《拙論:「真夜中と正午 --ニーチェの永遠回帰思想の二つの時」が公開されました》

瀬谷こけし
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《拙論:「真夜中と正午 --ニーチェの永遠回帰思想の二つの時」が公開されました》

 標記の拙論が「京都芸術大学紀要25号」に「研究論文」として掲載されました。下記のアドレスから入れます。

https://kyoto-art.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=98&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese&page_id=13&block_id=61

 ご高覧いただければ幸いです。

 努力した甲斐はあったと思います。

 この論の続きは『宗教研究』紀要特集号、日本宗教学会(2022年3月公開予定)で公開される予定です。

《森の答え ---村を開くことの許し 第30回宮沢賢治研究発表会》

瀬谷こけし
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《第30回宮沢賢治研究発表会》

 本日(2021.09.23)標記の会で大過なく研究発表を終えることができました。多くの方々のおかげです。3年前に発表を考えていたものより多少内容はやわらぎ、視野も眺望も多少広がったと思います。この着想で纏めることのヒントを著書で示してくれた故高谷好一さん、そして小岩井農場の賢治詩碑の除幕式のようすを教えてくれた岡沢敏男さんにはとりわけ篤く御礼申し上げます。
 その発表要旨(800字)は以下の通りです。この問題を受け止めてご批判をくださる方をとりわけ歓迎いたします。

===== 発表要旨 ======

 《森の答え ---村を開くことの許し》


小岩井農場に立つ宮沢賢治詩碑、その除幕式ではある劇がおこなわれたという。人々が森に向かって「ここに詩碑を立ててもいいか?」と叫んだのである。すると森の方から「いいぞお」という返事が聞こえてきたという。この場合は背後の森の中に人々が隠れていて森になりかわって答えたのだとのことだ。人々が森自身の答えを森から直接得たわけではない。この劇は物語『狼森と笊森、盗森』の話をもとにしている。物語の方では「いゝぞお」とか「ようし」とかの承諾の答えを森が直接に語ったように記される。しかし村を開こうとして畑家を作り火木の使用の許可を森に求める四人の男に対して森は本当はどのような〈言葉〉で答えたのだろうか?これが私の疑問である。物語では自然物の擬人化の原則の通りに森の日本語による答えが黒坂森の「巌」に聞き取られ四人の男たちにも聞き取られたとして話が進む。だがこの物語の底にはひとが村を開く場合その地の「神」の許可が必要だという人類の基本的な問題が横たわっている。童話を離れれば開村の許可/不許可を森が森の生物を通じて示すとされる文化が存在していた。高谷好一はスラウェシ島ゴロンタロのムサ・イスマル氏から彼が祖父から聞いたという1915年の最後の集落移動の様子を聞き、それを伝えている(『世界単位論』)。それは、ある長老が目星を付けた土地に長老たちで向かいその途中で鳥占いをし吉と出れば進む。到着後そこに生えている幼木を引き抜き、根まで切れずに引き抜けたら森の神の許しが出たとされ、三度試みて三度とも根が切れた場合には森の神の許可が得られなかったと判定される。幼木を引き抜く行動の結果が森の神自身の返答と考えられたのである。この行為は『狼森…』の一本のすすきを引き抜く行為と似ている。だが物語の中の地味を判定する行為はそこに神意を見る行為ではないだろう。賢治はむしろ子供や農具や粟の消失事件に森の神意をみたのだろうか。





《石上布留の社》

瀬谷こけし

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《石上布留の社》

 昨日は無人島の歌会があって参加してきた。家の前の舗装工事をするというので朝9時に家を出て、時間があるので毎回その前を素通りしている石上(いそのかみ)神社にお参りしてきた。人麻呂の万葉集の歌(501)で知られる歌。「布留」(ふる)の思想・文化がいまも残っているのだろう。もっとも建物の方は本殿が改修工事中でようすがわからなかったが。境内はいろいろ歩いてみた。だが萩はみつからなかった。萩を探したのは、山中智恵子の歌に、

> 比礼(ひれ)ふりしものの思ひのたまゆらを布留の高庭萩の花咲く
        『虚空日月』「いそのかみ」

の歌があるからだ。人麻呂の歌で振られた「袖」はここでは「比礼」。「思ひのたまゆら」は「布留」(振れるもの)のゆらゆらとした動きをしっかりと受け止めている。智恵子はそこに「花咲きゆれる萩」をみたものか。たしかに、この神社に萩の草叢があれば素晴らしいことだろう。
 ここのにわとりもとても面白い。

《昨日の一首》

瀬谷こけし
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《昨日の一首》

 昨日の一首、それは次のもの:

>古知谷のミイラはくづれ果てもなし終りし時を惜しむことなかれ

 弾誓上人の終の棲家は古知谷の阿弥陀寺であったとされている。そこに彼のミイラがあるということは学生時代から知っていたことだが見に行く機会はなかった。そのうち拝観停止になったということも聞いた。この古知谷のあたりも大原から足を延ばして時々寄ることがあるのだが、昨日もふと足を延ばして行って見た。前に寄った時と違うのは阿弥陀寺の駐車場に鎖がなく、入山禁止ではなくなっていたことだ。そこに入れて車を停め、少しだけ写真を撮っていた。ミイラになることが聖性の一極を意味する文化は、時代は、もう終わったと思う。だが、彼との由縁の伝わる万治の石仏が急に気になってきた。そしてぜひ見に行きたいと思いはじめた。野の石仏をつくること、この文化は終わっていないのではないだろうか。ニーチェが言う神の死亡確認の後ののいとなみとしてこれからも存続してゆくのではないだろうか。野に石仏をつくり置いてゆく思想、弾誓上人につながるその思想は、まだつづいてゆくかもしれない。
 「弾誓上人、あんたの思想はまだつづくかも」そんな言葉を彼には投げてやりたい。

《京都の細い道》

瀬谷こけし

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《細い道》

 昨日夕方曼殊院の辺りにいって思い出したことがあった。むかし一乗寺の向畑町に下宿していて、その頃は生垣にしている家が多くあって、その植物の近くを歩くのを習慣のようにしていたことがあった。植物の呼吸から森の呼吸、自然の呼吸に触れている気がしていたのだと思う。心地よかったのだ。なかでもとりわけ好きだった神社があって、それが鷺ノ森神社だった。どうしようか迷うことがあってこの境内でゆったりしていると、体のリズムが静かに整っていって、こうしようということが定まってくることがあった。だがその南へ出る参道は滅多に通ることをしなかった。とりわけ夜は恐ろしい思いをすることなく通り抜けることができなかった。もともと狭い参道が三十メートルほど続いていてその両側には二メートルほどの高さの灌木が隙間なく植えられていた。無理をしないとひととひとがすれ違うことも難しいような道だった。その細道を通りきると小川があって、橋が架かり、その向こうへ渡ることができた。そして簡易舗装の道路に出て、そこを左に折れれば曼殊院に通じる道になった。こんな参道の細道にも最も細い部分があって、それは十メートルにも足りないというか、五メートル余りしかないのだが、そこに入ると外光が少しも入らず、空からの明かりすら入らず、真っ暗闇になるのだった。その恐怖感。むやみに通るような道ではなかった。だがこの世で闇を体験できる稀有な場所だった。後に、長野善光寺地下のお戒壇めぐりなどを知ったが、光のまったく絶たれた場所をただ五感を研ぎ澄ませることによって進むという比類ない経験のできるところだった。わたしにはこよなく貴重な場所だった。
 その細道のことをきのう久しぶりに思い出した。その道も今はもう当たり前の道になってしまっているが。

 この細道にひとを案内したことが何回かあるのだが、それをよく思い出せない。造形大では、京都のディープなところに希望する学生を夜中に連れて行くということをいろいろな機会にしていたが、芸術文化学科のゼミの数名の学生を連れて夜の鷺ノ森神社に来たこともあった。その時この細道を通ったかどうか。はっきりとしない。通ったにしても数人で通るなら闇の恐怖感は少ないだろう。その時はその後松ヶ崎の七面天女堂にも連れて行ったが、その時は拝殿の奥の下のコンクリートのあたりから動物的ななま暖かい臭いが流れてきて、歩みを止めて耳を澄ませると呼吸音が聞こえ、そのリズムからおそらくはホームレスの人間が寝ているのだと判断して、引き返したのだった。他に、松ヶ崎山の山越え、貴船川の螢見物は何年も。その中には貴船神社奥宮の真夜中のゆったりとした散策に時間を取ったこともあった(夜十時半を過ぎれば帰りの交通機関はない)。真っ暗な道を奥宮からさらに奥に歩いてゆこうとしたが柵も何もない左手の川に落ちる危険を感じて引き返したこともあった。暗闇こそがディープなものと出会う場所だということは参加してくれた学生たちによく伝えられたと思う。貴船川の奥といえば和泉式部と九条良経の両歌人にとっても最もディープな経験の場所であっただろう。能の鉄輪もそれに連なる。縁あって京都の芸術大学来た学生たちに京都の自然と文化が提供できる深い感覚への目覚めを与えることができた。いまやそれらの場所も概ね破壊された。





《短歌》

瀬谷こけし

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《短歌》
 わたしがそれこそが短歌だと思っている山中智恵子の短歌はいわば現実から三歩も四歩も引いたところに身を置いてその場所から感慨を歌うものだ。そんなことをしてよくこの世で通じるなと思うが、それはその三歩四歩下がった場所というのが歌のはじめから歌人たちが身を置き続けてきた場所だからだ。歌の流れの川があるとすれば山中智恵子はその流れの中に身を置いていた。そうすることが現代では狂気をもってするのでなければなしえぬことになってしまっているのだ。そのように、歌の流れの川の中に身を置いて感慨を歌うことが今日でも正しい短歌の姿だとわたしは考えており、そう考えている歌人も決して少なくはないのだがしかしそれは非常に困難な道だ。誤解や昏迷に閉ざされている人も多い。
 少し話はずれるのだが、一昨日参加させてもらった8月の「無人島」歌会では、詠草がメールで事前に送られてきて、当日参加できない者は事前に選歌とその理由をその役の人に送り届けておくことになっている。詠草も二首、選歌も二首だ。そうして送られてきた「無人島八月詠草」を見ていると全22首のうち、選びたいと思った歌が実に10首もあったのだ。それだけ素晴らしい魅力あり実質のある歌が並んでいて、選歌を二首に限るのが実に難しかった。これは日頃まったく経験のないことだった。新しい歌の形が形成されつつあった。二歩も三歩も引いて歌うのではなく、まさにその事件(あるいは出会い)に面して歌うのだ。一歩も下がることはない。ただ半歩だけ引いて形を構成して歌う。それらの歌のなんと生々しいことか。なんと瑞々しいことか。例えば蝉のざわめきを歌った歌が何と22首の内4首もあったのだ。身の回りの生きものたちとの感興にきわめて敏感なひとたちの会なのだ。実に感心した歌会だった。

《遊誼か遊愚か》

瀬谷こけし
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《遊誼か遊愚か》

 しばらく考えていたが、ニーチェが「神は死んでいる」と語るFW.125で言っている[welche heiligen Spiele werden wir erfinden müssen?]の「heilige Spiele」の日本語としてこの「遊誼」がよいのではないだろうか? そこで以前紹介したわたしの歌も少し変えることにする。

> 焚書ニモ坑儒ニモマケヌ遊誼アレ雨ニモマケズ風ニモマケズ

 いや、やっぱりこうかな。

> 焚書ニモ坑儒ニモマケヌ遊愚アレ雨ニモマケズ風ニモマケズ

 賢治は厳しい自然にもまけない丈夫さを言うが、社会権力に対してはどうなのだろうか? 疑問。


《世の夕ぐれを》

瀬谷こけし

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《世の夕ぐれを》

 今日の夕焼空を見ていて、そして撮った写真の何枚かを見ていると思い出すことが少なくなかった。子どもの頃の夕焼け空ではなく、学生時代のそれ。そして一番印象の強いのが出町柳の駅の近くから見た空だった。--- ある詩の中では観念的に、ある短歌の中では、この世の見納めのような気持ちで、見た夕焼け空だった。
 多くの時代を貫くもの。
 645サイズ用のマミヤの150mmレンズで撮った。落ち着きがありゆとりのある夕空が撮れた。
 それらのすべてのなかに「世の夕ぐれをあきらけくこそ」(『虚空日月』)という山中智恵子の歌の下の句がひびいている。



《桜井へ: How to do things with words?》

瀬谷こけし

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《桜井へ: How to do things with words?》
 奈良県の桜井に行ってきた。長老とご相談をさせてもらうために。
 わたしの問題はジョン・オースチンの言葉を借りれば「How to do things with words」ということだ。言葉、とりわけ短い言葉で、どうすれば行動することができるか。言葉でどのように表現すれば適切に行動することができるかということだ。
 短歌は、根源においてはそのための方法であっただろう。
 だが、今日では短歌に幾つかの変容をゆるさなければ、行動すること、"do things"することができないと思う。さしあたりは、口語と自由律だ。それらを正統な短歌表現として許容すること。
 そしてそれに加えて、SNS上の単語検索による監視と禁止のシステムを越えつづけ、かつ読者に理解可能であり続ける手法を研きつづけなければならない。
 そのために『無人島』に参加させてもらうことをお願いし、参加のお許しを得てきた。きっと夕空が開ける。夕照が見られる。

 少し前にここで紹介させていただいた拙詠を少し変えて、
>焚書ニモ坑儒ニモマケヌ遊愚アレ雨ニモマケズ風ニモマケズ

 今日はかつてのどんな時代にも増して焚書坑儒が大規模に遂行されているように見える。例えば加藤陽子氏の学術会議会員任命拒否は「坑儒」ではないのか? --いえいえそれほどのことではないとひとは言うのだろうか? --そうかもしれない。


《比叡山梅谷登り口》

瀬谷こけし


《比叡山梅谷登り口》


 比叡山の梅谷からの登り口の様子を見てきた。二川が合流して登り道が川を離れる場所まで。登り道は3年前の台風被害以後ほとんで手を付けられていないようだった。だがあえて通ろうとするひとには通れるようにだけはしてあった。観光登山道としてはとてもではないが披露できるような道ではない。土砂が崩れたままできちんとどう足を踏んでいくかを考えておかないと川に落ちる危険のある所が二か所ほどあった。杖もあった方がよい。わたしは友人からもらった仙人向けのような細い杖を持っていったが、それで十分役に立った。すべての砂防ダムを見て写真を撮ってきたがすべてが満杯で土砂崩れが起こった場合それを止める役にはほぼまったく立たないと思う。ただ、見てきた範囲の斜面では、崩れたとしてもそれほど大きな土砂崩れにはならず、あたりの樹々をなぎ倒して崩れて行くほどの土砂量にはならないように見えた。もちろんまだ見ていない上流部からの土砂崩れがあった場合どうなるかということについては全く分からない。比較的小さい土砂崩れなら起こったところこれからも起こりそうなところはそこら中にある。都市の内部にこんなところがあったら大変だが山中の谷筋であれば自然の摂理の範囲内だろう。
 朝は出損ねたので出かけたのは日差しが和らいできた3時半ごろだった。二川の合流点に着いたのは4時45分ぐらい。日が長いので5時までに帰路に就ければよいという計画だったが、ちょうどそのくらいになった。帰路はずっと早く、50分ぐらいで家に戻れた。山の中は涼しくて気持ちがよい。街中が暑い時こそ山歩きは向いているかもしれない。はじめはめまいが起こるのではないかとおそれていたが、ゆっくりと気持ちよく歩いていたので、目的地に着いた時にもくらくらするほどの眩暈には襲われなかった。昼に餅をたっぷり食べておいたせいもあるかもしれない。夕食は牛乳やヨーグルトなどだけにしたが今もって腹が減らない。体にもよかったようだ。体重は1㎏以上減った。とりあえず帰路の写真から7枚を紹介する。

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①ここなどいつ崩れてもおかしくないが崩れても落ちる土砂は2立方メートル以内だろう。だがここが崩れるとこの道を通るのがちょっと危なくなる。

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②写真中央の緑の生えている部分が①の崩れそうな部分。応急修理がしてあるがこの山道を死守する気はあるのだろうか。この人道が崩れてなくなれば山としては落ち着きそうだが、山がまた普通のひとの登れない場所になってゆきそうだ。半端な護岸工事をすると大雨の時の危険はかえって増すだろう。雲母坂口の方はどうなのだろう? 歴史的な意味も大きい道だが市は登り道として死守してゆくつもりだろうか? むしろ以前音羽川の氾濫で死者が出たので力を入れているようにみえるが何を目指しているのかよくわからない。しかしいずれ雲母坂の方も登ってみよう。

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③二川の合流点。頑丈な橋を造ってここの通行は確保したいという意志を感じる。右上端のシダなどの緑が②で写したところ。上側の真ん中より少し右のところに今回使った杖が差してある。

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④口径1cmほどの水道管が仕込まれていた。こうして水に通り道を用意してやることは大きな効果があるだろう。この水はとても冷たく火照った顔を冷やせて気持ちよかった。

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⑤ちょっとわかりにくいが苔で縁撮りされた部分が雪庇のようになっていてここに両足を乗せれば岩ごと下に落ちると思う。つまりこの板状の岩の下がすっかりえぐられているのだ。

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⑥この護岸もどうしたって崩れるだろう。急いで修復することはまずしない。それが当然だ。自然の力を甘く見ていられた日々があったということか。

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⑦山側からの崩れにどう対応しているかの例。こういう場所が何カ所かある。対策は人の歩ける道を確保したということか。表層崩れでとまっているが、崩れる地表の面積は広がってゆくだろう。


 こうして見てくると、登山口の入り口に近いところの二つの大きな砂防ダムを浚渫することがこの梅谷川の下方の住民を守るためのもっとも効果的で安上がりな方法であると思う。





《近詠八首 アメニモマケズ》

瀬谷こけし
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《近詠八首 アメニモマケズ》


>焚書にも坑儒にもまけぬ遊具あれ雨にもまけず風にもまけず

>ぼったくり男爵の爪の垢こそ売り出さん厚顔無恥の強さの薬

>新聞短歌の反対語はなに 即答できる旧聞短歌

>炎天にも語にも灼かれぬくらぶれば猛暑も酷暑も語彙が凡庸

>炎天は地獄の季節のさばってものさばっても凡庸は凡庸

>なにから何までごまかし五輪仕上げはいぢめ大好き開会式音楽

>昨日は写真も撮らずなにしてた? □□□□□□歌会に出てた!

>藪枯らし木々のこずゑを覆ひては呪物のごとし安井金毘羅の


《前川佐美雄の一首》  

瀬谷こけし
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《前川佐美雄の一首》 

 この依頼原稿が掲載された『日本歌人』2021年7月号が既に配布されているので、これをここに出しても構わないだろう。ご高覧いただければ幸いです。 


> 夕焼のにじむ白壁に声絶えてほろびうせたるものの爪あと

 「鬼百首」(『捜神』所収)のなかでもこの歌は鋭いものをリアルに感じさせる歌である。それは白壁に爪あとを残すものが残された爪あとと同じようにリアルに存在することを推測させるからである。その白壁に刻まれた爪あとは声絶えてほろびうせたるものが残したものなのだ。この歌はわたしには以前訪ねたミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所のいわゆるガス室に残されていた爪痕、爪で鉄の壁に付けられた文字と一つのものと感じられた。その文字はおそらく自分の名前であった。わたしはここで死ぬということを刻み込みたかったのだ。おのれの存在と死とを世に伝えるべく。佐美雄にとっても鬼は「穏(オン)」な、姿を示さない存在であるのが基本だ。「鬼百首」に主語を示されない動作を語る歌が多いのはそのためだ。鬼が俗悪な多数者と捉えられることも多いが逆に自分が鬼と見られると把握している歌もある。弁明も許されず自らの存在を示せないまま滅ぼされたものの声が佐美雄の耳には数しれず響いていたことだろう。山中智恵子の次の歌はこの佐美雄の爪あと歌を本歌としている。

> 思ひ出でて霜夜の花の魂むすびくだけしもののひびき絶え
せぬ   『虚空日月』「王必」



《御蔭山驟雨》

瀬谷こけし

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《御蔭山驟雨》

 昨日上高野と八瀬の間の山際の道が整備されて行きやすくなっているのを確認して今日は上高野の方から歩いて行ってみようと思った。三時ごろ、一雨きそうだとは思ったが、それほど激しくなるとは思えず、特に雨具ももたずにカメラ(とカメラバッグ)だけ持って出た。帽子はかぶって。北東方面の空が重い雲ではないが果てが見えない雲なのでそれなりに心配はしていたのだ。家を出てゆっくりと植物などの写真を撮りながら名勝の石碑があるところまでは降られるということもなくたどり着いた。だがそのあたりで降り始める。大した雨ではないが、峠を越えて八瀬の方にたどり着いても駅舎以外には休むところもないので、やむまでと思って案内板の片側15cmほどの屋根の下で雨宿りをしていたが、10分もたたずに小降りになったので進むことにした。そして進みはじめると丁度峠の平地になっているところまで来たところで激しい雨になった。しばらくは杉の木の下で雨を避けていたが、雨はだんだん激しくなるばかりだった。雷の音も聞こえ近づいて来ていた。そこでびしょ濡れを覚悟で先ほどの案内板のところまで戻ることにした。上半身はびしょ濡れになって案内板までたどり着いた。片側15センチほどの屋根でも雨の方向を考えて立っていれば雨はかなり避けられる。しかしこの案内板のあたりもきちんとした避雷施設はなく、叡電の架線や鉄柱も10mほどしか離れていないので、はたしてここが避雷のことを考えて安心というわけではなかったが、結果的にはそこまでのことにはならなかった。わたしが雨を避けている間じゅう落雷は一発も起こらなかった。
 やがてわたしのいるところの上空の少し西のところに青空が見えて、やがてそれが広がっていった。そして雨もゆるくなり陽が差してきた。
 こんなびしょ濡れの体験をどれだけしていなかっただろう。バイクで大雪山のユースホステルに向かっていた時。白出沢から穂高山荘に向かっていた時。数えるほどしか思い浮かばない。実際にはもっとずっと多く、降られて濡れるのはむしろ当たり前のことだった。日本の長谷川等伯も、田園交響曲を書いたベートーヴェンも、稲妻に頭を晒すことを歌ったヘルダーリンも、雨に打たれてびしょ濡れになる経験は当たり前のことだっただろう。そこからしか理解できないひとと天との関係はまさにひとの芸術の大きな源だろう。

《湯屋のサイカチ》

瀬谷こけし
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《湯屋のサイカチ》

 飛騨の方ではそろそろアジサイが色づきはじめるところだろうか。萩原の清水温泉の庭ではそんなアジサイが見られた。
 そしてその後では小坂の湯谷温泉や巌立狭や姫シャクナゲ温泉の下見をしてきた。飛騨といってもまだ見に行ったことのないところがずいぶんある。巌立狭のすごさは簡単には紹介できない。撮影機材を整えてから出直したい。それでここで紹介するのは「湯屋のサイカチ」。サイカチについては宮沢賢治の「風の又三郎」や「さいかち淵」などで花巻の方では知っている人も多く、市場では多分いまでも洗剤代わりとしてその鞘を乾かしたものを販売している。だがその樹木をはっきりと見たことはなかった。飛騨小坂ではそのサイカチの樹が下呂市の天然記念物として保護されている。わたしもはじめてサイカチの樹をはっきりと見ることができた。サイカチの利用史についてはまだ知られていない部分が多いのではないかと思う。それとも民俗学的には究明されつくしているのだろうか? 小坂だけに御岳信仰や山岳修験ともかかわるところでの薬学的な利用の伝承が底に隠れている気がする。

《シクラメンの花の》

瀬谷こけし
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《シクラメンの花の》

 今日はなぜか中村生雄さんのことばかり思い浮かべていた。中村さんはわたしにとってとてもありがたい先輩の一人だった。細やかな恩恵の数々。供犠論研究会での縁がもっとも深かったか。
 今日わたしが思い出していたのはその飛騨での研究会のときのことだった。研究会が終わって、多分橋本繁蔵さんの誘いでみなでカラオケに行った。そこで中村さんは布施明のある歌をデュエットで歌っていた。きっと彼の大好きな歌だったのだ。歌い方でそれはわかった。曲は標題にも入れた「シクラメンの花のかほり」。その中で思い浮かぶのは「僕らに似た若い恋人かもしれない」のところだった。きっと心が緩んでいたのだろう。そんな思いを中村さんが懐いていたということが新鮮で、そして印象深かった。亡くなってもう10年ぐらいになるだろうか。あるいはもっとかもしれない。東北大震災の後にお会いした記憶はないので、それより前のことだっただろう。学習院大学に移ってからは、京都市立芸大の「日本文化論」の集中講義と近畿大学大学院の演習の授業をわたしに周わしてくれた。そのどちらでも新鮮な経験を得ることができた。
 わたしは、こうして時々思い出して、感謝している。


《「不可思議の月」鑑賞》

瀬谷こけし
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《「不可思議の月」鑑賞》

 山中智恵子の不可思議の月の歌、『みずかありなむ』に収められたこの歌を鑑賞してみよう*。

  三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや
                 「会明」『みずかありなむ』

 この歌を読み解くためにはいくつかの語句の意味と組み立てを押さえておくことが必要であろう。三輪山と月、不可思議の月、そしてはじめに月と呼ぶということ。これらのことを考えてゆきたい。
 はじめに三輪山と月のかかわりだが、仲秋の名月の日に大神神社では観月祭が催される。ここで詠まれている月が観月祭の夜の月なのかどうかわたしは詳らかにしないが、もしそうであるならばたくさんの不思議がみられて不思議でないように思う。ある年の名月の日あいにくと全天がほとんど雲で覆われていたことがあったが、その下祈祷殿の前の斎庭で、舞楽が舞われ、舞人が月を指して静止し、雲よ裂けよ、姿を見せよとばかりに気を込めたあと、空に何の変りもなかったが、その十分ほどあとに月の周りの雲が引いて薄らぎ、瞬刻ばかりだが月が姿を現したことがあった。それが舞人の強い念が妨げとなっているもののこころをひとつひとつやわらげこの観月祭の場に月の姿をあらしめたように思えたのだった。こんなことも不思議のひとつと言えそうだが、この歌では月は「立てり」と歌われておりそれは雲間から出現するのではなく、山の端から立ち上がってくるさまを表しているととれる。とすればその場合大神神社の観月祭は解釈に関与させる必要はないと一応言っておくことができる。しかしそれにしても歌人は三輪山の背後から月が立ち現れるさまを目で見て、そこに特別なものを見て、それを「不可思議の月」と呼んだと考えられる。この一首を支えているのは目で見、音で聞いた月が立つさまなのだ。その経験。西田幾多郎が直接経験となづけるそのようなダイレクトな経験なのだ。読み取るべきはその特別さなのだ。それは特別に輝かしいものだったのではないだろうか。不可思議なもの、筆舌を越えたもの、……。それは端的には「月」と呼ばれるものについての人々の経験の外にあるようなものの経験だったのだ**。下の句に「はじめに月と呼びしひと」が呼び出されるのもこの特別な不可思議の経験によってなのである。「あれ」を何と呼んでいいのか、それがわからない。誰にもわからない。わたしにもわからない。だからそれを確かめて見なければならない。「はじめに月と呼びしひと」が呼び出されるときこの「月」は漢字の「月」(ゲツ)なのか和語の「つき」なのか。漢字の「月」ならばその人物は古代中国のひとで、その人物の探索には『説文』などが参照されなければならない。その場合概ね「夕」の中に小点「・」を加えて区別した三日月の象形文字で「闕」と同音、欠けたることを本質とする存在となるであろう。だがその場合には歌人は「ゲツ」もしくは「ケツ」とルビをつけていたことだろう。それがないところからすればこれは和語で「つき」と訓まれるところだ。しかしさらに、この「つき」は、「尽く」から生まれた語として考察を進めるべきである。「つき」は「尽く」の未然形か連用形か。尽きぬ、尽きず、尽きて、などの語感のなかであのものが捉えられることになる。尽きてしかも尽きぬいのちがそこに読み取られることになるだろう。尽きて尽きぬいのちを読み取ってあれを「月」と呼び名付けたひとびと。仲の論をみると前登志夫はそのような理解をしていたように見える。しかしこのように考察を巡らすことは「はや」という詠嘆をつけて歌人が下の句に用意した庭で遊んでいるだけのことであろう。歌の本意は不可思議のなかに隠れたままである。歌は三輪山の背後から立つ月に対する不可思議の経験が存在すると上の句で明言し、そしてここには不可思議境界が存在すると明言している。それこそがこの歌の最も深いところである。「背後より」の措辞はさらに三輪山が背後に密に隠し持っているものをも示唆するが、立ち出でた不可思議の月はその輝きの中にその背後のものも蔵しながらその姿をあらわす。山の端から立つところにはドイツ語の「Lichitung」と微妙に交差するところがある。リヒトゥンクはまばらにすること、まばらにしたところを意味する。その立ち現れには何か企てがありどこかいたずら的なものがあるのだ。そう見ると下の句のいたずら的な仕掛けは上の句の山の背後からの月の立ち現れの効果とよく相応しているように見える。だがしかし月についてのもっとも深層的な狂気を秘めた経験はヘルダーリンが、
 »Ein Streit ist an Himmel und gewaltig/ Die Monde gehn,… (Mnemosyne 2.Fassung)
と記すところに示されていると思うが、複数の月が同時に強烈に進むというこのイメージに山中智恵子は多分まだ近づいていない。しかし不可思議がなにものかが有ることの不可思議に深化するという歩みをこの先山中智恵子は示す。存在論への細道を山中智恵子は踏み進んだとみえるのである。




* 次のものを参照している。仲つとむ「短歌の禁じ手」(1)(2)『日本歌人』2021年4月号5月号。水原紫苑「山中智恵子私論」『水原紫苑の世界』深夜叢書社。水原紫苑『昭和の女性歌人山中智恵子の宇宙の調べ』明治記念綜合歌会短歌講座第十集。
** 仲つとむは この「不可思議の」という修飾語を「禁じ手」とする読み取りに疑問を提出しているがこの疑問は当然のことだ(前掲論)。というのも、そういうマニュアル的な反応は歌の読解の妨げにしかならないからだ。ここではまず山中智恵子が十分にわきまえていたはずの「不可思議」の語の仏教語としての語源的用法を理解しておくことが必要である。科学時代、あるいは「何でも作れる時代」の人間は「不可思議」なことがあること自体を考えにくくなってしまっているからだ。ちなみに「何でも作れる時代」はハイデガーの言う「Machenschaft」をわたしなりに名付けなおしたものである。M.Heideggar, Nietzsche II, Neske 1961, S21 f.。


《[Intuitive Musik]は直感音楽ではないということ》

瀬谷こけし
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《[Intuitive Musik]は直感音楽ではないということ》

 ドイツ語で[Intuitive Musik]というのがカールハインツ・シュトックハウゼンの「直観音楽」の言い方です。英語なら[intutive music]と綴ってかまわないのですが。ただ日本語で「直感音楽」と書くのはシュトックハウゼンの[Intuitive Musik]の訳語としては誤訳です。残念ながらユニヴァーサル出版の日本語版で篠原真さんがそう書いてしまったので、この誤訳が広まってしまっていますが。
 簡単に説明しますがドイツ語の語源を調べると[intuitive]の元になる[Intuition]はラテン語の[in+tueri]から出てきます。この[in]は英語の[in]とか[into]とかで理解しておけばよいのですが、[tueri]の方は動詞(形式所相動詞)[tueor]の不定法で例えばOxfordのElementary羅英辞典では[tueor]の語義として[to look at, gaze upon, behold, watch, view, regard, consider, examine]などを上げています。つまり「よく見る」を軸にしてつくられた動詞です。だから[Intuition]をドイツ語の語の辞書は[hin-schauen]の意味、つまり基本「視線を向ける」「のぞきこむ」などの意味だと説明します。だから私はシュトックハウゼンの「Intuitive Musik」を「直感音楽」などと書かれると途方もない違和感を感じるのです。「観」の字を使って「直観音楽」と表記するべきです。まずはここまでにしておきます。


《”Machenschaft” について》

《”Machenschaft” について》
瀬谷こけし

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1.

 『一即一切』のなかに収められた論文の中で辻村公一は “Machenschaft”についてたいへん明晰に短く論じている。辻村はまず“Machenschaft”は「一即一切の現代的形態」であると押さえているのである(1)。この“Machenschaft”の概念はわたしには現代社会のトータルな体制を把握するために大変重要な概念だと思われるのだが、辻村はこの概念を何かのテキスト、たとえばハイデガーの何かに依拠して導入するのではなく、自説の中の一貫した論述によって打ち立てている。辻村によれば“Machenschaft”は次のように定義され、そして説明される。定義はこうである。
> “Machenschaft”すなはち人間のなす造るということの支配とは、「一切のものは造られ、そして造られ得る」といふことであった。(同前)
そしてそれは次のように説明される。
> この定式化は第一義的には、有るものの有についてのテーゼとして、或るオントローギッシュな観点に於て理解されねばならない。何故かといへば、差当つては造られたものではない物が、今日でもなほ或るオンティッシュな観点に於ては存続してゐるからである。例へば、吾々が毎日食べてゐる卵や野菜、肉や魚は、成育したものである。併し、卵や野菜、、肉や魚は今日では、人工的に飼育され食糧産業に依つて技術的に製造されてゐる。それらは慥かに成育物に属してはゐるが、成育物のもう一つ背後ではそれらは製造された物にされてしまってゐる。太陽や月や毎日の天候は確かに、製造された物ではない。併し、天文学や気象学の研究を通して、それらは製造されざる物として、“Machenschaft”の勢力圏内へ取り容れられてゐる。かくして“Machenschaft”は、成育物や生まれるものや生命なき自然現象を差当たつてはさういふものとして有らしめると同時に、それらを“Machenschaft”の勢力圏内へ益々引き入れて行く背後の威力であり、オントローギッシュな威力である。併し、“Machenschaft”は決して全能ではない。何故ならば、例へば“Machenschaft”に向つて省察することは単に“Machenschaft”に属することではないからである。 (前掲書pp.402-403)
 辻村は人間によって造られたものでない肉野菜魚卵などの成育物もその背後にそれらを組織的技術的に成育させる“Machenschaft”の勢力圏というものがありそれがそれらの成育物を製造する体制になっているとする。そしてまた太陽や月や日々の天候は人間の製造物ではないが、人間によって製造されたものではないものとしてそれらが形成されその運動が形成される仕組みを明らかにしようとする努力や試みによって把握され“Machenschaft”の勢力圏の内に引き入れられていると見るのである。

2.

 辻村はさらにこの“Machenschaft”のさらに背後にあるものを見ようとする。辻村はこう言う。
> “Machenschaft”は、人間のなす造るといふことを支配的地位に就けたものに対しては、常に盲目である。“Machenschaft”は、造りそして更に造るといふことの連鎖といふ仕方で支配してゐる。この連鎖なしには、“Machenschaft”は支配的地位に上がり得ないし、すなはち總じて“Machenschaft”ではあり得ない。然るに、造るといふことの連鎖を可能にしてゐるものは、如何なる個別的に有るものもその他の一切のものに関係づけられて有ることに、すなはち、一即一切にもとづいてゐる。造りそして更に造るといふことの連鎖は、予め一即一切にもとづいてゐる。“Machenschaft”従ってまた製造された物の背後の根底には、西洋では創造従ってまた連続的創造(creatio continua)が存してをり、連続的創造は、最早人間のなす造るというふことではない。東洋に於ては“Machenschaft”の背後の根底には、一切の個物が重重無尽に関係づけられてゐるといふ法界縁起が存してをり、その縁起は無相なるものの相として最早造られ得ない。 (前掲書p.403。強調は辻村)
 辻村は、“Machenschaft”すなわち人間のなす造るといふことの支配を支配的地位につけたものについて考察を進める。そしてまず“Machenschaft”は“Machenschaft”を支配的地位につけたものについて盲目であるということを押さる。“Machenschaft”は「造りそして更に造るといふこと」、このことを連鎖させることのほかの仕方を知らないというのである。だがしかし“Machenschaft”をさらに背後から統べているものがあるとする。それが一即一切、すなわち一切の個別的存在が他の一切の個別的存在と関係づけられているということだと言う。それは「一即一切の理法」と言うべきものであろう。しかしこの一即一切の理法には、そこからさらに思考を進めるためには、一即一切の事実性の確認と認識、そして一即一切の体制の諸差異の認識が必要となるであろう。端的に言えば、ここで個別的存在が他の一切とどのように関係づけられているかが問題であろう。辻村はこの「どのように関係づけられているか」という問いに直接には答えない。その代わりにそこに大きく西洋と東洋でどのような根本的な違いがあるかを概説する。つまり西洋においては造りさらに造ることの連鎖の背後の根底には創造すなわち(造物主の)連続的創造があると説く。また東洋においては一切の個物が重重無尽に関係づけられているという法界縁起がある、と説く。そしてこの重重無尽の関係においてはその縁起の相は無相であってそれはもはや造られないものだと説く。造られない縁起とはその生起の相は偶然だということであろう。われわれには一即一切の論議の中でここではじめて一切の生成の関わりのなかにひそむ生成の偶然が取り出されたと見える。

3.

 “Machenschaft”についての上記のような論述の後で、辻村はこの“Machenschaft”の概念を導入することによって一即一切の思想がどのように変容されることが重要かということを述べている。ここではその東洋に対する論述を紹介しておきたい。以下である。
> 東洋に於て肝要なことは、果してそして又如何にして“Machenschaft”は、それが一切の個物が重重無尽に関係づけられてゐる法界縁起の内へ接ぎ入れられるやうに、変容され得るか、といふことである。そのためには多分、法蔵に於ける一即一切に、それがなほ造ることと創造することとを引き入れることが、要求されるであらう。 (前掲書pp.403-404)
 “Machenschaft”と法蔵の一即一切の双方に相互を引き入れた変容を要求しているのである。



(1) 辻村公一「西洋と東洋に於ける「一即一切」の相違について」、辻村公一編『一即一切』1986年創文社


===== 2021年7月2日 補足追記
1.辻村からの引用、そして私の文の一カ所にかけていた強調を下線による強調で補いました。辻村の原文は傍点です。
2.辻村からの引用で二か所欠落がありました。それを補いました。「は、」と「西洋では」の二か所です。


《萩原朔太郎の「小出新道」》

瀬谷こけし
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《萩原朔太郎の「小出新道」》


 朔太郎の「小出新道」はわたしの高校の教科書に出ていたと記憶するがこの詩は易しい詩ではないと思う。昔も分からなかったし今も分からない。通説がどういうものかも知らずはたして通説があるのかも知らない。ともあれ次のような詩だ。

> 小出新道

>ここに道路の新開せるは
>直として市街に通ずるならん。
>われこの新道の交路に立てど
>さびしき四方(よも)の地平をきはめず
>暗鬱なる日かな
>天日家竝の軒に低くして
>林の雜木まばらに伐られたり。
>いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
>われの叛きて行かざる道に
>新しき樹木みな伐られたり。


 WEBを検索してみるとすぐに滑稽とも思えるような解釈に出会う。「いかんぞ」は「いけないぞ」という意味が含まれているとか。この詩が含まれている『氷島』をさっと眺めてみるだけで何カ所にもこの「いかんぞ」とう表現が出てくるし、それは当然のように反語表現で、典型的に「や」で終わるものもある。「いかんぞ」は古語で言えば「いかにぞ」の意味であって「ゆかぬぞ」という意味では全くないのに、前述のような滑稽な誤読は数を知らない。日本の国語教育の水準がどれだけ下がってしまっているかを如実に示す例だろう。実際この詩でも「いかんぞ」は「いかにぞ」の意味だと解するほかはない。反語であれなかれそれは「どうやって」「どのようにして」の意味だと解するほかはないのだ。読解上難しいのはその後だ。「どうやって思惟をかえすだろうか」と現代語訳して、問題は「かへす」の意味なのだ。「かへらん」ではないのだから「戻そうか」の意味ととるのがまともな読みだ(ここで「かへさんや」としておけば誤読は少なかっただろうが、そうすれば次の詩行の力が大幅に弱まってしまうので、詩人はそれを避けたに違いない)。そして「戻そうか」の戻し先は「…に」に決まっている。つまり「われの叛きて行かざる道に」戻そうか、いやそんなことは決してしない、という決意だ(ここでも「行かざる」を「行かざりし」にしておけば誤読は少なかっただろうが、ここもそうすると単なる過去の行動の話になって今の決断を取り巻く問題から浮いてしまうという弱さが出てしまう)。このまま志操を変えずに進めば「林の雑木」のように伐られてしまうだろうがだからといって意思を翻すというようなことはどうしてできようか、できはしない、そういうことは決してしないのだということである。いまここで概念化することは避けるが(例えば国定教科書に載るような)体制順応的な詩人の道というものは目の前にぶら下がった美味しい餌ではあったのだ。
 こうして朔太郎は伐られる「新しき樹木」のひとつたることを覚悟するのである。


《梅原猛先生のこと》

瀬谷こけし
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 《梅原猛先生のこと》


 わたしは梅原先生からたくさん偉大な言葉を聞いてきた。なかでももっとも偉大な言葉は「真理さえ自分とともにあれば何もこわいことはない」という言葉だった。自分が真理とともにあるという確信が持てているなら、どんな社会的権威も、専門家という学術的権威も怖くはないということだ。
 こういう信念をもって、この信念をただひとつの頼みとして、真理への道を切り開いていったひとのそばにいられたことは、間違いなくわたしのしあわせのひとつだろう。

 この時代にあらためてその偉大さを思う。