《ニーチェから賢治へ 資料4 ---宮沢賢治とポトラッチ他》

瀬谷こけし

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○われわれは宮沢賢治の作品から「どのような聖なる遊び」を引き出して来ることができるだろうか。そのような見通しの中で賢治の中にうずまく贈与の問題を、4つの観点から考えてみたい。

1)「祭の晩」の贈与の狂騒:主人公の少年亮二は、祭りの中の出店で助けてやったお礼に山男から山ほどもある薪とうい途方もない返礼を受ける。その途方もない贈物にショックを受けて亮二はさらに途方もない返礼を考案しそれに夢中になる。「狂騒的な贈与の競争」(ポトラッチ)にまきこまれ、正気を失っているようである。宮澤賢治は、贈与の中に含まれる「競争的贈与の狂気」を十分に理解していた。
>「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ」

2)競争的贈与の狂気に対する神的な説得:同じく「祭の晩」で「おぢいさん」は亮二のこの狂気を鎮めるために「うちへ入って豆をたべろ。そのうちに……」という説得をする。ここには「ものごとは長い目で見てみないとわからないぞ」と、取り憑かれている者に時間的な変化する物事の「計算」の必要性を説く説得の形がある。ここには一種「神的な力」があり、この「長い目で考えて見ろ」という倫理的利己主義型の説得こそが、鬼を拉ぐ神的な力だと考える解釈が一部に存在していた(神歌)。

3)本質的に返済不可能になる贈与:だがこの「神的な説得」も十分なものではない。なぜなら相手に対して返済することが本質的に不可能な贈与があるからである。その典型が寄贈者の死によって未返済のまま遺される贈与である。不思議なことにこのタイプの贈与は(妹とし子を失ったにもかかわらず)賢治においては目立つものではにない。『銀河鉄道の夜』のジョバンニも、友カンパネルラに対して、受けて遺された(好意の)贈与に苦しむ、ということがない。

4)生命を賭した献身を考えるためには自他の生命の価値の適切な計算が欠かせない:「なめとこ山の熊」においては、この自他の生命の価値の計算の必要性が導入されている。しかしそこで計算を行い結論を引き出すのは人間の主人公小十郎ではなく、熊の方である。だがよく似た主題を扱う「グスコーブドリの伝記」では、生命の価値の計算が一応なされるのであるが、計算に用いられる引数が不十分で(なぜ犠牲死が不可避なのかの明晰な説明がない)、そのために犠牲死を称賛する主旨の物語になっている。


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