《血と箴言の中には…(Zar. I-7)》

瀬谷こけし

タウテンブルクにて (in Tautenburg)
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 血と箴言の中には何があるのだろう? 知っている人も多いと思うが、『ツァラトゥストラ』の中でニーチェは「みずからの血でもって書くこと」を勧めていた。「すべての書かれたものの中でわたしが愛するのはひとが自分の血でもって書いたものだけだ」とツァラトゥストラは言う。「みずからの血でもって書く」とはドイツ語で と記されている(Zar. I-7)。血でもって書く、あるいは血をもって書くとは、決して指やあるいは筆を血で湿らせて書くことではない。筆記の必要すらなく、多分タイプライターやワープロのキーボードを打つことによっても血をもって書くことはできるのだろう。書くことと、あるいは書かれたものと、「血」とはどうつながるのだろう。上記の引用に続けてニーチェは次のように記す。。「血をもって書け:そうすればお前は血が精神であることを思い知るであろう」。「血は精神である」という。「血」と「書かれたもの」とをつなぐのは「精神」だということになるだろう。だがしかしそれはどういう意味だろう?
 先ほどから引用している『ツァラトゥストラ』第一部の「読むことと書くことについて」の中でニーチェはこの問題をさほど十分に正確に分析しているわけではない。注目すべきことがあるとすればそのなかの一つは、これらの連関の中でニーチェが「読者」(Leser)を少なからず軽視していることだ。「読者とは何者かを知った者は、読者に対して特に何も行わない」(Wer den Leser kennt, der thut Nichts mehr für den Leser)。書く者は、書くことの能動性において、自らの血と精神との関わりのなかで書くのであり、読者に対して特に何かを配慮して書くわけではないのである。読者は、精神に達しない限り、受動的な存在であり、書くことの能動性の中に入ってくるものではない。
 しかしニーチェはここでさらに批判を一歩進める。「一世紀もすれば読者は…悪臭を発するようになる」(Noch ein Jahrhundert Leser […] wird stinken)。読者はいわば夾雑性に属するものなのだ、というわけだ。だが、ニーチェの批判がさらにクリティカルな次元に踏み込むのは、上の引用で省略した部分なのだ。つまり「(一世紀もすれば、読者のみならず)精神そのものも(und der Geistselber)悪臭を発するようになる」というのである。精神そのものにもまた夾雑性に属するものがある、というわけである。精神もまだ時代という夾雑性を帯びるのである。だそうだとすれば書くことの本来性、ないしは純粋性は、いったいどこにあるのだろうか? 書くことの本来性、あるいは純粋性は、ピエール・クロソウスキー的な用語を用いれば、強度に、つまり強さの度合いの表出にあるのではないだろうか。一方で精神そのものが精神の時代性によって汚染されざるを得ないとすれば、その時代性という夾雑物を取り除いた純粋性は、ただ強さの度合いとして示されることになるだろう。ニーチェがここで箴言を持ち出し、山々の頂上の比喩を持ち出すのは、頂上の高さこそが書くことにおいて最も本質的なことだからである。そしてこの純粋性において読むことの本質を捉えなおすとき、それは暗唱することになるのである。「血と箴言において書く者は、読まれることを望まず、暗唱して身につけられることを望むのである」(Wer in Blut und Sprüchen schreibt, der will nicht gelesen, sondern auswendig gelernt werden)。「山岳において最も近い道は頂上から頂上への道だ。しかしそのためにはお前は長い脚をもっていなければならない。箴言は頂上であるべきなのである。そして語り掛けられる者たちも、みずから巨大で高く成長した者でなければならない」(Im Gebirge ist der nächste Weg von Gipfel zu Gipfel: aber dazu musst du lange Beine haben. Sprüche sollen Gipfel sein: und Die, zu denen gesprochen wird, Grosse und Hochwüchsige)。
 「空気は薄くそして純粋であらねばならない、危険は近く、そして精神は陽気な悪意に満ち溢れていなければならない:こうして箴言と語り掛けられる読者が互いによく合致するのである」(Dei Luft dümm und rein, die Gefahr nahe und der Geist voll einer fröhlichen Bosheit: so past es gut zu einander)。
 血でもって書く者、書かれた箴言、そして暗唱することによってそれをわがものとする読者、ここで交わされるのは強度であり、頂の高さなのである。高いが故の空気の薄さ、そして純粋(rein)さ、これが読むことと書くこととによって強度が純粋に交わされることの条件であり、血によって書かれたものを愛する理由なのである。シルス・マリーアにおいても、タウテンブルクにおいても、ニーチェが空気の性質にとても敏感に気を使っている理由はこれであり、そこでは何よりも空気の純粋さが重要視されているのである。血と箴言の中には、強さの度合いがあり、夾雑物を取り除いた強さの度合いこそそこで交流されるべきものなのである。しかしわれわれはおそらくその強度の質についても述べなければならないだろう。肯定的か、否定的か、これが強度においてさらに見極められなければならないことなのである。「今ひとりの神がわたしを貫いで踊っている」(jetzt tanzt ein Gott durch mich)。ニーチェはこの言葉をもってこのアフォリズムを終える。踊ることは肯定することである、とニーチェは言いたいのである。

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