内山節の『「里」という思想』 --- われわれも模索しよう ---

瀬谷こけし
 評判の本である。哲学的エッセイ集と言えるのかもしれない。今がどういう時代なのかということを、わが国において、多少とも「里」の生活に近いところに身を置いて、認識してゆこうとというという思索の束である。すべての節が大体二ページちょっとの長さなので、読みやすいともいえるが、わたしはむしろまた物足りないと感じる。とはいえエッセイが一つ一つ新鮮だ。だが同時に、著者が結局は里人でなく、知識人であることの宙ぶらりんな位置はいやおうなく目に入る。だが今の時代、多くの日本人はこれと似た宙ぶらりんな位置に置かれているのではないか。そういうこともおのずから考えさせる本である。だから今の時代に広く受け入れられるのかもしれない。とすればそれも悪いことではない。きわめて現代的なところに立っていることになるのだから。
 もうひとつ苦情を言っておこう。実際われわれは国家に属し、国家によって動かされしばしば蹂躙されている。一方に自然があり、里と里山があり、伝統的生活がある。そして他方にはますますグローバル化してゆく世界の経済システムがある。その二つを対比させて現代の自分の位置を確かめてゆくことは必要なことだ。この本がやっているように、である。だがその思考も考察も、われわれがいやおうなく置かれているこの国家というものを勘定に入れないと、どうも空想的な話に見えてしまうのだ。この本からも、日本の国や日本の伝統は見えてきても、なかなか日本の国家の姿は見えてこないのである。
 だからわたしは同時にベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を奨めておく。「国民とは想像されたものである」というアンダーソンの洞察を、ともかく身体にたたき込ませておかなければならないとわたしは思う。それによってはじめてこの国家と国民を破ってゆく思考、内側から破ってゆく思考が鍛えられるのだ。だからここで同時に赤坂憲雄の『東北学』(東北芸術工科大学)の仕事を紹介しておく。「いくつもの日本」を語る彼の仕事は、ともかくも、この国民という想像の共同体を内側から破ってゆこうとする試みなのであるから。
 それで内山節である。内山が語る「里」の思想には未来の、そして本来の人の生き方として納得させるものがある。たとえば内山はこう語る。「人間には、自分の人生に対する了解の仕方がある。いわば了解できる人生を手にしているという感覚が、豊かさを感じさせるのである」と。重要な指摘だと思う。とてもなめらから言葉で語られているのだが。そしてこの指摘はこうつながってゆく。「ところが、その了解の感覚は風土によって異なる。だから、自分の暮らす風土が育んだ感覚と一致しない基準では、私たちは何となく豊かさを了解できない。そのことが、豊かに暮らしているはずなのに、何となく豊かさを感じとれないという、今日の私たちの状態を生みだした」と。「風土が育んだ感覚」というものも、多分、「国民」という「想像の共同体」を破るために使えるのだ。内山もまたしなやかな言葉を使って、自らの碇を着地させるリアルな地盤を探しているのだ。民族共同体のようなものではなく。われわれは徹底したリアリストにならなければならない。

(本稿は、『「知」への案内』京都造形芸術大学補助教材、2007年4月1日発行、に収められた「内山節『「里」という思想』」を、ブログ向きに書き直したものです。)




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