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「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ

プロフィール

ブログ名
「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ
ブログ紹介
世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外
 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

=======
Twitterと Facebookをはじめました。
http://twitter.com/mnnakajist
http://www.facebook.com/index.php#!/masatsune.nakaji
これらは私からのメッセージです。わたしからのメッセージにはどれも「瀬谷こけし」のイメージがついています。
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私の「なりすまし」にご注意下さい。そのサイトは以下です。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/tad77/ (「h」省略)
ttp://ameblo.jp/designjimusho/ (「h」省略)。

蠅のような存在です。間違ってメールなどを出さないようにご注意ください。
===
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《福伝 一斗二升五合》

2018/08/13 02:22
瀬谷こけし


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 福伝というのは信州奈川の気に入りのそば屋。ある冬の寒い日の夜にこの店が開いていて、そこで食べた「とうじそば」が旨く、美味しく温かくてそれ以来この界隈一番の気に入りの店にしている。今日も松本インターから高山への帰りがけ夕食に入りたい店が見つからず、結局野麦峠を通って帰る覚悟をして寄った店。「おじや」まで頼んですっかり満足していただいた。---なぜ「とうじそば」と言うのかというと、それを普通は具と出しの入った暖かい鍋の中に蕎麦を投入しながら食べるそばだから、というのが普通の説明だが、わたしは「冬至そば」というのがほんとでないかと疑っている。というのも、食べると冷えていた体も温まり心もほっこりするから、これはほんとは冬向きのそば料理なのじゃないかと思うからだ。

 店には「一斗二升五合」という達筆の札がかかっていた。調べるとこれは一斗は五升の倍で「ご商売ますますはんじょう」の語呂。「一升枡」を基準にした合わせだという。それはそれで、驚いたのは次の写真の置物。この置物わたしには親子獅子の彫物に見えたのだ。親が子を見て、子は親を振り返っている。近寄ってみるとこれは火山岩のようだった。

 それで高山の家に戻ったのは夜の10時も近い時間だった。そしてなぜ信州に行っていたかというと原村の八ヶ岳自然文化園で「骨とオコゲの考古学」というタイトルで「八ヶ岳jomon楽会 第3回夏季大学講座」が開かれるというので、それを聞きに行ったのだった。講師は米田穣さん。同位体分析が専門の方で、人骨や歯の(そしてさらには土器に残ったオコゲの)窒素の同位体と炭素の同位体の量を分析することでその人が何を食べていたかを明らかにしてゆこうという研究の成果の一端を示してくれた。よくわからないところも少なくなかったが、その新しい研究方法の魅力も十分に感じさせてくれた。---いくつかわからないところも残って、一つはクワキウトルインディアンはサケの骨を、それをしないとそのサケが再生できないからという理由で一つ残らず海に返すというが、この骨からの再生という基本的信念を踏まえてサケの骨が遺跡から見つからないという問題を捉えているのか、という疑問だった。この疑問は最後に先生がお帰りになる前にお伝えしたところすぐにその意味を了解された。もうひとつは、渡邊誠さんの主張するどんぐりのあく抜きのための水晒しのための土器の使用ということを頭に入れてらっしゃるのか、という疑問。この疑問は時間がなくてお尋ねできなかった。---そういう疑問は残ったが、大変刺激的な、魅力に満ちた講座だった。
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《ブリジット・フォンテーヌ》

2018/08/09 01:59
瀬谷こけし


 久しぶりにブリジット・フォンテーヌを聴きたくなった。はじめに見つかったのは「夏、夏」という曲。わたしはまだ生きているわ、というようなかすかな歌詞。彼女がこんなにまでして声を、というよりかすれ(声)を出しているということに驚く。わたしはまだ生きているわ。わたしはまだ息をしているわ、と歌う。歌をぎりぎりまでかすれにに近づけて。
https://youtu.be/rdu46d54t7Q




 次に聴きたくなったのは「レイラ」(Leila)。これはレコード録音時と同じ音源ではないだろうか。素晴らしい。ただ左チャンネルしか音が入っていない。

https://youtu.be/QHJvKFwk4UI?list=PLFVoAMWGn5U80r5vED2VW7KBE9ZzCFBeG





 そのまま流して聴いていたら入ってきた曲がこれ「禁止」(Prohibition)。歳をとっても変わらぬ強力な欲望の斜線。まったく素晴らしい。

https://youtu.be/IlLJqORNu2Q?list=PLFVoAMWGn5U80r5vED2VW7KBE9ZzCFBeG







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《映画『武士の家計簿』:バブリーな生活ではなくきちんと収支の合った生活を》

2018/08/09 01:23
瀬谷こけし

主人公は代々加賀藩の下級武士猪山直之。猪山家は代々藩の御算用役を務めている。
下級武士の生活はつらい。しかし収入以上の生活をしてはいけない、という姿勢を直之は貫く。そして子にもきちんとその姿勢と家業を伝えてゆく。
直之は(民の飢饉救済のために)藩が供出した米を役人が横領していることに気づき、それを暴く記録を作り上司に渡す。上司はしかしそれを隠蔽する。後に藩がその不正に気付く。そして取り調べがなされる。
>(お前は横領の事実を示す記録を作ったが)「なぜそれ以上のことをしなかったのか?」
>「…」
>「下っ端では無理か」
こう言って下の者の立場を理解する目付け役。直之は左遷を免れ却って昇進することになる。主君が聡明であることによって藩の正義が保たれるのだ。
また、代々継がれてきた家業にはどこででも通用する強いものがあり、それは当人自身も気づかないが、時代が変わって明治になっても、形を変えて通用し、国の健全な経営に役立って行く。こうして御算用役の引き受けてきた仕事は世に続いてゆく。それらのことをアクチュアルな細部(些事)の積み重ねによって示してゆく。こういう健全な生き方をリアルに示す映画を大いに称賛したい。





