《ニーチェが死んだ》

瀬谷こけし


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 8月23日、ワイマールのニーチェ・アルヒーフに行った。あまり色々なものはないところだという印象だった。ニーチェの死後の出来事にわたしはあまり興味がない。
 展示室に『ニーチェ・クローニク』という本が置いてあった。最近の研究者ならだれでもが座右に置いている本ではないかと思うが、わたしは持っていない。見せてもらってその死に近い日々を読んでいた。館のおばさんに「今日8月23日はニーチェが最後の処方箋を書いてもらった日ですね?」と尋ねた。「Rezept」の語を繰り返さないと通じなかった。すると、「ニーチェはこの上で亡くなった」とおばさんは上を指しながら教えてくれた。1900年8月25日の午前11時から12時の間に死んだことはクローニクを読んでわかっていた。しかし場所が何処かは、知らなかったし、わからなかった。まさにこの上の部屋だという。途端にこの建物がそれだけで重たい意義を持った建物と感じられるようになった。もうそれだけでいい。そういう場所が残っているだけで。
 そんな目で館の周りをもう一度まわった。あの、窓にツタの絡まるあの部屋だろう。
 1882年の8月25日にニーチェはこんな手紙をルー・ザロメの部屋に差し入れていた。
>Zu Bett. Heftigster
>Anfall. Ich verachte
>das Leben.
> FN.
 こんな重要なテキストを軽々しく翻訳する気はしない。だが、ニーチェがきわめて激しい発作に襲われていたこと、そして床に就いていたことはわかる。しかし次の言葉を、例えば「僕はこの生を軽蔑する」(眞田収一郎訳)などと軽々に訳してしまうわけにはゆかない。むしろ「わたしは生を尊重しない」と訳した方がまだよいのではないだろうか。
 その翌日ルーがタウテンブルクを去るのが初めから決まっていた日程なのかどうかをわたしは知らない。だがほんとは激しい怒りに燃えてルーが突然タウテンブルクを去ったのではないかと思う。ここでの日々で、「生」はルーを、あるいはルー自身の究極の立場を意味していたのだ。「あなたは生を十分に尊重していないわ」というようなやり取りが『ツアラトゥストラ』の「第二の舞踏の歌」の中にある。このクリティカルな、エッジの先端にあるような出来事がニーチェの差し入れたこの手紙だった。『ツアラトゥストラ』ではその次に来るのが真夜中の鐘の歌だ。
 翌26日、発作から回復したニーチェは、差し入れた手紙のお詫びをするとともに、12時にルーをドルンブルクまで送って行った。ルーはタウテンブルクを去った。この26日の、タウテンブルクを去る時にルーが紙に書き付けてニーチェに渡した詩が「生への讃歌」だった。これについては私のブログを参照してほしい。ニーチェはこのルーの生の思想を何度も噛み締めることになるだろう。
 そしてその激しい発作の18年後、ちょうど同じ日に、ニーチェは死去する。この日付がわたしには偶然とは思えない。8月はニーチェにとっては激しすぎる月なのだ。
 すでにワイマールを去り、またタウテンブルクも去って、ライプチヒでわたしはこの8月25日を迎える。非常に重たいものをどこかで感じながら。


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