《[Intuitive Musik]は直感音楽ではないということ》

瀬谷こけし
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《[Intuitive Musik]は直感音楽ではないということ》

 ドイツ語で[Intuitive Musik]というのがカールハインツ・シュトックハウゼンの「直観音楽」の言い方です。英語なら[intutive music]と綴ってかまわないのですが。ただ日本語で「直感音楽」と書くのはシュトックハウゼンの[Intuitive Musik]の訳語としては誤訳です。残念ながらユニヴァーサル出版の日本語版で篠原真さんがそう書いてしまったので、この誤訳が広まってしまっていますが。
 簡単に説明しますがドイツ語の語源を調べると[intuitive]の元になる[Intuition]はラテン語の[in+tueri]から出てきます。この[in]は英語の[in]とか[into]とかで理解しておけばよいのですが、[tueri]の方は動詞(形式所相動詞)[tueor]の不定法で例えばOxfordのElementary羅英辞典では[tueor]の語義として[to look at, gaze upon, behold, watch, view, regard, consider, examine]などを上げています。つまり「よく見る」を軸にしてつくられた動詞です。だから[Intuition]をドイツ語の語の辞書は[hin-schauen]の意味、つまり基本「視線を向ける」「のぞきこむ」などの意味だと説明します。だから私はシュトックハウゼンの「Intuitive Musik」を「直感音楽」などと書かれると途方もない違和感を感じるのです。「観」の字を使って「直観音楽」と表記するべきです。まずはここまでにしておきます。


《”Machenschaft” について》

《”Machenschaft” について》
瀬谷こけし

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1.

 『一即一切』のなかに収められた論文の中で辻村公一は “Machenschaft”についてたいへん明晰に短く論じている。辻村はまず“Machenschaft”は「一即一切の現代的形態」であると押さえているのである(1)。この“Machenschaft”の概念はわたしには現代社会のトータルな体制を把握するために大変重要な概念だと思われるのだが、辻村はこの概念を何かのテキスト、たとえばハイデガーの何かに依拠して導入するのではなく、自説の中の一貫した論述によって打ち立てている。辻村によれば“Machenschaft”は次のように定義され、そして説明される。定義はこうである。
> “Machenschaft”すなはち人間のなす造るということの支配とは、「一切のものは造られ、そして造られ得る」といふことであった。(同前)
そしてそれは次のように説明される。
> この定式化は第一義的には、有るものの有についてのテーゼとして、或るオントローギッシュな観点に於て理解されねばならない。何故かといへば、差当つては造られたものではない物が、今日でもなほ或るオンティッシュな観点に於ては存続してゐるからである。例へば、吾々が毎日食べてゐる卵や野菜、肉や魚は、成育したものである。併し、卵や野菜、、肉や魚は今日では、人工的に飼育され食糧産業に依つて技術的に製造されてゐる。それらは慥かに成育物に属してはゐるが、成育物のもう一つ背後ではそれらは製造された物にされてしまってゐる。太陽や月や毎日の天候は確かに、製造された物ではない。併し、天文学や気象学の研究を通して、それらは製造されざる物として、“Machenschaft”の勢力圏内へ取り容れられてゐる。かくして“Machenschaft”は、成育物や生まれるものや生命なき自然現象を差当たつてはさういふものとして有らしめると同時に、それらを“Machenschaft”の勢力圏内へ益々引き入れて行く背後の威力であり、オントローギッシュな威力である。併し、“Machenschaft”は決して全能ではない。何故ならば、例へば“Machenschaft”に向つて省察することは単に“Machenschaft”に属することではないからである。 (前掲書pp.402-403)
 辻村は人間によって造られたものでない肉野菜魚卵などの成育物もその背後にそれらを組織的技術的に成育させる“Machenschaft”の勢力圏というものがありそれがそれらの成育物を製造する体制になっているとする。そしてまた太陽や月や日々の天候は人間の製造物ではないが、人間によって製造されたものではないものとしてそれらが形成されその運動が形成される仕組みを明らかにしようとする努力や試みによって把握され“Machenschaft”の勢力圏の内に引き入れられていると見るのである。

2.

 辻村はさらにこの“Machenschaft”のさらに背後にあるものを見ようとする。辻村はこう言う。
> “Machenschaft”は、人間のなす造るといふことを支配的地位に就けたものに対しては、常に盲目である。“Machenschaft”造りそして更に造るといふことの連鎖といふ仕方で支配してゐる。この連鎖なしには、“Machenschaft”は支配的地位に上がり得ないし、すなはち總じて“Machenschaft”ではあり得ない。然るに、造るといふことの連鎖を可能にしてゐるものは、如何なる個別的に有るものもその他の一切のものに関係づけられて有ることに、すなはち、一即一切にもとづいてゐる。造りそして更に造るといふことの連鎖は、予め一即一切にもとづいてゐる。“Machenschaft”従ってまた製造された物の背後の根底には、創造従って連続的創造(creatio continua)が存してをり、連続的創造は、最早人間のなす造るというふことではない。東洋に於ては“Machenschaft”の背後の根底には、一切の個物が重重無尽に関係づけられてゐるといふ法界縁起が存してをり、その縁起は無相なるものの相として最早造られ得ない。 (前掲書p.403。強調は辻村)
 辻村は、“Machenschaft”すなわち人間のなす造るといふことの支配を支配的地位につけたものについて考察を進める。そしてまず“Machenschaft”は“Machenschaft”を支配的地位につけたものについて盲目であるということを押さる。“Machenschaft”は「造りそして更に造るといふこと」、このことを連鎖させることのほかの仕方を知らないというのである。だがしかし“Machenschaft”をさらに背後から統べているものがあるとする。それが一即一切、すなわち一切の個別的存在が他の一切の個別的存在と関係づけられているということだと言う。それは「一即一切の理法」と言うべきものであろう。しかしこの一即一切の理法には、そこからさらに思考を進めるためには、一即一切の事実性の確認と認識、そして一即一切の体制の諸差異の認識が必要となるであろう。端的に言えば、ここで個別的存在が他の一切とどのように関係づけられているかが問題であろう。辻村はこの「どのように関係づけられているか」という問いに直接には答えない。その代わりにそこに大きく西洋と東洋でどのような根本的な違いがあるかを概説する。つまり西洋においては造りさらに造ることの連鎖の背後の根底には創造すなわち(造物主の)連続的創造があると説く。また東洋においては一切の個物が重重無尽に関係づけられているという法界縁起がある、と説く。そしてこの重重無尽の関係においてはその縁起の相は無相であってそれはもはや造られないものだと説く。造られない縁起とはその生起の相は偶然だということであろう。われわれには一即一切の論議の中でここではじめて一切の生成の関わりのなかにひそむ生成の偶然が取り出されたと見える。

3.

 “Machenschaft”についての上記のような論述の後で、辻村はこの“Machenschaft”の概念を導入することによって一即一切の思想がどのように変容されることが重要かということを述べている。ここではその東洋に対する論述を紹介しておきたい。以下である。
> 東洋に於て肝要なことは、果してそして又如何にして“Machenschaft”は、それが一切の個物が重重無尽に関係づけられてゐる法界縁起の内へ接ぎ入れられるやうに、変容され得るか、といふことである。そのためには多分、法蔵に於ける一即一切に、それがなほ造ることと創造することとを引き入れることが、要求されるであらう。 (前掲書pp.403-404)
 “Machenschaft”と法蔵の一即一切の双方に相互を引き入れた変容を要求しているのである。



(1) 辻村公一「西洋と東洋に於ける「一即一切」の相違について」、辻村公一編『一即一切』1986年創文社

《萩原朔太郎の「小出新道」》

瀬谷こけし
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《萩原朔太郎の「小出新道」》


 朔太郎の「小出新道」はわたしの高校の教科書に出ていたと記憶するがこの詩は易しい詩ではないと思う。昔も分からなかったし今も分からない。通説がどういうものかも知らずはたして通説があるのかも知らない。ともあれ次のような詩だ。

> 小出新道

>ここに道路の新開せるは
>直として市街に通ずるならん。
>われこの新道の交路に立てど
>さびしき四方(よも)の地平をきはめず
>暗鬱なる日かな
>天日家竝の軒に低くして
>林の雜木まばらに伐られたり。
>いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
>われの叛きて行かざる道に
>新しき樹木みな伐られたり。


 WEBを検索してみるとすぐに滑稽とも思えるような解釈に出会う。「いかんぞ」は「いけないぞ」という意味が含まれているとか。この詩が含まれている『氷島』をさっと眺めてみるだけで何カ所にもこの「いかんぞ」とう表現が出てくるし、それは当然のように反語表現で、典型的に「や」で終わるものもある。「いかんぞ」は古語で言えば「いかにぞ」の意味であって「ゆかぬぞ」という意味では全くないのに、前述のような滑稽な誤読は数を知らない。日本の国語教育の水準がどれだけ下がってしまっているかを如実に示す例だろう。実際この詩でも「いかんぞ」は「いかにぞ」の意味だと解するほかはない。反語であれなかれそれは「どうやって」「どのようにして」の意味だと解するほかはないのだ。読解上難しいのはその後だ。「どうやって思惟をかえすだろうか」と現代語訳して、問題は「かへす」の意味なのだ。「かへらん」ではないのだから「戻そうか」の意味ととるのがまともな読みだ(ここで「かへさんや」としておけば誤読は少なかっただろうが、そうすれば次の詩行の力が大幅に弱まってしまうので、詩人はそれを避けたに違いない)。そして「戻そうか」の戻し先は「…に」に決まっている。つまり「われの叛きて行かざる道に」戻そうか、いやそんなことは決してしない、という決意だ(ここでも「行かざる」を「行かざりし」にしておけば誤読は少なかっただろうが、ここもそうすると単なる過去の行動の話になって今の決断を取り巻く問題から浮いてしまうという弱さが出てしまう)。このまま志操を変えずに進めば「林の雑木」のように伐られてしまうだろうがだからといって意思を翻すというようなことはどうしてできようか、できはしない、そういうことは決してしないのだということである。いまここで概念化することは避けるが(例えば国定教科書に載るような)体制順応的な詩人の道というものは目の前にぶら下がった美味しい餌ではあったのだ。
 こうして朔太郎は伐られる「新しき樹木」のひとつたることを覚悟するのである。


《梅原猛先生のこと》

瀬谷こけし
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 《梅原猛先生のこと》


 わたしは梅原先生からたくさん偉大な言葉を聞いてきた。なかでももっとも偉大な言葉は「真理さえ自分とともにあれば何もこわいことはない」という言葉だった。自分が真理とともにあるという確信が持てているなら、どんな社会的権威も、専門家という学術的権威も怖くはないということだ。
 こういう信念をもって、この信念をただひとつの頼みとして、真理への道を切り開いていったひとのそばにいられたことは、間違いなくわたしのしあわせのひとつだろう。

 この時代にあらためてその偉大さを思う。

《日本歌人2021年02月号2月集》

瀬谷こけし

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《日本歌人2021年02月号2月集》


 『日本歌人』2021年2月号が送られてきました。その巻頭の「2月集」に拙詠を掲載していただいたのでここでもご紹介します。タイトルは「令和令月」。以下です。


  令和令月

令月は神の意(こころ)を探すとき野にも山にも探しにゆかむ
医の門に華表ならびて盟を宣ぶいくさののちの和議のこの日に
つつしみて時を授けよ天の下米をおくりて気は清まらむ

思ひ出はみかんの花の咲く丘のコロナのやうな王冠の花
秋の声きみはききしかこれの夜の明くるをまたずきみは死ねとふ
年の秋の声なき声は死ねといふ木の葉に草にそしてひとにも

  悼佐古良男一首
比叡山はやうやくにして秋の色見すべき君は逝きたりといふ
黄(きい)の花夕べ川辺に立ちゐたりのちの地球を悲しむごとく
大原と静原の野をまはり来ぬ見納めならぬ仮の別れに

鶺鴒の目(まみ)は一瞬みづを追ふ流れ去りゆく秋を目守(まも)ると
仏教は神をもたぬと言ふなかれ山も草木もわれの神々
周山と黒田の道を走り来ぬ田舎暮らしはわびしくあらむ<

 以上12首です。

《ガリバルディ》

瀬谷こけし

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《ガリバルディ》

 イタリアの建国の英雄、つまり独立戦争の英雄のひとりジョゼッペ・ガリバルディだが、彼の場合写真も残っている。特徴的なのはそのこの上なくやさしい目だ。ここでお見せする写真はジェノヴァのフェラーリ広場のガリバルディー像だが、この像も遠くからではわかりにくいがアップで見ればこよなく優しい目を主眼に造形されているのがわかる。赤シャツ隊による軍事行動のリーダーだけに馬とも切り離せない。漱石の『坊ちゃん』に登場する赤シャツにもかすかに彼に影響は響いているか。ガリバルディの像はシチリアのカターニアにもあった。

《拙詠 『日本歌人』2021年1月号》

瀬谷こけし

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《拙詠 『日本歌人』2021年1月号》

 『日本歌人』の一月号が届いた。拙詠12首も載せてもらえた。以下ここでもご披露させていただきたい。今日、玄関前の磯菊の葉が急速に赤に染まった。

『日本歌人』2021年01月号

> 静原に村上春樹は来たらぬか七彩(なないろ)の風ここ吹き渡る

> 雀らもひとむれ来たり下りてゆくあわだち草の下で餌を食む

> 中腹に傷痕ふえて老いてゆく比叡の山も老ゆるばかりか

> 左手に二條家跡の石碑立つあゆみ過ぐるはあと幾たびか

> 嘴は黄にて身は黒き高野川にも川鵜がゐたる

> 白鶺鴒ときには黄を見つつゆく燕の去りし日を知らぬ川

> 四ツ足の獣も拾はぬどんぐりを集めて暮らすらしき男が

> おまへたちこれより高く伸びるなと街路樹の樹々みな切られ冬


《わたしの第一の師はジル・ドゥルーズ》

瀬谷こけし

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《わたしの第一の師はジル・ドゥルーズ》

 今日になってやっと自分の仕事のまとめ方が見えてきた。郡山女子大学奉職中に「《世にも怪奇な物語》の中のトビー・ダミット」という日本語のテキストとそのフランス語版 Toby Dammit in "Histoires extraordinaires" を書いて大学の紀要に掲載してもらい、そのフランス語版の方をドゥルーズ先生にお送りしたところ「J'ai lu avec grand intérêt votre exellent texte sur Toby Dammit」というお褒めの言葉をいただいた。これは私にはとてもうれしく晴れがましいことだった。そしてそれ以上の栄誉をいまだ誰からも頂いたことがない。このお褒めの言葉に気をよくしてその日本語版をそのままで蓮見重彦氏が主宰していた『ルミエール』誌の最終号に投稿したのだが、あとがきに一寸コメントらしきものが書かれただけで雑誌には掲載されなかった。その投稿をするとき思ったのは、これにドゥルーズからの返信のコピーを着けて投稿したらまず落とされることはないはずだということだった。そうすればその通りになったことだろう。だがむしろわたしはそれをせず蓮見氏の力量を見てやろうと思ったのだった。わたしの人生はだいたいこういう失敗の連続なのだがそれはそれでいい。問題はこのドゥルーズ先生の期待や信頼に応えるような哲学的な仕事をわたしがまだ残していないということなのだ。
 それで今度大学の紀要にニーチェの哲学の最深の思考について論文を書こうと決めた。それは『ツァラトゥストラはこう言った』第四部「酔歌」(Das Nachtwandler-Lied)の読解を示すことで果たすことになる。
 ご期待いただければ幸いです。

《紅葉桧峠》

瀬谷こけし

《紅葉桧峠》

 四五日前に午後4時ごろ原付で通りかかった時ここの紅葉の色の美しさに驚いたがそのときはカメラを用意してなかったので(と言うより別の用事で出かけていたので)撮るのは日を改めることにした。といっても、そのさまを見るには非常に特別な角度から傾きかけの日が差していることが条件で、さらにそのときまだ紅葉が残っていることも条件だ。今日は本屋に行く用事があったので少なからず期待してこの道を通ったのだが、近づくと光の角度が少し違った。そしてバッグに28-85mmのズームレンズを入れていたのでそれで何枚か撮った。だがここの紅葉の撮影としては不満を感じた。そこですぐに家に戻って80-200mmのズームをもって出直した。そして短い時間だがこの峠のカエデの濃い赤の紅葉を何枚か撮ることができた。だがすぐに陽光を雲が隠した。撮影はそこまでで諦めた。
そんな写真、8枚。


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《秋の壁》

瀬谷こけし

《秋の壁》

 秋の壁と名付けてみた。そんな壁があるように思う。ヘリダーリンの「生の半ば」(Hälfte des Lebens)も秋の詩だったのではないか? それも秋の末の。"wo nehm’ ich, wenn/ Es Winter ist, die Blumen"と記していた。秋の壁を越えるのはむずかしい。

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シュトックハウゼンの「夜の音楽」---リズムにおける《一即一切》

瀬谷こけし

シュトックハウゼンの「夜の音楽」
---リズムにおける《一即一切》---


IME 直観音楽アンサンブル@摂津響Saal 
2020年10月30日

カールハインツ・シュトックハウゼンの指示による
「夜の音楽」の演奏

https://youtu.be/LLMDZ6mg-48



 カールハインツ・シュトックハウゼンの「夜の音楽」(NACHTMUSIK)は次のような演奏を指示している。


《夜の音楽》

宇宙のリズムで振動を一つ弾け
夢のリズムで振動を一つ弾け

夢のリズムで振動を一つ弾け
そしてそれをゆっくりと
宇宙のリズムに変えよ

これをでき限り何度も繰り返せ
(ウニヴェルザル出版社 14790J)


《NACHTMUSIK》

Spiele eine Schwingung im Rhythmus des Universums
Spiele eine Schwingung im Rhytumus des Traumes


Spiele eine Schwingung im Rhythmus de Traumes
und verwandle ihn langsam
in den Rhythmus de Universums

Wiederhole dieses möglichsit oft
(UE 14790)

 この曲の最も重要な点は夢のリズムをゆっくりと(langsam)宇宙のリズムに変えてゆく(verwandelnする)ところにある。それによって夢(Traum)と宇宙(Universum)の間にひとつに通路が、リズムによる通路が開かれてゆく。その通路を開いてゆくことをこの曲は命じている。

 さらに、曲はこの夢のリズムから宇宙のリズムへの変化をできる限り何度も(oft)繰り返すことを命じている。この追加される命令は、演奏者に夢のリズムから宇宙のリズムへの変化を容易なものにさせ、その両者の間の共通性を把握し、両者の間の移行のリズムの通路の明示することを容易させることに習熟させる。そして最終的には演奏を通じてその両者の一体性を把握しそれを示すことを要求している、と理解される。そうしてこの音楽は宇宙におけるリズムの一即一切の把握を命じているのである。宇宙のリズムとは「一切のものが一者にもとづけられてゐるという」(1)リズム的な事態のことであり、同時に一切のリズムを「もとづける」一者のことである。シュトックハウゼンの「夜の音楽」はこの一者の把握を音楽家に命じている。

 それでは冒頭に言われる「宇宙のリズムで振動を一つ弾け」とは何を意味しているのだろう。
(つづく)


(1)辻村公一「西洋と東洋に於ける「一即一切」の相違について」(辻村公一編『一即一切』1986年創文社、p.393)




《秋の日の高山》

瀬谷こけし
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 今日は午前中はよく晴れていたが午後からは雲が出た。朝のうちに朝市にでかけ昨日と同じ店で同じ小ナスをかった。ずいぶんとおまけをつけてくれる。その足で市内を少し歩く。鍛冶橋の手長足長を18mmの超広角レンズで撮ってみたかったから。撮ったものは狙い通りに撮れたが、足長の方を顔の位置から見下ろすように撮ってみたくなった。これには梯子が要るし交通を一時遮断する必要があるので、交通課の許可が要ることになるのでしばらくは心に秘めておく。

 夕方、小ナス漬けは美味しくなっていたが一つ二つ食べるだけにした。新鮮な野菜がたくさんあってそれで肉野菜炒めを作ったから。そして夜コンビニにパンを買いに行った帰りに面白い店を見つけた。ガラス戸のカーテンを人待ち顔に少し開けて、店じまい間近なところ。中を見ると繊維製品をいろいろと売っている店。傘まで売っている。気になったシャツがあって入ったが、中にはトマトも安く売っている。聞くと江名子のひとにおいてくれと頼まれて置いているとのこと。こういう商売の仕方に--まさにこういうところに、商業の原点をみる思いだった。高山にいればまだそういう日本の生活の原点に触れ、気づかされることがある。
 〈秋の日〉はリルケの有名な詩のひとつ(『時禱集』所収)。秋は収穫の季節であると同時に滅びの季節。あるいは滅びゆく者が稔りゆくものを祝福しながら滅び消えてゆく季節。リルケはその稔りの輪から締め出されたものの詩を歌う。…そして長い手紙を書くでしょう…と。賢治の最期の歌を知る者もあまり賢治にこだわり過ぎない方がよい。思考の偏狭化は避けなければならない。その余力があるなら。

《清野通子さんが亡くなられた》

瀬谷こけし
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 日本歌人京都歌会の仲間であり大先輩である清野通子さんが亡くなられたという報せをうけました。
 清野さんからは歌会を通じて大事なことを数知れず教えていただきました。

 清野通子さんを悼む 一句:

> 野の花ややさしく咲いて流れゆく

 清らかな生き方をされた方で心に残ります。

            合掌

《小白川蓮光寺住職系譜》

瀬谷こけし
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 現住職の顕信氏に本日お会いすることができ、その系譜を教えていただくことができた。顕信氏の父は教信という。昨年亡くなられたとのこと。教信氏の父親は幸信(俗名幸太郎)という。幸信氏の父親は甚之助というが、甚之助氏は坊主ではなく、家の再興のため歩荷をしていたという。その間寺の仕事は弟の鉄精氏にゆだねていたという。明治42年6月5日に柳田国男と話を交わしたと見えるのはこの鉄精氏だと推定される。鉄精氏は経を読めるということはなく、辛うじて阿弥陀経ぐらいは唱えることができただろうという。甚之助氏は経を読むことはまったくできなかったという。
 本日教えていただいたことの骨子は以上であるが、以下に少し参考資料を付する。

 参考資料1、柳田国男「木曽より五箇山へ」(『秋風帖』所収)
> 道の側の叢に蟇が鳴く。いわゆる谷ぐくなるものか。その声時鳥・河鹿などの類にて、節は谷水にまぎれず。
 椿原より対岸はすでに越中にて、処々に籠渡しあり。国境の境川より五六町こなた、小白川という七八戸の村あり。村に寺あり。軒に釣鐘を釣りたるほか、ただの百姓家とかわらず。住持も経を読まず。村のはずれに日本最小の小学校あり。(明治42年6月5日の条より)

 参考資料2、柳田国男「毛坊主考」(『毛坊主考』所収)
> たしか国境に近い小白川という大字であったかと思う。路傍の小家の縁に腰掛けて雨に沾(ぬ)れて侘しい弁当を食べながら、ふと薄暗い座敷の中を覗くと、この家不相応に大きな仏壇がきらりと光っている。この辺は真宗の盛んな処だと聞いたがなるほどそうだと言うと、道連れの越中の人が、おまけにこの家はお寺です、上を御覧なさいという。今まで気が附かなかったが縁側の天井にはまさしく径尺七八寸の釣鐘が釣ってある。それから住職もそこに働いていた。万筋の単物(ひとえ)か何かで雨の中をどこかへ厩肥を運んでいる。根っから愛相のない男だ。そして少しも坊主らしくない。頭には我々よりも長い毛が生えている。自分はははあこれが例の毛坊主だなと思った。しかしその想像は当たっていたかどうか、今もってわからない。

 この柳田国男の毛坊主考の論考はそれなりに有名でまた意義の大きいものであるが、冒頭近い部分の上掲の文章は、毛坊主についての柳田のリアルな経験がどのようなものであったかを語っている。彼に「住職」と呼ばれていたのは、上記の系譜の鉄精氏にまず間違いないところだろう。柳田がここで経験したことの本質は、ひとの死を送りの儀式なしに済ますことのできないひとびとのメンタリティの根にあるものは何かという問いに彼が思いもよらない仕方で出会ったということだろう。その問題をわたしも柳田の思考に密着した仕方でそしてまた飛騨という地域の本質への問いと切り離されない仕方で考えてゆきたい。


*本稿は2020年8月21日に拙FBに掲載したものです。

=== 2020年8月30日追記 =====
歩荷の仕事は実際にはどういうものであったのか。どこからどこへの荷物を運んだのか。メインは越中と飛騨の間の運搬だと思うがそれはどのような道を通ったのか。国境をなす境の川である庄川をどこでどうやって渡ったのか。その一連の疑問に答えてゆきたい。




《クナイプ式水浴療法》

瀬谷こけし

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 「クナイプ式水浴療法」(Kneippkur)というものがあるようだ。①のボードにはその療法の沿革が書かれている。ドイツ・チューリンゲン州のドルンドルフ(Dorndorf)からタウテンブルク(Tautenburg)へ丘陵を越えてゆく細道があり、4年前の8月16日に散歩がてら車道を歩いていたところ、前日知り合いになったレッヘル(Löchel)さんが車で私を見つけてくれて、ドルンドルフまで行ってその道を歩いて見ないかと誘ってくれた。彼自身はイエナに行く用事があるということだったが。道に迷ったりの危険はないか、時間はどのくらいかかるか、ということを尋ねると安全な道で、ゆっくり歩いても一時間かからない。小中学校の頃はその道を歩いて学校に通っていたと教えてくれた。それで歩いて見ることにしたのだが。時間が気になったのはわたし自身の脚力の心配のほかにその日の午後6時ごろにシャウマン先生がニーチェのベンチについて教えてくれるという提案をして下さっていて、宿の方に見えられるということだったからだ。ともかくそうしてレッヘルさんにドルンドルフのその細道の入り口まで車で連れて行ってもらい、そこから歩いたのだった。その道を少し先に数人の地元風の女性が歩いていて、ある看板①の所で左手に折れて泉のようなところで何かをしているようだった。私もそちらへいっていいかと尋ねて、OKだという返事をくれたので、わたしもそちらに行って見た。そこには日本で言えば足湯のような作りのところがあった。みなそこに足をつけたり、歩いたりしていた。わたしも靴を脱いでズボンの裾を上げて水に足を浸けたが水はとても冷たかった。そこの10m足らずの堀を端までゆっくり歩いたらその冷たさにからだがすっかり冷えるようだった。そうして上がり、それから隣に井戸汲み場があって、そこで井戸から水を汲んで洗面器のような大きな石の皿のなかに腕を浸けて冷やすのだと教えてくれたのでわたしもそうした。冷たくてとても気持ちがいい。このころはドイツでも30度を越える暑さにはなっていただろう。こういう水浴はとても心地よかった。村の女性たちもそのために来ていたのだろう。ガイドブックにはなかなか書いてない楽しみを味わうことができた。お礼を言って先にその場を離れ、タウテンブルクへの山道に向かった。

《バーゼルからトリープシェンに行ったことを》-- ニーチェ研究通信

瀬谷こけし

 わたしがバーゼルからトリープシェンに行ったことを上田閑照先生にはぜひお伝えしたかった。そしでできれば佐々木亮さんにも。どちらの先輩もわたしがニーチェの研究で仕事をなし遂げることを期待して下さっていた。
 その恩と期待に応えたい。




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