芭蕉の神田川 (「風流の初」 系一)

瀬谷こけし
先にわたしは少なからぬ曖昧なことを書いてしまった。「神田上水掘削ないしは浚渫工事においても…」と。何分きちんとした資料調査をしているわけではないので、その時点ではまだ明確なことを言うわけにはいかなかったからだ。ここでは多少その問題を整理しておきたい。芭蕉が神田上水(小石川上水)とどう関ったか? 考察の出発点となるのは『本朝文選』「作者列伝」の中の芭蕉についての許六の記述だろう。

>嘗て世に功を遺さんがため、武の小石川の水道を修め、四年にして成る。速やかに功を捨てて深川芭蕉庵に入りて出家す。歳三十七。(1)

この記述の中の「四年」というのが延宝五年から八年までのことだというのは諸説の一致するところである。では「水道を修め」るとはどういうことなのだろうか? それは上水の掘削などをともなう大きな土木工事なのか、それとも村の人々が毎年総出で行う浚渫工事のようなことなのか? こういう疑問が生れそうである。さしあたり、「水道を修め、四年にして成る」という言い方は、わたしにはかなりの大工事のことであるように思えるのである。しかしこの点ではどうやら説が分かれているようである。

この問題に関して、今わたしの手元にあるのは二冊の本である。

・光田和伸、『芭蕉めざめる』、2008年、青草書房
・田中善信、『芭蕉二つの顔』、2008年、講談社学術文庫(単行本は2002年刊)

光田は次のように語る。

> 上水道の工事は、作業としては河川の流路を変えることと同一だから、玉川上水の開発工事には、経験を積んでいる伊奈家の当主が、奉行に就任している。神田上水の修復工事も事実上の総監督は伊奈家だっただろう。それなら芭蕉がその工事の監督の仕事を務めたことに不思議はない。…中略…伊奈家の表家業である土木工事の監督を任されるということは、芭蕉にとっては日の当たる所へ出られる、晴れがましい抜擢だったはずだ。(p.76)

 光田説は、相当大規模な土木工事だという理解である。だがそれに対し、田中は「神田上水関係の資料には、当時四年にもわたる大掛かりな修復作業があったことをうかがわせる記事はない」と語る(p.121)。わたしはここで田中が言っている「神田上水関係の資料」がどのくらい精緻なものであるかを知らず、また田中自身もそれを提示していないので、この主張の真偽については保留するしかないが、ともあれ上掲書で田中が情熱をもって説明しているのは桃青の名が出る延宝八年六月の江戸の町触れである。それは次のものだ。

>一、明後十三日、神田上水道水上総払いこれ有り候間、相対致し候町々は、桃青方へきつと申し渡さるべく候。桃青相対これ無き町々の月(がち)行事、明十二日早天に杭木・かけや上水迄持参致し、丁場請け取り申さるべく候。勿論十三日は水きれ申し候間、水道取り候町々は、さように相心得相触れらるべく候。もし雨降り候はば総払い相延べ候間、さように相心得申さるべく候。以上六月十一日   町年寄三人(p.122)

 田中が大変丁寧に説明してくれるのはこの「神田上水道水上総払い」とは何か、ということである。田中によれば「総払い」とは後に「総浚い」と言われるようになるが、浚渫作業のことである、という(p.123)。「水上」については明確な説明が見当たらないが、神田上水の大洗堰から小石川までの開渠部分の、「白堀」と呼ばれる部分のことと考えているようである(pp.123-125)。芭蕉(桃青)は、この年一度の浚渫作業の請負人をやっていた、と田中はこの「町触れ」を大変ていねいに読み解く。

 この「町触れ」についての田中の読み解きについては特に異とするところはないのであるが、だがそもそもの問題は、この年一度の神田上水浚渫作業の請負人を四年間務めたことが、果たして許六の言う「武の小石川の水道を修め、四年にして成る」という芭蕉の特筆される業績と一致するのかということである。田中はこう言う。

>許六のいう「武の小石川の水道を修め」たというのは、芭蕉がこの浚渫作業にかかわっていたことを述べた文言と見て誤るまい。(p.124)

しかし、一方で、「修める」ということは「請負人を務める」ということとは相当に違うことであるとみえるし、また他方、「四年にして成る」という許六の文言の中の何かを成就達成するという意味の言葉と、毎年の浚渫作業とは相容れないように思えるのである。芭蕉(桃青)が神田上水浚渫の請負人をしていたということはそれでよい。だが他に、たとい未だ資料には見出せないにしても、延宝五(1677)年から八年にかけて、神田上水で大規模な工事があり、その工事の現場監督のような責任ある仕事を芭蕉が任され、それを見事に成し遂げたということの方が、許六の記す事績に相応しいように思うのである。
 わたしとしては、当面、掘削、浚渫いずれであれ、リズムを合わせ、同時に快やよろこびをもたらす歌の働きを、現場においても芭蕉は十分に知っていたということを確認すれば十分である。神田上水/小石川上水について、機会があればさらに調べてみよう。




(1) 田中善信『芭蕉二つの顔』2008年、講談社学術文庫pp120-121(本書からの孫引き)。









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    Excerpt:  よく知られた句だと思うが、『奥の細道』に、須賀川で詠まれた句、 Weblog: 「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ racked: 2011-06-07 00:10