【大津波】 こんなアングルに気づいてしまった 銀閣寺・銀沙灘

瀬谷こけし
 長いこと銀沙灘を見ていた。昔からいつもこんな風に見ている。銀閣寺に来るのはほんとに久しぶりのことなのだが。

  鳳凰の飛翔思はば明るむあかり 砂の心の

俳句とも短歌ともつかないこんな拙作。字足らずの短歌のつもりではあるが。砂は自らは動けない。そのすなのこころを、銀閣(観音殿)の屋根の上の鳳凰は語ってくれている。代弁してくれている。そんな見方を、ある時、得ることが出来た。それがこの庭園に対するわたしの見方になった。まだ京大俳句会(第三次)が健全だったころのことだ。この思いを中島博さんにそれとなく語った。「砂は自分では動けないけど」というのが中島さんの答だった。洞察の深い答だと感心したものだった。

 今日も銀沙灘を見ていて、結局この句の趣に行き着いた。自分自身が砂の心をわが心とするまで、長く時間はかかる。方丈の縁側に腰掛けて、ずっと、ずっと見ている。砂の心になるためには、人間をやめなければならない。人間をやめてからも、ずっと、ずっと、長い時間がかかる。そして鳳凰を見ている。
 この鳳凰の姿がすばらしい。今まさに飛び発とうという姿。その姿のまま、屋根の上に止っている。危ういバランスだ。飛びたとうとする姿のまま鋳止められてしまったもの。ああ、何という悲劇がここにあるのだろう。わたしは多分岡本太郎とは違った思想で銀閣寺の庭園を読み解くことができる。

 学生時代に銀閣寺に寄せていた思いを語れば、さらに更に長くなる。その日々の、銀閣への激しい思いを語った詩を纏めて「詩的断片」として応募したことがある。『京都大学学園新聞』なるものに。タイトルはキルケゴールの『哲学的断片』をまねたものだ。第二席になった。第一席は小玉知史君。篠原資明君が三席だったはずだ。小玉君の詩は今でも大好きだ。物言わぬ天空の中に人間の精神がしっかりと対峙していた。

 それはよい。葬っておけばよいことだ。問題は今日発見してしまったアングルのことだ。言ってしまおう。数十cmほどの高さの銀沙灘。それは西湖を象ったものだ、などと言われる。上に施される直線的な形も、波紋や波を象ったものだ。それはそれでいい。問題はその下のところ。そこにも波が象られている。地面の高さからすれば、これが普通の波だ。普通目にする波だ。とすると銀沙灘は何になるのか? 嗚呼。

 それは、もしこんなものをひとが目にすることがあったとしたら、絶望的なものなのではないだろうか。こんなアングルがここに隠されていた。銀沙灘のこの厚みに。そのものの名をわたしは言わない。しかし写真から十分に感じてもらえるだろう。きわめて辛い何かがここにはある。ヘルダーリンが、"Die Mauern stehen"(壁が立ち周ぐる)と嘆き歌ったことと共通するかもしれない。銀沙灘も波なのだ。高く、厚く、聳えながら迫って来る。

 このアングルから出発して、視座を上げてゆくと、最後には向月台(円錐台の砂山)がまっすぐに見えてくる情景が現れる。こうなれば美しい景色だ。アングルの旅もここで終わりにする。


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