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「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ

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ブログ名
「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ
ブログ紹介
世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外
 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

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Twitterと Facebookをはじめました。
http://twitter.com/mnnakajist
http://www.facebook.com/index.php#!/masatsune.nakaji
これらは私からのメッセージです。わたしからのメッセージにはどれも「瀬谷こけし」のイメージがついています。
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私の「なりすまし」にご注意下さい。そのサイトは以下です。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/tad77/ (「h」省略)
ttp://ameblo.jp/designjimusho/ (「h」省略)。

蠅のような存在です。間違ってメールなどを出さないようにご注意ください。
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《清水寺の犀門》

2018/11/12 02:34
瀬谷こけし

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 京都清水寺の坂井輝久学芸員のご説明によると、江戸時代の旅行案内書には清水寺の「西門」(さいもん)のことを「犀門」と記したものがあるということだ。それで西門の修復工事の時にどこに「犀」があるのか丹念に探したそうだ。その結果見つかったのが北外側のこの動物彫刻。実際の動物の「犀」は大正年間になるまで日本の国内に運ばれてきたことはないのだそうだ。だがこの西門を装飾する動物像は、言うならば鹿と猪の間の子のようにみえないだろうか?
 わたしはずっと『スッタニパータ』に中に記されるお釈迦様の「ただ独り犀のように進め」という教えを尊重してきた。だがそのイメージの犀はもちろん鼻の先に一本の角(あるいは鋭い円錐形の突起)を生やしたあの実在の動物の犀だ。釈尊自身もその動物の犀をイメージしていたことだろう。あの前面に切り裂く「角」を生やして進んでゆく犀。ところが日本人は長いこと釈尊のいう「犀」を何やら(食用家畜にもなりそうな)軟弱な動物としてイメージしてきたのだろうか? そうだとすれば何とも情けないことだ。

 しかし、わたしが清水寺の西門に「犀」のイメージを見るとしたら、それは、建物の北面に懸る鹿猪風の彫像ではなく、切り裂く「角」を後ろの三重塔の尖塔の形で生やした西門全体の姿だ。石段の西下からみれば西門はそんな風に見える。これならば釈尊の言う「ただ独り犀のごとくに歩め」という教えの動物の犀のイメージシンボルにならないだろうか? ---清水寺の設計者に、どこかにそういうイメージがあったことを祈りたいと思うところだ。



=== 追記 2018.11.12 =====
『スッタニパータ』の「犀の角」の章の話、あれは「犀の角」ではなく「犀」と訳さなけれればならないと語っているサイトを見つけた。つまり「剣の角」=「犀」という意味だという説明である。その意味はやはり「切り裂いてただ独り進め」ということなのだろう。そのサイトのページはここ。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/.../2015/08/21/050000



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《ニーチェの『喜ばしい知の技』125番の紹介》

2018/11/10 02:32
瀬谷こけし

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 "Der tolle Mensch."というタイトルの"Die fröliche Wissenshaft"の第125番のアフォリズムを紹介したい。と言ってもここで紹介するのは、上記アフォリズムのグーテンベルク・プロジェクトによって公開されているドイツ語原典の全文と、その後半部分の拙訳である。部分訳にとどめるのはそこが先日同志社大学のドイツ語(応用4)の小テストに出題した部分だからである。タイトルの„Der tolle Mensch.“であるが、[toll]という形容詞を最近は日常的に「すごーい」という意味で肯定的に使うことが多いのだが、ニーチェの時代にはもちろん「すごーい」という意味は基本にあるがむしろ「気違いじみた」とか「狂気の」とかいう意味の方が中心であったように見える。わたしはここでは「おかしな」と訳することにした。「変な」でもいいと思うのだが、いずれにせよ差別と排除の対象になるような存在を指しているだろう。「気違いじみた」などという厳めしい言葉を使わなくても「変な人間」として排除の対象になる人間を指し示すことはできるだろう。当面それで充分である。
 ここでは「神を殺した」という非常に特殊な事件、変な出来事が問題にされている。そしてその出来事あるいは行為の非常に特殊な諸事情が、これまた少なからず変わった文章で書かれている。実際幾つかの箇所に特別な注意を払って読むことが重要で、例えば殺された神が[das heiligste und Möchtigste]と中性名詞で語られていることからはニーチェがそれを主体である「者」としてではなく「モノ」として捉えているということを読み取らなければならないだろう。ニーチェはこの「われわれが神を殺した」という事件を、そのドイツ語による表現力の全力を尽くして書き留めているのである。また例えば[Stürzen wir nicht fortwährend?]の表現などは「無辺際の落下なのか?」というぐらいに、一人称の経験に引き付けて訳すべきところであると思う。山中智恵子の歌:

> 無辺際の落下にあればためらはず神と垂直にわが身を投げむ (『空間格子』「わが瞠しこと」)

などをニーチェのよき友の語りとして役立てるべきではないかと思う。いずれにせよニーチェの言葉の細部にこだわった読み抜きが必要であり、そこからの解読が必要であると思う。
 ここにわたしが日本語訳として示すものは、まだ十分なものではない。近々わたしの関心のある問題からする読解を示すつもりである。ここはまだそのための情報提供として理解しておいていただきたい。

   ◇   ◇

Die fröliche Wissenshaft 125, Der tolle Mensch.

