Web「風流の初」 (「奥の細道の風流」第一章)

瀬谷こけし
第一章 風流の初(はじめ)

 よく知られた句だと思うが、『奥の細道』に、須賀川で詠まれた句、

  風流の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた

がある。これが『奥の細道』の中に出てくる最初の「風流」の語である。今更ながら悩むのだが、これはいったい何をいう句なのだろう? 岩波文庫本の脚注で萩原恭男はこんな風に解説している。「ここで聞く古雅な田植歌は、奥州に入って初めての風雅な趣であるの意。等躬宅での句会を喜ぶ挨拶の意を含む。これを発句に歌仙一巻が興行された」と(強調は引用者)(*6)。

 長らくわたしはこの句は、「自分たちの営みまた楽しんでいる風流の起源は、自分がここ奥州陸奥に入ってはじめて見聞したこの田植うたにあったのではないか、そんなことを深く考えさせる奥の田植うただったことよ」という感慨を語る句だと思っていた。そして今、諸家の解釈を学んだ後にも、この気持ちは変らない。まず、何はともあれ、芭蕉は田植うたを聞いた。この旅の、奥州と言っても差し支えのない所で田植うたを聞いたのである。しかしそれはいつ、どこでなのだろうか? そこらじゅう、どこでも、と答えられるかもしれない。旧暦四月二十日(陽暦六月七日)に、白河の関を越えてから、何度か見聞することがあったかもしれない。そう考えてもおかしくはないのだが、しかしそれほど新鮮なものであったならば、その見聞について紀行文中に何かの記述があってもおかしくないのではないだろうか? しかし文中での田植の記述は、奥州に入ってからというよりは、その手前、遊行柳での、あの「田一枚植て立去る柳かな」の句においてしか見られない(*7)。この時は、この柳の下に、彼はしばらく時を過ごしたのである。ゆったりとした時を。このとき、田植うたは歌われていたのか? わたしはそうではないかと思うのだが、その真実は確かめようもない。しかしわたしには、『細道』の須賀川での叙述の中で「風流の初や」の句を置くために遊行柳では記していないものの、ほんとは遊行柳の近くの田で、その一枚を植え終わるまで田植えうたをうたっていたのではないかと思えるのである。そして一枚植え終わるのを潮時に、そこを立ち去ったのではないか? ともあれ、田植うたをここで耳にしたにせよ、していないにせよ、この遊行柳での見聞の何かは、「風流の初」の句に流れ込み、結実していっているだろう。

 この句そのものは、これを発句とする歌仙が四月二十二日に巻かれていると考えられるので、その時までには見聞しているはずである。そして須賀川で世話になる等躬の家の田植は、『曾良旅日記』に、四月二十四日のところに「主ノ田植」と記されている。結局、四月の二十日から二十二日の間のどこかで、芭蕉は田植うたを耳にしたのだろう。そしてその田植うたは、まず間違えなく労働歌であっただろう。つまり、田植の作業にリズムをつけたり、ある種の快さを与えるために、田の周りで、恐らくは男がうたううただっただろう。それが「風流」の初めだと芭蕉は見て取るのである。田植うたそのものは、仕事から独立した風流などではまったくなかった。芭蕉が「おくの田植うた」に見たものは、決して労働を知らない人々の歌ではなかった。むしろまったく逆で、労働の景気づけにこそ風流の源があると、芭蕉はここでひそかに理解したのである。神田上水の工事に関った経験のある芭蕉にとっては、労働とうたとの深い結びつきは、決して理解し得ないことではなかったはずだ(*8)。神田川の掘削ないしは浚渫工事においても、いろいろな景気づけのうたはうたわれたことだろう。しかしそれらは新しいうただ。奥の地に入って聞く田植うたは、労働歌そのものであるとともに、和歌を経て連歌、俳諧に至る「風流」の道の、その源にあるものと理解されたのだ。これはしかしすごい洞察である。奥に向かう芭蕉の姿勢は、ここで定まる。風流のみなもとである文芸の発見。風流のみなもとである音と言葉のリズムの術の発見。彼がここで発見したのは、浮ついた当今の風流の、昔流の素朴な形というようなものではなかったのである。彼はそれほどに思い上がってはいなかった。そう、わたしには見えるのである。

芭蕉が見聞した田植えうたに近いと思われる磐城国西白河郡白河町の田植うたが、『日本民謡大観』に収められている(*9)。そこに紹介されている歌詞は次のものである。

 ヤレ関の白河(チョイト)来てみておくれ(チョイトソコダヨ)娘揃ふて(ちょいと)田植をなさる
 この田千石取れたるならば、桝は面倒だ箕で計れ(*10)


画像
(『日本民謡大観 東北篇』、p.431)



 この田植うたは七七七七詞型で、曲型も下野方面から来たものに相違無ないといわれるが、そうであれば、遊行柳近くのものと白河付近のものと、田植うたに大きな差はなかったものと推測される。芭蕉が聴いた田植うたは、およそここに採譜されているものと同様のものであったと考えてよい(*11)。そしてとりわけこの点を理解していただきたいのだが、言ってみれば京風、江戸風の洗練とは遠いこのような田植歌に、風流の、歌舞文芸の元々もっていた強い生命を感じ取り、そしてここに自分たち進める俳諧の本来の力を読み取るのは、実際途方もない事なのである。その途方もないことを、芭蕉は、奥州への入り口で、やってのけたのである。芭蕉の天才というなら、これこそが芭蕉の天才である。




註(文中で「(*数)で表記」
(6) 萩原恭男『芭蕉おくのほそ道』1979、岩波文庫。
(7) さらに補足すれば、白河近辺のことで、『俳諧書留』に出る「白河関/西か東か早苗にも風の音」「早苗にも我色黒き日数哉」の句があるが、これらは必ずしも白河の関あたりで田植歌を見聞したことを証するものではない。また同書ではさらに「この日や田植の日也と、めなれぬことぶきなど有て、まうけせられけるに/旅衣早苗に包食乞ん ソラ」から察せられる、田植祭にかかわるもてなしの経験、およびしのぶ文字摺石にかかわる「五月乙女にしかた望んしのぶ摺」の句に、五月乙女による田植えの手つきに、田植歌を見聞した印象があると見えるが、それらは「田植歌」の句が詠まれた四月二十二日より後の見聞であり、芭蕉の「田植歌=風流の初」という発想に寄与した見聞ではない。
(8) 芭蕉の神田上水との関りについては、田中善信『芭蕉二つの顔』2008、講談社学術文庫、pp.110-141、および光田和伸、上掲書、第四~六章を参照。今は掘削か浚渫かは論じない。
(9) 日本放送協会編『復刻 日本民謡大観 東北篇』、p.431。
(10) 拙ブログでこの歌詞に簡単に言及している。
http://25237720.at.webry.info/201106/article_7.html 参照。
(11) 図1参照。出典は(8)と同じ。


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