《清野通子さんが亡くなられた》

瀬谷こけし
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 日本歌人京都歌会の仲間であり大先輩である清野通子さんが亡くなられたという報せをうけました。
 清野さんからは歌会を通じて大事なことを数知れず教えていただきました。

 清野通子さんを悼む 一句:

> 野の花ややさしく咲いて流れゆく

 清らかな生き方をされた方で心に残ります。

            合掌

《小白川蓮光寺住職系譜》

瀬谷こけし
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 現住職の顕信氏に本日お会いすることができ、その系譜を教えていただくことができた。顕信氏の父は教信という。昨年亡くなられたとのこと。教信氏の父親は幸信(俗名幸太郎)という。幸信氏の父親は甚之助というが、甚之助氏は坊主ではなく、家の再興のため歩荷をしていたという。その間寺の仕事は弟の鉄精氏にゆだねていたという。明治42年6月5日に柳田国男と話を交わしたと見えるのはこの鉄精氏だと推定される。鉄精氏は経を読めるということはなく、辛うじて阿弥陀経ぐらいは唱えることができただろうという。甚之助氏は経を読むことはまったくできなかったという。
 本日教えていただいたことの骨子は以上であるが、以下に少し参考資料を付する。

 参考資料1、柳田国男「木曽より五箇山へ」(『秋風帖』所収)
> 道の側の叢に蟇が鳴く。いわゆる谷ぐくなるものか。その声時鳥・河鹿などの類にて、節は谷水にまぎれず。
 椿原より対岸はすでに越中にて、処々に籠渡しあり。国境の境川より五六町こなた、小白川という七八戸の村あり。村に寺あり。軒に釣鐘を釣りたるほか、ただの百姓家とかわらず。住持も経を読まず。村のはずれに日本最小の小学校あり。(明治42年6月5日の条より)

 参考資料2、柳田国男「毛坊主考」(『毛坊主考』所収)
> たしか国境に近い小白川という大字であったかと思う。路傍の小家の縁に腰掛けて雨に沾(ぬ)れて侘しい弁当を食べながら、ふと薄暗い座敷の中を覗くと、この家不相応に大きな仏壇がきらりと光っている。この辺は真宗の盛んな処だと聞いたがなるほどそうだと言うと、道連れの越中の人が、おまけにこの家はお寺です、上を御覧なさいという。今まで気が附かなかったが縁側の天井にはまさしく径尺七八寸の釣鐘が釣ってある。それから住職もそこに働いていた。万筋の単物(ひとえ)か何かで雨の中をどこかへ厩肥を運んでいる。根っから愛相のない男だ。そして少しも坊主らしくない。頭には我々よりも長い毛が生えている。自分はははあこれが例の毛坊主だなと思った。しかしその想像は当たっていたかどうか、今もってわからない。

 この柳田国男の毛坊主考の論考はそれなりに有名でまた意義の大きいものであるが、冒頭近い部分の上掲の文章は、毛坊主についての柳田のリアルな経験がどのようなものであったかを語っている。彼に「住職」と呼ばれていたのは、上記の系譜の鉄精氏にまず間違いないところだろう。柳田がここで経験したことの本質は、ひとの死を送りの儀式なしに済ますことのできないひとびとのメンタリティの根にあるものは何かという問いに彼が思いもよらない仕方で出会ったということだろう。その問題をわたしも柳田の思考に密着した仕方でそしてまた飛騨という地域の本質への問いと切り離されない仕方で考えてゆきたい。


*本稿は2020年8月21日に拙FBに掲載したものです。

=== 2020年8月30日追記 =====
歩荷の仕事は実際にはどういうものであったのか。どこからどこへの荷物を運んだのか。メインは越中と飛騨の間の運搬だと思うがそれはどのような道を通ったのか。国境をなす境の川である庄川をどこでどうやって渡ったのか。その一連の疑問に答えてゆきたい。




