パスカル『パンセ』(中公クラシックス、他)

瀬谷こけし
「クレオパトラの鼻がもしもっと低かったら……」、「人間は考える葦である」、そんなパスカルの箴言に今の若い人たちは触れたことがないのかもしれない。パスカルの名は現今ではむしろ「ヘクトパスカル」という気圧単位としてひとに一番知られているかもしれない。ブレーズ・パスカルは真空の発見者でもあった。だがまずは『パンセ』の中から次の断章を紹介したい。

なぜ君は喜んで私を殺そうとするのだ。私は武器など何も持ってはいないのに---。おや、君は川の向こう側の住人ではないというのか。君がこちらの側に住んでいるなら、私は人殺しということになるであろう。こんなふうに君を殺すのは確かに不正だ。だが友よ、君は現に川の向こう側に住んでいるではないか。だから私は勇敢であるし、君を殺すことは正義なのだ。(西村浩太郎訳、L.51/B.293)

 ここに何か痛ましいものが感じられないだろうか? 一歩立ちどまって考えてほしい。
 この断章は人間の日常生活の空虚を一気に覗かせてくれる。日常生活そのものが、どのような危うさの上に載って営まれているかということをだ。パスカルの文章はとても美しい。そして立派だ。きたなさが微塵もない。そして心につきささる。日本語に直すことはとても難しいのだが、上手に翻訳されれば、われわれにいつまでも思索を促すものになる。
 パスカルは人に語るべく『パンセ』を書いた。事柄そのものを明らかにする、ということ以上のことをしているのだ。「クレオパトラの鼻」の断章を見てみよう。

 クレオパトラの鼻、それがもっと低かったなら、地上の全表面が変っていたことであろう。(同前、413/162)

 これは愛の原因と、その結果を考えてみろということだ。そして愛の原因は、「何かわからないもの」、些細なものなのだ。その結果は、時に地球の全表面を変えてしまう。些細なことで、どうしようもなく左右されてしまうわれわれの人生。だがともあれ、地上の深層や本質までが変るわけではないというのだ。この「全表面」という言い方が心憎い。

しかしパスカルは多分「メモリアル」(L.913)と言われる手稿をもっぱら自分のために書いている。彼は1654年11月23日月曜日に「火」を体験した。彼の経験した神体験である。彼は無上の確信を与えられた。そして親愛の情につつまれ、喜びと平和で満たされた。イエス・キリストにとっての神が彼に理解され、それが彼の神になった。
 ジョージ・ブッシュ米国前大統領の「十字軍」発言とその行動をみて、多くの日本人にとってキリスト教は野蛮と同一視されるようになったのではないか? だがパスカルのキリスト教はきわめて謙虚で、真摯なものだ。尊大なところは、ない。パスカルの『パンセ』はキリスト教を学ぶためにも最良の本の一つであるとわたしは信じる。

(参考書として、西村浩太郎『パンセ---パスカルに倣いて1/2』信山社を上げておく)


(『改訂版<知>への案内』、京都造形芸樹t大学通信教育部補助教材、より。一部改変)






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