悪について独自のことばを語る」のである。ここには行動規範についての厳命があり、それは、その民族にとっては、逆らうことの許されないものなのだろう。それ(=ことば、舌)を隣の民族は、たとい翻訳はできたとしても、理解はできない。善悪の表を共有できないのである。この断絶性をしっかりと理解しなければならない。
 この文章で次に出てくる「ことば」は、「Zunge」ではなく「Sprache」であり、民族はみずからのことばを「風習と掟のなかで(in Sitten und Rechten)」つくりだしたのである、と言われる。「風習(Sitten)」は特定の土地での生活の中から生まれてきた諸慣例であり、「掟(Rechten)」は多少とも法律に近い権威を持った規則になるだろう。その「権威」がどこから生まれたのかと問いたい向きもあるかもしれないが、ここでは「風習」と「掟」は無冠詞複数のまま「と(und)」で結合され、「〜のなかで(in)」の示す場所の限定の中で結び付けられているので、その問いはあえて問うべきではないであろう。また「つくりだす(erfinden)」と言われていることからも、その権威が、国家にも国家の神にも基づくものではなく、むしろその民族の創造者と、そして生命そのもの以上のものに基づくことはないのである。

> かつてもろもろの民族を創造し、その頭上にひとつの信仰、ひとつの愛をかかげたのは、創造者たちであった。このようにして、かれらは生命に奉仕したのだ。
> Schaffende waren es, die schufen die Völker und hängten einen Glauben und eine Liebe über sie hin: also dienten sie dem Leben.

 国家は「ことば」や「舌」ではなく、それらの創造者でもないように、国家は民族でもなく、民族の創造者でもない(1)。

    ◇   ◇

 しかし、ここでおそらく、それでは国家はどのようにして世界に登場したのか、という問いを問いたい向きもあることだろう。それについて『ツァラトゥストラ』は何も答えを提出していないようにも見えるかもしれない。その答えはきわめて斬新なものに思えるが、それを聞き取るためにはきわめて敏感な耳を必要とするであろう。それについては少し後に語ることにして、ここではまず民族にとって国家はどのようなものと見えるか、という問題についての『ツァラトゥストラ』の洞察に耳を傾けておきたい。ドゥルーズにとっても、ピエール・クラストルにとっても、洞察の核心はこの『ツァラトゥストラ』の言葉にあるだろう。

> 民族がまだ存在しているところでは、民族は国家などというものを理解しない。民族は国家を災禍のしるしと見、風習と掟に対する罪として憎む。
> Wo es noch Volk giebt, da versteht es den Staat nicht und hasst ihn als bösen Blick und Sünde an Sitten und Rechten.

 「bösen Blick」はなかなか訳しにくいところだろうが、通例の日本語では「邪視」(英語では「evil eye」)と訳される語だ。ドゥルーズはここから「悪夢」という概念を見出したと思われるが、「風習と掟」を一つの地域的な技に解消しようとする国家が悪夢と見えようが邪視と見えようが、さほど変わりはない。いずれにせよ国家とは、民族にとってはまったく理解のできない邪なまなざしであり、禍事(まがごと)の予兆と見えるものなのだ。それは不要なもの、余計なものを生かし、その代償としてみなに緩慢な死を与える存在なのだ。国家につての『ツァラトゥストラ』の洞察ほど恐ろしく、そして国家というシステムの終焉後を考えさせる国家論はない。わたしもまたそこに希望をいだくのだが。



(1) 国家の中で「ことば」や「舌」は、「方言」としてその価値を切り下げられるだろう。




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《『ツァラトゥストラ』の真理の水 これは何なのだろう?》

2017/02/20 01:16
瀬谷こけし


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 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の中に「真理の水」という言葉が(私の知る限り)二度出てくる。いずれも第一部の「三段の変化」と「純潔」の中でだ。その後者の方を紹介したい。

> 認識に生きる者が、真理の水のなかにはいるのをいとうのは、真理が汚らわしいときではなく、真理が浅いときである。

 認識をこととする者にも当然価値評価があって、彼も浅い真理を探究し認識したいとは思はないということだ。---これはこれで当然のこととしてよくわかることだが、しかしそもそも「真理の水」とは何なのだろう? 「水」はどんな風に「真理」とかかわるのだろう? 
 こんな疑問をもつのも、ヘルダーリンの「生の半ばに」(Hälfte des Lebens)という詩に、「お前ら〔白鳥たち〕は頭をくぐらせる/貴くも冷やかな水の中に」(川村次郎訳、岩波文庫、〔〕内は引用者の補足)という詩行があるからである。このヘルダーリンの白鳥たちが頭をくぐらせる水はどのような水かという問題にぜひともこだわりたいからだ。前にも言ったが、ヘルダーリンはここで「Tunkt ihr das Haupt / Ins heilichnüchterne Wasser」と記しているのだ。この白鳥たちが頭を浸す水も「真理の水」と言えるような性質を持っているのだろうか? ここにある覚醒や正気の水のその神聖な冷ややかさの正体は何なのだろう? それはニーチェが「真理の水」と言うときに感じていたものと共通するものではないのだろうか?

 ここでは問題を提起しておくだけにとどめよう。最後に上記の『ツァラトゥストラ』のドイツ語の原文を紹介しておく。

> Nicht, wenn die Wahrheit schmutzig ist, sondern wenn sie seicht ist, steigt der Erkennnende ungern in ihr Wasser.

「真理の水」は「ihr Wasser」であり、「ihr」が「真理」を受けるのは疑問の余地もないが、しかしこうして「ihr Wasser」と「ihr」を所有冠詞として使う使い方には、読み込むべきところがあるだろう。真理が持ち場としている場所をニーチェは「水」と名指しているのだろうか? そういういわば(ニュートラルで)「冷ややかな場所」なのだと。とすればヘルダーリンの白鳥が頭を浸す水と、共通性を感じておくことができるだろう。




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《1883年2月13日---『ツァラトゥストラ』の誕生》

2017/02/14 23:13
瀬谷こけし


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写真はジェノヴァから東の半島を遠望。この半島の東端がおそらくポルト・フィーノで、半島の東側付け根の湾がラパッロ)

 ニーチェとルー(フォン・ザロメ)がタウテンブルクに滞在していた1882年8月13日から6か月が経っていた。この日二ーチェは『ツアラトゥストラはこう語った』第一部を完成させた。書き始めたのは2月3日だったという。10日間で書き上げたのだ。書き上げたのはイタリアのラパッロ(Rapallo)だった。
 去年の8月、彼らがタウテンブルクに滞在していた時期に、わたしはタウテンブルクで4泊したのだったが、その日からニーチェがたどった凄まじい6か月の苦悩をわたしは十分たどれているわけではない。しかしわたしにも6か月は流れた。
 第一部の最終節「贈り与える徳」は多分この13日に書かれた。この日までニーチェにどれほど克服しなければならないものがあったかは、その間の手紙を読めばいくらかはつかめる。もっともその後のライプツィッヒでの出来事がどのようなものであったかはほとんどわからないのではあるが。ともあれ、「贈り与える徳」を書いたとき、ニーチェは何かを克服していた。「老いた女と若い女」も一見(ルーとの関係を)克服して書かれたもののように見えるが、実際は何も克服していないだろう。ただ、レーやエリザベトの語りから解釈していた虚偽に満ちたルーの像の、その虚偽の部分はすっきりとそぎ落とされて、軽蔑すべからざるルーの真の像は間違いなくはっきりと掴めるようになっていたのだ。紛らわしい情報の山の中からルーの首尾一貫性を読み取ろうとして、真のルーの像に達したニーチェの精神力には実に感心すべきものがある。
 その克服の後に書けるようになったのがこの『ツァラトゥストラ』だったのだ。



ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)
岩波書店
2014-12-18
ニーチェ

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《ニーチェ研究資料1883年(1)−ロバの歩み》

2016/09/06 17:00
瀬谷こけし
ナウムブルクのニーチェハウス
画像
このときニーチェはジスル=マリーア、妹エリザベトはナウムブルク

 1883年7月はじめの妹に宛てた手紙の中でニーチェは「ロバの歩み」と言うべきものについて語っている。ご存知の方も多いと思うが『ツァラトゥストラ』第四部の「ロバの祭り」に登場するロバの最初のイメージはここにある。そこのところを拙訳で紹介する。

>人間が自分の目標と呼ぶもの(自分が昼も夜も奥底で考えていること):それはほんもののロバの皮を自分の本体のまわりに貼ることになり、その結果彼がほとんど死ぬほどまで打ちたたかれてしまうことが起こりうる。---彼はそれを克服し、そして老いたロバとして、昔ながらのイーアーの声を出して鳴きながら彼の昔ながらの道を歩いてゆく。今のぼくの状態はこういうものだ。---

原文も紹介しておく。
>Das, was der Mensch sein Ziel nennt (das, woran er im Grund bei Tag und Nacht denkt): das legt eine wahre Eselshaut um sein Wesen, so daß man ihn beinahe todtschlagen kann – er überwindet’s und geht, als der alte Esel, mit dem alten I-A seinen alten Weg. So steht’s jetzt mit mir. –

 ほんとうの肯定(Ja)のまがい物としてのロバの(I-A)、それをニーチェはこのころの自分のあゆみ、自分の生き方に見ていたのだ。旧来の生き方に戻らざるを得ないほど打ちたたかれたニーチェ。そして「これでいいんだ」と言って、妹や母親との関係を取り戻してゆくニーチェ。ずいぶん苦労の多い人生にみえる。
 『ツァラトゥストラ』第四部では、このような「これでいいんだ」と言って歩んで行くロバを、「ましな人間」たちが神のごときものとみなして、ロバを神格として祭りをおこない、幸福感を味わう。しかしそこにツァラトゥストラが参入し、「ましな人間」たちの祭りを蹴散らし、彼らを逃散させる。
 ニーチェは、この手紙の日々の後獅子奮迅のスピードをわがものとし、「子供」へと変身してゆく。

(テキストは『Friedlich Nietzsche Paul Rée Lou von Salomée, Die Dokumente ihrer Begegnung, Insel Verlag 1970』である。以下、特に指示しない場合は同書による)。



(文章を若干修正しました、2016,09.08)


===追加=======
 上記の「獅子奮迅のスピード」をわがものにした日付を書簡のなかでマークするために、1883年12月8日のフランツ・オーヴァーベク宛書簡を上げておくことができる。その中でニーチェは、自分だけが知っている自分の「新しい大陸」を発見した。そして今や自分はそれを一歩一歩征服して行かねばならない、と語るのである。

>ich habe mein >>neues Land<< entdeckt, von dem noch Niemand etwas wußte; nun muß ich's mir freilich immer noch, Schritt für Schritt, erobern. --

この新しい認識獲得への喜びがニーチェの全身を駆け廻る。




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「超人」の教えは「大いなる軽蔑」を含む (ツァラ・ゼミ13)

2008/07/23 09:29
瀬谷こけし
京都造形芸術大学(通学部)の「総合演習・ツァラトゥストラを読む」の授業が昨日で終わった。演習で学生たちと議論を交わしていると、どんな風な語りをすれば話が通じやすくなるか、問題が共有されるようになるかということが少しずつわかってきて、わたしにとってもおおいに勉強になる。もちろん、『ツァラトゥストラはこう言った』の中でニーチェが何を言っているか、何を語っているかを読み解く授業であるから、「語りかた」といっても、テキストを離れた議論ではない。テキストのここのところをきちんとアクセントをつけて読めば理解できるようになる、というポイントを示してやるだけだ。そして若干別の概念で照らしてみる、という試みをすることだ。昨日は「序説4」を検討していた。

 「序説4」は人間を、「動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱」として示し、人間に「偉大さ」があるとすれば、それは人間が「橋」であって、「自己目的」ではないところであり、また人間に「愛されるべきところ」があるとすれば、それは人間が「移りゆき」であり、「没落」であるところなのだと語る。この語りから見て、われわれはこの「序説4」においても、「序説2」の「わたしは人間を愛するのです」という、その後すぐにツァラトゥストラ自身によって修正されることになる言明が問題にされ、ここにおいても一貫してその言明の明確化がめざされていることを理解する。人間は、その「移りゆき」において、より明確には「没落」において、愛されるのである。「没落」は端的には自己破壊の歩みである。だがこの自己破壊は、前節「序説3」で言われた「大いなる軽蔑(の時)」と密接に結びつく。「人間(あなたがた)が体験できる最大のもの」として説かれる「大きなる軽蔑(の時)」とは、ひとがみずからの「幸福」「理性」「徳」の、さらには「正義」「同情」「罪」のなどのけちくささに吐き気をもよおす時のことであり、そういう自己否定ないしは自己嫌悪の時のことである。この自己否定が徹底される時、ひとは橋を渡り、そしておのれの没落を欲するのである。

 このような連関のなかで、ツァラトゥストラは自分の愛する人間の像を示してゆく。それは端的に言えば、人間の上にかかる暗雲の中から、個別にひとつぶひとつぶ落ちてくる重たい雨滴のような人々、ということである。そのようなひとびとは、稲妻が来る、ということを知らせてくれる。そしてその知らせをもたらす者として、告知者(Verkündiger)として、破滅する(zu Grunde gehn)のである。ちなみにツァラトゥストラ自身がみずからをこの稲妻の告知者であると語り、そして超人とはこの稲妻にほかならない、と語るのである。いわば、この雨滴の自己破滅によってその到来が予示される者、雨滴自身にとっては、その自己破滅のただ中において感得され、みずからの破滅がそれとのつながりの中にあるとして了解される者、そういう存在である。彼(=雨滴)にとっては超人は知られる者であり、自分の破滅にも意味を与える「大地の意味」として知られるものであるが、いまだ実在する(existieren)ものではない。超人の実在は稲妻という形を取るであろう。

 ところでこの「序説4」では、「わたしが愛するのは……である」"Ich liebe…" という言い回しが18回なされている。注意されるべきは、この言い回しが三とおりに分類されるだろうということである。それを@〜Qとしておくと、それは以下の通りである。
1.「わたしが愛するのは……の者たちである」"Ich liebe Die, welche …(die …)" という言い回し(@AB)。この言い回しでは愛される対象は「者たち」と複数になっており、この言い回しでは愛される「理由」が、その根拠が、上位の概念として示されているのである(@:没落する他の生き方を知らない者たち、「向こうへ行く者たち」"die Hinübergehenden"。A:「大いに軽蔑する者たち」" die grossen Verachtenden"。彼らは「大いに尊敬する者たち」"die grossen Verehrenden"でもあり、向こう岸へ飛んでゆく「憧れの矢」"Pfeile der Sehnsucht" でもある。B:大地がいつか超人的なものになるようにと、大地に身を捧げる("die sich der Erde opfern, dass die Erde einst des Übermenschen werde")者たち)。
2.「わたしが愛するのは……の者である」"Ich leibe Den, welcher …(dessen…, der …)"と単数で示される言い回し(C〜P)。ここでは愛される者が個別の形で、つまり個別の概念として示されているのである。この言い回しでは、その者が愛される理由として上位の概念への示唆がなされている(C〜Pがそれぞれ@ABのどれに強く関わるかご自分で検討していただければ幸いである)。
3.「わたしが愛するのは……のような人々すべてである」"ich liebe alle Die, welche …" という言い回し(Q)。ここではすべてを総括した「愛される理由」が語られるのである。その理由こそ、上述した「超人の到来を告知する重たい雨滴のような者たちだ」ということである。

 以上の説明で、「序説4」の論理構造が多少は読みやすくなったのではないだろうか。「ニーチェの超人論」がより正しく理解されるようになれば幸いである。





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わたしは人間を愛しているのです (ツァラ・ゼミ 10)

2008/05/21 00:09
瀬谷こけし
わたしは人間を愛しているのです (ツァラトゥストラ・ゼミナール10)


 <承前>
 http://25237720.at.webry.info/200805/article_3.html

 (『ツァラトゥストラはこう言った』序説2)

 カッコを付け直してみると分かることがある。それはここで老人(Greis)がツァラトゥストラにおよそ三つの質問をしているのがわかる、ということだ。
 氷上英廣訳から、その老人(翁)の自問自答の部分を省いて紹介してみよう(『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫、11−12頁)。

>「あのとき、あなたはあなたの死んだ灰を山にはこんで行った。今日(きょう)は、あなたはあなたの生きた火を谷にはこぼうとするのか? あなたは放火者として受ける罰を恐れないのか?」
>「あなたはいま、眠っている者たちのところへ行って、何をしようとするのか?」
>「まるで海中に住むように、あなたはあなたの孤独のなかに生きてきた。そして海水はあなたを支えていた。ああ、あなたは陸にあがろうとするのか? ああ、あなたはあなたの身体(からだ)をふたたびじぶんで重たく運んでゆくつもりなのか?」

 これらが、ツァラトゥストラが、老人から「あなたは」という二人称の構文によって問いかけられたことだ。
 これら三つの問いに対して、ツァラトゥストラは明確なひとつの言明によって答えている。
 それは、「わたしは人間を愛しているのです」という答えだ。
 そこのところ、ドイツ語ではこうだ:
> Zarathustra antwortete: "Ich liebe die Menschen." (KSA. S. 13)
(ドイツ語流の引用符をwebページで出す方法を知らないので、英語風の引用符で代用している)
 多少注意しておくべきところは、「人間」が、「die Menschen」と定冠詞複数で言われていることだ。つまり、「わたしはすべての人間を愛しているのだ」というニュアンスの言明のはずだ。
 このツァラトゥストラの端的な言明は、「放火者としての罰」も、「眠っている者を起こしてしまう」咎も、「自分で自分のからだを引きずってゆかなければならない」という苦労も、そのどれをも当然覚悟をしているのだ、という「答え」(Antwort)になっている、と考えることが出来るであろう。
 このシークエンスでの問題は、だからそこのところにではなく、むしろその数行後に、ツァラトゥストラが、
> ツァラトゥストラは答えた、「どうして愛するなどと言ってしまったのだろう! わたしは人間たちに贈物を与えに行くのです。」 (12頁)
> Zarathustra antwortete: "Was sprach ich von Liebe! Ich bringe den Menschen ein Geschenk." (S. 13, Zn. 7-8)

と、その直前の言明を否定するかのようなもの言いをしているところである。これはどういうことなのだろうか? ちなみにこの "Was" が "Warum"(どうして) ほどの意味になる、という点では異存はない。また「人間」がここでも定冠詞複数で使われていて、強く訳せば、「わたしはすべての人間に贈物を与えに行くのです」という意味になるであろう。
 この否定、前言の否定は、「愛」をめぐっている。つまり老人(ここではじめて「聖者」"der Heilige"と呼ばれる)の理解する「愛」との違いを、ツァラトゥストラが激しく意識したからなのである。ツァラトゥストラにとって「人間を愛する」とは「人間に贈物をもってゆく」ということに等しい。何も人間が立派な存在だから愛するわけではない。太陽からツァラトゥストラ受け取った「至上のよろこび」(Wonne)をわかち与えるべき存在である。そして、その贈与によって、変身することが期待される存在である。何も完全な存在だから愛するというわけではまったくないのだ。
 しかしこの「愛」、「人間への愛」は、聖者と呼び直されるあの老人にとっては、まったく別の意味をもたされていた。ツァラトゥストラが言った「わたしは人間を愛しているのだ」という言明は、「聖者」によって、「愛」という言葉を横領されることによってくそ味噌にされてしまうのである。この世捨て人たる「聖者」にとって、「愛」や「人間への愛」は何を意味しているのか? 語られるところを聞こう。

> 「しかし」と、森の聖者は言った、「なぜわしはこうした森の寂寥のなかにわけいったのだろう? それは、わしが、人間を愛しすぎた結果ではないのか?
> いまわしが愛するのは、神だ。わしは人間を愛さない。人間は、あまりにも不完全すぎる代物(しろもの)のように、わしに思われる。人間への愛は、わしをほろぼすだろう。」 (12頁)

 この「聖者」は、「人間を愛しすぎた」(die Menschen allzu sehr liebte)、と言う。「人間を愛しすぎる」とはどういうことであろうか? われわれはこの「聖者」の「愛」のうちに、ツァラトゥストラの「愛」とはまったく違った本性のものを見て取ることが出来る。聖者の愛は、「見返り」を期待したものなのだ。返されることを要求する愛、これである。交換されるべき愛である。交換の体制のなかにある愛である。「聖者」は自分の愛が返されることを期待していた。だがそれは充分には返されなかった。人間たちは、充分な愛を自分に返してくれなかった。それが「愛しすぎた」ということの意味である。だがツァラトゥストラの愛は、そのような交換を求める愛とはまったく違う。ツァラトゥストラの愛は贈与なのである。端的に言えば、太陽のこの上ない至上のしあわせを伝えること、それだけである。あるいはこう言えるだろうか。贈与は、返されるべき愛、交換されるべき愛を本性から越えている、と。
 われわれはここにおいても、『ツァラトゥストラ』が贈与についての書物であることを確認することが出来るのである。