武士の家計簿
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《Sils-Maria /シルス・マリーア》

2018/08/08 15:16
瀬谷こけし


Sils-Maria.
Aus “Lieder des Prinzen Vogelfrei“

Hier sass ich, wartend, wartend, --- doch auf Nichts,
Jenseits von Gut und Böse, bald des Lichts
Geniesend, bald des Schattens, ganz nur Spiel,
Ganz See, Ganz Mittag, ganz Zeit ohne Ziel.

Da, plötzlich, Freundin! Wurde Eins zu Zwei ---
--- Und Zarathustra gieng an mir vorbei ...



シルス・マリーア

『皇子フォーゲルフライの歌』より
(拙訳)


ここにわたしは坐っていた、待ちながら、待ちながら、--- しかし何も待たずに、
善と悪の彼方、ときに光を楽しみ、
ときに影を楽しみ、すべては直に戯れであり、
すべては湖、すべては真昼、すべては目的をもたない時の流れ。

その時、突然、女友よ! 一つが二つになった---
---そして ツァラトゥストラがわたしの傍らを通り過ぎて行った...。

シルヴァープラーナ湖
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シルス湖(以下同じ)
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 『喜ばしい学問』の巻末につけられた『皇子フォーゲルフライの歌』の中に収められた「シルシ・マリーア」というこの詩は、ツァラトゥストラがニーチェの思索の中でどういう位置を持っているかを考えるための最も基本的な文献と考えられる。ツァラトゥストラはニーチェの身体から分かれて生れ、通り過ぎて行った。真昼の、シルス・マリーアの、目的のない時の流れという充実の中から生まれてきたものだ。そして、『ツァラトゥストラ』第一部の思索(「背後世界論者について」等)を考慮すれば、満ちた思想である永遠回帰の思想に達するための前歴やその苦悩を語りうる存在として、その叙述の形式を可能にする人物として生まれてきたものだ。
 タイトルは「シルス・マリーア」であるが、わたしはこの詩はいわゆる「ニーチェ石」の東ニ三百メートルのところに広がる草原の中のベンチに座って体験した経験だったのではないかと考えている。とすれば地名で言えば「シュルレイ」で、目の前に湖はシルス湖ではなくシルヴァープラーナ湖ではないかと感じている。というのも、シルス湖岸はシルヴァープラーナ湖岸に比べて感じが暗く開放感が乏しいからだ(張り出した岬が視線を遮り開放感を乏しくしている)。---そんなことはたいした反論にならないと言うひとがあるだろう。もちろんそうなのだが、シルヴァープラーナ湖岸のシュルレイの草原はシルス・マリーアを記念すべき「力強いピラミッド状のブロック」のすぐそば、ほとんど一帯の場所にあるのだ。「目的なく流れる時」という純粋な生成としての時間把握がこの詩の中で定着させられているが、その時間把握は宇宙論としての永遠回帰の思想の論証に役立てられるであろう。

 伊東静雄がこの詩を友人池田勉に紹介していることを知る人は知っているだろう(昭和11年4月13日、『全集』書簡104)。そしてこのような感想を述べている。「この詩はおそろしい詩ぢゃありませんか。一つのものが二つになった! 私もこの頃この分離の幻想を如実に感じてをるのです。そしてその分散のために白昼の電光を待ってをるのです」。雷光の効果(「名声と永遠1」)をも含めて伊東静雄はニーチェの『ツァラトゥストラ』の思想をよく理解していたと見える。
 ニーチェは「シルス・マリーア」という地名を、シルス湖とシルヴァープラーナ湖の両湖の湖周を含めた一帯を含めた地帯として理解していたように思えるのである。
(写真はシルヴァープラーナ湖とシルス湖。同様な光線状態で撮影できなかったのが残念)



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《梅谷川》

2018/08/07 19:44
瀬谷こけし


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 昨日(8月6日)は三回も外出をした。一回目は医者でこれは仕方がないのだが、二回目は税金とガス代の支払い。これも仕方がない。三回目は原付用のエンジンオイルと牛乳を買いに。オイルはともかく牛乳は買っておかないと困る。ともあれ一回目は車で、二回目三回目は原付で。写真は二回目の帰り道に桧峠でちょっと遠回りをして帰った途中。この回り道で帰ると辻村公一先生(故人)のお宅の前を通って帰ることができる。辻村先生のお宅と言えば私にとっては聖地のひとつなのだ。京都大学の哲学の先生で、辻村先生ほど飛び抜けた人はいない。「世界的な変人」と上田閑照先生ご自身がおっしゃっていたぐらいだ。わたしが言いたいのは、こういう飛び抜けた変人がいなくなると世の中が堕落し、底なしにつまらなくなるということだ。
 家に帰ると玄関先のブドウが色づいていた。ひとつ摘まんでみると甘く美味しかった。となると、虫や鳥に狙われるか。ことしは一粒は自分で食べれた。

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《発車:2017.8.6 シルス・マリーアへ行く》

2018/08/07 15:07
瀬谷こけし

ホテル・マリーア
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 10時7分、発車した。予定通りの8番線から。天気は曇り時々雨。晴れ晴れしい感じではない。それにこの車両、インターシティーエクスプレス(ICE)なのにPCの電源がとれない。座席指定でもない2等車だからだろうか?ともかく今までICEで使える電源がなかったことがないので意外だが、これは路線からしてビジネス用ではなく、観光行楽用の車両だからだろうか。ともかくわたしはまったく旅慣れていない。旅慣れているらしい男は、半透明の袋にクロワッサンやらプチパンやらを沢山入れてもっていた。チューリッヒを離れると手に入れにくくなるのだろうか? 何にせよ控えめな二三日分の食料を準備しておくのは賢明なことだろう。

 わたしの場合ラント・クヴァルト(Landquart)で降りて乗り換えなければならない。ラント・クヴァルトはクール(Chur)より手前なので、気を付けなければならない。しかしここで間違えずに降りて、8番線のRE(近距離快速)に乗りかえれば、あとはサン・モリッツまで約二時間乗ったままでいられる。列車はシュイーアス(Schiers)のあたりから多くが牧草地にされている山の近くを走り、ハイジの村の雰囲気を感じさせる。こういう風景が伝統的なスイスなのだろう。(十津川村の高地利用に比べてそう驚くこともないが、(昔の)スイスの貧困、門衛とか傭兵とかに出てゆくしか生きる方法のなかった次男以下の必然がかすかに見えてくる気はする。十津川村などでも、次男以下の生活は難しかったことだろう。

クロスター・プラッツ(Kloster Platz)からは列車はトンネルに入り、ダヴォス(Davos)の方へはゆかない。長いトンネルだ。トンネル走行中に少し眠ってしまった。気づいたときはもう外で、そこからは氷河の跡も見える山岳地帯に入ってゆく。

 左手に大きな深い群青色の湖が見えだすと、もうそこはサン・モリッツだ。駅前の3台のバスからシルス(Sils)方面行きのに乗る。そしてトランクを置くともうすぐに出発してしまう。そこからシルス・マリーア・ポスタまで10分ほどだ。そしてバスを降りると、町案内のプレートがあり、各ホテルの位置も番号で表示してある。これで予約のとってあるホテルの位置を確認して(ちょっとわかりにくかったが)歩くと一分ほどだ。これで一段落。目の前の山々はほとんど露岩で、これは迫力がある。目が細部まで捉えられるように、また明日の朝にでも見に行こう。今日は雨が降ってきてしまった。そしてそれほど激しくはないが雷も鳴っている。雷はまあ歓迎の徴だ。植物もなにもはっきりと見えるのでこれは空気がいいということだ。ニーチェ流に空気の特徴を三拍子で言いたいが、まずは新鮮、クリアーだ。あとの二つの特徴は、これから考えてゆくことにしたい。きっとニーチェのころに比べれば秘境性は乏しくなって、上級の観光地という印象だ。上級というのは、何かにちょっと特別の思い入れのある人がゆく観光地だと思う。老夫婦が多い。わたしは、わたしが探りたいのは、ニーチェがここだから感じ取りえた人と世界の彼方の秘密の消息だ。わたしはいつもの通り、細やかな花や、枯れかかった葉の色のもたらす、世界の眼にしにくい調和の動きの秘密を探ることになるだろうか。日本の飛騨や信州のアルプスの高地と、それほど違った秘密があるようには見えない。1883年8月ニーチェはここで『ツァラトゥストラ』第二部を書き上げたはずだ。そのニーチェの裏までも、読み取れるようになりたい。

(これは2017年8月7日のFBの記事を再録したものです)
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《西條先生気がふれて千曲の川に飛び込んで…『天と地と』》

2018/08/06 23:21
瀬谷こけし
《西條先生気がふれて千曲の川に飛び込んで…『天と地と』:日本映画の面汚し》

 この映画を何かを期待して観るなら時間の無駄だ。何の思想もなく、何の技もなく(体術が甘い)、何のリアリティーもない。「車がかりの陣」も名前は出てくるがこの陣がどういうものでどのようにして鶴翼の陣を破壊できるか、そういう重要な問題についての考察はゼロ。女も描けておらず、笛も音に意味なくただ吹かれるだけ。
 特筆すべき点が一つだけあった。日本映画では合戦シーンでも馬は傷つけないで(高価だからか?)人だけやられるように描くのだが、この映画では馬が倒れたり落ちたりしている。そんな馬が最低3頭は撮影されている。なんとかわいそうなことをするのだろう!---黒澤明の『乱』でも大規模な合戦シーンはあるがそこでは馬に大怪我をさせるような残酷なことはしていない。これは黒沢監督の立派さといってよいのではないだろうか?

 『天と地と』:大金を使って作った映画だということはわかるが(金を払って使われた馬と人の数)、これほど日本映画の価値を貶める映画も滅多にないだろう。そういう点では(つまり面汚しとして)日本映画の記念碑といえるかもしれない。そういう意味でなら一見の価値がある。

=== 参考 ===

『川中島』小学唱歌(明治29・5)

西条山(さいじょうざん)は 霧ふかし
筑摩(ちくま)の河は 浪あらし
遥にきこゆる 物音は
逆捲く水か つわものか
昇る朝日に 旗の手の
きらめくひまに くるくるくる

車がかりの 陣ぞなえ
めぐるあいずの 閧(とき)の声
あわせるかいも あらし吹く 
敵を木の葉と かきみだす
川中島の戦いは
かたるも聞くも 勇ましや。

=== 参考2 ===
「妻女山の位置と名称について」

http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori07/07_01_02saijo/saijozan.html




天と地と
2013-11-26

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《上高野 夕立の後》

2018/08/03 05:36
瀬谷こけし


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 今日(8月2日)は夕立があった。今年初めての夕立らしい夕立ちだった。20分ほど激しい降りがあった。その後、気温も下がって、買い物がてら散歩に出かけた。雨後の様子が気になって、まずは八瀬の崖の流水がどうなっているかを見に行った。水を吸った土は色が暗くて少し見にくかったが、先日発見した時と同じほどの流水量に見えた。この流水はいずれ八瀬の滝とかの名前が付くのだろうか? とりあえす八瀬小滝と命名しておこう。これ以上がけ崩れにならなければよいのだが。
 その行く途中、気づいたのは、ネムの花が雨後葉や枝とともに濡れて雨滴を残している時きわめて美しいということだった。
 だから、奥の細道の
>象潟や雨に西施がねぶの花
の句は、何よりも雨に濡れる合歓の花の美しさ、その清楚にして妖艶な美しさに感動して吟じた句に違いない。象潟を詠もうとしたわけではない、象潟で見た合歓の花の清楚妖艶の美を詠んだものなのだ。そんなことがわかった。
 そしてもう一つ、鉄柵から歩道の空中にはみ出してくるクズの蔓は、一本では弱すぎて強く張り出してゆけないからこそ四五本の蔓が縄のように互いに自らを絡ませ合って、強く空中高くみずからの蔓の先を張り出してゆくことできるのではないだろうか。これも新しい発見だった。写真のものは4本の蔓が右巻きに絡みながら身を伸ばしていっている。
 あともう一つ、ハイイロサギかと思われる大きな鷺が、川の水量が多いためにいつも居るところではなく、その8mほど下流の、地面に両脚で立てる場所に移動していた。そうやって、大水を凌ぎながら身の安全を確保していた。発見はおよそ以上のようなものか。あと百日紅の木の皮が剥けているのも今日はじめて発見した。



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《ほんとの空》

2018/08/02 16:57
瀬谷こけし

 高村光太郎の『智恵子抄』に次の詩がある。有名な詩だろう。題は「あどけない話」

あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多(あた)多羅山(たらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

昭和三・五

(高村光太郎大全、KotenKyoyoBunko. Kindle 版)

 光太郎はここで「ほんとう」をあっさりと「ほんと」と綴っている。この軽さがいい。詩は「ほんとの空」をめぐる話である。「ほんたうの空」の話ではなくて。きっとある時妻智恵子が「ほんとの空が見たいな」とか言ったのだろう。言われて光太郎の内に走ったであろう衝撃が想像される。ほんとのそらはいつもそこにあって、いつも見ているじゃないか、というのが光太郎の反論だっただろう。いつもその桜若葉の間に。その空は何なのか? 存在しないのか? それはほんものの空じゃないのか? そんな疑問が湧いたことだろう。とすれば「ほんものの空」「ほんとの空」がどこかにあるのか? どこかにあるとお前は言いたいのか? そんな疑問が湧いて、おそらく尋ねたことだろう。「阿多(あた)多羅山(たらやま)の山の上に毎日出てゐる青い空」がわたしのほんとの空だというのが智恵子の答えであっただろう。だがこう答える前に、智恵子にも多くの逡巡があったことだろう。光太郎が東京の空をほんとの空だと思っていたのだという驚き。ほんとの空とにせものの空の違いもわからない光太郎の感覚。---その驚きを経て智恵子は答える。正しく答えられるかはわからない。あのいつも見ていた青い空、それを言葉でどう言い表せるのかわからない。おそらく「あの空」としか言えなかったのではないかと思う。「阿多多羅山の上に出ている」(あの空)というのは表現ではなく、ただの説明でしかないだろう。ただ少しはそこの景物(阿多多羅山)に密着し、少しはその空を限定し、少しはそのほんとの空を言い指すことはできただろう。「ほんとの空」と言っておきながらそれを言い指すこともできなければ、それは正気を疑われてしまうことになるだろう。しかしそれを光太郎が分かるかどうかはわからない。むしろわかるのは難しいだろう。あの阿多多羅山の麓の村にニ三年でも過ごせばおのずからわかるものではあろうけれども。智恵子としてはそこで言い留めておかねばならない。それに比べれば東京の空はたとい(仮令)光太郎にとっては「むかしなじみの」「きれいな空だ」としても、智恵子には「むかしなじみ」でもなく「きれい」でもないに違いない。おそらくいくらか汚れ、いくらか透明感を欠いた空だっただろう。「ほんとの空が見たい」、と当たり前の言葉が智恵子の口から出てきたとしても、それはごくごく自然なことだっただろう。わたしがこの詩において光太郎をほめたいところは、智恵子の口から出てきた言葉の自然さを、自然なまま壊さぬように取り出しているところだ。素っ気なく「ほんとの空」と二回光太郎は繰り返す。彼自身が耳で聞いた言葉に近く。口語で。---これが例えば古語風の仮名遣いで「ほんたうの空」と記されていたら、光太郎は智恵子のこころの言葉の自然を、「現代詩語文章語美的仮名遣い」のようなものに売り渡してしまったことになっただろう。それをしようともしなかった光太郎の丁寧さはほめるべきところだとわたしは思う。そしてもう一つ、光太郎は自分の空の感覚を語るのに、自分にとって存在しているものを存在しているものとして描くことを行っており、ともあれ自分にとって存在しているもの(空)を確定しようとしているのである---「在」という語を使って。問題はある/なしの問題にかかわっている。智恵子には東京には空が「ない」のである。---しかし何らかの空はある、それはこうこうとして在る。それを語る。そしてそれ以外の空を光太郎は知らないのである。だからこれ以外の空を見たいとも思わない。だが智恵子はほんとの空を見たいと言う。光太郎の知らない、別の、「智恵子のほんとの空」を見たいと言う智恵子の気持ちを光太郎は無視はしない。おそらくは大正12年の「樹下の二人」の経験を、深める必要を、彼は感じていたことだろう。この詩のタイトルは「あどけない話」である。だがこの「あどけない」話ほど深く、重たく、難しいことはないと、感じていたことだろう。なぜならそれは有無の問題、在るものを無いとしてしまう、という問題だからだ。あるいは、記憶の中で見えているものを無いとしてしまうという問題だからだ。

