《「ドイツ語で『ツァラトゥストラ』を読み抜く会」近日発進》

瀬谷こけし

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 同志社の学生を核にした上記の会(勉強会)を4月から開始します。時間は一回3時間程度。二年間で『ツァラトゥストラはこう言った』のドイツ語版(KSA)を終わりまで読み抜くことをめざします。開催は当面月二回、土曜(もしくは日曜)に、場所は京大周辺のオープンスペース(カフェ、ラウンジなど)を予定しています。
 参加の条件は、『ツァラトゥストラ』のテキストをドイツ語で徹底的に読み抜く意志があることです。基礎としてドイツ語の初級文法を習得し終えていることが要求されます。
 日時、場所はまだ未定ですが、初回内容は第四部"Das Nachtwandler-Lied"8-12を予定しています。テキストは「Gruyter」版を使用しますが、初参加の方はネットのグーテンベルクプロジェクト提供のドイツ語テキストを用意しておいてください。
 勉強会の規模は5人程度、最大で10人程度を予定しています。参加希望者は私のところ(Gメールアドレス等)までご連絡ください。プロの研究者も歓迎します。




《羚羊すら行く道を失うところ…:ニーチェの1876年夏の詩》

瀬谷こけし

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 もう三年半という少し昔の話になるのだが、わたしがタウテンブルク(Tauntenburg、ドイツ・チューリンゲン州)にいって4泊した時、そこのある案内板に記されていた詩のことなのだ。その案内板によればニーチェは1876年夏に創ったこの詩をルー・フォン・ザロメ嬢に捧げたということなのだ。まずその詩を写真とともに紹介したい。

Sommer 1876

>Nicht mehr zurück? Und nicht hinan?
>Auch für die Gemse keine Bahn?

>So wart‘ ich hier und fasse fest,
>Was Aug‘ und Hand mich fassen lässt:

>Fünf Fuß breit Erde, Morgenroth,
>Und unter mir – Welt, Mensch und Tod.

>Meiner Lieben Lou. – Sommer 1882

 訳してみると:

1876年夏

>もはや戻れないのか? そして登ってゆくことも?
>羚羊にとってさえ進む道はないのか?

>そこでわたしはここで待ちしっかりと掴む、
>目と手がわたしに掴ませてくれるものを:

>五歩ばかりの広さの大地、朝焼け、
>そしてわたしの下には---世界、人間、そして死が。

>わたしの愛するルーに 1882年夏
(拙訳)

 この詩で興味深いのは羚羊(Gemse)を引き合いに出しているところだ。かなり知られていることだと思うが、羚羊は人間には素手ではとても不可能なほどの絶壁でも、道をみつけて登ってゆく生きものだ。ここでニーチェは絶壁の途上の小さな平にたどり着いたものの、もはや下に戻ることもできず、上に登ることもできない状態を語っている。そしてそこでこの状況を目と手でもって細心に捉え、掴むことのできるものを見出してしっかりと掴み、把握しようと心を決め実行するのである。わかる人は分かるだろう。できることは他にない。
 この詩をルーにプレゼントするとき、それはニーチェが今置かれている状況を彼女に示すということが一つにはあるだろう。たやすい安定した場所にいるわけではないのだ。だがもう一つ、この詩をルーに捧げることには、お前もこの場所に来て、羚羊ならば見出せるかもしれない道を協働で見つけ、一緒に登ってゆこうという誘いがあるだろう。伊東静雄の「冷たい場所で」をさらにひとまわり明晰にしたような詩だと言えるだろう。

 やや細かい話だが、この詩の1876年のテキストをわたしはまだ発見できていない。しかし1882年夏のノートには、この詩のタイトルと強調の有無、コロン/感嘆符の違いの点でわずかに違った詩を見出すことができる([1 = N V 9a. N VI 1a.]、I[105];KSA, Bd.10, S.35)。それを紹介しよう。

I m G e b i r g e.
>  (1876.)

>Nicht mehr zurück? Und nicht hinan?
>Auch für die Gemse keine Bahn?
> **
>So wart‘ ich hier und f a s s e fest,
>Was Aug‘ und Hand mich fassen läßt!
> **
>Fünf Fuß breit Erde, Morgenroth,
>Und u n t e r mir – Welt, Mensch und -- Tod.

 このテキストには杉田弘子の訳があるので紹介しておく(白水社版全集第II期第5巻)。

山にて(1876)

>もはやひきかえせぬ? そして登ることもできぬ?
>カモシカにも道はない?
>    **
>それでは私はここで待つ、そしてしっかりつかまえるのだ、
>目と手がわたしにとらえさせるものを!
>    **
>五尺の大地、曙の光
>私のには--世界、人間そして—死。

 この訳はどうだろう。わたしにはよく理解できない。「fassen」は「つかまえる」というより「つかむ」ではないか?




《東京小景》

瀬谷こけし

 東京はまだCOVID-19にふるえる景色ではなかった。地下鉄の吊り輪を掴むのに皮手袋をしているのはわたしだけだった。---そしてその手袋は汚れてもよいようにコートの左ポケットにしまう。---思い浮かぶのは花鎮の祭。

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《Hashimoto Shigezou's Cabin》 

瀬谷こけし

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 橋本繁藏さんの小屋はまだそのままあった。高山へ移ってからも、折敷地に小屋を維持していて、スノーモービルなどもここに置いていた。狩りに出かけるときの出発点だった。高山から出るよりも30分は早く出発できる。その奥の五味原にあったという家は2001年の時点でもう存在していなかった。ここに家があったという場所は教えてくれた。ダムができるまでの日々、五味原はなんという遊び場だっただろう。スノーモービルで走り回る格好の遊び場だった。ここから約50分ほどスノーモービルで山に入る。しかるべき場所に、そのまま帰れる形にして停めて、そこからは歩いて山に入る。
 繁藏さんが亡くなって何年になるだろう。あの二人だけで山に入った日のことがとりわけ思い出される。腹ごしらえをして目的地に向かって歩き始める。だが、一つの峠を越えたところで、お前は足が遅すぎる。スノーモービルのとことに戻って待っておけと言われた。モービルは彼がピラミッドと呼ぶ場所に停めていた。わたしは何時間か、短くても三時間はひとりで待っていなければならない。彼は目当てがあって奥へ行った。それは相当な強行軍だということは分かっていた。Tという相当腕の良い猟師を連れて行ったとき、帰路Tはもう一歩も歩けなくなって、「ここで置いていってくれ、あとで骨だけ拾いに来てくれ」と言われたことを繁藏さんは話してくれた。
 繁藏さんは奥の目当てのところに行く。だが、もしかしたら、この近くにも冬眠しているかもしれない。そう思って、モービルのところに戻る途中、近くの木の根のあたりを探して歩いた。数カ所は探した。五つ目ぐらいに探したところは太いブナの木で、そこにはむかしクマが登った爪痕がついていた。そして空洞があった。わたしは耳を澄ませた。生き物がいれば呼吸音がするはずだ。慎重に耳を澄ませたが、音はなかった。それからコンデジを取り出してストロボを発光させて穴の中を撮った。生き物は写っていなかった。
 後で4時を15分ほど過ぎたところで繁藏さんが戻ってきた。わたしが探したクマ穴を彼も点検して戻ってきたようだ。あそこに洞のあるブナがあったが、クマがいるかどうかどうやって確かめたか、と尋ねてきた。写真を撮ったが写らなかったとわたしは答えた。「いいだろう、光を当てれば何かの動きをするはずだ」と彼は言った。
 今の荒城温泉の交差点に近いところの道のわきにモービルを止めて、小屋のところに停めていた車に乗って高山の彼の家に戻った。クマ狩りに連れて行ってもらう時はいつも彼の家に寝泊まりさせてもらっていた。繁藏さんから「弟子にならないか」と言われたのはその時だった。わたしは「まだ足に自信がないから」と遠慮させてもらった。あのピラミッドの近くでわたしが独自にクマ穴を探していたこと、そして自分で火を起こして凍えないようにしていたこと、そんなことで見どころがあると思ってくれたのだろう。うれしいことだったが、わたしの脚力や体術はそうとうに力不足で、弟子としてついてゆけるようになるためにはまるまる一年間のトレーニングが必要だっただろう。その道には進まなかった。