*献詞を削除しました。(2012.3.4)


ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2


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カッコを付け直してみる (ツァラ・ゼミ 9)

2008/05/20 00:26
瀬谷こけし
先に「ツァラ・ゼミ 5」
http://25237720.at.webry.info/200711/article_14.html
で語ったことだが、ここで議論をもう少し分かりやすくしておこう。
『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(岩波文庫、2006年7月5日、第63刷)の中で、氷上英廣氏は次のような訳を示している。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
……翁はツァラトゥストラに向かってこう言った。
 「この旅びとには見覚えがある。何年か前に、この人はここを通って行った。たしかツァラトゥストラと名乗った。だがこの人は変わった。
 あのとき、あなたはあなたの死んだ灰を山にはこんで行った。今日(きょう)は、あなたはあなたの生きた火を谷にはこぼうとするのか? あなたは放火者として受ける罰を恐れないのか?
 そうだ。これはツァラトゥストラだ。しかしこの人の眼は清らかで、その口もとには嫌悪の念はひそんでいない。この人は舞踊者のように足取り軽く行くではないか?
 ツァラトゥストラは変わった。ツァラトゥストラは幼(おさ)な子となった。ツァラトゥストラは目覚めた。あなたはいま、眠っている者たちのところへ行って、何をしようとするのか?
 まるで海中に住むように、あなたはあなたの孤独のなかに生きてきた。そして海水はあなたを支えていた。ああ、あなたは陸にあがろうとするのか? ああ、あなたはあなたの身体(からだ)をふたたびじぶんで重たく運んでゆくつもりなのか?」
 ツァラトゥストラは答えた、「わたしは人間を愛しているのです」と。
(岩波文庫、上、11−12頁)
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 ここのところ、わたしなら次のようにカッコを付け替えたいと思うのである。(訳文も、わたしなら多少違えたいところがあるが、それについてはここでは論じない。)

=====================================
……翁はツァラトゥストラに向かってこう言った。
 [この旅びとには見覚えがある。何年か前に、この人はここを通って行った。たしかツァラトゥストラと名乗った。だがこの人は変わった。]
 「あのとき、あなたはあなたの死んだ灰を山にはこんで行った。今日(きょう)は、あなたはあなたの生きた火を谷にはこぼうとするのか? あなたは放火者として受ける罰を恐れないのか?」
 [そうだ。これはツァラトゥストラだ。しかしこの人の眼は清らかで、その口もとには嫌悪の念はひそんでいない。この人は舞踊者のように足取り軽く行くではないか?]
 [ツァラトゥストラは変わった。ツァラトゥストラは幼(おさ)な子となった。ツァラトゥストラは目覚めた。]「あなたはいま、眠っている者たちのところへ行って、何をしようとするのか?
 まるで海中に住むように、あなたはあなたの孤独のなかに生きてきた。そして海水はあなたを支えていた。ああ、あなたは陸にあがろうとするのか? ああ、あなたはあなたの身体(からだ)をふたたびじぶんで重たく運んでゆくつもりなのか?」
 ツァラトゥストラは答えた、「わたしは人間を愛しているのです」と。
====================================

 翁(老人)の自問自答の部分を[ ]でくくってみたのである。氷上英廣訳が何でおかしいかは「ツァラ・ゼミ 5」で説明した。二人称の語りと三人称の語りの違いを考慮しない、無思慮な解釈をしているからだ。吉沢伝三郎訳(ちくま学芸文庫)も、手塚富雄訳(中公クラシックス)も同じだ。
 老人は自問自答をして、それから目の前のツァラトゥストラに語りかけているのである。その語りかけた部分はとうぜん相手を二人称 "du" にして語っている。それがわたしのカッコ付けかえの版の「 」のところである。ちなみに、ニーチェのもともとのテキストでは、引用符は: 「わたしは人間を愛しているのです」; のところの前まで、付けられていないのである。


*上に紹介した氷上英廣氏らの「 」の使い方に関してだが、手元にあるクレーナー版、シュレヒタ版ともにその位置に「引用符」を付加していることを付記しておく。(2008.5.24)
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