Der tolle Mensch. – Habt ihr nicht von jenem tollen Menschen gehört, der am hellen Vormittage eine Laterne anzündete, auf den Markt lief und unaufhörlich schrie: "ich suche Gott! Ich suche Gott!" – Da dort gerade Viele von Denen zusammen standen, welche nicht an Gott glaubten, so erregte er ein grosses Gelächter. Ist er denn verloren gegangen? sagte der Eine. Hat er sich verlaufen wie ein Kind? sagte der Andere. Oder hält er sich versteckt? Fürchtet er sich vor uns? Ist er zu Schiff gegangen? ausgewandert? – so schrieen und lachten sie durcheinander. Der tolle Mensch sprang mitten unter sie und durchbohrte sie mit seinen Blicken. "Wohin ist Gott? rief er, ich will es euch sagen! Wir haben ihn getödtet, – ihr und ich! Wir Alle sind seine Mörder! Aber wie haben wir diess gemacht? Wie vermochten wir das Meer auszutrinken? Wer gab uns den Schwamm, um den ganzen Horizont wegzuwischen? Was thaten wir, als wir diese Erde von ihrer Sonne losketteten? Wohin bewegt sie sich nun? Wohin bewegen wir uns? Fort von allen Sonnen? Stürzen wir nicht fortwährend? Und rückwärts, seitwärts, vorwärts, nach allen Seiten? Giebt es noch ein Oben und ein Unten? Irren wir nicht wie durch ein unendliches Nichts? Haucht uns nicht der leere Raum an? Ist es nicht kälter geworden? Kommt nicht immerfort die Nacht und mehr Nacht? Müssen nicht Laternen am Vormittage angezündet werden? Hören wir noch Nichts von dem Lärm der Todtengräber, welche Gott begraben? Riechen wir noch Nichts von der göttlichen Verwesung? – auch Götter verwesen! Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet! Wie trösten wir uns, die Mörder aller Mörder? Das Heiligste und Mächtigste, was die Welt bisher besass, es ist unter unseren Messern verblutet, – wer wischt diess Blut von uns ab? Mit welchem Wasser könnten wir uns reinigen? Welche Sühnfeiern, welche heiligen Spiele werden wir erfinden müssen? Ist nicht die Grösse dieser That zu gross für uns? Müssen wir nicht selber zu Göttern werden, um nur ihrer würdig zu erscheinen? Es gab nie eine grössere That, – und wer nur immer nach uns geboren wird, gehört um dieser That willen in eine höhere Geschichte, als alle Geschichte bisher war!" – Hier schwieg der tolle Mensch und sah wieder seine Zuhörer an: auch sie schwiegen und blickten befremdet auf ihn. Endlich warf er seine Laterne auf den Boden, dass sie in Stücke sprang und erlosch. "Ich komme zu früh, sagte er dann, ich bin noch nicht an der Zeit. Diess ungeheure Ereigniss ist noch unterwegs und wandert, – es ist noch nicht bis zu den Ohren der Menschen gedrungen. Blitz und Donner brauchen Zeit, das Licht der Gestirne braucht Zeit, Thaten brauchen Zeit, auch nachdem sie gethan sind, um gesehen und gehört zu werden. Diese That ist ihnen immer noch ferner, als die fernsten Gestirne, – und doch haben sie dieselbe gethan!" – Man erzählt noch, dass der tolle Mensch des selbigen Tages in verschiedene Kirchen eingedrungen sei und darin sein Requiem aeternam deo angestimmt habe. Hinausgeführt und zur Rede gesetzt, habe er immer nur diess entgegnet: "Was sind denn diese Kirchen noch, wenn sie nicht die Grüfte und Grabmäler Gottes sind?" –

   ◇   ◇

『喜ばしい知の技』125、「おかしな人間」
Die fröliche Wissenshaft 125, Der tolle Mensch. 日本語訳(拙訳)


われわれにはまだ神を埋める墓堀人たちの騒ぎが何も聞こえていないのか? われわれは神が腐敗する臭いを何も嗅ぎ取っていないのか? --- 神々も腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! しかもわれわれが神を殺したのだ! われわれはどうやって自分を慰める、殺し屋の中の殺し屋であるわれわれは? 世界がこれまでに所有した最も神聖で最も強力なもの、それがわれわれのナイフの下で血を流して死んでいるのだ、---だれがわれわれからこの血を拭き取ってくれる? どのような水でわれわれは自分を清めることができるだろう? どんな償いの祝典を、どんな神聖な遊びをわれわれは考えださなければならないのだろうか? この行為の偉大さはわれわれには大きすぎるのではないだろうか? この行為にふさわしく思えるためにはわれわれ自身が神々にならなければならないのではないだろうか? これ以上大きな行為はかつて一度も存在したことがない。---そしてわれわれの後に生まれて来るものは、この行為の然らしむるところによって、かつて存在したあらゆる歴史よりも高いひとつの歴史に属することになるのだ。 --- ここでこのおかしな人間は沈黙し、再び聴衆たちを見つめた。聴衆たちの方も沈黙し、怪訝そうに彼を見やった。ついに彼はランタンを地面に投げつけ、ランタンは粉々に砕けて消えた。「おれは来るのが早すぎた」、と彼は言った、「まだ来るべき時ではなかったのだ。この途方もない出来事はまだ途上にあって移動しているのだ。---それはまだ人間たちの耳にまで突き抜けてきていないのだ。稲妻と雷鳴は時を必要とし、星々の光も時を必要とする。もろもろの行為も、事が行われた後でもさらに、目に見え音に聞こえるようになるためには、時を必要とするのだ。この行為は彼らにとっては最も遠い星よりもさらに遠いものなのだ。---しかしにもかかわらず彼らはまさにそれをしたのだ。」---さらにこんなことが語られている。このおかしな人間はその同じ日に、いくつもの教会の中に入り込み、そこで神への永遠の鎮魂曲を歌いはじめたそうだ。外へ連れ出され詰問されると、彼はいつもただこう答えたそうだ:「これらの教会はいったい何なのだろう、神の墓や墓碑でないならば?」と。

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《第45回創画展2018を見に行った》

2018/11/09 00:39
瀬谷こけし

 さる方から招待状をいただいていて第45回創画展2018を見に行った。今回は会場が日図に変更されていて、スペースが狭く、また観客も多く、ゆっくりと見ることが難しかったが、さっと見るにはよい会場だったかもしれない。全体に絵画性の水準は上がっており、よい傾向だと思うが、惹きつけられてじっと見ているような絵は少なかった。画想として一番惹かれたのは村岡幸信の『誘い』という作品だった。これはわたしの「果無山」そのもののような画で、この一番後ろに見える高い山の後ろにもまた山が連なり、新たな別の天地が広がっているという感覚だ。月山に登ったときもそんな印象がつづいていた。絵の色合いは写真よりもう少し薄くておだやかでとてもいいのだが、絵葉書からのコピーなのでとりあえずは仕方がない(フォトショップで修正して相当よくなりました)。
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/essais/jhatenasi.htm
 次いで取り上げるべきは奥村美佳の『かくれ里』だろうか。二回目の創画会賞作で、いろいろな技法をつぎ込んで面白いと言えば面白い。箔押しのところと黒との対比やモザイクピラミッドのような右手の木々、そして左下のカラフルな箱型のものは、この作家の将来を示しているとしてよしとしておこう。一番気になったのは画面中央左手の乾いたまま濃い色が残ってしまった跡ようなもの。いずれもう少し丁寧に修正するのだろうか?
 松本祐子の『夏廻る』は色合いはとても魅力的だが、輪郭線がとても粗い気がして、抵抗感が先立った。
 吉川弘の『幻映』は、湖面に真っ黒な雲が映ったのだろうか? 何か黒いものを幻視したようだ。ただ草地にはその空の黒いものの反映はない。ここにはむしろ時代の反映が感じられる。
 いつもは気になった作を細かくチェックするのだが、今回は会場の雰囲気のせいでそれをする気にならなかった。一つ二つだけ挙げれば喜多祥泰『ヒラクヤマ』、桑原理早『変容の跡』、そして最も欲しくなった作は加藤丈史『共鳴』だった。これなら飾れる場所は多い。残念ながら絵葉書がなかったので紹介できない。

いずれも第45回創画展2018 絵葉書による
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《無明紅葉》

2018/11/06 11:49
瀬谷こけし

 こんな山の中に庵のような別荘をもって住むのはどうだろう、としばし考えていた。水:川に汲みに行けばいい。暖房:囲炉裏かストーブで何とかなる。食べ物:原付の一台があればなんとかなる。それに近くに小さな畑をつくることもできる。電気:あきらめればいい。太陽光パネルで携帯ぐらいは充電できるようにするか。
 この尾根道の東側にそんな気持ちで作ったのか、しばらく暮らせるような小屋があったのを知っている。しかしそれも壊れたままだ。

 気が付いたのは、どんな奥山だったとしても、必ず人に気づかれ、そして賊に襲われることもありうるということだ。山中の一人住まいでは抵抗のしようもない。財というほどのものが一銭もなくても襲われることはあるだろう。---やはり山棲みは難しい。

 そんなことを考えていた。

 山中智恵子の歌に「無明紅葉放下千歳」という下の句を持つ歌がある。無明なる紅葉も放下を知り千歳を重ねる、という趣旨だろう。紅葉はまさに放下の姿。このことを天台本覚思想の徒は知っているか?


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(本稿は2018年11月2日にFBに掲載したものの再録です)


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《秋山のもみぢあはれと…》

2018/11/02 22:47
瀬谷こけし

 水汲みの後、花背峠に行った。車で少し入って、いつものところに車を止めて、あたりをゆっくりと散歩していた。ここでは秋も少し過ぎていた。しかし美しい光。

> 鳥も鳴かずものも動かぬ秋山のもみぢあはれと誰に告げなむ


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《鷺ノ森神社》

2018/10/28 00:49
瀬谷こけし

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 台風21号以降行ってなかったので、鷺ノ森神社に入ってみることにした。こころの落ち着く場所だということもあるが。犬の散歩に来ている人が数人。他に散歩のひとや通行の人が三人四人。あわただしい感じはない。
 神前は舞殿のまわりも箒の跡もはっきりときれいに清掃されていた。幾柱か立つ彰功碑はどれも苔むしていて、悪い感じではないが、かつての日の誰かの功を今に大事にするという気持ちも読み取れなかった。
 平らに掃かれた砂の地面の上を歩いていると、土がゆるんで少しもぐるところがあった。何かと思ってその前後を踏んで探すと、つながっている。隠れた水の通り道があるのかと思って少し離れると、少し離れたところに土の盛り上がったところがあった。---これはモグラだ。京都に来てモグラの這跡を見たのはこれが初めてだった。
 境内はよく清掃されていた。隅の方には大風で折れた枝や散った葉が積まれているところがあった。

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《刈田のシロセキレイ》

2018/10/28 00:13
瀬谷こけし

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 一乗寺向畑町(京都市)の刈田に二羽のセキレイがいた。ペアのようだ。水に近いところでしか見たことのない鳥なので、果たして穀物を食べるのかここで虫を探しているのか観察しようと思ってカメラをかなり望遠にしてスクリーンをみていた。何かを補足したように見えたのは右側の土の方に一瞬飛んだ時だけだった。やはり穀物は食べず、この刈田で虫を探していたようだ。写真を撮ってかえって調べれば目のところの黒線からこれはシロセキレイなのだろう。一羽の方は顔の色が少し黄色い。---アルキュオーネは12月の冬至のころに卵を孵すというから、この二羽、むしろ巣作りの材料を探していたのかもしれない。


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《川中小島in音羽川》

2018/10/27 22:45
瀬谷こけし

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 今日は車を車検に出しに行って、帰路を少し散歩した。一乗寺向畑町の狭い道を上がって東に入り、それから、少し迷ったが鷺ノ森神社に入り、そこから修学院離宮の近くの、南側の景色を楽しんでいた。曼殊院までは行かない。多分昔の区分からすると音羽川の上流部は離宮の土地の中を流れていたのだ。それを河川の工事のために少なくとも一部は京都市の管轄下に入っているようだ。そのため御料地が少し分断されているように見える。---こうしてこの辺りを散策していると、後水尾天皇の気分が少し身に入ってくる。隆慶一郎の小説に後水尾天皇を描いた未完の作があるが、あるひとからその続きをわたしが書くべきだと言われたことがある。後水尾天皇とその腹心の八瀬の武術者。その並外れた技の持主の思考や気分をわたしなら追えるだろうという判断だと思う。そういえば隆は赤山禅院に止宿して小説を書いていたらしい。ここは多分京都でもっともよい場所、もっとも雄大な気分でものを見られる場所に違いない。後水尾天皇の気宇の壮大さは並びがないように思う。修学院離宮は最上の場所だと思う。
 以前は離宮の裏山が最高に紅葉の美しい山だと思っていたが、ここ十五年ほどは衰えが著しい。こっそり、昔の並びない美しさを回復させてほしい。

 写真は三面張りの河川に作り直された音羽川の川中に自然と生まれていた川中小島。流れない石がとどまり、そこにさらに砂がとどまり花粉が風に乗って流れ着けば、こんな小島下出来てくる。直径で1mほどの小島だが、立派に小島の姿を示している。





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《イソギク》

2018/10/24 00:28
瀬谷こけし

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 昨日(22日)の撮影だが、秋が深まってゆくと渇きがましてゆく草木もあるものだ。そんなイソギクの少しかつえた表情。
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《比叡山玉体杉を見に》

2018/10/22 11:01
瀬谷こけし

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玉体杉
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 このところ運動不足がつづいていて、とりわけ足を使って歩くということをほとんどしていなくて、連休中に一度歩いてみようと思った。そう思ったのが7日の日曜日で、その時はもう午後二時半を回っていたので、これから山へ行くのは無茶と予定を翌日に延ばした。それで10月8日、「登山口」まではバイクで行って、それから歩いて登った。最初に簡単に予想していたのは、二回ほど下り道に使ったことのある横高山の手前を通って尾根に出て、それから玉体杉を見てこようと思ったのだったが、上ってゆくと道が二股に分かれている。左が横高山へ、右は青龍寺へとなっている。横高山も一度登りたいと思っているが、そのためには脚力をもっとつけておかないとという判断で、青龍寺の方に向かった。この道、途中出あう人はひとりもいなかった。そして足も情けないことに、30分も歩かないぐらいから右ひざが痛み出し、また足を運ぶ体力もひどく衰え、その後はよちよち歩きのようにしか上れなくなってしまった。それでも丁目ごとに出ている標識を頼りにしながら、青龍寺にまでたどり着いた。
 この寺のことは何も知らなかったが、境内を歩いていると、法然にちなむ浄土宗の由緒ある寺のようだった。鐘をついてもよいと書いてあるので、鐘をつかせてもらった。穏やかなよい音色。結局4回ほどつかせてもらったか。手水の水もきれいだった。近くには小さな五輪の塔がいくつも並んでいた。
 その死者たちのいのちはどこに消えるのだろうか? 消えていないのだろうか?