 ここまで語れば次の歌を紹介する準備ができたといえるだろうか?
 

「智恵子抄」 二代目コロムビア・ローズ 
https://youtu.be/nL5VN70Lmb8






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《中村錦之助---『柳生一族の陰謀』》

2018/08/01 15:59
瀬谷こけし

  60年代、70年代の中村錦之助の立派さには感銘を覚える。それはせりふ回しの立派さであり、また同時に所作の立派さでもある。それは宮本武蔵の原作の吉川英治の確かな日本語から育てられたものではないか? 間の取り方、詰め方、そこに錦之介の芸の生命がある。間の取り方、詰め方が分からなくなったところで日本文化は死ぬ。思い出すがいい、あの『羅生門』の三船某のセリフのでたらめさ(ひどく観念的だ)、せりふ回しの下手さ。舞台構成だけは立派な黒沢某の映画作り。あれらが世界で評価されたことは日本映画の不幸ではなかったか? せりふ回しでは片岡千恵蔵も独特の魅力があったが、片岡は動作が鈍すぎた。『大菩薩峠』など笑劇にもならぬ。
  錦之介のせりふ回しの立派さは、この『柳生一族の陰謀』(特に前半)で完璧に達しているように思う。彼を通して江戸時代の日本人の立派さが見えてくる。大仰を事とする歌舞伎の定型的なせりふ回しとも違う。厳粛な詰めがある。---日本語は滅びたか? この問いを問いつつ舞台も映画もドラマも見てゆかなければならない。




柳生一族の陰謀
2015-08-01

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《水陸万傾 2014年8月1日》

2018/08/01 14:41
瀬谷こけし


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  昨日は山百合忌に参会した。一番感銘したのはそこで紹介された今上陛下の水俣での歌。「患ひの元知れずして病みをりし人らの苦しみいかばかりなりし」。また別のところでも触れたいが、普通の歌人なら「ならむ」と今現在にひきつけて詠んでしまうであろうところを、「なりし」と、きちんと過去の事実を定着させているところだ。それに感動し、また驚愕した。
  散会後北上市に向かった。今日の宿をそこに取ったからだ。一関を越えたあたりから西側の野や田畑の風景に感動した。紀古佐美が「水陸万傾」と感動やむことなく銘記した風景、土地。この風景がずっと北へ続く。「蝦夷の生を存する所」と古佐美は記し、ここに羨望の念が表白されていることは明らかなのだが、その私の説に賛同してくれる人はこれまで一人も現れていない。残念なことだ。

(これは2014年8月1日にFBに掲載したものを再掲したものです)






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《地球研から比叡山》

2018/07/31 23:52
瀬谷こけし


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 初めて地球研に行った。用事としては封筒を一つ届けるだけなのだが。もう五時を過ぎていて冊子が入っているので幾ら切手が要るのかを調べるためだけでも左京郵便局まで行かねばならない。それならいっそ直接行って届けた方が早いということで普段着のまま原付で行った。受付で渡して届けてもらえたらよいと思っていたが、もし届け先の相手がいらっしゃるなら、口上だけでも伝えた方がよいと思って受付の方に任せた。果たしていらして、先日高山の研究会に来てくださったお二人にお会いしてお話をすることができた。次の会の話を若干、そして10月にオギュスタン・ベルクさんが京大で講演(対談?)をするので、その案内状を送ってくださるということで早々に失礼した。だがお会いできてとてもうれしかった。
 そしてその構内で、比叡山がよく見えた。そのわき腹の、傷も。そのうちの一つは相当大きいものに見えた。ざっと30mはがけが崩れている。これが一気に崩れたとしたら(さらに土石や樹木を巻き込んで)かなり危ないことになっていたはずだ。30mほどで止まっているのは相当に運のよいことだっただろうと思う。このがけ崩れがどの谷筋のことなのか、もちろんそれに一番の関心がある。しかし谷筋に関係なく麓までまっすぐに崩れてくる可能性だってある。この大きな崩れの場所を遠からぬうちに確かめに行って来なくては。身の安全のためだ。
(3枚目の写真は地球研から下に降りてから撮ったもの)


一枚目の写真の左下の「ナイキ」マークは、真ん中に水流が見える。先日八瀬で撮った崩れ地だろう。


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《夕暮の階調 曼殊院 2018年7月29日》

2018/07/30 02:48
瀬谷こけし

 台風一過の清払された空。原付で野菜の買い物をした帰り、曼殊院の方をまわった。そしてシルエットになる樹木の美しい形。そこには最も美しい京都の姿のいくらかはある。
(写真21枚)


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《比叡山八瀬側 ここは地下水脈の出口》

2018/07/28 00:45
瀬谷こけし

何か崩れた跡のような
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水流が確認できる
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引いて見るとこの位置
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 昼に気になったのはここだ。どうやら瑠璃光院の裏のさらに北東の方で、どうやら桂谷より北で、梅谷川の上流部ではない(川筋が違う)ようなのですこし安心した。某美術館の裏手の方になるのだろうか。
 この時(18:40ごろ)は明らかに水が出て流れているが、普段ここに水の流れを見たことはない。昼に車を運転しながら見た時も、谷になっていたのには気づいたが、水が流れていたかどうかは記憶がない。そもそもここに土の露出した場所があったという記憶もなかった。
 この水路の下の方、大きく水が噴き出してきたときにはどうなるのだろう? そういうことは起こらないという気はしないのだ。

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《ニーチェの詩「名声と永遠」1》

2018/07/24 23:18
瀬谷こけし

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 原文と拙訳。お気づきのことがあったら教えていただければ幸いです。

Ruhm und Ewigkeit.(Friedlich Nietzsche)

1.

Wie lange sitzest du schon
  auf deinem Mißgeschick?
Gieb Acht! du brütest mir noch
  ein Ei,
  ein Basilisken-Ei
aus deinem langen Jammer aus.

Was schleicht Zarathustra entlang dem Berge? --–

Misstrauisch, geschwürig, düster,
ein langer Lauerer --–,
aber plötzlich, ein Blitz,
hell, furchtbar, ein Schlag
gen Himmel aus dem Abgrund:
– dem Berge selber schüttelt sich
das Eingeweide ...

Wo Hass und Blitzstrahl
Eins ward, ein F l u c h --–,
auf den Bergen haust jetzt Zarathustra's Zorn.
eine Wetterwolke schleicht er seines Wegs.

Verkrieche sich, wer eine letzte Decke hat!
In's Bett mit euch, ihr Zärtlinge!
Nun rollen Donner über die Gewölbe,
nun zittert, was Gebälk und Mauer ist,
nun zucken Blitze und schwefelgelbe Wahrheiten –
Zarathustra f l u c h t ...


名声と永遠(拙訳)
1.


すでにどれほど長くお前は
  お前の不運の上に坐っているのか?
注意せよ! お前はわたしのためにさらに
  一つの卵を
  一つのバジリスク(毒蛇)の卵を
お前に長きにわたる嘆きから孵すのだ。

ツァラトゥストラが山に沿って忍び歩くのはなぜだ?---

疑いながら、潰瘍に病み、陰鬱に、
ひとりの長く待ち伏せをしていた者 ---、
しかし突然、稲妻の、
あかあかと、恐ろしい、一撃が
天に向かって奈落から立ち昇る:
--- 山そのものの内臓が
身震いする……

憎悪と稲光が
一つとなって、一つの呪いとなった ---、
今や山々の上にツァラトゥストラの怒りが荒れ狂い、
一個の雷雲となっておのれの道を動き続ける。

最後の覆いをもつ者よ、もぐり込んで隠れよ!
ベッドの中におのが身を隠せ、お前たち柔弱な男どもよ!
今や穹窿の上へ雷鳴は転がりすすみ、
あらゆる木組みや壁がうち震え、
今や稲妻と硫黄の色をした真実がぴかりと光る---
ツァラトゥストラが呪っている……


(山々の上に怒りが荒れ狂うという稲妻のイメージはシルス・マリーアでの稲妻体験が源にあると思われる。シルス・マリーアの嵐雷は厳しく、激しい。建物が建物ごと揺れる。去年の8月8日、この景色の後激しい雷に襲われた)



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《「現在のならず者どものアテーネ」》

2018/07/22 18:02
瀬谷こけし

グラウビュンデン州の山
(サン・モリッツ近く)
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 あるドラマの中にこんなセリフが出てくる:
>---何しろ、いいかね、おれはいつも言ってるんだが、まともな男(ein honetter Mann)を作るには、どんなやなぎの切株を材料にしたっていいけれど、悪漢(ein Spitzbube)をこさえるには、知恵(Grütz、脳みそ)がいるよ。---それにはまた、独特の国民的天才(ein eigenes Nationalgenie)というやつ、まあ、おれの言う悪漢的風土(Spitzbubenklima)がぜひ必要だな。だからおれはすすめるよ。グラウビュンデン州へでかけることだ。あそこは、現在のならず者どものアテーネだよ。(実谷捷郎訳、筑摩書房;( )内の補足は引用者)

原文は以下だ:
>--– denn siehst du, ich pfleg' immer zu sagen: einen honetten Mann kann man aus jedem Weidenstotzen formen, aber zu einem Spitzbuben will's Grütz--– auch gehört dazu ein eigenes Nationalgenie, ein gewisses, daß ich so sage, Spitzbubenklima, und da rath ich dir, reis' du ins Graubünder Land, das ist das Athen der heutigen Gauner. (Kindle 版)

 このセリフが出てくるのは、おわかりの方もあると思うが、シラーの『群盗』(Schiller, Friedrich. Die Räuber)、その第二幕第三場である。スイスのグラウビュンデン州についてなかなかひどいことが言われているが、これもシラーの時代の地域認識として心得ておいたらいいことだ。現在では、サン・モリッツを含む、上下エンガディン地方の、言わずと知れた世界的な避暑地だ。---そこがかつては「ならずものたちのアテーネ」と呼ばれていた。アテーネは、かつてギリシア時代に学芸の天才をあまた生み出した聖地を意味するだろう。「(先鋭的)悪漢」(Spitzbube)にも天才が必要だ、と言われているのである。---他方で「まともな男」(フランス語で[honett]を使っている)の方は、どんな柳の木でもできる、と言っており、ここにはミシェル・フーコーがラ・メトリの『人間機械論』とフリードリッヒ二世の改革として示す、「練り粉=人間」を素材に、訓練によってどんな人間でも作れるとする思想とその実践の結果が読み取れる。『群盗』は1781年に完成しているが、ラ・メトリからわずか30年、シラーの思想と仕事はラ・メトリの思想の系列の上に置いて考察する必要があるだろう。

 ニーチェが愛し、1881年以降夏の定宿にしていたシルス・マリーアもこのグラウビュンデン州にあったということは、少し頭に入れておく必要があるだろう(1889年1月はじめのブルクハルト宛の手紙)。



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《シュトックハウゼンの「正しい長さ」 IME 2008年1月27日の演奏》

2018/07/21 17:02
瀬谷こけし


 このほどわたしたち(IME)の2008年1月27日の演奏をYoutubeにアップしました。前年12月に亡くなったカールハインツ・シュトックハウゼンへの追悼の録音総会での演奏です。演奏場所は京都造形芸術大学陽陽館二階です。
 相当によい演奏ができたと思います。高度で緻密な演奏になっています。

 曲は「正しい長さ」(Richitige Dauern)、1968年作曲の『七つの日より』 op. 26 の冒頭の曲です。それは次の指示から成っています(ユニバーサル出版、日本語版):


  正しい長さ

音を一つ弾け
それをいつまでも弾け
止めなければならないと
感じるまで

音を又一つ弾け
それをいつまでも弾け
止めなければならないと
感じるまで

そのように続けよ

止めよ
止めなければならないと
感じたら

しかし弾くか止めるかは
いつも他を聞いて決めよ

人が聞き入る時には
もっとも良く弾け

試してはならない


 この演奏はすぐに松平敬さんにお送りしてご返事をいただきました。下にそれついてのページへのリンクを付けておきます。ご一読いただければ幸いです。
 わたしたちのグループではこの曲を直観音楽のもっとも基本的な練習曲として、録音演奏会ではいつも最初に演奏していました。この曲から始めるのが直観音楽への正統な入り方になるとわたしたちは考えています。近頃はこの正統な道を踏まず、ただのヒーリング音楽のようなものを直観音楽と称するひとが増えているのは大変嘆かわしいことです。またこの曲は日本音楽の「間」の感覚のトレーニングにも最良のものだと信じます。そしておそらくはプロのボクシング選手の「間」の感覚のトレーニングにも大いに役立つのではないかと思います(間の詰め方)。いろいろな分野で最上の感覚をめざす方が取り組んでくださることを期待しています。

 演奏は以下です。

カールハインツ・シュトックハウゼン
「正しい長さ」(『七つの日より』op.26より)
直観音楽アンサンブル(IME)
2008年1月27日
京都造形芸術大学
https://youtu.be/usm7SVKlObA




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《夏に対応できるからだ作り》

2018/07/20 22:18
瀬谷こけし


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 いくつか用事がたまっていて、午前中に出かけた。まずは大原に。気温は37度ほどで、まずまず暑かったが、車なので窓を開けて走っている分には何も不快なことはない。これでエアコンをかけていたら身体がだめになりそうで、この後出町の方にも行ったのだが、走っている時は窓は開けっぱなし。エアコンをかけて24度ぐらいに設定しておけば、快適かもしれないが、夏の気温に対応できる身体は絶対にできなくなってしまうだろう。自分で汗をかいて、冷却できる身体にしておかないと。クーラーなしでは過ごせない人間は、もうすでに相当家畜化されているのではないだろうか。家電製品に飼育される家畜だ。
 ということで、夏のいいものを探していた。草や(ブタクサ?)カエルや木の葉や山や、大原はさすがに美しい夏の姿がある。
 知らない道を行って、行き止まりということでバックして戻ろうとしていたら、塀の中から声をかけてくれて、Uターンするならここ使ってバックして行きなさいと言ってくれる。その言葉に甘える。バックして家の門のところを使わせてもらおうとしていたら、路肩が弱いからバックじゃなく前から入れてやりなさいと言ってくれる。そこで頭から入れてスイッチバック式に後ろから出ようとすると、中に入って庭を使って回転したらいいと言う。その言葉にも甘える。中には何と広い庭のあることか。楽々前進だけで回転できる。そうやってターンして、重ねて何度かお礼を言って戻ったが、何とも適切に親切なアドバイスをしてくれる。わたしより少し年上ぐらいのお姉さんか。大原にはこんな素晴らしい人がいるのかと驚いたことだった。そういえばアドバイスの言葉を聴き取るべく、途中からはかけていたウド・リンデンベルクのCDは止めてやり取りをしていたが、わたしが窓をすっかり開けて運転していたことに多少は好感を持ってくれたのだろうか。多分そこに違和感のなさを感じてくれたように思う。ひとりで車を走らせるときは、夏でもできるだけ窓を開けた方がいい。その方が外がよくわかる。車内冷房の分エネルギーが節約できることもあるが。それ以上に外と関わりながらの運転というものができる。---それで一日よい日になった。




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《一日中》

2018/07/20 02:46
瀬谷こけし

7月9日の高野川
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別の流路ができていたことにこれまで気づかなかった


 一日中ひとつのクラスの期末のドイツ語の採点と評価をしていた。簡単に採点できる問題にしたつもりだったのだが、後半に自由度の高い問題を出したところ、ありうるいろいろな状況を想定して採点していると、予想もしなかった答えも正解にしなければならなくなってとても時間がかかってしまった。一日中一歩も家の外に出ていない。保冷剤をタオルで首に巻き付けたりしてそれなりに節約を考えてやっていたが、時々はクーラーを入れる。昼間はすっきりと晴れて、意外と気持ちが良かったのだが、部屋を閉じ切ると空気が悪くなり気分はよくない。今日ぐらいなら風通しの良い部屋で仕事をしていれば汗をかきながらでもやれないことはなかったと思うのだが、書斎の通気性が悪く、クーラーの使用もやむを得なかった。試験の方は60点満点中30点未満が2名だけという全体なかなかの好成績で、下駄をはかせても履かせなくても学生の合否は変わらなかったのだが、結局平均成績が68点程度になるように、下駄をはかせた。これでまずまず妥当な評価になったと思う。最高点は95点。

 明日もまたドイツ語の採点になるが、そちらはニーチェのある詩(「名声と永遠」1)を訳せという課題で、こちらはドイツ語を正確に読解するためのポイントを幾つか決めて、その正否によって評価を出すことになる。主語に関して「所属の3格」(Dativ des Zubehörs)が使われる例は入門文法・初級文法では出てきていないのだが、任意添加語としての3格の性格が掴めていればできるはずのことで、次週の授業ではそのへんの文法を上級の文法書から説明と例文を引いて教えておこうと思っている。こちらの「ドイツ語応用2」の授業は、最初の受講登録者が最後まで一名も減っていない。ドイツ語の文章を正しく読解する訓練を積んでゆきたいと希望する学生がちゃんといるということだ。テキストは『ツァラトゥストラはこう言った』(KSA版)を用いている。テキストの魅力ももちろんあるのだろうけれど。


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《五輪真弓の歌》

2018/07/12 01:09
瀬谷こけし

 この前、梅雨の日々の合間に、朝から止んだ日があって、すぐに車に乗って大原に行ったのだが、その時とても聞きたくなった曲があった。雨上がりの空気感がとてもよく歌われている歌。五輪真弓の「空」という曲だ。
 大原の里の駅で少し買い物をして帰った後、家の中でCDを探したが見つからなかった。この歌に関してはCDを2枚持っているはずなのだが、五輪真弓はもう聞かないと決めて相応の処分をしたはずだ。捨てたということはないのだが、もう二度と聴かないでいい音楽の場所に移し置いたはずだった。
 だが、どうしても聴きたくなった。雨上がりの空のガランと開ける空気感をこれほど見事に歌った歌は他にない。

 アマゾンで捜してみたが、五輪真弓はもう忘れられた歌手の分類のようだ。だがわたしには、この「空」と、そして「時の流れに 〜鳥になれ〜」の二曲は、疑いようもない名曲だ。後者の方は、長野隆と過ごした津軽での時間の素晴らしさがそのまま込められている曲だ。今でも十和田湖から、酸ヶ湯を通って青森へ抜けるブナの道でかける歌にこれ以上のものはないと思っている。

 「心の友」に関しては前にも書いたことがあるが、長野から「いい曲だからぜひ聴いてください」と敬語を使って頼まれたものは他にない。いい曲だということはよく分かる。そしてこの曲に関しては、スラヴェシ島(インドネシア)のマナドの露天市で、探して、試聴させてもらって、買ったことをよく覚えている。売り手の兄さんと、その時ぴったりと気持ちが合ったのだ。その兄さんは五輪真弓を中国人と信じていて、そして売ってくれたCDも海賊版のDVDで、結局家のCDプレーヤーでは聴けなかったのだが。中国、東南アジアで大ヒットした曲だったはずだ。長野が曲を通じてわたしに言いたかったこともわたしはよく理解していた。その理解が彼に伝わっていたかどうかはよく分からないが。

 今思うのは、「空」はまた聴きたくなることがあるだろう、ということだ。今度手に入れたこのCDは、取り出しやすいところに置いておくことにする。




https://youtu.be/y4mFWTiGGrY



時の流れに 〜鳥になれ〜
https://youtu.be/MxzHo2uPyXE




心の友
https://youtu.be/pPd_rTfB6DE



=== 余談 2018.7.29 ====

 わたしが津軽と言うと長野隆のことが一番心にかかってくるのは、彼が少なくとも私の(詩、歌、小説等の.)作品をすぐれた的確な鑑賞力で正統に認めてくれたからだ。---なかなかないことだ。だがそれがあってこそ心が通じる。わたしも彼のギター演奏を最高度に評価していた。




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