《Mit gelben Birnen ...》

瀬谷こけし


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 写真はラインの滝の上流でボーデン湖の下流にあるウンター湖とその近くの梨畑。梨を見ても白鳥をみても、ヘルダーリンの「生の半ば」をまっ先に思い出し、それ以外の詩歌が浮かばないというのはこの詩がとても強い詩だからだろう。ラインの滝をみて、さらにボーデン湖を見に行ったのはこのヘルダーリンの詩の背景を見ておきたかったからだ。しかしこのあたり、車窓からの話だが、ボーデン湖の湖岸には梨の木を見つけることができなかった。土地利用の形が変わったのかもしれないが。野ばらは多少見えた。
この詩、
Hälfte des Lebens

Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
.....
冒頭の三行だが、このなかの「hänget」の意味がずっとよく掴めなかった。彼が見たのも大きなボーデン湖よりも斜面の急なこのウンター湖ではなかったのか? 地面が滑り落ちてゆくような、その自分の非常に不安定なこころの状態を、この三行は表してはいないか?

>黄色い梨の実がたくさんあるというのに、そして
>野ばらもいっぱいにあるというのに、わたしの立つ地面は
>それらとともに湖へ滑り落ちてゆこうとする。

 こんな風に訳したいと、この景色を見て思ったのだった。ズセッテを失ったあとのとても不安定なこころは、この景色を前にそんな風に感じたのではないだろうか。何とも訳しづらい「hänget」は、こう考えてはじめて訳せるように思う。


(参考)
参考に二人の日本語訳を紹介しておく。

1. 川村二郎訳、ヘルダーリン詩集、岩波文庫、2002年
人生の半ば

黄色い梨の実を実らせ
また野茨をいっぱいに咲かせ
土地は湖の方に傾く。

2.手塚富雄訳、ヘルダーリン全集2、河出書房新社、1965年

生のなかば

黄に熟れる梨は枝にたわわに
茨は咲きみちて
陸(くが)は湖に陥(お)ちる。


(補説)
 梨の実るのが9月、10月、野茨が咲くのは6月、7月ぐらいだろうか。とすると梨の実と野茨の花が同時に豊かにみられる時期はないということになる。とすれば、梨の木には「Birnbaum」という語があるので、「Birnen」は梨の実と考えるほかないが、「Rosen」の方には「Rosenstöcke」(バラの木)とか「Rosenbusch」(バラの茂み)を指す使い方はないのだろうか。わたしはこの「wilde Rosen」にもアクチュアリティを読み取っておきたい気がする。しかし、それが出来ないとすれば、「梨の実」も「野ばらの花」も象徴的な使い方がされていて、こころの誘いとして詩人をこの世につないでくれるものと考えるべきなのだろう。そうであれば季節の矛盾点は特に問題にしなくてよいということになる。しか、しいずれにせよ詩人はここで、生きてゆく支えになってくれるものが消えてゆくことを歌っているだろう。そしてそれは8行目(第二聯)の「wo nehme ich」の前提となる風景を描いていることになるだろう。




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