《『ツァラトゥストラ』の国家論(1) 「民族論」》

瀬谷こけし


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オルタのモンテ・サクロで


    はじめに

 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』第一部には重要な国家論がある。「新しい偶像」のアフォリズムがそれだ。その深さ、鋭さは、今日でもまだ未来の彼方に輝き続けているように見える。例えばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(Imagined Communities)やドゥルーズ&ガタリの『アンチ・エディプ』(L’Anti-Œdipe)はそれに本質的な示唆を受けて考察を進めた仕事だと思われるが、しかし彼らの仕事によっても『ツァラトゥストラ』の思考の深さは汲みつくされていないと思う。それについて論じるのは今日でも危険な行為であるように見える。ニーチェの超人論もここから論じられるべきだと思う。論じることは、今なお難しい。しかしわたしは、この『ツァラトゥストラ』の国家論を世界の知性は理解すべきだと思う。---とはいえわたしもここではそれをきちんと論じるのではなく、要点の幾つかを提示するにとどめるだろう。いわば「万人のために」。---こういう問題を、1882年8月のタウテンブルクで、ニーチェとルー・フォン・ザロメは議論していたのだ。

    1.「民族」について

 彼は、国家と民族を区別すべきことをその議論のはじめに据える。

> いまもまだどこかに民族と畜群が残っているだろう。しかし、われわれのところにはない。わが兄弟たちよ。ここにあるのは国家である。 (『ツァラトゥストラはこう言った』I-11「新しい偶像」、氷上英廣訳、岩波文庫。以下同じ)
> Irgendwo giebt es noch Völker und Heerden, doch nicht bei uns, meine Brüder: da giebt es Staaten.  (『Also sprach Zarathustra (German Edition)』Kindle。以下同じ)

 われわれは民族ではなく、国家の中にいる、という認識であり、自覚である。ごれが議論の出発点である。
 それでは「民族」とは何なのだろう。『ツァラトゥストラ』はこう言う。

> 民族の特徴を、わたしはあなたがたに教えよう。民族は、どの民族でも、善と悪について、独自のことばを語っている。隣の民族にはそれが理解できない。民族はみずからのことばを、みずからの風習と掟のなかでつくりだしたのである。
> Dieses Zeichen gebe ich euch: jedes Volk spricht seine Zunge des Guten und Bösen: die versteht der Nachbar nicht. Seine Sprache erfand es sich in Sitten und Rechten.

 氷上は「Zunge」を「ことば」と訳している。けだし適訳だろう。「Zunge」は「舌」であり(英語の「tongue」に相当する語であり)、「seine Zunge」は独自の発音や話しぶりをも含む「ことば」で、それぞれの民族は(おのれの)「善と悪について独自のことばを語る」のである。ここには行動規範についての厳命があり、それは、その民族にとっては、逆らうことの許されないものなのだろう。それ(=ことば、舌)を隣の民族は、たとい翻訳はできたとしても、理解はできない。善悪の表を共有できないのである。この断絶性をしっかりと理解しなければならない。
 この文章で次に出てくる「ことば」は、「Zunge」ではなく「Sprache」であり、民族はみずからのことばを「風習と掟のなかで(in Sitten und Rechten)」つくりだしたのである、と言われる。「風習(Sitten)」は特定の土地での生活の中から生まれてきた諸慣例であり、「掟(Rechten)」は多少とも法律に近い権威を持った規則になるだろう。その「権威」がどこから生まれたのかと問いたい向きもあるかもしれないが、ここでは「風習」と「掟」は無冠詞複数のまま「と(und)」で結合され、「~のなかで(in)」の示す場所の限定の中で結び付けられているので、その問いはあえて問うべきではないであろう。また「つくりだす(erfinden)」と言われていることからも、その権威が、国家にも国家の神にも基づくものではなく、むしろその民族の創造者と、そして生命そのもの以上のものに基づくことはないのである。

> かつてもろもろの民族を創造し、その頭上にひとつの信仰、ひとつの愛をかかげたのは、創造者たちであった。このようにして、かれらは生命に奉仕したのだ。
> Schaffende waren es, die schufen die Völker und hängten einen Glauben und eine Liebe über sie hin: also dienten sie dem Leben.

 国家は「ことば」や「舌」ではなく、それらの創造者でもないように、国家は民族でもなく、民族の創造者でもない(1)。

    ◇   ◇

 しかし、ここでおそらく、それでは国家はどのようにして世界に登場したのか、という問いを問いたい向きもあることだろう。それについて『ツァラトゥストラ』は何も答えを提出していないようにも見えるかもしれない。その答えはきわめて斬新なものに思えるが、それを聞き取るためにはきわめて敏感な耳を必要とするであろう。それについては少し後に語ることにして、ここではまず民族にとって国家はどのようなものと見えるか、という問題についての『ツァラトゥストラ』の洞察に耳を傾けておきたい。ドゥルーズにとっても、ピエール・クラストルにとっても、洞察の核心はこの『ツァラトゥストラ』の言葉にあるだろう。

> 民族がまだ存在しているところでは、民族は国家などというものを理解しない。民族は国家を災禍のしるしと見、風習と掟に対する罪として憎む。
> Wo es noch Volk giebt, da versteht es den Staat nicht und hasst ihn als bösen Blick und Sünde an Sitten und Rechten.

 「bösen Blick」はなかなか訳しにくいところだろうが、通例の日本語では「邪視」(英語では「evil eye」)と訳される語だ。ドゥルーズはここから「悪夢」という概念を見出したと思われるが、「風習と掟」を一つの地域的な技に解消しようとする国家が悪夢と見えようが邪視と見えようが、さほど変わりはない。いずれにせよ国家とは、民族にとってはまったく理解のできない邪なまなざしであり、禍事(まがごと)の予兆と見えるものなのだ。それは不要なもの、余計なものを生かし、その代償としてみなに緩慢な死を与える存在なのだ。国家につての『ツァラトゥストラ』の洞察ほど恐ろしく、そして国家というシステムの終焉後を考えさせる国家論はない。わたしもまたそこに希望をいだくのだが。



(1) 国家の中で「ことば」や「舌」は、「方言」としてその価値を切り下げられるだろう。




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