《「歓喜」について シラーの頌歌の》(3)

瀬谷こけし

 シラーの「歓喜への頌歌」の第4節について考えてみよう。まずはドイツ語の原文(グーテンベルクプロジェクトの1803年版テキスト)と手塚富雄訳1959年を紹介したい。

Schiller An die Freude.
4.
Freude heißt die starke Feder
In der ewigen Natur.
Freude, Freude treibt die Räder
In der großen Weltenuhr.
Blumen lockt sie aus den Keimen,
Sonnen aus dem Firmament,
Sphären rollt sie in den Räumen,
Die des Sehers Rohr nicht kennt.
Chor.
Froh, wie seine Sonnen fliegen
Durch des Himmel prächt'gen Plan,
Wandelt, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zu Siegen.


手塚富雄訳
4.
喜びは自然をうごかす
 つよいばね、
喜びこそは宇宙の
 時計じかけの車をまわす、
喜びは蕾から花をひきだし
 もろもろの太陽を大空に燃えたたせる。
喜びは学者の知らぬ星々をも
 空間におどらせる。

   合唱
もろもろの太陽が
 壮麗な青空を飛びめぐっているように
 兄弟たちよ たのしく君たちの道をすすめ。
英雄のように喜ばしく勝利をめざせ。
(『世界文学大系18 シラー』1959年、筑摩書房、節番号は引用者)


 この第4節でシラーは歓喜(Freude)の働きが植物界にも、天体の運行にも貫いていることを説いている。蕾が花咲くことへと駆り立てられるのは歓喜によってであり、歓喜が幾つもの天球を回すのである。そして兄弟である人間に対しては、快活におのれのを軌道を進んで行けと言う。
 大意は上記のごとくであるが、ここでも若干の点を注記しておきたい。一つは、輪の回転という比喩を使って永遠に自然の中にある歓喜こそがその自然の輪を回転させていると捉えている点である。この「輪の回転」という比喩。後にニーチェが『ツァラトゥストラ』のなか(「三段の変身」)で「子供」を説明して「ひとつの自力で回転する輪」(ein aus sich rollendes Rad)と言ってその無垢や始原性を語る時、ここにはシラーの全自然を永遠に貫く輪を駆動させる歓喜(Freude treibt die Räder)の思想の継承があるのではないか、と思われるのである。もっともシラーの場合は「歓喜」は、曖昧に創造者の設計にその起源が求められるであろうが、ニーチェにとっても、その本来的な権力への意志(der Wille zur Macht)には子供の遊びの無垢(の愉悦)が本質的な特性とされているだろう。もちろんこうした注釈はさしあたりのものでしかなく、思想の隔たりも小さくはないが、両者がともに「回転する車輪」に運動の基本的な形を見出していることに注意しておきたい。

 ところで、この詩の第4節の「合唱」以降の4行を、ベートーヴェンはその交響曲9番終楽章の合唱部の最後に取り入れている。トルコ行進曲風の変奏の後に、はじめはテノール独唱で歌われ、次いでバスを加えた合唱に広がってゆく。その歌詞は、以下のものだ。

>Froh, wie seine Sonnen fliegen,
> durch des Himmels prächt'gen Plan,
> laufet, Brüder, eure Bahn,
>freudig wie ein Held zum siegen.
(下線は引用者。また欠落してると思われるコンマ二か所は引用者が補った)

わたしはまだこれをベートーヴェンの自筆譜と比べていないのだが、例えば1942年4月19日のフルトヴェングラーの演奏ではこの通りの歌詞で歌われている。そして問題は、この詩は二か所だけ1803年の歌詞とは異なっており(下線部)、1785年のものなのである。----なぜベートーヴェンはここだけ1785年の方の詩を歌詞に採用したのだろうか? 確認してもらえばすぐわかることだが、「laufet」のところは1803年版の方では「wandelt」、「zum siegen」のところは「zu Siegen」である(1875年版の詩はWikisourceによる)。「Siegen」の「S」が小文字になっているのはWikisourceの誤りの可能性が高いが(他にもBrüderの前後にはコンマが入るはずだが欠落している)、問題はシラーがなぜ「zum」を「zu」に改めたのかだ。この変更によって何を表現しようとしたのだろう? それは、「英雄が勝利に向かって進んでゆくように」ではなく、「英雄がまさに勝利をおさめた時のように」と言いたかったのではないだろうか? 「勝利に向かう時」と「勝利を手にした時」とでは後者の方が格段に喜ばしいが、シラーはその勝利を手にした時を特別に示したくて「zum」を「zu」にしたかったのではないだろうか? とりあえずそう理解しておきたい。
 1785年から1803年へのテキストの変更の第4節でのもう一点は「laufet」を「wandelt」への変更である。この[wandeln]という語は、「Die Sonne wandelt ihre Bahn.」(太陽がその軌道をめぐる)という風に使われ、ゆったりと重々しく進むという意味である。太陽との縁語としては単なる[laufen](走る)よりも[wandeln]の方が高雅であり、そのための変更であろう。

 しかし、1875年版から1803年版へのシラーのこの二点の変更にベートーヴェンは従わない。そして使用するテキストをこの箇所ばかりは1875年版に戻してしまう。それはなぜなのだろう? 音節数ではどちらを使っても問題なく歌えると思うが、このトルコ行進曲風の変奏の中では、「wandelt」はおそらく荘重すぎて「laufet」なら生まれる軽快感が損なわれてしまうからだろう。「zu」の「zum」への変更も、行進曲風の軽快さの中での通りのよさをベートーヴェンが好んだためだろう。しかしシラーの1803年版の詩の理解としては、シラーの行った変更を尊重した理解が望ましいだろう。
 以下拙訳を示す。

  拙訳
4.
歓喜とは永遠の自然の中にある
  強いバネの名前だ。
歓喜が、歓喜こそが大きな世界の時計の中で
  多くの車輪を駆動させる。
それはつぼみを誘って花々へと引き出し、
  太陽を天空から引き出し、
多くの天球を、望遠鏡では見ることのできない
  多くの空間のなかで回転させる。
                    合唱
快活であれ、彼(かれ)の太陽たちが天の壮麗な平原を貫いて
  飛び行くように、
  悠々と進め、兄弟たちよ、お前の軌道を、
英雄が勝利を手にしたときのように喜ばしく。




ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック