《宮沢賢治の修羅 ノート9 修羅の誕生」》

瀬谷こけし
 管見宮沢賢治のテキストにおける「修羅」の語の初出は、先に「ノート4」で紹介した、書簡165、大正9年6-7月のものである。これは自分自身のいらだちや怒りに修羅を見、それを修羅と名づけたものである。このいらだちや怒りの姿は、「春と修羅」における「おれはひとりの修羅なのだ」という言明に繋がる。はぎしり燃えてゆききする修羅。
 わたしはこの修羅の原形を保阪嘉内宛の書簡154(大正八(1919)年八月)の次のような記述に見出す。

>私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考えろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまはすとは不届千万。アメリカへ行こうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはたうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」おゝ、邪道。O,JADO! O,JADO! 私は邪道を行く。見よこの邪見者のすがた。(文庫全集巻9)
(傍線は著者で、出典テキストでは四重線)

邪道をゆく邪見者のおのれこそが、修羅(の道)をあるくひとりの修羅(おれ)の先行形ではないだろうか。とすれば、賢治の修羅の自覚は父政次郎による「きさまはたうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな」という認定を開始点とすると言いうるだろう。賢治の修羅は、これまで見て来たように、後には恨みや怒りの念として一般的な仕方で取り出され、把握されてゆくが、その出発点には父との葛藤があり、お前は邪道に踏み入ったと断定し、攻撃する父と自分との間に、帝釈天と阿修羅との間のやむことのない闘諍の関係を読み取ったものであっただろう。
 その結果、父は「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」(「春と修羅」)の側に置かれる。「諂曲」とは広辞苑によれば「自分の意思をまげて、こびへつらうこと」と説明されるが、賢治もおよそこの意味で使っていると解してよいだろう。「あけびのつるはくもにからまり/のばらのやぶや腐植の湿地」(同前)、この、へつらいのからみあい模様である。
 ただ、この時期においても、賢治が父政次郎をどう見ていたかという問題において、保阪宛書簡159(大正9年2月ごろ)の次の記述は欠かせない。

>これからさきのことは予定はしてありますがどう変るやら。とにかく私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう。三十余年を私のために柄にもない商売の塵のなかに閉じこもりなほ私を開放しようとする私の父に感謝いたします。

 賢治にとって、修羅は修羅の成仏への方向性を持って把握されていた。蓮華王院三十三間堂の怒れる阿修羅像が、その合掌する正面の手においてはきわめて清純な仏の手を示しているように。




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