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「世界という大きな書物」 中路正恒公式ブログ

プロフィール

ブログ名
「世界という大きな書物」 中路正恒公式ブログ
ブログ紹介
世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外
 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

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Twitter:
http://twitter.com/mnnakajist
Facebook:
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My Instagram:
https://www.instagram.com/ookinashomotu/
My YouTube:
https://youtu.be/uskyNt7vLaQ?list=RDCW19SIwCDac

これらは私からのメッセージです。わたしのサイトにはどれも「瀬谷こけし」のイメージがついています。
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私の「なりすまし」にご注意下さい。
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《小道》

2019/05/22 12:55
瀬谷こけし

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 天上の争い、流れはおのれの流路を探さなければならない、等。これは大変重要な認識ではないか?
 ヘルダーリンの『ムネーモジュネー』第二稿から、第4行目から8行目までを紹介する。

Hölderlin:
MNEMOSYNE Zweite Fassung

  Wenn nemlich über Menschen
 Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig
 Die Monde gehn, so redet
 Das Meer auch und Ströme müssen
 Den Pfad sich suchen.

  すなわち、人間たちを越えて
 戦闘が天上でおこり、荒々しく
 幾多の月が動くとき、そのとき
 海もまた語り、流れは
 おのれの流路を探さなければならない。(拙訳)
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《秘色》

2019/05/22 04:37
瀬谷こけし

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 5月21日。茜色の夕空もよかった。そののちの秘色の空も。
 山中智恵子の歌を一首:

>日ののちの秘色青磁を瞻(まも)りゐつこころほろぼすことばを生きて
     山中智恵子『紡錘』


======== 2017年5月20日の拙FB記事を付加しておく。========

《5月の日本歌人京都歌会》
 今日歌会があった。私の出詠歌は、

>きみさらにながながし夜を千年の孤独をもちてひとりかもねむ

もちろん本歌の一つは人麻呂だが、この歌自体は次の歌への応答として詠まれている。

>百年の孤独を歩み何が来る ああ迅速の夕焼けの雲

山中智恵子の『風騒思女集』の末尾の歌だ。
 詠んだのは八年前、山中智恵子への挽歌として詠んだ。残酷な歌かもしれないが、私はそれでよいと思っている。それでこそ、時代の深みの底を汲み取り直したことになるだろう。



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《ニーチェの英雄論 資料1》

2019/05/21 01:15
瀬谷こけし

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 1882年8月のタウテンブルク文書の中で、ルー・フォン・ザロメはニーチェを「英雄主義者」と読み取り、その英雄主義と対立させて自分の生き方を示そうとしている。このルーの努力は決して半端なものではなく、また浅いものでもない。多少は有名な彼女のニーチェ論『作品の中のフリードリッヒ・ニーチェ』はいまなお最高度に優れたニーチェ読解であり、ハイデガーからクロソウスキーまで、ニーチェを読み抜こうとする者を活気づけているが、単に古典的価値を持つだけでない。彼女の読み取って見せたニーチェよりも深いニーチェ像を示した思索者がいまだにあるかどうか疑問である。わたし自身より深いニーチェ像を示してみたいのだが、そのためには幾つかの慎重な道を通る必要がある。その一つは多少不安定なところのある彼女のドイツ語表現をできるだけ丁寧に読み取るという仕事である。---これは、普通に想定されるよりも難しい仕事である。---しかしその仕事を進めてゆかなければならないだろう。そしてこのルー・ザロメの読み描くニーチェ像は、彼女がニーチェと共同研究をしていたタウテンブルクの日々にニーチェ自身から読み取ったニーチェ像を軸としていて、それが少しのぶれもないのである。その根をなす一つのテキストは、彼女一人がニーチェから受け取った一枚のメモなのである。「1882年8月25日、タウテンブルク」と日時を明記されたそのメモの内容はこうである。

  Zu Bett. Heftiger
  Anfall. Ich verachte
  das Leben.
    F.N.

  [verachte]を軽率に訳してしまわない注意が必要だが、「(生を)尊重しない」というメッセージは読み取る必要があるだろう。端的に言えば「生」とは別のものを尊重している、ということだ。その別のものは何なのだろう? ニーチェ論はこの問いに答えなければならない。
 この8月25日という日にも多少は注意を払っておく必要があるだろう。というのも、ちょうど8年後のこの日の午前中に、ワイマールの家で、ニーチェはその生を終えるのである。天気のめぐりが今日よりは確実な何かを運んでくれる当時の日々の循環の中で。
 ここでは、ルー・フォン・ザロメのニーチェ読解の要となるいくつかのテキストを紹介しつつ検討してゆくことにしよう。
 まずはニーチェ自身の書き物から。

Tautenburg 08 1882
Dokument N. R. L. von Pfeiffer
S.211
<Friedrich Nietzsche, Aufzeiung für Lou von Salomé >
<Tautenburg, Augst, 1882 >
5.
Heroismus – das ist die Gesinnung eines Menschen, der ein Ziel erstrebt, gegen welches gerechnet er gar nicht mehr in Betracht kommt. Heroismus ist der gute Wille zum absoluten Selbst-Untergange.
(英雄主義 --- それは、その目標と引き比べれば自分のことがもはや問題にならないような目標を追究する人間の心的態度のことである。英雄主義は絶対的な自己-没落へのよき意志である。)(拙訳)
6.
Der Gegensatz des heroischen Ideals ist das Ideal der harmonischen All-Entwicklung – ein schöner Gegensatz und ein sehr wünschenswerther! Aber nur ein Ideal für grundgute Menschen (Goethe zb.)
 (英雄的理想の反対物は調和的な全体的発展の理想である --- 見事な反対物でありまことに望むに値する反対物である。しかしこれはきわめて根のよい人間のための理想である(例えばゲーテのような)。)(拙訳)



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《消えた人影(ベルリン・グリューネヴァルト)》

2019/05/19 14:18
瀬谷こけし

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 この造形作品に名前をつけてみた。本来の名称があるのかもしれないが、標示板は見ていない。ベルリンのグリューネヴァルト駅のすぐ近く。この時の旅ではあの17番線のプレートすべての写真を撮ってきた。---そちらは、まだ紹介できない。

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《花背・黒田・雲ケ畑》

2019/05/17 13:41
瀬谷こけし

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 水を汲みに花背峠に行ってきた。この峠道は昨年の台風21号で倒れた木々の伐採や製材も順調に進んでいる。

 それから、今年は春に行けなかった黒田村に行った。黒田も吉田晴吉さんがご健在であった頃とは少しずつ変わっている。「おーらい黒田屋」が開いていたので、野菜を少し買って、店のお姉さんと少し話していた。道路を通っているだけではわからなかったが、台風の被害は黒田もかなりあって、一週間の停電はきつかった、と話してくれた。それと黒田百年桜、今年は例年に戻って20日ごろに咲いて、それは喜んでいるようだった。黒田も変わる。中国から来ていた研修生(旧小学校に寝泊まりしていた)の姿も見えなかった。

 黒田で同じ道を戻ることも考えたが、まずは周山まで行くことにした。井戸集落との境のあたりの森が崩れた跡があった。山国はあまり変化がない。周山では「ビレッジ」に入って中を見てきたが、あまりめぼしいものは見つからなかった。「登喜和」で少しだけ肉を買ったがやっぱり高い。食堂の方は水木は定休日だとのこと。こちらの定食類は美味しくて割安感があったが。

 そこからは周山街道をゆくことにした。ここもそれほどはやられていない。そして杉坂まできて、雲ケ畑へ抜けて見ることにした。それほどは乱れていないが、倒木の目立つ一カ所は、急坂すぎるところに植林したという印象が強かった。持越峠も難なく通れた。そして雲ケ畑も、奥の志明院まではさほどのこともない。戻って上賀茂方面に下りてゆくが、ここの山は相当やられていた。ガードレールが新しくされているところはどこも表土が崩れて杉も流れたのだろう。道を新たに舗装しているところはなおのこと。
 この加茂川源流の谷筋の山はかなりの被害が出たようだ。しかし伐採をしているところに台風が来たという跡に見えるところもあり、そこは注意してみて行かないとならない。もともとの伐採地は根こそぎは倒れていない。

 この加茂川源流谷筋も、谷筋に沿って風が吹いたようだ。しかしともかくこちらの方が鞍馬川谷筋よりはましで、台風の目に入ったところもあったのではないかと思った。残念ながら高尾の方は見てこれなかったが、どうやら右京よりも左京の方が激しい風が吹いたようだ。---わたしはこのことを目で確認しておきたかったのだ。風と水との合力によるコンリキダシオンによる山林破壊が起きるのが台風というものだ。



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《ヴァチカーノの悲母》

2019/05/16 23:41
瀬谷こけし

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 ヴァチカーノのピエタのマリア、この像は少し左から撮ると悲しみが深いことに気づいていたが、その時はそれほどの枚数を撮らなかった。右目の方が悲嘆の眼で、左目の方は運命の受け入れがあるように思う。そして鼻梁のきびしさ。
 先に紹介したのは少し右側から、左目左頬の方からの写真だが、ここは少し左側からの写真を紹介する。−今日シーラッハの『禁忌』を感心して読み終えたが、そのカヴァーの写真も、右は男の顔左は女の顔を一見しただけではわからないように合成してある−。
 もう少し顔をアップにして表情の秘密に迫れるはずだとは思いながら、撮影時がISO4000まで感度を上げての撮影だったので(それにRAWでも残していない)残されているすべは少ない。まずはここまでなら広く受け入れてもらえそうなもの二枚。二枚目は主にコントラストと彩度をいじっている。細い顎をカットしてしまうと可憐さが薄くなるのでまだそこまではやっていない。−こうして造形の意味深いところを突き詰めてゆくのもミケランジェロへのオマージュになるだろう。







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《聖母被昇天/ Assomption》

2019/05/14 01:44
瀬谷こけし


L’Assomption n’est pas comme ça?

聖母被昇天とはこのようなものではなかったか?

L’âme de Marie se transparaît elle-même.




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《草原の色》

2019/05/12 21:28
瀬谷こけし

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 バイクで久しぶりで市原の草原に行った。始終通っていないと細かな変化がわからないが。まず気づいたのが去年の枯れたススキと今年のかなり育ってきたススキがほぼ同じくらいに混ざって、それが原っぱの基本色を作っていたこと。その印象はひとわたり見た後でも変わらなかった。去年のススキは巻模様(唐古鍵遺跡の楼閣のような)を作り今年のススキはもう穂を出しているものもある。
 来て気づいたのは、本当は藤の花を見たくて来たのだったということ。和漢朗詠集でも、紫藤の花と山吹の花が春の最後の花とされているが、今年はまだ藤の花を見ていなかったから。
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《「四条派への道」展を見てきた》

2019/05/11 23:53
瀬谷こけし

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 西宮市大谷記念美術館に「四条派への道」という美術展を見に行ってきた。数日前に呉春の大きな画がたくさん展示されているということを聞いて、そして解説も筆致の分析など適切にされていて新鮮だと聞いて、行ってきた。場所は阪神電車の高櫨園駅から近くということで、阪神の西ノ宮駅にはちょうど一週間前に別の用事で行ったのだが、今日は電車で行ってきた。思ったより時間がかかって(三時間近く)観る時間が少なくなってしまったが、展示は細部までとても見やすく、この赤い球状のものは何だろう、赤カビの玉かななどと見ながら呉春のものを中心にゆっくりと見て行った。中でも26歳の時に描いたという「羅漢図」に目を開かされた。その繊細で適切な曲線(とりわけ衣文の)に。こんな線の筆力を持っていたのかという驚き。しかもまだ蕪村の下で「月溪」と号して描いていたころに。この筆力を彼は封印していたのだ。これに匹敵する確とした繊細な線は展示作品中では「与謝蕪村像」にしか見られなかった(顔の輪郭線や喉首の線)。---このことを発見してからは、彼の色々な筆致を見るのが楽しくなった。ほとんどの作品は余技のレベルで描けるのだ。筆の使い方は違うが池大雅にも劣らない筆力だ。文人画風のものなど、流行に合わせたアルバイトの感覚だっただろう。次いでカラスの画などで面としての筆遣いも習得してゆく。あと枝網の作り方、これは草間彌生の網の画にも匹敵するだろう。そういう風に描き方をひとつひとつ習得してゆく。細線による曲線の技は隠したまま。馬の鬣などですこし粗めに使っただけでもひとは感心してくれるようだ。細線の画力ではおそらく当代第一であっただろう。その画力を秘し隠して画の職人として生きてゆく生き方。そういう時代だったのだろう。
 久々に絵画を満喫してきた。

 写真は帰路、駅の近くの川の中に見かけた鯉幟。空に懸るご本体の方はほとんど見えなかった。
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《『ツァラトゥストラ』を読む(2) ゲーテの影》

2019/05/10 13:22
瀬谷こけし

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  『ツァラトゥストラ』3-1の次のような文章、これを見てゲーテの影を見て取る人がどれだけいるだろうか? このあたりである:

> Du aber, oh Zarathustra, wolltest aller Dinge Grund schaun und Hintergrund: so musst du schon über dich selber steigen, − hinan, hinauf, bis du auch deine Sterne noch unter dir hast!
Ja! Hinab auf mich selber sehn und noch auf meine Sterne: das erst hiesse mir mein Gipfel, das blieb mir noch zurück als mein letzter Gipfel! -"

 問題はこのなかの[−hinan, hinauf]のところである。上記のところ氷上英廣訳(岩波文庫)はこうである。

> おお、ツァラトゥストラよ。おまえはあらゆる事物の根底を見、その背後にあるものを知りたいと願った。だから、どうしてもおまえはおまえ自身をのりこえて登らなければならない。−上へ、上方へ、おまえがおまえの星々をも眼下に見おろすようになるまで!
 そうだ! わたし自身を見おろし、わたしの星々をも見おろす。これこそはじめてわたしの山頂と呼ぶにあたいするものだ。これこそわたしの最後の山頂として、いまま残されていたものだ−」

 的確な大変よい訳だと思うのだが、しかし「−上へ、上方へ」では[−hinan, hinauf]のニュアンスは伝わらないと思う。[hinan]と[hinauf]、この二つの副詞のニュアンスはどのように違うのだろうか? 両者に共通の[hin]は「あちらへ」という話者から遠ざかる方向を示す語であるが、[an]と[auf]ではかなりニュアンスが違うと思う。大まかに言って[an]は同じ高さでの接触、[auf]は何かの上に立つというイメージだと言ってよいのではないだろうか? ここで直ちに思い出すのがゲーテの『ファウスト』の最後の言葉である。それはこうだった:

 神秘的なコーラスが歌うのは

Alles Vergängliche
Ist nur ein Gleichnis;
Das Unzulänliche,
Hier ist’s getan;
Das Ewig-Weibliche
Zieht uns hinan.

 ここのところ山下肇訳(『ゲーテ全集』潮出版社)を紹介しておく。
 「すべての移ろいやすきものは/およそ比喩なるにほかならず。/足らずしておわるものも/ここでは実現となりつくす。/表現の及ばざるものも、ここについに成しとげられたり。/永遠の女性的なるものこそ/われらを高みのかなたへひいてゆいく。」

 この最後の最後の語が[hinan]なのである。この最後のコーラスについてニーチェはその重要な詩の中でも論究しており、このコーラスに示されるゲーテの思想がニーチェが大いなる関心を持っていたのは明らかだ。ゲーテは「永遠の女性的なもの」がわれわれを「あちら」に(高みのかなたへ)引いてゆくと言う。これに対して言えばニーチェが示そうとするのは「永遠に男性的なもの」がわれわれに救済をもたらすという思想だと言える。だからこそツァラトゥストラは、梯子もかかっていない急坂を独力で登ってゆかなければならないのだ。

 そしてここで注目しておくべきことは、ゲーテが[zieht ... hinan]と言っているところだ。いわば蜘蛛の糸が高みから引っ張り上げるようにわれわれを引き上げるのではなく、永遠に女性的なものはわれわれに密着しつつ引き上げる、ということなのだ。蜘蛛の糸方式であるならばここは[zieht ... hinauf]と言っていたことであろう。上へ、あちらへという方向は共通ながら、その引き上げの方式はずいぶんと違う。ツァラトゥストラの方では[steigen ... hinan]は急坂と密着しながら上へと昇ってゆくことであろう。その時、「自分の上るべき最後の頂上」はしっかりとイメージされている。そのことこそニーチェが[hinauf]で示そうとしていることだろう。それの成し遂げられた時には「自分の星たち」(そこにはゲーテも含まれているだろう)も自分の下方に持たれることになるだろう。

 ゲーテの『ファウスト』はこのようにニーチェの思考と著作に重要な影を落としている。それは例えば、1982年8月のタウテンブルクで、ニーチェとルー・フォン・ザロメの間で交わされたとみられるやりとりの中にも見て取ることができる。ニーチェはこんな風に書いている。

> Heroismus – das ist die Gesinnung eines Menschen, der ein Ziel erstrebt, gegen welches gerechnet er gar nicht mehr in Betracht kommt. Heroismus ist der gute Wille zum absoluten Selbst-Untergange. (Ernst Pfeiffer, 1970, S.211)
(英雄主義 --- それは、その目標と引き比べれば人間のことがもはやまったく問題にならないような目標を追究する人間の心的態度のことである。英雄主義は絶対的な自己-没落へのよき意志である。)(拙訳)

> Der Gegensatz des heroischen Ideals ist das Ideal der harmonischen All-Entwicklung – ein schöner Gegensatz und ein sehr wünschenswerther! Aber nur ein Ideal für grundgute Menschen (Goethe zb.). (ibid.)
 (英雄的理想の反対物は調和的な全体的発展の理想である --- 見事な反対物でありまことに望むに値する反対物である。しかしこれはきわめて根のよい人間のための理想である(例えばゲーテのような)。)(拙訳)

 この時期のやり取りでルー・ザロメはニーチェの内に「英雄的性質」を読み取る。

> In N’s Charakter liegt ein Heldenzug und dieser ist das Wesentliche an ihm, das, was allen seinen Eigenschaften und Trieben das Gepräge und die zusammenhaltende Einheit giebt. (Pfeiffer, 1970, S.184)
(ニーチェの性格の内にはある英雄的傾向がありそれは彼の本質的なものであって、その本質が彼のすべての固有性や衝動に刻印を与え、ひとつに結び付いた統一性を与えているのである。)(ルーの日記、1882年8月18日)(拙訳)

 そしてルーは自分自身を「自然必然性に似た仕方で自分を成長させる、自己に集中した存在」と見ているのである(Und während ich es für ganz richtig halte was N. von mir sagte: >>daß für ein in sich concentriretes Wesen wie ich, welches sich ähnlich naturnothwendig entwickelt, ...)(ibid. S.189)。

 ルー・ザロメのするニーチェのこのような「英雄主義的存在」としての見方はどこまでニーチェの思想の深みに届いているのだろう? そしてそれはゲーテ的な生とどう対決させられるのだろうか? そして1882年8月のニーチェとルーのやりとりはどう捉えたらいいのだろうか? このような問題についてはまた稿を改めて考えたい。




