《京にても》

瀬谷こけし


画像





 芭蕉元禄三年の句に、

> 京にても京なつかしやほとゝぎす (643、岩波文庫)

がある。六月二十日づけの小春宛書簡に出る句だという。あるパンフレットの中でふとこの句を目にして、つづく文章をみていると、何かいいようもない違和感が生まれてきたのだ。もともとわたしには芭蕉が京をそれほど好んでいるとは思えなかったからなのだが。実際芭蕉は、京都よりも滋賀の方を好んでいたのではないだろうか。そんなことがその文章への違和感の原因だった。それで新潮社の『芭蕉句集』を調べてみた(同書では638番)。同書校注者今栄蔵は「現に京にいるのに、時鳥の声を聞くと、なぜか京が懐かしいなあという思いに駆られる」と鑑賞する。---わたしはこの鑑賞に甚だしい違和感を感じる。これはひどく世間主義的な解釈ではないか? わたしにはとても芭蕉がそのような句をよんだとは思えないのだ。注の解説ではさらに、上の「京」は現実の京、下の「京」は遠い昔の古典時代の京と注釈する。アクロバティックな解釈。---いったいほととぎすはどうなってしまったのか? そして「京にても京なつかし」の措辞も、この解釈ではすっきりと流れてゆかない。もちろんこの句は京都滞在中の作である。久しぶりに京都にきたなという感慨はもちろんある。
 要するに問題は「京なつかしや」の「や」である。これは感慨や感嘆の「や」ではない。そうではなく、むしろ問いかけの「や」であり、作者がほととぎすに、おまえも京がなつかしいのか、と問いたずねているのである。もちろんほととぎすのなき声を聞いてのことである。「京にても」の「京」にいるのは「ほととぎす」である。ほととぎすよ、お前は京にいるのに、お前でも京がなつかしいのか、お前のなき声は、旅をつねとするわたしにも、ふるさとを思い出させ、ふるさとの懐かしさを掻きたてるものだ。---わたしはこんな風に鑑賞したい。
 第三句(下五)にくる「ほととぎす」は、問いかける相手でなければ何だろう? この小論はとりあえずここでとどめておこう。



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック