戦わないこと(ニ) 「運命愛と美」 FW. 276, 339.  ――「ニーチェ探検」(2-2)

瀬谷こけし
 『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft)276のアフォリズムの中で、ニーチェもまたみずから「戦わない」という生き方をする、と語っている。次のようなものだ。長く引用しておこう。

> 事物における必然的なものを美として見ることを、私はもっともっと学びたいと思う、---このようにして私は、事物を美しくする者の一人となるであろう。運命愛(amor fati)、これを、これからの私の愛としよう! 私は醜いものに対して、戦いをいどむまい。私は責めまい。私は責める者をも責めまい。眼をそむけるということをわが唯一の否定としよう!
(氷上英廣訳、1980年、強調は氷上)

ドイツ語の原文も紹介しておく。

> Ich will immer mehr lernen, das Nothwendige an den Dingen als das Schöne sehen: --- so werde ich Einer von Denen sein, welche die Dinge schön machen. Amor fati: das sei von nun an meine Liebe! Ich will keinen Krig gegen das Hässliche führen. Ich will nicht anklagen, ich will nicht einmal die Ankläger anklagen. W e g s e h e n sei meine einzige Verneinung ! (FW. 276)

 堀文子の「脱走論」と、これはとてもよく似ているように思う。論の本質的な契機として「美」を含んでいるところも似ている。だが、堀の「脱走」とニーチェの「避視(Wegsehen)方」とは、当然ながら論の構えがずいぶん違う。堀の脱走論は、ひたすらな美への献身によって正当化されるべきものとして提出されている。他方、ニーチェの避視方は「事物における必然的なものを美として見ること」、「事物を美しくする」という行為によって、正当化されるものとなっている。美が、自然の中で発見されるべきものではなく、みずからの努力、意志的な行為によって、実現されるべきものになっているのである。この両者の構えは、どのような点で共通し、そしてどのような点で相違するのであろうか? われわれはその点をより詳細に見てゆくことにしよう。


********************************************


 上記の構えの違いにおいて、まず気になるのが、ニーチェにとって、自然の美を経験し、それに撃たれることによって、「事物における必然的なもの」を美として見ることが促され、そして実際にそうすることがないのだろうか、ということである。『悦ばしい知識』第4部の「生は女である (vita femina)」(339)と題されたアフォリズムは、この問に対する答えを提出してくれていることになるだろう。これも長めに引用しよう。

>ある作品の究極の美に接すること---そのためにはすべての知識、すべての善き意志をもってしても足りない。この山巓の雲のヴェールが消え、太陽がそこにかがやくためには、きわめて稀有な、幸運な偶然が要る。これを見るのにうってつけな場所に立たなければならぬだけではない。(同前)

> Die letzten Schönheiten eines Werkes zu sehen --- dazu reicht alles Wissen und aller gutter Wille nicht aus; es bedarf der seltensten glücklichen Zufälle, damit einmal der Workenschleier von diesen Gipfeln für uns weiche und die Sonne auf ihnen glühe. (FW. 339)

 ここでニーチェは、「美」を、そして究極の美を示すイメージとしての「山巓」を、複数形で "Schönheiten"、"von diesen Gipfeln" と使っている。「山巓」がひとつの作品の究極の美のイメージとなっていることは、この美が、ニーチェ自身が意志的に生み出したものではなく、彼の外に存在するものであることを示している。輝く太陽に照らされる山巓、これが究極の美の形象である。これは堀文子が「一生を美にひれ伏す」志をもったと記すことの源にあるものと、そう異なっていない(堀、前掲書p.117)。だがニーチェはこのすぐ後で、この究極の美を見るために必要とされる意志的な面を強調する。「これを見るのにうってつけな場所に立たなければならぬだけではない。われわれの魂自身がこのヴェールをその山巓の高みから (von ihren Höhen) 剥いだのでなければならない」、と(訳は一部改変、強調は引用者)。究極の美を感得するために要求されることは、堀の場合以上に意志的なものになっている。堀の場合は「心に響く美しいもの」(p.123)と言うだけで、十分だったのだ。ちなみに、美の経験を保持し表現へともたらすための比喩の力等々については、両者共に力技の必要性を指摘している。「いわばつかみ所を保持し山巓そのものを制御しつづけるためには、ある対外的な表現や比喩が駆使できなければならない」(und eines äuseerern Ausdruckes und Gleichnisses bedürftig sein, wie um einen Halt zu haben und ihrer selber mächtig zu bleiben.)(FW. 339、拙訳。強調は引用者)。

 われわれの目下の問題からすると、「運命愛」の内容である、事物における必然的なものを美と見ることが、このような究極の美の感得することによって充たされ、実現されるであろうことは十分に予想がつく。だがそれをニーチェは、充たした者、実現した者の立場からではなく、いわば一歩下がった場所から、n-1の地点から語る。ここには多くのニーチェの策略がこめられているだろう。われわれはこのニーチェの非常にデリケートな表現方に注目しなければならない。

> 神的でない現実は、われわれに美を全然与えないか、あるいは一回的にしか与えない!

> die ungöttliche Wirklichkeit giebt uns das Schöne gar nicht oder Ein Mal !

 ひとは究極の美を近みにある隠されたものとして予感するだけか、あるいはそれを感得するとしてもただ一度だけだというわけである。ひとは、だから、未来において究極的な美の現れを期待するか、もしくは過去に経験したそれをもはや自分には失われたものとして保持するしかない、ということになるのである。その、第n次元をなす、美に撃たれる瞬間の外においては、ということだが。そしてまた、n-1次元にある生は、「美の近み」にあると言え、それはn-2次元等々の生とは大いに違っている。だがわれわれはなぜニーチェがこのような言い方をしたのか、考えなければならない。それは哲学はn-1次元において語るべきものだからであろう。ニーチェにおいては詩が、第n次元の消息を伝えるものになっている。その魂の高らかな勢いにおいて。

(2012.3.24/25)




*20120421 ミスタイプで抜けていた「Wegsehen」の「s」を補足。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

面白い

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック