戦わないこと(四) 「わたしは生かされている」 FW. 276.  ――「ニーチェ探検」(2-4)

瀬谷こけし
この『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft) 276のアフォリズムからもうひとつ引いておこう。

> 新しき年に---私はまだ生きている。私はまだ考える。私はまだ生きなければならぬ、なぜなら、私はまだ考えなければならないから。われあり、ゆえにわれ考う、われ考う、ゆえにわれわりだ(Sum, ergo cogito : cogito, ero sum)。今日では誰も彼もが自分の願望や最も愛好する思想をあえて言表する。だから私もまた言おう、---自分が今日みずからに何を望んでいるか、また、どんな思想が今年早々にわが心をかすえmたか、---どんな思想が私の将来一切の生活の土台となり、保証となり、醍醐味となるべきか、を! (氷上英廣訳、1980。強調はニーチェ)

>  Z u m N e u e n J a h r e. --- Noch lebe ich, noch denke ich: ich muss noch leben, denn ich muss noch denken. Sum, ergo cogito, cogito, ergo sum. Heute erlaubt sich Jedermann seinen Wunsch und liebsten Dedanken auszusprechen: nun, so will auch ich sagen, was ich mir heute von mir selber wünschte und welcher Gedanke mir dieses Jahr zuerst über das Herz liefe, --- wehcher Gedanke mir Grund, Bürgschaft und Süssigkeit alles weiteren Lebens sein soll! (FW276)

 ここには存在と思考との根源的な関りが語られている。私が存在していること、そして私が思考していることは単なる事実であるが、私が今後なおも生きねばならないとすれば、それは今より後もなお思考しなければならないからだ、というわけである。この「ねばならない」(muss) は、義務というよりもさらに強い必然性を示している。それは生存の意義というよりももっと強く抜き差しならないものなのだ。私は生きなければならない、なぜなら私は思考しなければならないからだ。なぜ思考しなければならないかといえば、それはある思想が訪れてきているからだ。そんな思想が今年早々(それは1882年のことと考えられるが)訪れてきたのだ。私の心の上に到来したのだ(mir … über das Herz liefe)。それがどんな思想であったかを語りたい、とニーチェは言う。この思想こそ、前回までに見てきた「運命愛」という思想だ。この思想のために、この思想についてさらに思考するために、自分はさらに生きなければならないとニーチェは考えるのである。いわばこの時彼にとって、自分はこの思想を思考するために、生きねばならないのである。言い換えるなら、彼はこの思想、運命愛の思想によって生かされている。運命愛という思想について考えることが彼の存在の理由なのである。
 ニーチェは、自分はこのために生かされていると感じる。他人や社会によって、あるいは他のいわゆる「大きなものの力」によって生かされている、というより、彼自身の運命をなす、彼に訪れた思想によって生かされているのである。この思想が彼に必然的に思考を課し、彼の生の意義は、この思想によって与えられるのである。そのことをニーチェ自身も自覚し、この思想が、「私の将来一切の生活の土台となり、保証となり、醍醐味となるべき」なのである、とその自覚を彼は語る。"… Gedanke mir Grund, Bürgschaft und Süssigkeit alles weiteren Lebens sein soll! "。わたしの訳語に変えれば、生の根拠(Grund)となり、護り(Bürgschaft)となり、甘み(Süssigkeit)となるべきなのである(1)。ニーチェにとって、自分が生かされているとは、大きな力によって生かされているというような漠然とした感覚のことではない。そうではなく、彼自らがこの、いまだ何人によって名づけられ、思考されたことがないにしても、彼が運命愛と呼ぶひとつの明確な思想によって訪れられ、その時以降、彼自身がこの思想を思考することをみずからの運命とする他なくなっている、という事態のことなのである。今やこの思想が、あるいはこの思想を正しく思考し、表現することが、人間ニーチェそのものの生存の根拠・理由となり、生存の保証とも守護者ともなり、そして彼自身の人生の甘味ともなるものとなったのである。このような思想の訪れというものが存在する。そして、このような思想がニーチェを訪れたのである。


==============================

(1) "Bürgschaft"という語をわたしは「護り」と訳しておきたい。この語の源の"Burg"はもともと「城塞」を意味する語であり、単なる保証というよりは、城塞によって護られている状態をニーチェは"Bürgschaft"と呼んでいるように思われるからである。ちなみに、ルターの"Ein' feste Burg ist unser Gott"という賛美歌の言葉は、普通、「神はわがやぐら」と訳されている。





ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック