《食人のたのしみ、戦争のたのしみ》

瀬谷こけし


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 山中智恵子の歌に次のものがある。

> 食人のたのしみ知らぬ文明の青空のもと闘茶につどふ
      『玉蜻』「闘茶」

 『玉蜻(たまかぎる)』は山中智恵子の第十五歌集であり1997年8月に発行された。その「後記」によれば、1994年冬から1997年春までの作品を収めたものである。わたしはこの歌集を三月書房でみつけて購入したが、そこここに老いは感じるものの、彼女ならではの強い着想の数々はあり、わたしにはさびしくも嬉しい歌集だった。紹介のために何首か引いておこう。

> 湯の峰は空よりゆかむ十津川のあなや吊橋 空よりゆかむ (本歌は夢)
> 流星は王に罪あるしるしとぞ いくたび流れ流れ棄てけむ (罔象女の滝)
> たまかぎる鷺のすがたに翔びたちぬわが迦楼羅王つつがなきや (玉蜻)
> 恋の山湯殿といひし語られぬみ山をゆきて月を踏みたり (同前)
> きらきらと絲遊(いといふ)降(くだ)るわれのみの十一面悔過(けくわ)終らむものか (桃青の夢)
> 暴動の後の月夜を思ひみて殺さぬ人とわれもなりしか (同前)
> 玉蜻(たまかぎる)夕日のかたは花おぼろおぼろなる恋に身を焼かむかな (玉蜻 二の章)
> 雪降ればわが身は身から狂ひ入る 狂ひに狂ひ夜を狂ふべし (同前)
> いのちよりかなしきものに狂ひ入りもみぢにぬるる木枯しぞ吹く (同前)
> 雪は降りうつつなく降りたまかぎるゆふべにわれも歩み入りなむ (同前)
> もゆる火の思ひのはては貴船川銀河にのぼる螢火の群 (同前)
> すさのをの肌(はだへ)は赤き赤こそは流離の神の殺されし色 (空の夢)
> かの岸に到りしごとくひととゐるこのあめつちのたふとかりけり (空霊)

 あの世を近くに身を置き、回顧のなかで、棄てるものを棄てながら、新しい恋の形を模索している、そんな歌集に見える。

 なかではじめに引いた歌は、文明社会で禁止された欲動のゆく方として闘技を、つまり闘茶のあそびを読み取っていて、そこに逆に「食人のたのしみ」という快楽を呼び起こしている。しかし、ここで思い出しておきたいことはこの歌には本歌があるということだ。つまり、「…のたのしみ」「知らぬ…」という表現、この表現の型には先例があるのである。それはこの歌である。

> 戰争のたのしみはわれらの知らぬこと春のまひるを眠りつづける 
    前川佐美雄『植物祭』「戰争と夢」

 前川佐美雄のこの歌は、個人の問題として語っており、戦争のたのしみを知らぬわれらの他に、そのたのしみを知っている人々がいて、そういう彼らは戦争から何かのたのしみを引き出すように生きているのに対し、われわれは春のまひるを季節の与えてくれるたのしみにのみひたりながら生きつづけようと覚悟している。戦争からおのれのたのしみを引き出そうとしている人間は確かにいて、むしろそういう人間の方が主流なのだ。「われら」という措辞にはそういう快楽への拒否の姿勢がはっきりと示されている。対して山中智恵子の歌は、食人のたのしみという、原始社会の生活実感に感受性を広げている。それは闘争と闘争の勝利から得られる誇りであり快楽であろうが、そのたのしみを、闘茶の競争のうちに読み取っているのである。闘茶の席につらなる者の立場から言えば、そのたのしみの根をさぐって、原始社会の、おそらくは最高度のたのしみにまで達しているのである。そこに、発見を感じることができれば、感性がしずかに解放される。この快楽の発見のためには、多くの禁圧や抑圧をくぐり抜けなければならないであろうが、その道筋が読み取れるようになれば、大いに解放されるとともに、---大いに解放されているがゆえに、ある種の孤立を感じるようになるだろう。その解放は、春のまひるを眠りつづける感性とそれほど違ったものではない。抑圧され、戦争へとコード化されて流れる欲望ではなく、始源に向かって深く深く、広く広く掘り進んでゆく欲望である。この解放されてゆく歩みを読み取らないといけない。そしてできればその諸地点を標定する方法を開発してゆかなければならない。ここにひとつの短歌論の方法がある。


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