《クナイプ式水浴療法》

瀬谷こけし

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 「クナイプ式水浴療法」(Kneippkur)というものがあるようだ。①のボードにはその療法の沿革が書かれている。ドイツ・チューリンゲン州のドルンドルフ(Dorndorf)からタウテンブルク(Tautenburg)へ丘陵を越えてゆく細道があり、4年前の8月16日に散歩がてら車道を歩いていたところ、前日知り合いになったレッヘル(Löchel)さんが車で私を見つけてくれて、ドルンドルフまで行ってその道を歩いて見ないかと誘ってくれた。彼自身はイエナに行く用事があるということだったが。道に迷ったりの危険はないか、時間はどのくらいかかるか、ということを尋ねると安全な道で、ゆっくり歩いても一時間かからない。小中学校の頃はその道を歩いて学校に通っていたと教えてくれた。それで歩いて見ることにしたのだが。時間が気になったのはわたし自身の脚力の心配のほかにその日の午後6時ごろにシャウマン先生がニーチェのベンチについて教えてくれるという提案をして下さっていて、宿の方に見えられるということだったからだ。ともかくそうしてレッヘルさんにドルンドルフのその細道の入り口まで車で連れて行ってもらい、そこから歩いたのだった。その道を少し先に数人の地元風の女性が歩いていて、ある看板①の所で左手に折れて泉のようなところで何かをしているようだった。私もそちらへいっていいかと尋ねて、OKだという返事をくれたので、わたしもそちらに行って見た。そこには日本で言えば足湯のような作りのところがあった。みなそこに足をつけたり、歩いたりしていた。わたしも靴を脱いでズボンの裾を上げて水に足を浸けたが水はとても冷たかった。そこの10m足らずの堀を端までゆっくり歩いたらその冷たさにからだがすっかり冷えるようだった。そうして上がり、それから隣に井戸汲み場があって、そこで井戸から水を汲んで洗面器のような大きな石の皿のなかに腕を浸けて冷やすのだと教えてくれたのでわたしもそうした。冷たくてとても気持ちがいい。このころはドイツでも30度を越える暑さにはなっていただろう。こういう水浴はとても心地よかった。村の女性たちもそのために来ていたのだろう。ガイドブックにはなかなか書いてない楽しみを味わうことができた。お礼を言って先にその場を離れ、タウテンブルクへの山道に向かった。

《バーゼルからトリープシェンに行ったことを》-- ニーチェ研究通信

瀬谷こけし

 わたしがバーゼルからトリープシェンに行ったことを上田閑照先生にはぜひお伝えしたかった。そしでできれば佐々木亮さんにも。どちらの先輩もわたしがニーチェの研究で仕事をなし遂げることを期待して下さっていた。
 その恩と期待に応えたい。




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《Kunstanimismus --- 1991年恐山大祭にて》

瀬谷こけし
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 Kunstanimismus(芸術アニミズム)という新しい概念、それとProduktion(生産)の概念によって、民俗宗教(Volksreligion)の全領域を、その本質を、捉えられないだろうかと考えている。かつて恐山で撮った写真をじっくりと眺めながら。


まずはこの石に衣類や布を巻き付ける行為が芸術創造であるということを認めなければならない。そしてそこに、その芸術作品に、アニマ的な働きが生み出されるということを。




《拙詠八首 (日本歌人6月号詠草)》

瀬谷こけし
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  ◇ 志村おとどを悼む

> なつつばき見るまに肺のこぼたれて志村のおとど逝きたりしかな
> 雨の日はうすべに暗くさくら咲く今年の花は王冠(コロナ)の花
> 愛知川(えちがは)の堤に生ふる竹群にい隠るほどの小(ち)さきその山
> 妙法山(めうはう)に赤紫の見えたれば三つ葉つつじの咲きそむる時
> 蒼白の相の言祝ぐ万歳は「われに従へ帝王万世」
> 犂の柄に身をやすませて西を見る西村嘉三郎日々を働く
> くまもひともわが息をする空間を第四次元と呼ぶひとのあり
> さらば神技微妙の働くところ第五次元とひとは呼ぶべし

(草稿を修正したものも含みます。校正者に多謝)

《Intuitive Photography 直観写真》

瀬谷こけし

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《Intuitive Photography》

I propose "Intuitive Photography" following "Intuitive Music" of Karlheinz Stockhausen.


UNLIMITED

release a shutter
with the certainty
that you now have
an infinite amount of time and space


《直観写真》

カールハインツ・シュトックハウゼンの「直観音楽」に倣って「直観写真」を提案します。

無限に

シャッターを切れ
お前はいま
幾らでも多くの時間と空間をもっている
という確信をもって

(わたしの写真をご覧になりたい方は https://youpic.com/masatsunen にどうぞ)


ジョルジュ・ムスタキの『ヒロシマ』

瀬谷こけし

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Par tous ceux qui vivent encore
Par ceux qui voudraient vivre enfin,
Peut-être viendra-t-elle demain.

La paix !

Georges Moustaki “Hiroshima”


https://youtu.be/6hY2N5rNjDM




==== 追加(同日) ====
歌詞に一行(上掲の詩の二行目)加えておきました。朝倉さんの訳は基本的にとてもよいのですが、’enfin’を「つまりは」と訳すのはちょっとまずいと思います。「つまり、」ならいいかもしれませんが、むしろそれもなしで、「生きたいと思っている人々によって(多分明日にはやって来る)」と訳した方がいいと思います。ヒロコ・ムトーの歌詞はムスタキの詩とも曲想とも著しく異なったものでわたしは聞くに堪えません。

《折口信夫の異人論》

瀬谷こけし
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 思い出したことがあるので記しておく、京都造形大学(現京都芸術大学)で赤坂憲雄さんをお招きしてあるシンポジウムが開かれたことがある。はっきりとは覚えていないが、折口信夫と異人論が中心テーマだった。わたしはそれにただのひとりの聴衆として参加していた。意外だったのは聴衆の半分以上が外国人で、しかもほとんど観光客として来ていただけで、日本語の議論をおそらく何一つ理解できていないし、もともと理解しようとする気もなく、そこにいるだけのひとたちに見えた。日本人の聴衆は十数人程度だった。

 造形大からは浅田彰さんがパネリストとして参加して、フェリクス・ガタリをネタにして何かを話していた。テーマは「エトランジェ」(ストレインジャー)で、それに折口の「まれびと」絡ませようとしていたと思う。赤坂さんは、自分の異人論わかりやすく説いていたと思う。

 その二人のパネリストの発表が終わって、質問の時間になったのでわたしは手を挙げて質問をした。要は、それぞれのパネリストは、折口が、異人の中の異人であるというべきキリストのことをどう捉えていたと考えるのか、とういことを尋ねたのだった。そしてその問いの基礎として、折口の短歌、

>基督の 眞はだかにして血の肌(ハダヘ) 視つゝわらへり。雪の中より
         『倭をぐな以後』「冬至の頃」

を挙げて紹介した。折口について語ろうとする人なら当然知っているべき短歌だ。
 だがパネリストの二人はどちらも知らないようだった。赤坂は、いつかわたしの問いにちゃんと答えるようになりたい、と答えた。浅田は何を思たのか、ドゥルーズとはともかく、ガタリとは直接の親交があるのだと、何の答えにもならないようなことをしゃべって煙に巻いただけだった。赤坂憲雄は今は答えられるのだろうか? その答えをまだ聞いていない。

 わたしが後悔したのは、外国人の聴衆が多かったので、ほんとなら折口の歌をその場で英語にでも翻訳して紹介すべきだったということだった。そのことをなぜか不意に思い出した。そこで、以下、試みに訳してみる。

  Christum, naked and bleeding,
  Skin and body together,
  Witnessed, I laughed from the deep snowfall.

