宮沢賢治と貨幣 ---『祭の晩』

瀬谷こけし
 宮沢賢治は貨幣に大いに魅せられていたひとにみえる。「貨幣」というより、むしろ「通貨」と言った方がよいのかもしれない。要するに、価値の抽象的な単位が存在し、それが広く流通しているという事実に。質の差異をもたず、ただ量の差異しかないそういう価値の評価方法のことだ。だがここで直ちに一言挟んでおかなければならない。賢治はそういう貨幣なるものに魅せられるとともに、そうした通貨の存在に異論を挟む仕組みをつねに作品の中に導入しているということだ。そして、多くの場合、貨幣という価値に依存して人生と思考を組み立てている者たちにたいする侮蔑をさしはさんでいる。『祭の晩』という小品でいえば、「貴様んみたいな、他処から来たものに馬鹿にされて堪(たま)っか。早く銭を払へ、銭を。無(ない)のか、この野郎。無(ない)なら何(な)して物食った。こら」とよそから来た男を頭ごなしに叱る若者を、「てかてか髪をわけた村の若者」と、少なからず侮蔑的に描いている。
 通貨の価値への異論は、二串の団子の代価として、あとで「薪百把持って来てやるがら」という山男の思考と行動によって示される。(商品の価値の決定の場としての)市場の観点からすれば、「二串の団子」の代価として「薪百把」ははるかに高価なものだ。山男はそんな市場的に不均衡な交換を持ち掛けるのだが、「若者」はその提案を理解しない。
 だが、この物語でもっとも魅力的な所は、一枚の白銅貨を黙って山男に与え、彼の難を救った主人公亮二が、過剰なプレゼント(薪百把と栗八斗)を代価として(「返すぞ」)持って来た山男に、市場価値を離れた価値判断においてもそれは過剰なので、返礼をさまざまに考え、そしてついに「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ」と祖父に語るにいたるところである。もらった者が、「嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝもの」、ここには、既に交換を越えた贈与の本質的なものが捉えられている。そう、賢治は、贈与の魅惑に捉えられているのだ。贈与の中には、「からだが天に飛んでしまふ位いいもの」があるのだ。これは交換によって汲み尽くすことの不可能なものなのだ。そして賢治は、このような贈与からはじまる関係ややり取りを、ひとの、本質的なかかわり方と理解するのである。それは、貨幣に還元されないやりとりになる。---これが、賢治が貨幣経済の循環に対置するものだ。名づければ「贈与の循環」。そこには交換のなかにひそむ根源的なものがありつづけるだろう。
 考えて見れば『どんぐりと山猫』で主人公が褒美としてもらう黄金のドングリにもその魅惑があり、また例えば『紫紺染めについて』のなかの「さあこれ丈(だ)けやろう。つりは酒代だ」と言って山男が俥屋に渡す「いくらだかわからない大きな札」にも、貨幣経済を逸脱させる魅惑があると言えるだろう。賢治の思索と創作の非常に大きな部分が、この魅惑の創造に関わっているようにわたしには見えるのである。




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この記事へのコメント

2013年06月06日 00:12
「山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ」という亮二の熱狂には、自己犠牲への熱狂と共通するものがある。交換不可能な善いものをひとに与えたい! 贈与論の新層が見えはじめてきた。

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