《同志社最終授業 今出川》

瀬谷こけし

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 同志社での授業が終わった。来年度からはもうわたしの授業はない。水曜日は受け持ちが5コマ目、6コマ目なので終わると夜になる。どうやって帰るかを考えながら、構内の美しい夜景を楽しんで、出町柳まで歩いて帰ろうかとも思ったが、コーヒー豆を買っておく必要があって、それには宝ヶ池のコンビニがよいので、地下鉄で帰ることにした。ベンチで一枚だけ夜景を撮った。それから駅に向かうとあのラーメン屋が目に入り、寄って食べて帰ろうと思ったが、やはり行列なのであきらめた。そして駅の近くの壱番屋でカレーを食べて帰ることにした。これも最後だからのちょっとした贅沢。
 こともなく食事を済ませ、こともなく地下鉄で国際会館まで行き、いつものとおり宝ヶ池通りを歩いて帰った。と突然、昨日も田辺校地の帰りの駐車場で、第九の第三楽章の旋律が浮かんできたのだが、それがまた浮かんできて、その音楽の慰めに気づいていた。ベートーヴェンも終わりの近づきをひしひしと感じながらこの曲を作っていたに違いない。先週の今日(水曜日)は帰路この同じ道を歩いていると『ドイツレクイエム』(ブラームス)の「Ich will euch wiedersehen..」の曲と歌詞が浮かんできたのだった。曲中でどういう意味合いで使われていたかはまったく思い出せないが、先週のわたしの意識の中では「euch」は学生たちで、これまで教えてかかわったすべての学生たちのこと、とりわけドイツ語を教えることでかかわった学生たちだ。また会いたいと。それだけ充実した満たされた授業だったのだ。できるならば繰り返したいと思うような。
 さすがに今出川での授業はここ数年だけのことなので、田辺で教えた経験の方が重さも思い出すことも多い。今出川では、「ドイツ語応用」を担当することが多くなって、その中では素晴らしい力をもった学生いつも少なからずいた。田辺でもヘッセの『樹木』を講読して、実際の大樹を見に学生たちを木津川に連れて行ったこともあるので、そのころも「応用」の授業はもたせてもらっていたのだ。
 今日も「応用」の最終授業で、先週の期末試験の採点結果の報告と、テストの詩(ヘルダーリンの「春」1828年5月)の解説をした。今年の学生の読解力は著しく下がっている。もう少し頑張れば自力で読めるようになるだろうという学生が三十人中の数名(内一名はあとほんの少しで自力で読めるようになる)。これは間違いなく文法の授業をしなくなったためだ。文章を文法的に詰めて読むという練習がなく、その前提となる知識すらなく、思い込みで自分のファンタジーの世界を作り上げてしまうのだ。70分の試験時間に全精力を傾けて読んで、まったく原詩とは縁もゆかりもないような言葉の連なりを作り上げてしまうのだ。その無駄になった精力を救えないのか? 詩は自分の感覚でそれぞれに理解して読んだらいいという人がいるが、これは大変な誤解で、誤読はそれぞれに様々に無数にでもできるが、正しい読みはほとんどただ一つしかないのだ。詩人は、自分の詩想が誤解なく伝わるように細心に心を尽くし技を尽くして言葉を織りあげる者なのだ。詩人の施した細心の配慮を礼儀を知らぬものが土足で踏み散らすようなことは詩の読解でもなんでもない。コンマの位置一つにも細心の注意を払わなければ詩は読めない。そのためには正規の文法を踏まえておくことが欠かせない。外国語について文法規則の習得をおろそかにする教育は人文学を殺し、過去の人類の宝を殺すものでしかないだろう。そういう教育にたいしては過去の宝を尊重する教育の豊かさを実践的に示し続けてゆきたい。



《同志社田辺での最終講義が終わった》

瀬谷こけし

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 最後の数年はほとんど今出川での授業で、最後の今年だけ田辺でも一コマ授業をもたせてもらった。27年、自宅も滋賀県から京都市に変わり、通勤の経路もいろいろと変わった。最近は第二京阪の側道で行くことが多くなったが、その前は24号線を主にしていた。滋賀県のころは京滋バイパスで往き、帰りは信楽越が多かった。27年は長い。心は残る。いちど家人を連れてきて、ここで授業をしていたのだと伝えておきたい。
 今日の最終授業は、今年の田辺での授業で一番楽しい授業になった。使った材料はFerdinand von SchirachのHörspiel ≪Der Fall Collini≫(『コリーニ事件』)。ラジオドラマのようなものだ。その冒頭部分のCDを聞かせ、そのトランスクリプションを作ってその一部を空けて下線にしておいてそこを埋めよという問題だ。はじめは何もわからずため息ばかりだった学生たちが、何度も聞かせ、ヒントも与えなどしてゆくと、18カ所の空白の内10カ所以上が正しく埋まるようになっていった。そしてドラマの運びもよく掴めるようになっていった。教科書だと、[Darf ich …?] とかも[antworten]とかも学習しないので使えないし事実上学ばせることもできない。そうした悩みも今日の授業では解消することができた。学生たちもみな素晴らしかったと思う。そして彼らには、今日がわたしの最後の授業になるということは伝えなかった。明日の今出川での授業が、わたしの同志社での最後の授業になる。田辺での授業はいつも知真館だった。

《ヘルダーリンの「春」1828年5月》

瀬谷こけし

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 (現代語綴の)原文と拙訳、そして参照訳。(手塚富雄さんのヘルダーリンの翻訳には学ぶところが多い)
 誤訳等がありましたらお知らせいただければ幸いです。[wenn]と[dann]の同時性にこそこの時ヘルダーリンが掴み取った充実が示されているように思います。


 Der Frühling (Hölderlin)

Wie selig ists, zu sehn, wenn Stunden wieder tagen,
Wo sich vergnügt der Mensch umsieht in den Gefilden,
Wenn Menschen sich um das Befinden fragen,
Wenn Menschen sich zum frohen Leben bilden.

Wie sich der Himmel wölbt, und auseinander dehnet,
So ist die Freude dann an Ebnen und im Freien,
Wenn sich das Herz nach neuem Leben sehnet,
Die Vögel singen, zum Gesange schreien.

Der Mensch, der oft sein Inneres gefraget,
Spricht von dem Leben dann, aus dem die Rede gehet,
Wenn nicht der Gram an einer Seele naget,
Und froh der Mann vor seinen Gütern stehet.

Wenn eine Wohnung prangt, in hoher Luft gebauet,
So hat der Mensch das Feld geräumiger und Wege
Sind weit hinaus, daß Einer um sich schauet,
Und über einen Bach gehen wohlgebaute Stege.
 

  (拙訳)

なんという喜びだろう、人が満たされて広野を見まわる時が
ふたたび明けてくるのを見ることは。
その時人々はたがいの様子をたずね、
よろこばしい生へとたがいを形づくってゆく。

天空はアーチをつくり、のびのびと広がっている、
そのように歓びはそのとき平原にそして屋外に生まれる。
その時心(ハート)は新しい生へとあこがれ、
鳥たちはうたい、唱和をもとめて叫ぶ。

しばしばおのれの内なる問題を問うていた人間は、
そのとき生についてひとと話し、そこから話がすすむ。
その時悲嘆はたましいを齧ることなく、
そして快くおのれの築いてきた財の前に立つ。

空のなか高くに築かれた住居が光に輝くとき、
人はそのように輝く野をより広々ともち、そして幾本もの道が
遠くへ開けてゆく、---そうしておのれの周りをうち眺める者があり、
小川の上には立派につくられた橋が何本もとおっている。


===(参考)==========
手塚富雄訳(『ヘルダーリン全集』河出書房新社、S.47,第4版)

 

なんという喜びだろう、人が楽しさを湛えて
広野を見まわす季節の来たことを見るのは。
そのとき人々はたがいの身についてたずねあい
よろこばしい生へといそしむのだ。

天空がひろやかな穹窿をつくるときには
野に 戸外に 喜びはうまれる、
心があたらしい生をあこがれ
鳥がうたい、うたいながら叫ぶときには。

いくどかおのれの心に問いをかけてきた者も、
生について語りはじめ ことばは湧くのだ、
憂苦が心を噛まず、おのれの土地の前に
かれがよろこばしく立つときは。

ひとつの家が空高く築かれてかがやくとき、
人に野はひろがり 道は
遠く走って あたりを眺めやるひとりの者がある、
そして小川にはよくつくられた橋がかかっている。


ヘルダーリン全集〈第2〉詩 (1967年)
ヘルダーリン全集〈第2〉詩 (1967年)

《大原へ》

瀬谷こけし

《大原へ その一》
 大原に行った。いつものようにまずは「里の駅」に玉子や野菜を買うために。「里の駅」では品物の配列法を変更していて、これでは人が多い時には奥にとても入りにくくなるので、またすぐに変更することになると予想する。そして買い物をバイクの後ろのケースに入れて、それからカメラバックだけをもって近くを歩く。あるけばおのずから撮りたい「景」が見えてくる。見えてきたものが撮れるかどうかはまた別問題だが。今日はSonyのNEX-7というAPS-Cサイズのカメラを持って行った。35mmフルサイズだと、デジタルカメラのメリット(小型化)が減ってしまうと思って、つい最近までフルサイズのカメラを一台も持たなかったのだが、ミラーレス一眼の時代になると、それによって新しくできるようになったことを確かめたくなる。まず第一に喜ばしいのは、昔のフィルムカメラに使っていたレンズが、アダプターを介して使えるようになったことだ。それによって随分表現の幅が広がるというか、映像の美学のニュアンスが大いに豊かになった。それで今日持って行ったのは、昔コンタックスに使っていたゾナー2,8/135mmのレンズ。これがだいたい昔の200mmレンズに相当し、また近接撮影もかなり有利になる。
 もうひとつ、前回α7Rを持って行った時は、1/8000秒までの高速シャッターが使えたが、NEX-7だとそれが1/4000までだ。それで今回はこの1/4000秒写真術を試してみることにした(1/8000秒で撮った前回は、色の出に不自然を感じるところがあったのだ)。それで撮った写真、まず10枚。結果は上々。

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《大原へ そのニ》
 道具も状況も前と同じ。言い忘れたのは、18-55mmの標準ズームも使っているということ。調べればどれがどちらのレンズで撮ったかはすぐわかる。続いて後半10枚。時々陽光が漏れ差すようになった。

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《机の上雑景》

瀬谷こけし

 7年前ほどにできた中古のカメラを手に入れた。そのテスト撮影をしていたのだが、そこに写るわたしの机の上(onとover)の景色は雑景と呼ぶほかはない。しかし見ていると、これらものものがないとわたしの生活は成り立って行かない。必要不可欠なものたちが写っている。7年前のカメラだからもう部品も切れようとしているところだろう。写真やカメラというものの7年前の水準にわたしの理解がやっと達したということだ。すさまじく変わった。すさまじく高水準になった。このメカニズムがあればこそ撮れるあるシーンを撮りたいと思ったのだ。考えて見れば今まで常用していたカメラにもその装備は(例えば1/8000秒のシャッター)ついてはいたのだ。だがその瞬息によってしか、その瞬息の切っ先においてしかとらえられないシーンをいままでわたしは撮ろうと思ったことがなかったのだ。ことしはきっとわたしの写真生活にも新しい世界が始まる。


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《流れ Stroeme:『ツァラトゥストラ』第四部を読む》

瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラはこう言った』第四部19「酔歌」-4に次の言葉がある。氷上英廣訳で「もうわたしは死んだのだ。終わったのだ。…[中略]…ああ! ああ! 露がおりる。時が来た--- (Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt—)」と言われているところにすぐ続くところである。

>  —die Stunde, wo mich fröstelt und friert, die fragt und fragt und
 fragt: „wer hat Herz genug dazu?
   —wer soll der Erde Herr sein? Wer will sagen: s o sollt ihr laufen,
 ihr grossen und kleinen Ströme!“

試みに訳しておくと、
> ---わたしを凍えさせ氷らせる時が来た。時は問い、問い、さらに問う:「だれがそれに十分な心を持っているか? と。
  ---だれが大地の主であるべきか? だれが、おまえたちは そ う 走るべきだ、お前たち大小の流れたちは! と言おうと欲するだろう?」と。

 「流れ」(Ströme)が問題であり、大小の流れがどう「走る」(laufen)かが問題である。ここで「走る」については第三部2「幻影と謎」-2の中の「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?」(氷上訳)(Muss nicht, was laufen kann von allen Dingen, schon einmal diese Gasse gelaufen sein?) の「laufen」(走る)を思い起こすべきである。「走る」とは時間の中を走ることであり、生成するということを意味する。またここで「Ströme」(流れ)においては、ヘルダーリンの「... Wenn nemlich über Menschen/ Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig/ Die Monde gehn, so redet/ Das Meer auch und Ströme müsssen/ Den Pfad sich suchen. ..」(MNEMOSYNE、 Zweite Fassung)の詩句を思い出すべきではないだろうか? ヘルダーリンは(天上で熾烈な争いがおこる危機的な状態で)数々の「流れ」がそれぞれ自らのための道を探さねばならない必然を語っていた。ニーチェは、瞬後に真夜中が訪れる危機の瞬間に、何者かが大地の主として流れにこう走れと命ずる事態を思考している。その命ずる者、大地の主はだれか? それは一神教の神ではなく、流れを構成する多元的な要素の意志であり、多元的なすべての意志の名前であるディオニュソスであるというべきである。ということはここでニーチェが言おうとしていることは、ヘルダーリンの歌う、溢れた流れがみずからここを走ろうとして見出す流路(Pfad)を走りゆくことと違うことではない。流れみずからが大地の主になって、みずからはこう流れるべきだと決定してゆくのである。選ばれた流路が、意志され、肯定された流路になるのである。そのように、意志され、肯定された流路になることこそが唯一重要なことだとニーチェは語っている。



《静原晩秋の草地》

瀬谷こけし

 12月20日、 大原里の駅での買い物をしたあと静原によった。バイクで行ったが、この日は装備をしっかりして行ったので寒いことはなかった。静原ではたいていK字路のところでひとやすみする。ベンチがあり、自販機がある。たいてい自販機で何かを買って、そこのベンチで飲みながら休憩する。静原がこんなに気に入ってしまったのは、「七彩の風」に行ってからだ。もちろん普段は「七彩の風」まで行かないし、その奥にも行かない。だが一度訪ねたことで、村の生活の形が少し見え、そして土地の生産的な力に立脚した生業の形が見えてきたからだ。例えばK字路の近くにもビニールハウスがあって、三色スミレなどの鑑賞用の花を育て、それを出荷して経済を成り立たせている。「労働はひとを自由にする」という思想は誤用さえされなければ深い真実を捉えているだろう。

 一枚目の写真は、そこのベンチからいちばん正面に見える植物だ。それをちょっと近づいて撮った。そしてそこの小川の隣の草の道を奥の方へ少し入って行った。10mか20mか、そんなところだ。そして何枚か撮っているうちに、この景色の中のエッセンスが見えるようになってきた。サヌカイトのような楽器をいじっていていい音が出るポイントが分かって来るのと同じ感じだ。そこからの撮影は悦楽としか言いようがない。次から次に美が見えてくるのだ。レンズはキャノンEF135㎜一本だけ。このレンズが驚くべき合焦の点々を捉えてくれる。息をつかさぬような映像の連続。撮影の醍醐味を味わう時間だった。
 
 クライマックスの一定の持続の後にはアンチクライマックスのものの見え方になってくる。そこにある葉や花が、ひとつずつ、隣接するものたちの中でおのれを語りながら見えてくる。この風土の中で、この風土を形成しながら、それぞれ生命の時をもっている。


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《小さな耳と繊細な耳 『ツァラトゥストラ』を読む》

瀬谷こけし

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 ニーチェの思考の中の「小さな耳」については、ドゥルーズが取り上げたこともあったからなのか、かなり知られている。それは『ディオニュソス頌歌』(Dionysos-Dithyramben) のなかの「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne) の
 

 Sei klug, Ariadne!...
 Du hast kleine Ohren, du hast meine Ohren:
 steck ein kluges Wort hinein! –


に言われていることだ。ここを簡単に訳しておくと「賢くなれ、アリアドネ! /お前は小さい耳をもっている。おまえはわたしの耳をもっているのだ。/賢い言葉をひとつその耳の中に入れておけ!」というところだ。
 しかし『ツァラトゥストラはこう言った』第四部の「酔歌」(Das Nachtwandler-Lied) 4にはそれと少し違った、しかしより深い言葉が見いだせる。そこをまず氷上英廣訳で紹介しておく。
 

> ---時は近づいた。おお、人間よ、「ましな人間」よ、しかと聞け! このことばは良い耳のためのもの、あなたの耳のためのものだ、---深い真夜中は何を語るか?(岩波文庫)。
  
ツァラトゥストラは良い耳のもちぬしであろうと想定される「ましな人間」たちのひとりひとりに対して、深い真夜中が語ることをしっかりと聞けと命じているのである。だがここのところ原典はこうである。
 

 --- die Stunde naht: oh Mensch, du höherer Mensch, gieb Acht! Diese Rede ist für feine Ohren, für deine Ohren --- was spricht die tiefe Mitternacht?  (KSA, Bd. 4)
 

 拙訳を示しておくと、
 

> ---時が近づいている。おお、人間よ、お前ましな人間よ、注意して聴け! この語りは繊細な耳のためのもの、お前の耳のためのものだ、--- 深い真夜中は何を語る?
 

ここで「深い真夜中の語ること」(was die tiefe Mitternacht spricht)と「このことば」(diese Rede)(拙訳では「この語り」)は同一のことを指していると考えられる。真夜中が何かを語る、何事かを語る。そしてそれをツァラトゥストラは、その響きの通り、ましな人間たちに語る。ましな人間は自分の耳で真夜中の語ることを聞き得るのか? ただ繊細な耳(feine Ohren)だけが、真夜中の語りを聴き取りうるのだ。ツァラトゥストラのように。そんな耳をましな人間たちは備えているのだろうか? アリアドネのもつ「小さな耳」(kleine Ohren)はディオニュソスの耳であると言われている。また聴くべきものもいくらかは違う。『ツァラトゥストラ』において問題なのはまさしく真夜中そのものが語ることなのだ。それは秘密に満ち、危険に満ち、そして暖かさに満ちている。その真夜中がする語りは、永遠回帰の思想のもっとも深い選別の働く場所でもある。つまり、聴き取れない耳は、暗い(昏い)ところにとどめ置かれる。最大の危険もここにある。それゆえにこそ「注意をはらえ!(gieb Acht!)」、と言われている。それは「用心せよ」でもあるのだ。







《西垣正信クリスマスリサイタルに行ってきた》

瀬谷こけし

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 彼の音楽、彼の演奏については、その精細な技をはじめ、調べれば数々の賞讃が適切になされていることと思う。音の出し方の多彩さについても驚くばかりのものを示してくれた。ギター一台でオーケストラに匹敵する音響空間を作り上げようとするのだから、当然多くの超人技が要求されるだろう。『ラプソディ・イン・ブルー』の演奏など、まさにそういうものだったのだ。 だが私が驚き、またこころに残ったのはまたもうひとつ違ったことだったのだ。朗読の合間に二曲目に引いた曲、彼がスカルラッティ(ドメニコ)を弾くとは思っていなかった。私の記憶に間違いなければK.491のニ長調の曲。彼はスカルラッティのこの曲から、わたしの思いもしないものを引き出していたのだ。それは誤解を恐れずに言うならば暗さ。スカルラッティにわたしは天上に抜けてゆく狂気を感じることはしばしばだが、彼の曲に内的な暗さを感じることは全くなかったのだ。だがこの曲の後半から西垣さんは底知れぬ暗さを引き出して見せたのだ。こんなことはスカルラッティの演奏史上にないことではなかっただろうか? この演奏にわたしは西垣さんが本物の音楽家であることをはっきりと聴き取ったのだった。媚びない、迎合しない。純粋な音楽への献身だけで演奏する演奏家。どれだけ稀になったことか。
 演奏曲目にラインハルトの「雲」があった。そこで今日の夕空の写真と、会場の京都文化博物館別館ホールの写真。

《上田閑照先生が亡くなったと知った》

瀬谷こけし

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 去年宇治市のゆうゆうの里にお訪ねしたのはブログを見れば12月13日のことだったようだ。その時は以前と変わらぬほどにご健勝で、まだまだ何年もご指導をいただけるものと感じ、喜びまた大いに頼もしく感じていたのだった。その時は持参した日本宗教学会の発表紀要をとても喜んで読んでくださっていた。だからかわらずにお元気なことと思っていた。わたしは今年も日本宗教学会で発表をし、それはわたしなりに大いに自負のあるもので、それだけに先生のご批判を仰ぎたかった。その発表紀要の校正稿が届き、時間の取れる時が来たらお見せしに伺いたいと思っていた。そして今日ようやく時間ができて、伺いたく、ゆうゆうの里の方にご連絡した。---そこではじめて先生のご逝去を知らされた。
 さびしさに言葉もない。

  拙吟

  朗らかな磯菊ばかりまゐらせむ


 墓は、相国寺の西谷啓治先生の墓のおそばだときいた。

《上高野から国際会館駅へ》

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 ギャラリー高倉通に「五人展」を見にゆくためにまず国際会館前まで歩く。その道筋。一枚目は稲を稲架干しいていた田の今の風景。藁を敷いて、霜よけというより、来年度の土づくりの準備をしているのだろうか。いずれ藁を土に鋤きこむことによって。「土づくり半作」という言葉を思い出した。もう秋も晩秋、来年の準備に向かっているのだ。二枚目以下は晩秋の風景。

《山茶花を探して 一乗寺葉山》

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 数日前に原付での買い物帰りに見かけた垣根に咲いていた白山茶花がなかなか新鮮で、後日また探しに来ようと思っていた。木曜になって少しひまになったので探しに行ったがどこだったかよくわからない。結局見つからなかった。金曜には葉山(一乗寺)の方に行ったが、そこは先日も通っていないので、前に見た山茶花を探したわけではなく、ただこのあたりにも咲いていないかと思って行ったのだった。林丘寺に縁のある静かな一画だ。原付を停めてさがす。このあたりは気配も京都の町中とは違い、閑雅さが残っているが暗さもある。---小ぶりなサザンカらしきものの花が咲いていた。普通の椿と較べれば半分ほどの大きさか。これなら、場所柄も含めて姫椿とよぶにふさわしいのではないだろうか? 近くに何かの赤い実もあったので写真に写してきた。(レンズはOMマクロ・ズイコー50mm 3,5)
 ―――この白い花の木、どうやら茶の木だったようだ。

《清水寺に行ってきた》

瀬谷こけし
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 阿弖流為・母禮の碑の法要に清水寺に行ってきた。晴天。今年は25周年ということで鬼剣舞の奉納もなされた。剣舞の剣は振り下ろすことなくひたすら防衛の形。全力を挙げた専守防衛の精神だ。ひょっとこの踊も面白く深い。そして心静かな森美和子の笛の奉納。僧侶の読経、等々。秋のとてもよい一日だった。
 
 拙詠:
> 蛮族の狩出の声の精妙に読経の声の和するや否や

 インドネシアの話だったと思うが、小泉文夫は、集団で狩猟に出るとき、事前に歌わせ、上げる歌声に精妙な和があるかどうかを聴き取って狩の成否を判断し、出る出ないを決めるということを語っていた。読経の成否も同じようなところがあるだろう。
 他に驚いたのは、清水寺の本堂工事の足場が、パイプではなく、木で組まれているということだった。これも良日のこと。

《秋を表現するためには》

瀬谷こけし

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 秋を表現するためには紅葉した木や木の葉を見せるのが一番手っ取り早い。というよりも、これはそもそも木の葉の紅葉によって秋を感じる人が多いということなのだろうか? わたしはむしろちょっとした光の変容によって秋を感じることが多いのだが。一枚目の写真が、わたしにはたっぷりと秋を感じさせてくれる。
 とはいえひとに秋を感じさせるには、やはり木の葉の紅葉が一番なのだろう。---いやいや、これは多分違う。木の葉の紅葉が感じさせるのは、秋ではなく、あくまで木の葉の紅葉なのだ。そこのところを騙されそうになってしまう。秋はもっと巨大なものなのだ。歳の、冬に近づく巨大な歩みなのだ。