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《ワルターベンヤミンの「隠れ場」 原文・試訳・コメント》

2019/05/03 18:38
瀬谷こけし

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 ワルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)の「隠れ場」を訳してみました。翻訳は浅井健二郎氏のものが『ベンヤミン・コレクション3』(ちくま学芸文庫)に収められているのですが、ベンヤミンのこの文章は大変微妙な経験、大変微妙な問題を語っているところがあって、彼の論述を自分でいちどきちんとたどり直してみたいと思い自分で訳してみました。浅井氏の訳は『1900年頃のベルリンの幼年時代』に収められています。本のタイトルは私なら『1900年ごろのベルリンでの幼年時代』と訳すところです。
 原文としてはKindle提供のものを用いています。タイトルは「Verstecke」、本としては”Berliner Kindheit um Neunzehnhundert”に収められています。
 コメントは今は一カ所についてだけ短くつけます。しかし後日増補する予定です。
 誤りにお気づきの方があったらご教示いただければ幸いです。

Verstecke

> Ich kannte in der Wohnung schon alle Verstecke und kam in sie wie in ein Haus zurück, in dem man sicher ist, alles beim alten zu finden. Mir schlug das Herz, ich hielt den Atem an. Hier war ich in die Stoffwelt eingeschlossen. Sie ward mir ungeheuer deutlich, kam mir sprachlos nah. So wird erst einer, den man aufhängt, inne, was Strick und Holz sind. Das Kind, das hinter der Portiere steht, wird selbst zu etwas Wehendem und Weißem, zum Gespenst. Der Esstisch, unter den es sich gekauert hat, lässt es zum hölzernen Idol des Tempels werden, wo die geschnitzten Beine die vier Säulen sind. Und hinter einer Türe ist es selber Tür, ist mit ihr angetan als schwerer Maske und wird als Zauberpriester alle behexen, die ahnungslos eintreten. Um keinen Preis darf es gefunden werden. Wenn es Gesichter schneidet, sagt man ihm, braucht nur die Uhr zu schlagen und es muss so bleiben. Was Wahres daran ist, erfuhr ich im Versteck. Wer mich entdeckte, konnte mich als Götzen(*) unterm Tisch erstarren machen, für immer als Gespenst in die Gardine mich verweben, auf Lebenszeit mich in die schwere Tür bannen. Ich ließ darum mit einem lauten Schrei den Dämon, der mich so verwandelte, ausfahren, wenn der Suchende mich griff – ja, wartete den Augenblick nicht ab und kam mit einem Schrei der Selbstbefreiung ihm zuvor. Darum wurde ich den Kampf mit dem Dämon nicht müde. Die Wohnung war dabei das Arsenal der Masken. Doch einmal jährlich lagen an geheimnisvollen Stellen, in ihren leeren Augenhöhlen, ihrem starren Mund, Geschenke, die magische Erfahrung wurde Wissenschaft. Die düstere Wohnung entzauberte ich als ihr Ingenieur und suchte Ostereier.  (Kindle版)


隠れ場


> わたしはすでに住居のなかのすべての隠れ場を知っていた。そして、すべてが安心して元のままであることが確認できる家に戻るのと同じように隠れ場所に戻れた。心臓がどきどきするときは息を止めることができた。ここではわたしは物質世界(Stoffwelt)の中にしまい込まれていた。物質世界はわたしには途方もなく明確で、言葉なしでわたしのすぐ近くにやってきていた。そんなわけでひとは誰かに首吊りにされてはじめて何がロープで何が木材かということを意識するようになるのである。仕切りカーテンの後ろに立っている子どもは自分自身が何か風に揺れる白いものになり、幽霊(Gespenst)になっている。その下で子どもがしゃがんでいる食卓は、その子を、その四本の彫刻つきの脚を支柱(Säule)にしている神殿(Tempel)の木製の神像(Idol)に変化させるのである。そして扉の後ろでは子ども自身が扉になり、扉を重たい仮面にして身に着け、魔法の司祭として、うっかりと入ってくる者すべてを魔法にかけるであろう。子どもはどんなことがあっても見つかってはならないのである。顔が痛くなったときには、時計が時を打つだけでいいんだ、そうすればそのまま隠れていられる、と言われている。この件の本当のところをわたしは隠れ場所で経験した。もし誰かがわたしを発見したならば、そのひとはわたしを偶像(Götze)(*)として食卓の下で硬直させることができ、永久にわたしを幽霊(Gespenst)として薄いカーテンのなかで拒絶することができ、死ぬまでわたしを重たい扉のなかに縛り付けておくことができた。そんな場合にはわたしは、探していた人がわたしを掴んだ時に、大きな声で一声叫ぶだけで、わたしをこんな風に変身させていたデーモンを祓い落とす(ausfahren)ことができたのだ。−いや、その瞬間を待っていないで、自分で自分を救出する叫びを一声上げることで探している人の先を越せたのだ。この点でわたしはデーモンとの戦いに疲れることがなかった。このころ住居はいろいろな仮面を収めた兵器庫だった。しかし、年に一度秘密に満ちたこの場所で、その空しい眼窩の中に、その硬直した口の中に、贈り物が置かれていた。魔術的な経験は学問になった。薄暗い住居をわたしは学問の技術者として魔法から解放し、復活祭の玉子を探した。

注:
(*)のところ、[Götze]を浅井健二郎は「木偶」と訳し「でく」とルビまでふっている。「木偶」という訳は[Götze]の語義からかなり外れる。しかし、そこは上に出てくる「木製の神像」の言い換えであり、子どもが不動の物質世界の存在のごときものになっていることを表現としているところなので、「木偶」と訳す気持ちも多少は分かる。しかし「崇拝される偶像の単なる物質に化した存在」を表現するのに「木偶」やはり不向きだろう。「木偶」は崇拝の対象からはずれるのではないだろうか? 



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《雨露の恵みに》

2019/04/30 16:48
瀬谷こけし

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 昨日からずっと、昼頃まで雨が降っていた。時に激しい風、時に糠のような雨。そうして、それらの雨や露の恵みを受けて山の樹々はこんもりと一段と盛り上がってきた。『朗詠集』を見れば「雨露の恩」という言葉があるらしい。わたしも聖代の恩を受けてきたのだろう。万里(マロ、藤原、懐風藻)のようには歌わない。平成の世は今日で終わりになる。


*《僕は聖代の狂生ぞ》(『懐風藻』藤原万里)

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《メドューサと太陽》

2019/04/29 11:30
瀬谷こけし

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 メドューサの盾と砲身の太陽、どちらもパリの「アンヴァリッド」と呼ばれる博物館(Musée de l’Armée Invalides)で見つけたもの。並べて見ればますます砲身の太陽模様がメドューサの像を含んでいるように見えないだろうか? 盾の方は1585-90年の作、砲身は1688年の作で、砲身の太陽模様の中にメデューサ像を組み込もうという発想の方が後から生じたように見える。だがまたメドューサ像を浮き彫りにした盾で防ごうとしたものは何なのだろう。強力な敵に違いない。ひょっとしたら、この盾でもってメドューサその者を石にしようと思ったのではないだろうか。防具に見えるものが最強の兵器になることを望んだ誰かが。−どこか最近改造されたというヘリコプター(やF35B)搭載の空母なるものも似たような発想なのかもしれない。
 (FBに先に掲載しました。また画像はインスタグラムに掲載しています)




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《隠れ里》

2019/04/26 23:46
瀬谷こけし

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 わかる人にはすぐわかるはずのところだが。何年か前にこの里から見た花山が、高いところまで花と緑が豊かで驚いたことがあった。それでまた行ったのだが。
 今回はかなり調子よく撮れた。もっとシャープなレンズで撮ればもっと鋭い撮り方ができたかもしれないが、今回はこれでとても満足した。そしてここに深いものを残した人、相応和尚にわたしはとても惹かれている。


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《霧湧く村》

2019/04/26 01:13
瀬谷こけし

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 葛川村はむかしこの地で相応和尚が不動明王を刻んだ木が桂だったことによる名称だといわれる。その木に不動明王自身が顕現したというその木である。そうしてその木に抱きつくべく滝に飛び込んだといわれている。ひとつの激しい出来事を起源にしているのである。彼が千日回峰行を創始したのも、その出来事を発端としている。大津市葛川はその激しさを伝える村である。わたしも山登りをする体力を回復したくて、今日はその下見のために行ったのだが、今日葛川は霧湧く村だった。
 例年欠かすことなく行っていた芹生花山や黒田百年桜は、今年は見に行くことができないかもしれない。忙しい日々と天候との折り合いがつかないのである。山の様子はここと芹生の花山とはだいたい同じぐらいだろう。今日葛川に行けたことはとてもうれしく有難いことだった。
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《山色整う》

2019/04/23 03:20
瀬谷こけし

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 こんな季語があるのかどうか知らないが、最近の山を見ていると、ようやく山の色が整ってきたと感じる。「整ってきた」とは新しい葉を出す木はどれも新芽を出し始めているように見え、常緑のものは常緑のままに、葉を着けずに枯れてゆく木々は裸木のままに、そして遅速はあっても葉を出す木々はそれぞれそれ自身で葉を出してきたことが山色にうかがえるということだ。結局どうなったかと言うと裸木の赤い枝先の色がもう山に(比叡山に)見えなくなったということだ。これでどうやら、山の木々にも春が来た。---「山笑う」などといういい加減なコピペで山の春を語るのはどうかやめにしてほしい。(写真は夕方の光の赤い色温度のせいで赤っぽく見えるが、肉眼ではもう少し穏やかな色だ)

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《この砲身の模様》

2019/04/22 16:32
瀬谷こけし

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 この砲身の模様は単に太陽を表すのかそこにはメドゥーサのイメージも含まれているのか? この砲身は説明によると1688年Douai(ドゥーエ)で鋳造されたものだ。当時ドゥーエはフランス領になっていたから、フランス軍が使うために造られたものだろう。向ける相手はいわゆる「大同盟」(Grande Alliance)の相手国たちだ。ルイ14世の戦争であるから砲身の模様に太陽が造形されていることに何の疑問もないが、ここには同時にメデゥーサのイメージも彫り込まれているのではないだろうか? 敵国を凍りつかせ石に化すべき武器として。乱れた髪はそれを暗示しているように見える。「Canon de 12」という表示は12cm砲ということだろうか。
 この大砲が展示されていたのはいわゆる「Invalides」と呼ばれる戦争博物館で、この施設もルイ14世が作ったものだ。砲身の造形には興味深いものが多かった。威力を増すべき呪術の一種として。

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《Niel通り84番パリ》

2019/04/20 00:50
瀬谷こけし

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 このときわたしは彼が引っ越しをしたということを知らなかった。知っていたら朝から訪ねていただろう。この旅行の最大の目的は彼にわたしもかなりのページを書かせてもらった『人間の美術』第7巻(学研)をお渡しすることだった。健康上の理由で第8大学を辞めたことは風の便りに知っていたが、引っ越しのことまでは知らなかったのだ。そして旧宅のあるところを訪ねたのだが、そこのコンシエルジュが引越しのことと、そして新しい住所を教えてくれたのだった。---そういうことは滅多にないことだと、友人のジャン・ピエール・Bさんから後から聞いた。ともあれ新しいアドレスを教わって、そこへ急いだ。Bizerte通りに着いたときは、もう夜の7時も近かった。そしてNiel通り84番へ。

 10階建てぐらいのそのアパートの男性のコンシエルジュは、戸を開けて応対はしてくれた。そして彼の奥さんに電話を繋いでくれた。拙いフランス語で一生懸命に、彼にこの本を直接お渡ししたくて日本から来たのだと語ったが、彼はもう床についていると言った。それでも是非にとお願いしたところ上がってきなさいと言ってくれた。わたしはその奥さんの言葉をコンシエルジュに伝えた。しかしその男性は、少し余分に警戒心を持っていて、自分一人で、そしてわたしの持ってきた本を受け取って、彼と奥さんのいる部屋に行った。---戻ってきてその男が伝えたのは、彼の方から明日朝ホテルに電話する、ということだった。---今晩無理して会うことはないという結論は、むしろそのコンシエルジュの男の提言ではなかっただろうか。しかし致し方ない。その、10階建てぐらいの大きなアパートの見る限りすべての部屋はG.D.と記されていた。ほとんどすべての部屋を彼一人で借りていたのだ。それだけの本をもち、必要としていたということだ。

 わたしは翌朝早く発たねばならなかった。だから彼の電話は受取れなかった。

 その後シュトックハウゼンの直観音楽について日本語とフランス語で書いた「Le dispositif caosmique de transformation」という小論を彼にお送りしたのだったかどうか。ともあれ彼のファニー夫人は、わたしに特別な配慮をしてくれて、彼の逝去を知って書いた詩と、その小論と手紙を、奥様にお送りしたのだが、奥様及び一族の方々からの会葬のお礼状に、「心打たれました、あなたの手紙とテキスト、かくも美しく」と記してくれていた。

 わたしがそのシュトックハウゼン論をフランス語で書きながら彼にお送りしなかったのは、それが彼の高名な著書『ミルプラトー』の中の「リトルネロ」の章の内容を十分に理解して書いたものではなかったからなのだ(その小論はシュトックハウゼン出版のホームページではトップページに載せてくれたこともあったものだったが)。

 今やわたしは、「リトルネロ」を消化した上で、シュトックハウゼンの直観音楽についてものを書かねばならない時だ。カールハインツ・シュトックハウゼンとジル・ドゥルーズと、この二人の期待にこたえなければならない。


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《『ツァラトゥストラ』を読む(1) 第三部から》

2019/04/18 19:57
瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラ』第三部のここのところを訳してみよう。箇所は『ツァラトゥストラ』第三部1「Wanderer(放浪者)」の第二段落から。ツァラトゥストラが自分を放浪者」であり「山に登る者」であると自己規定するところからである。
 テキストは以下:

> Ich bin ein Wanderer und ein Bergsteiger, sagte er zu seinem Herzen, ich liebe die Ebenen nicht und es scheint, ich kann nicht lange still sitzen.
> Und was mir nun auch noch als Schicksal und Erlebniss komme, - ein Wandern wird darin sein und ein Bergsteigen: man erlebt endlich nur noch sich selber.
> Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was könnte jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!
> Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.
(テキストはGutenbergプロジェクト提供のものを利用)

  拙訳:

> わたしは放浪者で登攀者なのだ、とかれは自分の心に言った、わたしは平地が好きではなく、また長いことじっと座っていることができないようだ、と。
> そして今後はわたしに運命として、体験として、なにごとが降りかかろうと、その内には放浪がありまた登攀があるだろう。ひとは結局は自分自身をさらに体験するだけなのだ。
> わたしの身に偶然がふりかかるという時は過ぎ去った。いまやさらに何がわたしにふりかかろうと、それはすでにわたしの固有のものでないようなものではありえないのだ!
> わたしの固有の自己、それが戻ってくるだけだ、それが結局わたしに帰郷してくるのだ。つまり自己から出て長く異郷にあって、そうしてあらゆる物事や偶然のもとに散らばっていたものが。

  解説:
 ここのところ、構文的にとても難しい。
第一段落の[sagte er zu seinem Herzen,]の所は、ここだけが過去時称で書かれていて、それを取り囲む現在時称で書かれている内容はすべてこの「彼は自分の心に語った」に従属し、その内容となっている。わざわざ接続法一式を用いていないが、そうした配慮なしにでも自然に読み取れるところだ。
そして簡単な文章だが、ここでは怠りなく[Wanderer][ Bergsteiger]の概念規定がなされている。[Wanderer](放浪者)とは「長いことじっと座っていることができない者」のことで、[ Bergsteiger]とは「平地が好きでない者」のことなのだ。

 第二段落の[was ... auch noch]は認容的な強調。「何が...来ようとも」([komme]は接続法一式)。[was...komme]は定動詞が語末に来ているので従属文であり、[was]は関係代名詞だと理解される。とすると[was...komme]は一個の[das]に相当すると考えられるが、そうすると次の[- ein Wandern wird darin sein und ein Bergsteigen]の[ein Wandern wird darin sein]の定動詞の位置の解釈が少し難しくなるが、そこのところは手前のダッシュ[-](Gedankenstrich)が思考の「長めの休止」(*1)を置くことで救っていると考えるのがよいだろう。上の引用の[darin]の[da]は上述の「一個の[das]」を受けている。
(*1) Dieter Berger, Kommma, Punkt und alle anderen Satzzeichen, Dudenverlag,1968, S.189 und f.

 第三段落は後半の[was]ではじまる二つの文の関係がむずかしい。だが二つ目の[was]は前の[was]の内容を限定しているように感じられる。第二の[was]は定動詞後置で、従属文の形式をとっており、もし前の[was...fallen]の文が[könnte]という接続法二式による不確定的な文でなかったならば、定関係代名詞[das]を使った指示の明確な文を用いていたのではないかと思われる。しかしこのような文法を説明している文法書を知らないので、今後も研究を進めたい。

 第四段落もやや読み解きがたいが、それは何を指しているのかわからない[es]が冒頭に立っているためだろう。しかしこの文の場合、[es]を主語にする二つの文が続いた後、ダッシュ[-]があって、[mein eigen Selbst](わたしの固有の自己)が登場し、これを[es]が先行して指示していたのだと理解することで基本的に疑問は解決する。あとはその後の[und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle]が[mein eigen Selbst]と同格の補足語であることを把握すれば問題は解決するはずだ。なお、文中の[ihm]は[Selbst]を受けていることも容易に把握できると思われる。

氷上英廣訳(岩波文庫)の紹介。
> わたしは漂泊の旅びとだ、登山者だ、とかれは自分の心に向かって言った。わたしは平地が好きでない。わたしは長いこと腰をおちつけてはいられないらしい。
> これからさきも、いろんな運命や体験がこの身をおとずれるだろう、---だが、それもきっと漂泊と登攀というかたちになるだろう。われわれは結局、自分自身を体験するだけなのだ。
> 偶然がわたしを見舞うという時期は、もう過ぎた。いまからわたしが出会うのは、なにもかもすでにわたし自身のものであったものばかりだ!
> ただ戻ってくるだけだ。ついにわが家(や)にもどってくるだけだ。---わたし自身の「おのれ」が。ながいこと異郷にあって、いろんな物事と偶然のなかに撒き散らされていたこの「おのれ」が。



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《サンタンジェロ城博物館前の頭像》

2019/03/30 10:48
瀬谷こけし

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 今日サンタンジェロ城(Castel Saint’Angelo)と呼ばれる要塞状の建物はもとはAC.135年にハドリアヌス帝によって自分の廟として造られ、後に他のローマ皇帝の墓や要塞等の役に使われたものだという。今は国立博物館になっていて、歴代の武器や施設、実際に使われた拷問道具なども示され、歴史をリアルに感じさせる施設になっている。中世以降はバチカン守護の要をなす施設になったのではないだろうか。そんな位置にある。この博物館の入り口にわたしにはローマ風に見える頭像が三体ならんでいる。いずれも戦士のきわめて強い力強さを感じさせる。


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