《<Circulus vitiosus dues> とクロソウスキー: ニーチェ解釈資料》

瀬谷こけし

1.テキスト

 はじめに、ピエール・クロソウスキーがニーチェのの表現をどのように理解しているかが間違いなく理解できるように、論文「永遠回帰の体験」(『ニーチェと悪循環』所収)のその箇所を長めに引用する。なおイタリックは原著者によるものであり、下線による強調はすべて引用者によるものである。

> Les hautes tonalités nietzschéennes ont trouvé leur expression immediate dans la aphoristique : là même, le recours au code des signes quotidiens se présente comme un exercice à se maintenir continûant discontinu à l’égard de la continuité quotidienne. Quand les Stimmungen s’épanouissent jusqu’en des physionomies fabuleuses, il semble que ce flux et reflux de l’intensité contemplative cherche à créer des points de repères à sa proper discontinuité. Autant de hautes tonarités, autant de dieux : jusqu’à ce que l’univers apparaisse comme une ronde de dieux: l’univers n’étant qu’un perpetual se fuir soi-même, qu’un perpétuel se retrouver soi-même de multiples dieux...

Cette ronde des dieux se pourchassant n’est encore qu’une explication, dans la vision mythique de Zarathoustra, de ce mouvement de flux et reflux de l’intensité des Stimmungen nietzschéennes dont la plus haute lui advint sous le signe du Circulus vitiosus deus.
Le Circulus vitiosus deus n’est qu’une dénomination de ce signe qui prend ici une physionomie divine à l’instar de(*) Dionysos : par rapport à une physionomie divine et fabuleuse, la pensée nietzschéene respire plus librement que lorsqu’elle se débat au-dedans d’elle-même comme dans le piège où la fait tomber sa vérité propre(**). Ne dit-it pas en effet que l’essence véritable des choses est une affabulation de l’être qui se représente les choses, sans laquelle l’être ne saurait rien se représenter?
La haute tonalité d’âme, en laquelle Nietzsche éprouva le vertige de l’Éternel Retour créa le signe du Cercle vicieux où se trouvèrent instantanément actualisées l’intensité la plus haute de la pensée refermée sur elle-même dans sa propre cohérence et l’absence d’intensité correspondante des designations quotidiennes; du meme coup se vidait la designation même du moi auxquelles(***) toutes se ramenaient jusqu’alors.
(Pierre Klossowski, Nietzsche et le cercle vicieux, Mercure De France,1969, p.102)

なお、二重下線をつけ( *)(**)(***)の記号を付したところはフランス語表現としてやや特異な箇所であり、十分注意して解釈する必要がある(通常のフランス語表現では(*)のdeは不用であり、(**)はsa propre véritéとなるだろう。(***)は対応する複数女性名詞が文中になく、万人によって使用される多数のmoiの指示作用が含意されていると解される)。
転記については一回点検を加えたが、いまだ誤記があるかもしれない。お気づきの方はご教示くだされたい。


2.拙訳
 拙訳を読者諸氏の閲覧に供する。この論文を書く時クロソウスキーがニーチェのテキスト群からどのような一貫した解釈を導き出しているかをできるだけ精密に理解したいという気持ちから翻訳を試みたものである。正しく理解しやすくまた正確な日本語訳の提供を志したが、問題があればご指摘下されたい。

>  ニーチェのさまざまな高い調子(tonarités)はその直接の表現をアフォリスティックな表現(la aphoristique)のうちに見出した。そこおいても日常的記号のコードへの訴えは日常的連続性とのかかわりでみずからを連続して非連続的に維持する練習として表われている(*1)。諸々の気分が諸々の神話的な相貌に達するまで花咲く時、冥想の強度の満ち引きは己に固有な非連続性に相応する指標点を創造しはじめるようにみえる。高い調子の数と同じだけ神々がいるのだ。そしてついには宇宙が神々の輪舞と見える地点にまで至る。宇宙は複数の神々が、絶えることなく繰り返し互いから逃れ去り、そして絶えることなく繰り返し互いを見出すこと以外のことではないのだ…(*2)
  神々が互いを追いかけ合うこの輪舞は、いまだニーチェの諸々の気分の強度の満ち引きの運動を、ツァラトゥストラの神秘的ヴィジョンの領域において説明したものに過ぎないが、その最高の強度は「悪循環・神(Circulus vitiosus deus)」という記号のもとでニーチェに訪れたのである(*3)。
  「悪循環・神」は、ここでディオニュソス的なものを導入するために神的な相貌をまとった記号のひとつの名称に過ぎない。こうしてひとつの神的で神話的な相貌とかかわることで、ニーチェの思考は、思考自身の内側で、いわば思考の真理そのものが陥れる罠の中で格闘するときより、より自由に呼吸する。実際ニーチェは諸事物の真の本質なるものは諸事物を表象する存在という作りごとであって、それ(=作りもの)なくしては何ものも表象されえないのだ、と言っていないか?
  魂の高い調子においてニーチェは永遠回帰の眩暈を体験し、悪循環という記号を創造したが、そのとき、思考の一貫性のなかで思考自身の上で閉ざされた最高の思考の強度と、諸々の日常的指示作用における対応する強度の欠如とが一瞬のうちに現実化される(actualisées)のを発見する。そのとき同時に自我(私)という指示作用そのものが空っぽになる。そのときまで、すべての指示作用は自我にもとづく指示作用に帰着していたのだ。