 しかし青龍寺からは尾根道まではまだだいぶありそうだった。高さで100mか200mぐらい。石段の参道を上がってゆくと、その終わったところに墓地があった。「黒谷青龍寺」と書いてある。---ここがあの有名な黒谷だったのだとはじめて気づく。高山樗牛が吉田の「くろたに」のことだと思って『滝口入道を』書いたという、その本物の黒谷がここだったのだ。寺はとても清らかな場所に感じられた。

 それからはあまり急な道はなく、尾根道までたどり着き、その前方には琵琶湖の見える休憩施設があった。そこのベンチで琵琶湖を見ながら休憩し、昼食用にコンビニで買って用意していた小さなアンパンをひとつ食べた。それから自販機で缶コーヒーを買って飲んだ。そして先ほどの尾根に戻り、玉体杉をめざした。600mほどの距離だというが、かなり足に来ていてゆっくりとしか歩けなかった。玉体杉に近づくと、先日の台風の西風で倒れた杉や桧が何本もあった。相当太い、二人がかえほどの太さの桧も、数本倒れていた。そして玉体杉にたどり着いた。玉体杉はさすがに立派で、倒れる気配は微塵もないように見えた。そこで少し休憩して写真を撮る。そして来た人に自分の写真も撮ってもらった。それでしかし時間は2時も近くなっていたので、尾根すじをさらに北に行って、十字の分かれ道のところに出た。右へ折れると横川中堂へ。まっすぐ行くと横高山へ。左へ折れると登ってきた登山口へ。ただしその道には案内板に「難路」と書かれ、✖がつけられていた。もう二時も回っていたので、無理をして「難路」を通るのはやめ(以前通った時は難路というほどの道ではなかったが、ハイキングコースから外され、放置されているのか)、同じ道を戻り、青龍寺を通って「登山口」に戻ることにした。

 帰路の青龍寺門前の石段は、下りとはいえとても足に堪えた。半身になってゆっくりとしか下りれなかった。そしてまた境内に入って、二度鐘をつかせてもらった。とても清らかで安らかな音で、死者(浄土願生者)の声も混じっているように感じた。

 足は膝ばかりでなく、大腿部の付け根のあたりも痛みだし、また左足も痛み、ほとんど身体がばらばらになりそうな状態で下って行った。それが7丁目のあたりで、後ろから来る人がいた。20代ぐらいの若い人で、道を譲ったが、ゆっくりと、話しながら下りれる速度で下りてくれた。これはとてもありがたく、それまでの足の痛みもあまり感じずに歩けるようになった。その青年は、昨日比叡山に上り、小屋のようなところで露をしのぎながら寝て、青龍寺を見たくて黒谷に来て、この道にきたということだった。彼は三千院にも行きたいと思っていたようだが、もう間に合わない時間のように思えたのでそれを伝えた。足取りも軽くなって、登山口のバス通りにまで出た。彼とはそこで別れた。わたしはバイクを止めておいたところに行き、少し準備をしてバス通りに出たが、その時バス停に彼の姿はなかった。バスで大原の方に行ったのだろう。とても気持ちの良い同行ができた。

(2018年10月8日のFBに書いた記事の再録です)


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《講演会・シンポジウム「対話:日本列島の自然観」 感想》

2018/10/22 09:05
瀬谷こけし

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感想
 シンポジウムのテーマが「自然観」だと(対話:日本列島の自然観)えてして性善説的な言論が求められるところがあるようで、「対話」と言いつつ質疑が低調だったように思う。ま、それはいいが、ベルクさんの受賞記念講演、ベルク/山極の「基調対話」までを聞いたところで、わたしが疑問に思ったことをひとつだけ上げれば「棲み分け論」を論じておいてなぜテリトリー形成(territorialisation)のことが問題にならなかったのかということだった。その技術論や政治学こそが議論を生命の具体性の地に立脚させるだろう。
 昼休みになって、ベルクさんに近づいてひとつだけ質問をさせてもらったが、質問は「大祓の祝詞をご存知か」ということだった。はじめ当惑されていたようなので、祓への思想は、神社で行われていることの根本をなす思想で、悪を自分のところから取り去って、川へ、海へと流し、更には海の底にと運ばせるが、海の底の悪の受容量が無限であると考えることで成り立つ思想で、その悪の受容量の無限性こそが「日本人の自然への信頼感」の源にあるもので、それは今日変わらなければならないものではないか、と説明したのだった。ベルクさんは工業社会においては当然汚染廃棄を自然の無限の受容力のようなものに委ねてはならない、と同意してくれた。話は概ね正しく伝わっていたと思う(わたしはフランス語で、ベルクさんは日本語で)。紙に「祓」の字を書いて、日本の自然観の根にあることと多くの神社で行われていることの根幹をなすことへの関心をもってもらいたいと期待したが、どうだっただろうか。

 それにしてもベルクさんの学識や知識の正確さ(ギリシア語、ラテン語、ドイツ語はもちろん中国語まで典拠を明示した上で概念や詩句を中国語で発音されていた)、論議の的確さ、そしてぶれない、コスモスのある生命主義へのしっかりした立脚(景観論などに惑わされるところは微塵もない)など、発言のすべてにとても感心しまた共感した。西田の述語の世界を(絶対無として)絶対化する哲学がアリストテレスの主語を絶対化する論理の鏡像体になっているという批判も的確なものだと思う。
 ベルクさんの論議に触れられたことはとても幸福なことだったと思う。

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《近江神宮で吟行歌会》

2018/10/20 23:25
瀬谷こけし

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 今日は毎年恒例の日本歌人京都歌会主催の吟行歌会に参加してきた。場所は近江神宮勧学館。毎年奈良歌会からも参加してくれる。近くの部屋でかるたとりの読み上げ講習会が開かれていて、めずらしい音の雰囲気の中での歌会だった。議論もなかなか楽しい歌会だった。
 わたしの出詠歌は(前にここでもちょっと示した)次のもの。

> 土面(つちづら)の少しみだれるところありこの山道を行きしひとあり

この折口(迢空)の『海やまのあひだ』のきわめて有名な歌から取った下句を含めてどう評されるかを知りたかったからだ。折口の歌を知らない人も、アスファルトとは違う山道を歩く感覚を読み取ってくれるひとがあり、また、本歌を当然知った上で、これは「本歌取りとは違う」と言ってくれたり、自分の山歩きの経験から評してくれた人もいた。とてもありがたいことだった。
 わたしが言いたかったことは、折口はひとりでする通る人もまれなところの山歩きを知らないのではないか、ということだったが、それはそういうところを歩く時は、この道を近々通った人がいるかどうか、近々通った獣はいるか、ということにいつも敏感であるようにしている。「人」の方は、いざという時に声を上げれば聞きつけてもらえる可能性があるかどうかを心得ておきたいからで、「獣」の方は危険を予知しておきたいからだ。比叡山山系でも、用心は必要で、その日もわたしは腰にクマスプレーは着けて上っていた。実際イノシシが地面を掘った跡は道の端の何カ所かには読み取れた。人間の方はもっと跡が軽いのが普通で、微細に、よくよく見ておかないとわからない。そんな風にして、道の(石や枝でない、跡の着く)土の部分に一、二センチの新しい踏み跡とみられるものを発見した。歌はその時の認知の経験を、そしてその時の少しほっとした気持ちを詠んだものだった。
 こうした、山の独り歩きの心得が折口の歌には欠けているように思う。これは民俗学者とは少し違った性向を示していないだろうか? ---もう周知のことであるかもしれないが。
 折口の歌は次のものだ。

> 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
   釈迢空『海やまのあひだ』「大正十三年」

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《精神とは何か? ---ニーチェ読解》

2018/10/19 17:50
瀬谷こけし

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  わたしが問題にしたいのはニーチェが精神(Geist)をどう把握していたか、その特異な捉え方である。それについては何よりも重要なのは『ツァラトゥストラはこう言った』第二部の「名高い賢者たちについて」で述べられていることである。その説の前提として語られるのは、名高い賢者たちは、ぼんやりした(blöde)目をした民衆同様、精神とは何かを知らない、という主張、彼らとツァラトゥストラ自身とを隔てるこの一本の切断線である。それをツァラトゥストラは名高い賢者たちに向かって言うのである。こういうものとして、ニーチェはツァラトゥストラの精神論を明示しようとする。その文章は一見わかりやすく見えるがしかし実際には突き止め難く、読み抜きがたいものであろう。何よりも原典から紹介する。

> Geist ist das Leben, das selber in’s Leben schneidet: an der eignen Qual mehrt es sich das eigne Wissen, --- wusstet ihr das schon? (KSA Bd.4, S.134)

 最初の段落は以上である。精神の定義がここに示されている。

 氷上英廣はこれを

> 精神とは、みずからの生命(いのち)に切りこむ生命(いのち)である。それはみずからの苦悩によって、みずからの知を増すのだ。---あなたがたはまだこのことを知らない。(岩波文庫、上、p.176)

と訳す。これを三つの部分に分ければ、1)Geist...schneidet:まで、2)an der engnen...Wissen,まで、3)--- wusstet ihr das schon?のとこと、に分けられる。3)に関しては氷上の訳「---あなたがたはまだこのことを知らない」に問題はなく、他の部分の現在時制に対して [wusstet] と過去時制で語られることの意味もよく表現できている。もっともわたしなら「あなたがたはこのことをすでに知ったことがあるのだろうか?」と疑問文の形を残して訳すところであるが。

 また2)に関しては文中の [es] が [Leben]を受ける人称代名詞なのか、[das eigne Wissen] を先立って受ける形式主語なのか、判じがたいところがあるが、氷上のように「それは」と訳してしまうと、「精神」を受けるように誤解されるおそれがあり、文意を曖昧にしかねないところがある。それと並行して [mehrt ... sich] の [sich] が三格(dativ)か四格(accusativ)かということが文法解釈上の問題点になる。動詞 [mehren] に関して、[sich]を三格にして使う例が多くあるとは思えないが、ここでは生(das Leben)において知(Wissen)がどのような仕方で増加するかという一般論を述べていると解釈すべきところであり、個々の生あるものがおのれの責め苦のような苦難(Qual)の経験においてみずから(生についての固有な)知を獲得し増やしてゆく、という主張であると解釈すべきである。おのれの受ける責め苦や苦難によってしか生についての知は獲得できないというのである。そして [eigen] であるが、「固有の」「自分の」と言いうるためには、画定され自立性を持った「生あるもの」が考えられていると考えなければならない。その生あるもののおのれ自身の責め苦においてのみその生あるものの固有の知は増えるというのである。生と言っても、ここでニーチェが考えているのは分子的な個別の生であり、その分子的な個別の生が獲得する生の深みの洞察としての知である。以上のような考察からして、 [es] は生(das Leben)を受ける人称代名詞ではなく(まして「精神」を受けるものでもなく)、後に出てくる [das eigne Wissen] を先行的に受ける形式主語と見なければならない。そして [mehrt ... sich] の [sich] は四格と見れば十分である。とりあえずそこのところを訳しておけば「おのれみずからの責め苦においておのれみずからの知は増えるのである」というところだろう。

 次いで1)である。この [Geist ist das Leben, das selber in’s Leben schneidet] の文章の難しさは、[schneidet]が自動詞かそれとも他動詞かという問題が一つであり、そして [selber] が本来の文法通り主格強調のために使われているのか、そうでないのかという問題である。氷上訳は先にも示した通り「精神とは、みずからの生命に切りこむ生命である」でありなかなかの名訳であると思うが、みずからの生命の中に切りこんでゆく自傷性こそが精神と呼ばれるべき生の本質をなすものだという主張がニーチェの主張として示されることになる。しかしここで疑問に感じるのは、「みずからの生命に」と [selber](みずから)の強調が「切りこまれる生命」の側に掛けて訳されていることである。管見、副詞 [selber] をニーチェが主格強調のためにではなく補足語強調のために用いた例をわたしは知らない。この文章においてもその読解の原則を貫くならば、むしろ「(精神とは)みずから生命に切りこんでゆく生命である」と(「みずから」という)強調を主格の側に掛けるべきではないかと思う。自傷性ではなく切りこんでゆく勇気こそが強調されていると理解するのである。動詞 [schneiden] と同系の名詞 [Schneid] が気概、果敢というような意味を持つようにである。そして、動詞 [schneiden] の解釈も、あえて他動詞風に理解する必要はなく、自動詞として [in+acc. schneiden] の基本の通り「…の中に切り込んでゆく」という意味に従って理解すればよいであろう。試みに訳せば「精神とは、みずから生の中に切り込んでゆく生のことである」と訳せるであろうか。勇気をもってみずから切り込んでゆくことなしには生についての深い認識は得ることができない。氷上訳は自傷性に傾き過ぎているように見える。もちろん、生の中に切り込んでゆけば、生からのさまざまな反発や反撃は遭うことは避けがたいであろう。しかしその切り込みなしには生についての深い、貴重な知は得られるはずもないのである。生についての深い貴重な知、これが精神と呼ばれる生の求めるものである。精神と呼ばれる生のみが得ることのできる知が存在するのである。

 拙訳を示しておく。

> 精神とは、みずから勇敢に生の中に切り込んでゆく生のことである。おのれみずからの苦難においてこそおのれの知は増えるのである、---あなたがたはこのことをすでに知っているか?




ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
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《夕日に焼ける雲》

2018/10/19 01:36
瀬谷こけし

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 夕方近くなって、どことなく、どこか少し山に近い方に行きたいと思って、原付に乗って、結局幡枝の方に行った。むかし、夕方近く原付に乗って、よく夕方の風景を見に行ったところなのだ。---といっても幡枝ももう住宅地になってしまっているし、特に何も見るものはないと思って走っていると、右手に幡枝八幡への上り道が見えた。---まだ幡枝八幡は健在なのだ、と少しうれしくなった。モヒカン山(一条山)の騒動以来この神社ももうなくなってしまったと思っていたのだ。上がると秋祭りの赤い旗が何本か立っていた。---秋祭りなのだ。といっても、特に何のまつりをしている様子もなかったが。久しぶりに境内を歩き、光や景観を楽しんだ。それから少し下に降りた。下の方は以前は産廃業者のごみ置き場になっていたと思うが、放し飼いの犬が何匹かいて、少し怖かったところだ。そこも今は住宅地になっていた。
 とりあえず心を強くして、高野の方のバイク屋に行った。数日前、原付で梅谷口を上ったために少し異音がするようになってしまっていたのだ。それを見てもらいに行くのが今日の外出の一番の目的だった。いろいろ調べてくれて、車体の下から一本の太さ一センチもない枝が出てきた。長さは50センチぐらい。車体を左に傾ける時にしていた音は多分このせいだった。バイク好きの人たちのいる店で、この店は気持ちいい。
 それから夕食用の野菜を買って、また遠回りして曼殊院の方に行った。ちょうど太陽が山の端に隠れようとするころ。今日は色彩も鮮やかだった。
 さらにそこから帰る途中、山の端にかかって、沈んだ太陽に、太い縁取りのように赤く焼かれている雲があった。
 いろいろなところに寄ってしまったが、今日の一番の景色はこの焼けた雲ではないだろうか。まずはそれを紹介したい。


 こんな夕焼雲の景色を見たせいか、家に帰って何か甘いものを食べたくなった。そして買っておいた羊羹を思い出した。


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《野田清一郎・愛子》

2018/10/16 22:25
瀬谷こけし

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 わたしの母方の祖父母だが、いつ撮ったものかわからない。わたしの家(藤沢の)には何度も来てくれたが、祖父母というイメージをしっかりと与えてくれた人たちだ。わたしが小学校の4年生ぐらいの時、わたしひとりでこのお二人を江の島にご案内したことがあるが、三人だけでどこかに行ったのはその一回だけだったと思う。その時も江の島の島内で、もしかしたらあるいは片瀬の西浜の水族館の近くのところだったかもしれないが、当時わたしが大好きだった子供用の自分で運転する電気カートに乗せてくれた。江の島の案内と言ったが、もしかしたら島の中までは行かず(島の上り坂は高齢者にはつらかっただろうから)、西浜あたりを散歩しただけだったかもしれない。わたしも無事大役を果たせてほっとしたような覚えがある。
 祖父は京都大学の電気の助教授をしていたが、学術上の問題をめぐって真偽を正すべく、コーネル大学に行きそこの教授と対決し、祖父の主張の正しさが認められたと聞く。そしてそこで客員教授を拝命し、研究環境の良さに月日を忘れて研究に勤しんでいたが、京都大学からは二年間の出張期間しか与えられていなかったためにもう京大には戻れなくなってしまったと聞く。それからは随分と苦労したそうだ。先の苦労を恐れない冒険心のあるひとだったようだ。
 わたしの家に来られた時は、食事はいつも蜂蜜をかけてナイフとフォークでパンを細かく切って、スープにひたして食べておられた。写真はわたしの藤沢の家ではないが、どこの家で撮られたものかはわからない。


 祖父野田清一郎についてこんな紹介があった。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E7%94%B0%20%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E-1652166#0.E4.B8.96.E7.B4.80.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E4.BA.8B.E5.85.B8


===== 2018.1.0.29 追記 =====

 母は何度も、祖父(清一郎)は長男(克彦)ができるだけ生き延びられるようにと海軍にやったと語っていた。私はそれを「海軍兵学校に行かせた」ということだと思っていた。だがそれは私の思い違いだったかもしれない。たまたま見つけたある資料によると、1943年9月に「海軍技術士官(2年間)」と書かれている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/isciesci/43/6/43_KJ00003974524/_pdf/-char/ja
 江田島に行っていたことは聞いている。この時期は、5月に山本五十六も戦死し、日本軍の退勢がはっきりと見えだしてきたころだ。父親としては長男をどういう所に進ませるかは大いに悩んだことだろう。海軍技術士官であれば戦地に派遣させられることはまずないと読んだのだろうか。もちろん陸軍と海軍の気質の違いは十分に理解していただろう。戦艦武蔵が沈没させられた時はたまたま上船していなかったという話も誰からか聞いた。叔父(克彦)は、戦後は電気試験所に勤め、国産のコンピュータの開発に携わっていた。私の藤沢の家族にとってはいちばんよく訪ねてきてくれる叔父であった。



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《宮沢賢治は成仏したか?》

2018/10/13 03:17
瀬谷こけし

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 これはもっと昔に問うべき問いだったと思うが、「化城喩品」(『法華経』巻7)を基準に考えると賢治は成仏していないと言うべきだと思う。それはそうと、先日行った比叡山のかなり大規模な展望駐車場に「草木国土悉皆成仏」と彫られた石碑があった。しかもそれは天台座主の字を刻んだものと言う。---これにはちょっとがっかりしたが、まあ宗教なのだから仕方がない、というのがわたしの感想だった。哲学ならば、もっと先へ思考を進めなければ何にもならない。こういう思想では鎌倉新仏教にも到達しないはずだ。つまり問題は何者がいつ成仏するのかという問題にまともに向き合っていないからだ。「草木」ならどの花が、どの樹木が、いつ成仏しているのか、その実例を一つでも示して見せろ、ということだ。これは臨済が上堂の時、「お前は仏か、そうでないなら仏は何処にいる? 見せろ見せろ」と迫ったのと同じ問題だ。「化城喩品」はもっとしっかりしたことを語っている。仏がひとり生まれる(=仏になる)時、世界全体が成仏すると言ってなかったか? 日本人は菩薩菩薩と言ってありがたがって「仏」のことを考えなかった。この精神は、今も同じように続いているだろう。この精神こそ、仏教の伝来以降も日本人の精神を千年以上にわたって堕落させてきた、「事なかれ主義」ではないだろうか?
 (2018年10月11日にFBに書いた小文の再録です。後日より詳細な論議をしてゆくつもりです)


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《『ツァラトゥストラ』II-8「名声高い賢者たち」の[ehr]》

2018/10/13 02:57
瀬谷こけし

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 はじめに標記のテキスト上の[ehr]を含む用例を標準的な日本語訳と共にすべて上げて見よう。
@ > Dem Volk habt ihr dedient und des Volkes Aberglauben, ihr berühmten Weisen alle !
--- un n i c h t der Wahrheit! Und gerade darum zollte man euch Ehrfurcht. (ZarII-8,Von den berühmten Weisen. S.132, Zn.2-4)
 すべての名高い賢者たちよ、あなたがたは民衆に奉仕し、民衆の迷信に奉仕してきたのだ! --- 真理に、奉仕してきたのではない!  だからこそ、あなたがたは尊敬されたのだ!(氷上英廣訳、岩波文庫(下)、p.172)

A > Eurem Volke wolltet ihr Recht schaffen in seiner Verehrung: das hiesset ihr „Wille zur Wahrheit,“ ihr berühmten Weisen! (S.132, Zn.16-17)
名高い賢者たちよ! あなたがたは民衆を崇拝した。それによって民衆を正当化し、弁護しようとした。それを、あなたがたは「真理への意志」と呼んだ。(p.173)

B > Ach, dass ich an eure „wahrhaftigkeit“ glauben lerne, dazu müsstet ihr mir erst euren verehrenden Willen zerbrechen. (S.133, Zn.5-6)
ああ、わたしがあなたがたの「真実」を信じることができるためには、まずあなたがたにあなたがたの崇拝の意志を打ち砕いてもらわなければならぬ。(p.174)

C > Eahrhaftig --- so heisse ich Den, der götterlose Wüsten geht und sein verehrendes Herz zerbrochen hat. (S.133, Zn.7-8)
真実 ---わたしがそう呼ぶのは、神々の陰のない砂漠に行き、みずからの崇拝の心情を打ち砕いたひとのことである。(p.174)

D > Und wahrlich, ihr berühmten Weisen, ihr Diener des Volkes! Ihr selber wuchset mit des Volkes Geist und Tugend --- und das Volk durch euch! Zu euren Ehren sage ich das! (S.133, Zn.32-34)
まことに、名高い賢者たちよ、民衆の従者よ、あなたがた自身が、民衆の精神と徳につれておおきくなった。--- また、民衆はあなたがたのおかげで大きくなった! あなたがたの名誉のために、わたしはこれを言おう! (p.175)

[ehr]という語成分が使用されているのは以上の五カ所である。まとめれば
@ Ehrfurcht
A Verehrung
B verehrenden
C verehrendes
D Ehren
で、@ADは名詞を構成する成分として、BCは現在分詞として使われている動詞の成分としてである。

 そしてこれらの [ehr] はいずれも「名誉」を意味する意味素として単語中に含まれ機能している。@の「畏怖」とか「畏敬の念」とかを表す [Ehrfurcht] においては、その語の中の「敬意」を表現を引き受けている。「敬意」とは「名誉」に値するものを認め、「名誉」を与えることである。概ね「尊敬」とか「崇拝」とかを表すAの [Verehrung] においてはこの語の中心的な意味を担い、この名詞自身が「尊敬する」「崇拝する」を意味する動詞 [verehren] から直接に生まれたものである。その動詞 [verehren] の現在分詞形の付加語形容詞としての使用であるBCの [verehrenden] [verehrendes] は、それぞれが形容する名詞である [Willen](意志) [Herz](心)がそれぞれ「尊敬」なり「崇拝」なりの「名誉を付与する」行為を行う主体として特定される形式に従っている。最後の名詞D [Ehren] は、ここまでみたすべての語の核心をなす意味素 [ehr](名誉) が生な形で名詞化されたものであり、それゆえここまで見てきた「名誉を付与する」という行為において付与されていた当のものを最も明示的に示す形で使用されているのである。

 上記の五つの [ehr] を含む文章において、やや見にくい仕方ではあれ付与され、贈与されていたものは「名誉」という価値であると言うことができるであろう。単語の中にひそませてニーチェは「名誉」という価値のやり取りを分析し、表現しているのである。@においては、「高名な賢者たち」に人々(民衆)が畏敬の念を払う(zollen)のは、「賢者たちが民衆と民衆の迷信の奉仕してきたのであって、真理に奉仕してきたのではないからである」と言われる。ここで「畏怖」に含まれる「名誉」は民衆が賢者たちに与えるものである。Aの「崇拝」は逆に賢者たちが民衆に与える名誉であり、その名誉付与の行為として彼らは民衆に [Recht](正義ないしは正当性)のみかけなりとも創り出してやろうと欲してそれを「真理への意志」の名において創り出しているのである、とされる。

 BCDにおいては、言明がツァラトゥストラの立場からのものに変わる。Bではツァラトゥストラがあなたたち賢者たちの [Wahrhaftigkeit](誠実性、真実性、真理の所有) を信じることができるためには、まずもってあなたたち賢者たちが(何者かを) [verehren](崇拝)するという意志を打ち砕くことが必要である、と言われる。崇拝するという行為は「真理の所有」から生まれる行為ではなく、名誉の交換関係の維持(相互のおもねり)のなかで営まれる行動だからである。Cではさらに、この「真実性ないしは真理を保有している」(wahrhaftig)とは、ツァラトゥストラが、ただ神々の存在しない砂漠(Wüsten)の中へおもむき、みずからの崇拝する心を打ち砕いた者に対してだけ呼ぶ言葉である。崇拝の無効性: どれほど相手を讃え、名誉を与えようと、相手からは何の返答もない神々なき砂漠において、みずからの身体において獲得した真実のみが真実性の名に値するというのである。ここにおいて、「名誉」(ehr)は交換される通貨ではなくなり、失効する。

 最後のDにおいては、相互奉仕的な民衆と賢者たちとの関係がまったくの無価値ではなく、民衆の精神と徳によって賢者たちも成長し、賢者たちによって民衆も成長したということが賢者たちの名誉のためにツァラトゥストラによって表明される。ツァラトゥストラは相互奉仕的な民衆と賢者たちの関係の輪の外の立場にあり、彼による名誉の付与は交換関係の中にない名誉付与になっている。
 このDの文章のなかに言われる「精神」については、次のページできわめて目覚ましい主張が示される。---これにていては先に論じたことがあるが、さらに生の認識の方法論として、ルー・フォン・ザロメとニーチェが共有していた方法論として、さらに述べる必要があるだろう。ここでは、民衆も賢者たちも精神が何であるかを知らない、という主張においてニーチェの立場は明示されていると言っておくにとどめよう。




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《梅谷口・雲母坂》

2018/10/09 20:46
瀬谷こけし
写真はいずれも梅谷道・帰路
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砂防ダム
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同上、下流側から
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 昨日帰路を同行してくれた青年が、自分は梅谷口から入ったと語っていた。そしてその川筋は放置されたように荒れていたと。家から近いこともあってわたしは叡山には梅谷川から入ることが多い。しかしその道も、4年ほど前にはだいぶ荒れていて、砂防ダムは二つとも上まで砂が積もり、土砂が流れてきたときにはほとんど何の役にも立たないことを確認したのだった。今日も夕方近く、ふと確認をしたく、梅谷川から少し入ったが、4年前よりもさらに荒れていた。砂防ダムも浚渫されていない。---京都市の行政はそんなものだ。そしてまたもう一つ、昨日も話題になったことだが、雲母(きらら)坂からの入り口がどこだったか、それをもうすっかり忘れてしまっていた。学生時代を最後に、きらら坂から入ったことはない。当時は、普通に歩いていれば自然と入ってゆく道だったが、音羽川が洪水を起こし人が死んでからは、音羽川だけは立派に、何重にも砂防の施設を作って、しかし川自体は三面張りにして、なんとも管理された川になっていた。その音羽川の工事がされてからは、いったいどこからきらら坂に入ったのか見当がつかなくなっていて、夕方そちらも探しに行った。----左岸をいわば砂防施設の突き当り近くまで行くと、右岸に渡る橋があり、きらら坂へはそこから行けるということが分かった。これはいわば当然のことで、修学院離宮の南側を東に入って、東の端のところから登ってゆくことになるのは考えるだけでわかることだった。---しかし学生時代は、修学院離宮の端の方の一部を通らしてくれていた気がするので、多分、砂防ダムのせいで、入りにくい道になってしまったのではないかと思う。平安時代から、あれほどに由緒のあった雲母坂道が、入りにくくなり、おそらくそのために上る人も少なくなってしまったことと思う。姉の死後はいちど雪の中を長靴を履いて登ったこともあった。根本中堂の近くで会って話した若い坊さんも、こんな雪の中を参詣に来たことを驚いていた。スキー場の中を通らねばならなかったのだが、そこも参詣のために来たのだと説明して通してもらった。---帰りの記憶がないのだが、苦労の記憶がないわけで、きっとその時はケーブルを使って八瀬まで下りたのだろう。もしかしたら写真はあるかもしれない。NikonS2を使っていたはずだ。

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《[Conliquidation](共液状化)という概念は作れないだろうか?》

2018/10/08 22:58
瀬谷こけし

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『ミルプラトー』の中でドゥルーズ(とガタリ)は[consolidation]という概念を提出している。「共固体化」とでも訳せるのだろうか。手持ちの日本語訳では「強化」と訳しているようだが、今一歩分かりにくいと思う。それは、アトリなどの鳥が他の鳥の鳴き声をどのように利用して互いの鳴き声の堅固さを高めてゆくかという問題の中でだが。次のように言う。

> La consistence se fait néssairement d’hétérogène à hétérogène : non pas parce qu’il y aurait naissance d’une différenciation, mais parce que les hétérogènes qui se contentaient de coexister ou de se succéder sont maintenent pris les uns dans les autrres, par la << consolidation >> de leur coéxistence et de leur succession.
(Mille Plateaux, p. 407)
ちなみに手持ちの訳本の訳はこうだ:
>存立性は必然的に非等質なもののあいだに生まれる。差異化が生じるからではなく、それまでは共存や継起に甘んじていた非等質なものが、共存と継起を「強化」することによって、互いに相手の中に組み込まれるからそうなるのである。(宇野他訳『千のプラトー』河出書房新社、pp.380-381)
よい訳だと思う。
 この[Consolidation]の概念をよく理解するためにはその前のページも紹介しなければならないのだが、わたしはこの概念を、シュトックハウゼンの直観音楽(intuitive Musik)の作曲を説明するための基本概念として使ってゆきたいと思うのだ。それゆえそれはまた次の機会に回す。今はむしろ台風による山の倒木を説明するために、その反対の[conliquidation](訳せば「共液状化」)という概念が有効ではないかと思えるのだ。強風によって樹が幹の途中から折れる事象は、風による圧力の単独的な効果として説明すればよいと思うのだが、樹が根こそぎ倒れる現象は、雨と地下水流の液体化作用によって、樹の存立を強化していた根と土の「共固体化」関係が脆弱化するとともに、強風による樹木の振動によって、その脆弱化が加速されることによって根と土のあいだの「共液状化」が進行することによるように見えるのである。---こんなことは当たり前のことかもしれないが、まずはこんなやり方で「共液状化」(conliquidation)という概念を提出しておきたいのだ。応用範囲は広いはずだ。
(写真は比叡山玉体杉の北側の尾根道)


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《名誉通貨》

2018/10/04 15:34
瀬谷こけし

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 「名誉通貨」と言うべきものについて考えねばならないのではないだろうか。ドイツ語を交えれば「Ehr通貨」とでも言うべきものを。『ツァラトゥストラ』II-8の「高名な賢者について」の節は、「賢者」と民衆の間の「ehr」の向け合い、振り分けごっこについてのこの上なく鋭い批判になっている。それは「ehr」という語成分を含む幾つかの語の動きをきわめて適切に見せることによってであるが。「ehr」というあまり目立たぬ語成分はもちろん「Ehre」=名誉、という概念を運ぶものである。ニーチェの批判の分析はここでは置いておくが、日本人が、「名誉」に値するものを自分で考える能力の極めて乏しい国民に見えるからだ。例えば「京都賞」という高額の賞金で有名な賞が、独自の業績評価によってではなく、世界で既に評価されていたものを後追いする形でしか評価したためしがないように思えるからだ。とりわけ芸術部門についてはそうだ。もう棺桶に片足を突っ込んだ人物以外に受賞した人がいるだろうか?あんな三流**家が受賞してとあきれるようなことなら幾つも見つかる。「名誉」に値する業績を独自に評価する力の乏しさ、これ日本人に顕著な特性だと思う。だから「賞」や「地位」がことのほかありがたがられるのだ。もっとも、日本国内で決められて与えられる「賞」や「地位」が大したものではないことは多少思考力のある人ならみな気がついていることだが、それだけに「オリンピック」のメダルや「ノーベル賞」などの「名誉」はこれは世界水準での本物という価値を持つのだろう。「賞」や「地位」でしか人の仕事の値打ちの評価のできない国民性。ノーベル賞受賞者の間でもその仕事の値打ちには相当な差や違いがあるということをこの国の国民が理解することはあるのだろうか。「閉店前セール」の品物たちに「大臣」の名誉を分け与え、その「名誉」が通用してしまうこの国のやりかたを見ていると、この国の社会の分析には「名誉通貨」という概念による分析と批判が欠かせないと思える。


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