平澤信一の「銀河鉄道の方へ」

瀬谷こけし

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  平澤信一の論文「銀河鉄道の方へ」(『宮沢賢治《遷移》の詩学』2008所収)には大変感心した。それは宮沢賢治の思考において、目に見えないものとしての「あまの川の水」についての想念が、初期の童謡「あまの川」(1921)から、晩年の『銀河鉄道の夜』第4次稿まで、同書第2次稿や詩「薤露青」、そしてあの「二十六夜」までをも貫いていることを示して見せるのである。つまり、あまの川の星と見え、知られるものは、底のすなご(砂つぶ)や岸の小砂利であって、それはあまの川の水そのものではなく、水そのものは、「水素よりも」すきとおったもので、そのままでは見えない、という想念である。この指摘は賢治の思考の核心にあるものを射当てているだろう。京都学派の哲学者ならそれを無と呼ぶかもしれない。銀河の川そのものはすきとおって見えないもの(水)の流れである、というわけである。
  だが、平澤の考察の卓抜さは、この見えないすきとおったものの流れを可視的にあるいは可聴的なものにさせる介入について真直ぐに考察している点である。ここで平澤がとりわけ強調するのは「手」の介入(『銀河鉄道』第3次稿参照)、とりわけ賢治自身の手の介入のことである。賢治自身の手による、銀河の見えない水への介入が、「賢治の《手》になるテクストを銀河そのものの顕れとして」(p.120)われわれの前に呈示する、というのである。この指摘によって、賢治の「農民芸術概論綱要」の中の「銀河系を自らの中に意識してこれに応じてゆくこと」という抽象的なスローガンが、具体的にみずからの身体状態の自覚と、創作との交点に、位置付けられるのである。「そのとき《銀河系》とは自身の内を駆け廻る《すきとほった-見えない-ほんたうの-水》を意味していた」、と平澤は言う(p.120)。この指摘によって、賢治の思索の一貫性と具体性が、適切に見て取れるようになる。
  こうした平澤による秀逸な読み取りに対して、わたしがさらに若干の課題を呈示するとすれば、それはこのような世界観において、あの『銀河鉄道の夜』の中の「石炭袋」はどう位置付けられるのか、という問題である。しかしこの問題については、また稿を改めよう。(2014.1.28)




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