 よい翻訳案があったら教えてほしい。

===== 補足 ======
 上記の拙訳について一言補足しておく。冒頭の「Christum」は対格(accusativ)なので西欧の教養人でこれを主語と誤解する人はまずいない。とはいえ会場のだれひとりそのことを理解しない可能性は大いにあったと感じている。英訳とはいえラテン語を入れる必要はあるのだ。
(2020.6.11)



《西垣正信さんのベルリオーズ『幻想交響曲』》

瀬谷こけし

 去年のクリスマスコンサートを聴きに行って以来西垣さんのファンになった。初めにお会いしたのは数年前の遊子庵での集まりだったが。その時も話が合って「Don Pedro」という珍しい酒をいただいたのだった。
 西垣さんは繊麗な感覚と技をもつギタリストだと感じている。


https://youtu.be/ia_tqya2NQA




《上高野 2020春》

瀬谷こけし


拙詠一首、拙独詩一篇、拙映10枚。


Spaziergang durch Kamitakano – 2020 Frühling!

  

 川あらば水のほとりに根を差して石の上にも花咲かせゆけ


 Wenn du dort Wasser findest,
 Stoß dein Wurzel darin !
 Auch auf dem Stein, mache dich da blühen !


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《本来稿 2020年4月号》

瀬谷こけし

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 印刷されたものがわたしの意図とそぐわない字使いをしているので、拙詠の正しいものをここと拙フェイスブックで紹介します。原稿用紙が一首30字という限定なので表記に無理が生じているところも本稿にもどします。(また原稿用紙に記すときに用字を間違ったものもひとつあり①それも直します)。またわたしは一首ごとに、また一首の中でも、仮名遣いを変えています。ドイツ語の接続法に似た書きわけをします。

①>街路樹の樹々みな切られ冬迎えお前たちこれより高く伸びるなと
②>方法、茹でる方法と聞こえたり雨ふる午後に鳩啼きしらし
③>吹く風に枯れ葉が道を駆けてゆくこの惑星の神に捨てられ
④>私はあなたちにまた会いたい(イヒヴィルオイヒヴィーダーゼーン)と《ドイツレクイエム》聴きたくなりぬ
⑤>どっちが得かよく考えてみろとトランプのディール締め上げる手と吸い取る口
⑥>霜月に少し華やぐ構内は生誕会のため整へゐるらし
⑦>むかしよりみじめな暮しを苦しむと山より上がる望月は知る
⑧>禁猟の燃えいる森をすすみゆく佛に逢はば佛を殺せ

 以上です。

===== 補足 ======
 少しだけ補足をしておきます。⑧の「燃えいる森」は「燃えゐる森」とした方が旧仮名遣いとしては正しいのですが、本歌が「い」としているのでそれに従っています。(紙面で校正をしてくれた方には多謝)
 もう一点④は「ヴィル」(will)に大いに悩んでいるのですが、それはウルガタ(ラテン語訳)は特に意志を表す言い方はせず単に未来時制を示すだけなのですが、ルター訳になるとここに「wil」が入り、ブラームスも「will」を入れています。とすれば意志未来と取るべきなのか? 『ヨハネ伝』(15-22)がイエススの言葉としてこれを語っているだけに、ここにイエススの意志を読み取るか否かは神学上の問題になるはずです。またブラームスを理解するうえでも大きな問題です。わたしはそこに意志を読み取っています。
2020.6.11

《「ドイツ語で『ツァラトゥストラ』を読み抜く会」近日発進》

瀬谷こけし

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 同志社の学生を核にした上記の会(勉強会)を4月から開始します。時間は一回3時間程度。二年間で『ツァラトゥストラはこう言った』のドイツ語版(KSA)を終わりまで読み抜くことをめざします。開催は当面月二回、土曜(もしくは日曜)に、場所は京大周辺のオープンスペース(カフェ、ラウンジなど)を予定しています。
 参加の条件は、『ツァラトゥストラ』のテキストをドイツ語で徹底的に読み抜く意志があることです。基礎としてドイツ語の初級文法を習得し終えていることが要求されます。
 日時、場所はまだ未定ですが、初回内容は第四部"Das Nachtwandler-Lied"8-12を予定しています。テキストは「Gruyter」版を使用しますが、初参加の方はネットのグーテンベルクプロジェクト提供のドイツ語テキストを用意しておいてください。
 勉強会の規模は5人程度、最大で10人程度を予定しています。参加希望者は私のところ(Gメールアドレス等)までご連絡ください。プロの研究者も歓迎します。




《羚羊すら行く道を失うところ…:ニーチェの1876年夏の詩》

瀬谷こけし

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 もう三年半という少し昔の話になるのだが、わたしがタウテンブルク(Tauntenburg、ドイツ・チューリンゲン州)にいって4泊した時、そこのある案内板に記されていた詩のことなのだ。その案内板によればニーチェは1876年夏に創ったこの詩をルー・フォン・ザロメ嬢に捧げたということなのだ。まずその詩を写真とともに紹介したい。

Sommer 1876

>Nicht mehr zurück? Und nicht hinan?
>Auch für die Gemse keine Bahn?

>So wart‘ ich hier und fasse fest,
>Was Aug‘ und Hand mich fassen lässt:

>Fünf Fuß breit Erde, Morgenroth,
>Und unter mir – Welt, Mensch und Tod.

>Meiner Lieben Lou. – Sommer 1882

 訳してみると:

1876年夏

>もはや戻れないのか? そして登ってゆくことも?
>羚羊にとってさえ進む道はないのか?

>そこでわたしはここで待ちしっかりと掴む、
>目と手がわたしに掴ませてくれるものを:

>五歩ばかりの広さの大地、朝焼け、
>そしてわたしの下には---世界、人間、そして死が。

>わたしの愛するルーに 1882年夏
(拙訳)

 この詩で興味深いのは羚羊(Gemse)を引き合いに出しているところだ。かなり知られていることだと思うが、羚羊は人間には素手ではとても不可能なほどの絶壁でも、道をみつけて登ってゆく生きものだ。ここでニーチェは絶壁の途上の小さな平にたどり着いたものの、もはや下に戻ることもできず、上に登ることもできない状態を語っている。そしてそこでこの状況を目と手でもって細心に捉え、掴むことのできるものを見出してしっかりと掴み、把握しようと心を決め実行するのである。わかる人は分かるだろう。できることは他にない。
 この詩をルーにプレゼントするとき、それはニーチェが今置かれている状況を彼女に示すということが一つにはあるだろう。たやすい安定した場所にいるわけではないのだ。だがもう一つ、この詩をルーに捧げることには、お前もこの場所に来て、羚羊ならば見出せるかもしれない道を協働で見つけ、一緒に登ってゆこうという誘いがあるだろう。伊東静雄の「冷たい場所で」をさらにひとまわり明晰にしたような詩だと言えるだろう。

 やや細かい話だが、この詩の1876年のテキストをわたしはまだ発見できていない。しかし1882年夏のノートには、この詩のタイトルと強調の有無、コロン/感嘆符の違いの点でわずかに違った詩を見出すことができる([1 = N V 9a. N VI 1a.]、I[105];KSA, Bd.10, S.35)。それを紹介しよう。

I m G e b i r g e.
>  (1876.)

>Nicht mehr zurück? Und nicht hinan?
>Auch für die Gemse keine Bahn?
> **
>So wart‘ ich hier und f a s s e fest,
>Was Aug‘ und Hand mich fassen läßt!
> **
>Fünf Fuß breit Erde, Morgenroth,
>Und u n t e r mir – Welt, Mensch und -- Tod.

 このテキストには杉田弘子の訳があるので紹介しておく(白水社版全集第II期第5巻)。

山にて(1876)

>もはやひきかえせぬ? そして登ることもできぬ?
>カモシカにも道はない?
>    **
>それでは私はここで待つ、そしてしっかりつかまえるのだ、
>目と手がわたしにとらえさせるものを!
>    **
>五尺の大地、曙の光
>私のには--世界、人間そして—死。

 この訳はどうだろう。わたしにはよく理解できない。「fassen」は「つかまえる」というより「つかむ」ではないか?




《東京小景》

瀬谷こけし

 東京はまだCOVID-19にふるえる景色ではなかった。地下鉄の吊り輪を掴むのに皮手袋をしているのはわたしだけだった。---そしてその手袋は汚れてもよいようにコートの左ポケットにしまう。---思い浮かぶのは花鎮の祭。

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《Hashimoto Shigezou's Cabin》 

瀬谷こけし

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 橋本繁藏さんの小屋はまだそのままあった。高山へ移ってからも、折敷地に小屋を維持していて、スノーモービルなどもここに置いていた。狩りに出かけるときの出発点だった。高山から出るよりも30分は早く出発できる。その奥の五味原にあったという家は2001年の時点でもう存在していなかった。ここに家があったという場所は教えてくれた。ダムができるまでの日々、五味原はなんという遊び場だっただろう。スノーモービルで走り回る格好の遊び場だった。ここから約50分ほどスノーモービルで山に入る。しかるべき場所に、そのまま帰れる形にして停めて、そこからは歩いて山に入る。
 繁藏さんが亡くなって何年になるだろう。あの二人だけで山に入った日のことがとりわけ思い出される。腹ごしらえをして目的地に向かって歩き始める。だが、一つの峠を越えたところで、お前は足が遅すぎる。スノーモービルのとことに戻って待っておけと言われた。モービルは彼がピラミッドと呼ぶ場所に停めていた。わたしは何時間か、短くても三時間はひとりで待っていなければならない。彼は目当てがあって奥へ行った。それは相当な強行軍だということは分かっていた。Tという相当腕の良い猟師を連れて行ったとき、帰路Tはもう一歩も歩けなくなって、「ここで置いていってくれ、あとで骨だけ拾いに来てくれ」と言われたことを繁藏さんは話してくれた。
 繁藏さんは奥の目当てのところに行く。だが、もしかしたら、この近くにも冬眠しているかもしれない。そう思って、モービルのところに戻る途中、近くの木の根のあたりを探して歩いた。数カ所は探した。五つ目ぐらいに探したところは太いブナの木で、そこにはむかしクマが登った爪痕がついていた。そして空洞があった。わたしは耳を澄ませた。生き物がいれば呼吸音がするはずだ。慎重に耳を澄ませたが、音はなかった。それからコンデジを取り出してストロボを発光させて穴の中を撮った。生き物は写っていなかった。
 後で4時を15分ほど過ぎたところで繁藏さんが戻ってきた。わたしが探したクマ穴を彼も点検して戻ってきたようだ。あそこに洞のあるブナがあったが、クマがいるかどうかどうやって確かめたか、と尋ねてきた。写真を撮ったが写らなかったとわたしは答えた。「いいだろう、光を当てれば何かの動きをするはずだ」と彼は言った。
 今の荒城温泉の交差点に近いところの道のわきにモービルを止めて、小屋のところに停めていた車に乗って高山の彼の家に戻った。クマ狩りに連れて行ってもらう時はいつも彼の家に寝泊まりさせてもらっていた。繁藏さんから「弟子にならないか」と言われたのはその時だった。わたしは「まだ足に自信がないから」と遠慮させてもらった。あのピラミッドの近くでわたしが独自にクマ穴を探していたこと、そして自分で火を起こして凍えないようにしていたこと、そんなことで見どころがあると思ってくれたのだろう。うれしいことだったが、わたしの脚力や体術はそうとうに力不足で、弟子としてついてゆけるようになるためにはまるまる一年間のトレーニングが必要だっただろう。その道には進まなかった。



《同志社最終授業 今出川》

瀬谷こけし

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 同志社での授業が終わった。来年度からはもうわたしの授業はない。水曜日は受け持ちが5コマ目、6コマ目なので終わると夜になる。どうやって帰るかを考えながら、構内の美しい夜景を楽しんで、出町柳まで歩いて帰ろうかとも思ったが、コーヒー豆を買っておく必要があって、それには宝ヶ池のコンビニがよいので、地下鉄で帰ることにした。ベンチで一枚だけ夜景を撮った。それから駅に向かうとあのラーメン屋が目に入り、寄って食べて帰ろうと思ったが、やはり行列なのであきらめた。そして駅の近くの壱番屋でカレーを食べて帰ることにした。これも最後だからのちょっとした贅沢。
 こともなく食事を済ませ、こともなく地下鉄で国際会館まで行き、いつものとおり宝ヶ池通りを歩いて帰った。と突然、昨日も田辺校地の帰りの駐車場で、第九の第三楽章の旋律が浮かんできたのだが、それがまた浮かんできて、その音楽の慰めに気づいていた。ベートーヴェンも終わりの近づきをひしひしと感じながらこの曲を作っていたに違いない。先週の今日(水曜日)は帰路この同じ道を歩いていると『ドイツレクイエム』(ブラームス)の「Ich will euch wiedersehen..」の曲と歌詞が浮かんできたのだった。曲中でどういう意味合いで使われていたかはまったく思い出せないが、先週のわたしの意識の中では「euch」は学生たちで、これまで教えてかかわったすべての学生たちのこと、とりわけドイツ語を教えることでかかわった学生たちだ。また会いたいと。それだけ充実した満たされた授業だったのだ。できるならば繰り返したいと思うような。
 さすがに今出川での授業はここ数年だけのことなので、田辺で教えた経験の方が重さも思い出すことも多い。今出川では、「ドイツ語応用」を担当することが多くなって、その中では素晴らしい力をもった学生いつも少なからずいた。田辺でもヘッセの『樹木』を講読して、実際の大樹を見に学生たちを木津川に連れて行ったこともあるので、そのころも「応用」の授業はもたせてもらっていたのだ。
 今日も「応用」の最終授業で、先週の期末試験の採点結果の報告と、テストの詩(ヘルダーリンの「春」1828年5月)の解説をした。今年の学生の読解力は著しく下がっている。もう少し頑張れば自力で読めるようになるだろうという学生が三十人中の数名(内一名はあとほんの少しで自力で読めるようになる)。これは間違いなく文法の授業をしなくなったためだ。文章を文法的に詰めて読むという練習がなく、その前提となる知識すらなく、思い込みで自分のファンタジーの世界を作り上げてしまうのだ。70分の試験時間に全精力を傾けて読んで、まったく原詩とは縁もゆかりもないような言葉の連なりを作り上げてしまうのだ。その無駄になった精力を救えないのか? 詩は自分の感覚でそれぞれに理解して読んだらいいという人がいるが、これは大変な誤解で、誤読はそれぞれに様々に無数にでもできるが、正しい読みはほとんどただ一つしかないのだ。詩人は、自分の詩想が誤解なく伝わるように細心に心を尽くし技を尽くして言葉を織りあげる者なのだ。詩人の施した細心の配慮を礼儀を知らぬものが土足で踏み散らすようなことは詩の読解でもなんでもない。コンマの位置一つにも細心の注意を払わなければ詩は読めない。そのためには正規の文法を踏まえておくことが欠かせない。外国語について文法規則の習得をおろそかにする教育は人文学を殺し、過去の人類の宝を殺すものでしかないだろう。そういう教育にたいしては過去の宝を尊重する教育の豊かさを実践的に示し続けてゆきたい。



《同志社田辺での最終講義が終わった》

瀬谷こけし

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 最後の数年はほとんど今出川での授業で、最後の今年だけ田辺でも一コマ授業をもたせてもらった。27年、自宅も滋賀県から京都市に変わり、通勤の経路もいろいろと変わった。最近は第二京阪の側道で行くことが多くなったが、その前は24号線を主にしていた。滋賀県のころは京滋バイパスで往き、帰りは信楽越が多かった。27年は長い。心は残る。いちど家人を連れてきて、ここで授業をしていたのだと伝えておきたい。
 今日の最終授業は、今年の田辺での授業で一番楽しい授業になった。使った材料はFerdinand von SchirachのHörspiel ≪Der Fall Collini≫(『コリーニ事件』)。ラジオドラマのようなものだ。その冒頭部分のCDを聞かせ、そのトランスクリプションを作ってその一部を空けて下線にしておいてそこを埋めよという問題だ。はじめは何もわからずため息ばかりだった学生たちが、何度も聞かせ、ヒントも与えなどしてゆくと、18カ所の空白の内10カ所以上が正しく埋まるようになっていった。そしてドラマの運びもよく掴めるようになっていった。教科書だと、[Darf ich …?] とかも[antworten]とかも学習しないので使えないし事実上学ばせることもできない。そうした悩みも今日の授業では解消することができた。学生たちもみな素晴らしかったと思う。そして彼らには、今日がわたしの最後の授業になるということは伝えなかった。明日の今出川での授業が、わたしの同志社での最後の授業になる。田辺での授業はいつも知真館だった。

《ヘルダーリンの「春」1828年5月》

瀬谷こけし

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 (現代語綴の)原文と拙訳、そして参照訳。(手塚富雄さんのヘルダーリンの翻訳には学ぶところが多い)
 誤訳等がありましたらお知らせいただければ幸いです。[wenn]と[dann]の同時性にこそこの時ヘルダーリンが掴み取った充実が示されているように思います。


 Der Frühling (Hölderlin)

Wie selig ists, zu sehn, wenn Stunden wieder tagen,
Wo sich vergnügt der Mensch umsieht in den Gefilden,
Wenn Menschen sich um das Befinden fragen,
Wenn Menschen sich zum frohen Leben bilden.

Wie sich der Himmel wölbt, und auseinander dehnet,
So ist die Freude dann an Ebnen und im Freien,
Wenn sich das Herz nach neuem Leben sehnet,
Die Vögel singen, zum Gesange schreien.

Der Mensch, der oft sein Inneres gefraget,
Spricht von dem Leben dann, aus dem die Rede gehet,
Wenn nicht der Gram an einer Seele naget,
Und froh der Mann vor seinen Gütern stehet.

Wenn eine Wohnung prangt, in hoher Luft gebauet,
So hat der Mensch das Feld geräumiger und Wege
Sind weit hinaus, daß Einer um sich schauet,
Und über einen Bach gehen wohlgebaute Stege.
 

  (拙訳)

なんという喜びだろう、人が満たされて広野を見まわる時が
ふたたび明けてくるのを見ることは。
その時人々はたがいの様子をたずね、
よろこばしい生へとたがいを形づくってゆく。

天空はアーチをつくり、のびのびと広がっている、
そのように歓びはそのとき平原にそして屋外に生まれる。
その時心(ハート)は新しい生へとあこがれ、
鳥たちはうたい、唱和をもとめて叫ぶ。

しばしばおのれの内なる問題を問うていた人間は、
そのとき生についてひとと話し、そこから話がすすむ。
その時悲嘆はたましいを齧ることなく、
そして快くおのれの築いてきた財の前に立つ。

空のなか高くに築かれた住居が光に輝くとき、
人はそのように輝く野をより広々ともち、そして幾本もの道が
遠くへ開けてゆく、---そうしておのれの周りをうち眺める者があり、
小川の上には立派につくられた橋が何本もとおっている。


===(参考)==========
手塚富雄訳(『ヘルダーリン全集』河出書房新社、S.47,第4版)

 

なんという喜びだろう、人が楽しさを湛えて
広野を見まわす季節の来たことを見るのは。
そのとき人々はたがいの身についてたずねあい
よろこばしい生へといそしむのだ。

天空がひろやかな穹窿をつくるときには
野に 戸外に 喜びはうまれる、
心があたらしい生をあこがれ
鳥がうたい、うたいながら叫ぶときには。

いくどかおのれの心に問いをかけてきた者も、
生について語りはじめ ことばは湧くのだ、
憂苦が心を噛まず、おのれの土地の前に
かれがよろこばしく立つときは。

ひとつの家が空高く築かれてかがやくとき、
人に野はひろがり 道は
遠く走って あたりを眺めやるひとりの者がある、
そして小川にはよくつくられた橋がかかっている。


ヘルダーリン全集〈第2〉詩 (1967年)
ヘルダーリン全集〈第2〉詩 (1967年)