岡本太郎はほんものである (1)

瀬谷こけし
わたしは岡本太郎は「ほんもの」だと思っている。ほんものの鑑識眼を備えた人物、ほんものの趣味をもち、ほんものの見極めのできる人物のことだ。
わたしが彼を本物だと思うのは、二つの点に感心するからである。ひとつは『沖縄文化論』の中の八重山の歌について彼が語るエピソードによってである。もうひとつは東北文化についての洞察にかかわることだが。まずは沖縄文化にかかわる洞察のことから。

あるとき太郎は、石垣島の音楽を、島を代表する大浜津呂氏の歌と音曲によって聴いていた。だが聴いているうちに、ある違和感を感じたというのだ。


>三線をかまえて、眼を半ばとじると、浅黒い謹厳な顔は古典的な匂いをただよわせる。渋くとおる声。
>聴きいっているうちに私は、やがて耳にしている曲が、ふしぎに、二重にずれて響いてくるのに気がついた。多くの人がそうであるように、はじめ私もあるエキゾチックな蛇皮線の、情熱をかきたてる伴奏にひかれ、それが民謡の哀調と情感を支えているように思っていたのだが。
>歌う声はそれだけで純粋に流れている。執拗にまつわって、繰り返される三線の音。まったく、まつわりついているという感じ、媚びているようでさえある。歌と三線とは質的に違うのだ。私はようやく、やりきれなくなってきた。
(「沖縄文化論」『岡本太郎の本3 神秘日本』みすず書房、1999年、p.244)


わたしが感心するのは、ここに違和感を感じる太郎の耳、美的な、鍛えられた感性にである。石垣島の音楽の最高のものを、全身全霊を投げ入れて聴いていたに違いない。そうでなければ、そういうことは感じられなかったであろう。
太郎は、この島を代表する民謡の師匠の三線の音に違和感を感じたのである。そこに何か媚びるものがある。ひとに聴かせるための仕掛け、美しくまた、「聴かせる」ものであるが、しかしそれゆえに歌音楽を不純なものにしてしまう何かを聞き取ったのである。
太郎は大浜師匠に三線なしでやってもらえないか、と注文したのである。
だが師匠はなぜかそれを渋る。
太郎はしかし執拗にその要求を突きつけ、譲らない。
ついに師匠は事情を説明する。これは「ほんとうは男女のかけあいでやるものだ」という。そして明日また出直してくると約束する。

わたしはこの太郎の執拗な追求にも感心するのである。それは自分の(感性的な)判断への絶対的な信頼であるとともに、相手への信頼でもあり、そしてまた八重山の音楽文化への信頼でもあるのだ。八重山の歌にもほんもののものがあるはずだ、という信頼である。あるいは尊敬である。
そこにはいのちの表出としてのほんものの音楽があるはずだ、という確信である。

果たして翌日の晩、中年の女性、男性、二人ずつを伴ってやってくる。そして、その歌本来の、歌だけの歌、三線の伴奏を伴わない歌を聴かせてもらう。


>それは時には男声のモノローグであり、時には女性とのかけあいで歌われる。甲高い女の絶叫。異様に緩慢なリズムで、切々と流れてゆく。それをうける男の方は、渋く、この上すがれることはないだろうと思われる、ほとんど呻き声になってしまう寸前のような、さびきった音声だ。
(p.245)


わたしは想像するのだが、伴奏なく歌われる歌は、ほんとうのやり取りになるのだ。ほんとうの思いのやり取り、いのちのやり取りに。逃げ所がなくなってしまう。逃げるべき第三者のような場所がなくなってしまうのだ。
歌のやり取りは、真剣勝負になってしまう。

太郎は、そのほんとうのやり取りを聴いたのだろう。『沖縄文化論』の自信、この沖縄の文化のほんとうのものを捕えているという自信は、おそらくこの八重山でのやりとりによって得られたものだ。それ以外では有りえないぎりぎりのいのちの表現としての歌、音楽、芸術、文化という沖縄文化の把握は。

わたしはおそらく岡本太郎が八重山で聴いた音曲と同じものをひとつだけ上げることができる。それは大浜安伴、大浜みねの歌う「とぅばらーま」の歌でだ(CD《南海の音楽/八重山・宮古》KICH2026)。

歌詞カードから歌詞を紹介しておく(小島美子監修)。
>1.紺染(くんずみ)や藍(あし)しどぅ染(す)みる
   チィンダサーヨー チィンダサー
   かぬしゃーとう ばんとぅや
   肝(きいむ)しどぅ ばんとぅや
   サーチィンダサーヨー
   ンゾーシーヌー カヌシャーマーヨー
>2.染(す)みてぃ染(す)みらば 花(はな)ぬ紺染(くんずみ)
   チィンダサーヨー マクトゥー
   浅染(あさずみ)や許(ゆる)し給(たぼ)り
   サーマクトゥニー
   ンゾーシーヌー トゥバラーマヨー
>3.川(かーら)ぬ水(みじい)や海(うみ)にどぅ溜(たま)る
   チィンダサーヨー チィンダサー
   ばんが思(うむ)いや うらにどぅ溜(たま)る
   サーマクトゥニー
   ンゾーシーヌー カヌシャーマーヨー

1、3が男歌、2が女歌である。島ことばの歌詞がよく理解できるというわけではないが、紺染や水の溜まることを比喩にして思いを直に相手にぶつけているものとみえる。

この録音物の音楽(この「とぅばらーま」の歌)に対して、これに対してすら、三線の音が邪魔だと感じる感性、それはやはり途方もない。岡本太郎は八重山で民謡を「私は全身に創造に似た緊張をしいながら」聴いたと語っている。

>だからそれ(八重山の文学)は、やはり歌わなければならない。歌われたとたんに、本来の感動が、直接、異様な鋭さで訴えてくるのだ。その鋭さはまた、それがほんとうに歌われる場所において歌われてこそ、音楽というカテゴリー、鑑賞というモメントを乗りこえて、絶対化するであろう。
(p.243)

太郎は歌のなかに「絶対的なもの」を聴き取ったのである。

録音物として、ひとに聴かせる音楽としての音楽以上のものをここに聞き取ろうとする耳に対してしか、それ(上掲のCDの「とぅばらーま」)もその究極の秘密を明かしてはくれないであろう。なまのなまなましいものを。なまのなまなましいものに焦がれる耳に対してしか。
このCDの演奏は、それほどに素晴らしいものだ。おそらく、太郎が石垣島で初日に聴いた音楽よりも、このCDの歌は素晴らしいだろう。三線の音には「過度」なところがなく、歌のこころに「まつわりつく」ような動きはまったくない。しかし、にもかかわらず、この先のところに、ほんとうのいのちの対決としての歌はあるはずだ。いのちのやり取りとしての歌は、確かにこの先のところに存在しているだろう。それは、たとえば動物を仕留めることとそう違わないことのはずだ。




沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)
中央公論社
岡本 太郎


amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

ナイス ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック