神の死について考えるために(1)

瀬谷こけし
 神の死について考えたい。しかし、問題を明確にしておかなければならない。神も、神々も、それをわがものとする力に応じて多様であり、神の死も神々の死も、同じく多様である。だが神の死の問題として重要なことは多くない。それは、ある決定的な歴史の分岐、ないしは切断の点として、重要なのである。神の死によって死んだもの、それはまず第一に人間のある種のメンタリティーであり、神の生を前提にして支えられていた関係の有り様である。
 はじめにニーチェを取り上げるべきであるが、彼が神の死について語っていることは、多分、多くの人に非常に分かりにくい。実際、人々が気付こうと気付くまいと、神は死んでしまうのであり、その遠い星で起ったような出来事は、だれ一人気付く者がなくても起ってしまっているのである。そんなことをニーチェは巧みな比喩を以って語る。そしてまた、目撃者の死もしくは殺害として、彼は神の死の事件を語る。だがおそらくそのように語りつつ、ニーチェはまだ何かを隠している。ほんとうに語りたかったことを隠している。彼の見たこと、彼が瞠目して見たことを、彼はまだ隠している。その隠しているところは、多分ロブ=グリエの映画『去年マリーエンバードで』について、ミシェル・フーコーが述べたことのうちに、あるあからさまな仕方で示されている。いわく、起ったことと起らなかったこととの違いがどこまで記憶を辿っても分からなくなる。あるいは、去年二人はほんとうに約束をしたのかどうか…、と。しかし、実際ニーチェは何を隠そうとしていたのか? ことは伝達不可能性にかかわることである。こんな恐ろしい問題から、人々が目をふさぎたくなるのは尤もなことである。しかしまた、目をふさいでどうなるという問題でもない。ひとりひとりのひとには、その深みがあるのだから。そしてその深みに陥ちることがあるのだから。
 神の死を、実定的などのような宗教からも独立させて語るために、われわれはまずピエール・クロソウスキーを出発点に取りたい。彼は、神の死を、責任ある自我の同一性を保証する最後の実体的基盤としての神の死、と捉えるのである。多分にキリスト教的な神の捉え方であるが、その問題の深みを、彼はここで適切に概念化している。多分に精神的な把握である。禅者であれば、腕の一本でも切り落として、身体的に考えようとするところだろう。われわれもいずれその問題に近づいてゆくだろう。身体的な熱狂のなかに現れる光のようなものについては。だがまずはじめにクロソウスキーについて考えよう。




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