*1 ここの文章は『善悪の彼岸』56を念頭において理解しなければならない。
*2 ここは『ツァラトゥストラ』3-12「新旧の板」2からの引用。ここでクロソウスキーはニーチェが「世界」(Welt)と記しているところを「宇宙」(l’univers)と訳している。適訳だろう。原文は(mich [...] dünkte [...] die Welt […]als ewiges Sich-fliehn und –Wiedersuchen vieler Götter,…)。ここのところ、〈Sich〉をそれぞれの神が単独で隠れたり自らを見出したりすると訳す向きがあるかもしれないが、ここは神々の相互的な関わりと考えねばならない。氷上英廣(岩波文庫)は「(世界は)あまたの神々が永遠の追いかけっこを演じているところと思われた」と訳すが、これが正しい。
*3 〈Circulus vitiosus deus〉という表現において形容詞[vitiosus]は円環ないしは循環を意味する男性名詞[circulus]を修飾していると取るほかはない。男性名詞[deus]はその後ろに置かれている。これが[Circulus vitiosus deu.]という文であるなら、[deus]の後ろに[est]が省略されていて、「悪循環が神である」と取るのが普通の解釈だが『善悪の彼岸』(JGB)56におけるニーチェの意図は掴みやすくない(FW339の[vita femina]は後ろに[est]を補って解釈する普通のラテン語の読み方で問題ないであろうが)。何より彼は「神」を実体化して考えてはいないからだ。クロソウスキーはというと、そのニーチェの〈circulus vitiosus deus〉を文としてではなく記号として捉えている。クロソウスキーの理解に合わせるならばこれは「悪循環・神」という風に、同格の名詞を並列して置いたもの、あるいは「悪循環即神」と表現できるものであろう。しかし「即」を使うならこの「即」が何を意味しているか、十分な長さの説明が必要になるであろう。それは『ニーチェと悪循環』の著書一冊を書くに等しい追究を必要とするであろう。ここでは同格名詞の並列を示す表現として「悪循環・神」と表記しておく。ニーチェに戻れば[vitiosus]をどう捉えるのがよいかが重要な問題になる。しかしそれはまた別の場所で考えることにしたい。


3.参考:兼子正勝訳の紹介

 兼子正勝氏の訳を紹介しておきたい。かかる難読難解にして重要な著書を翻訳された氏の勇気と努力には大いなる敬意と感謝を表しておきたい。

>  ニーチェの高き音調は、アフォリズムという形式のなかに直接の表現形態を見出した。まさにそこでは日常的記号のコードを使うことが、日常的な連続性に対して自分をつねに不連続な状態に置くことの練習のようなものになっているのである。〈気分〉が高揚し、表情までもがすばらしい喜びに輝くときには、凝視の強度のこの波は、みずからの非連続性に目印をつけようとするようにおもわれる。音調の波の高まりの数だけ、それと同数の神々がいる。ついには宇宙が神々の円舞のように見えるのだ。宇宙とは、無数の神々がみずからを逃れ、みずからを見出し直す、たえざる過程にすぎないのだ…
  
互いに互いの後を追う神々のこの円舞、これはまだ、ツァラトゥストラの神話的ヴィジョンにおける、強度の運動についてのひとつの説明でしかない。つまり、ニーチェ的な〈気分〉の寄せては返す波のような強度の運動、そのもっとも高揚したものが〈神トイウ悪循環Circulus vitiosus deus〉という記号のもとにニーチェにやってくる、そうした〈気分〉の運動についての説明でしかない。
  〈神トイウ悪循環〉とはこの記号に与えられた名前である。この記号は、ここではディオニュソスそっくりの、神々しいばかりの表情を見せる。神話的にして神々しい表情を持つものを前にしたとき、ニーチェの思考ははるかに自由に呼吸する。あたかも思考それ自体の真理が仕掛けた罠にはまったかのようにして、ニーチェの思考がそれ自体のなかでもがいているときよりも。ニーチェは実際こう言わなかっただろうか。真に事物の本質と呼びうるものは、事物を思い描く存在がでっちあげた作り話であり、その作り話がもしなければ、存在は何も思い描くことができないのだ、と。
  ニーチェがそのなかで〈永遠回帰〉の眩暈を体験した魂の高き音調は、自分自身の統一性の中に閉じこもった思考に見られるもっとも強い強度と、そして日常的な指示作用に見られる対応する強度の不在とが、そこで一瞬現勢化される〈悪循環〉という記号を作り出した。そしてそのとき同時に、それまであらゆる指示作用の根拠となっていた、自我という指示作用そのものが内実を失ってしまったのだ。
(ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環』、兼子正勝訳、哲学書房、1989年、pp/130-131。訳中の傍点はイタリックに変えた。またフランス語文に引いた二重下線に対応するところには引用者が同様に二重下線を付した。ただし三番目の箇所は表記しにくいのでその近傍に付しておく。さらにフランス語の[se]、ドイツ語の[sich]の訳に相当するところには普通の下線を付しておいた。読解の参考にしていただければ幸いである)



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