F・ニーチェの〈circulus vitiosus deus〉という思想  研究発表資料(2)

瀬谷こけし

 標記の発表で配布した資料を4つに分けて公開します。配布した資料には下線等の強調を付してありますが、ここでは強調の手間を省いています。必要を感じた場合には追々付してゆくかもしれません。ニーチェ研究、クロソウスキー研究、あるいは宗教哲学研究の役に立てていただければ幸いです。


F・ニーチェの〈circulus vitiosus deus〉という思想  研究発表資料(2)
          日本宗教学会 第77回学術大会 2018年9月8日 於 大谷大学


1.『善悪の彼岸』56番。
1-1.テキストの点検。
「Circulus vitiosus deus」という表現は『善悪の彼岸』(JGBと略)(1886年春完成)第三章「宗教的なもの」(das religiöse Wesen.)中のアフォリズム56番に現れる。この第三章は「人間の魂とその限界、およそこれまでに窮められた人間の内的経験の領域、これらの経験の高さや遥けさ、魂のこれまでの歴史の全体(die ganz bisherige Geschichte der Seele)となおまだ汲みつくされないその諸可能性」(信太正三訳)についての心理学的狩猟とニーチェが呼ぶものであるが、その多くは宗教的メンタリティの系譜学的研究ノートと呼びうるような歴史的心理学的な考察である。その中で56番は、過去についての学としての歴史的研究を離れている。その内容は、最も世界否定的な思考法(die weltverneinendeste Denkweise)をアジア的・超アジア的な眼差しをもってその中まで、そしてその下まで(hinein und hinunter)、(しかも道徳の束縛や妄念に囚われてではなく)見た者は、もしかしたら(あえて自ら欲することなく)その逆の理想に対する眼を開いたかもしれないと(直接法で、しかも話法の助動詞によるやわらげなしに)いう問いを立て、その問いに事柄を厳密化する説明を自分自身の経験の場から加えることである。ここに自分の経験の場が出てくるのは自分の他にそのような理想に眼を開いた者が見いだせないという特別な事情による。加えられるのはまず「その逆の理想」というのは、「最もやんちゃで(übermütig)最も活発で最も世界肯定的な人間の理想」だという説明であり、さらにその人間とはどういう人間かの説明が加えられる。その説明の要点は、その人間は過去にあったことと現にあることに対して上手に折り合いをつけられるだけでなく、過去にあり現にあることをそっくりその通りに、ダカーポを叫びながら、再び持ちたいと思う人間だということである。過去と現在をそっくりそのまま繰り返し持ちたいとする願望は例えば厳しい試合に辛うじて勝利したスポーツ選手などに見られる気がするが、二―チェが語るダカーポが叫ばれるのは己に対してばかりでなく、その場面にかかわる劇の全体に対してであり、しかもそれは単に一個の劇に対してではなく、根本においてはまさにこの劇を必要としている者(Dem, der)に対してだと言う。---だがしかしいったい誰が最も世界肯定的な人間の登場する劇を必要としているのだろうか? しかもそれは、その者が自己を必要とし、また必要ならしめているからというのである。その者はここで名を与えられないまま導入され、このアフォリズムの最後まで名を与えられることはない。あるいは、あえて言えば、その者こそ最後に登場する「circulus vitiosus deus」という名の神だと言うべきなのだろうか。ともあれここでその神格らしき者(大文字「Dem」)が導入される時、ニーチェの思考は通常の思考から逸脱し、悪意を持って書いたかのようにのびのびとわれわれの思考を微妙な差異の中を運動させる(例えば[weil]と[weil]が理由づける主文とのわずかな違い)。ともあれ読解を進めよう。
 その者が最も世界肯定的な人間を自己として必要とするのは、その世界肯定的な人間(そしてその彼の登場する劇)の中にその者が存在して働いているからではないだろうか? その者は、己を絶えず繰り返し(immer wieder)肯定する必然があるゆえに、絶えず繰り返し(劇として)己の存在を必要としている、ということだろうか? つまり、肯定する意志が存在するゆえに、その意志を肉体化し、劇を肉体的なものとして存在させることが必要とされ、現実化されているということなのだろうか? ここでニーチェは最後に「どうなのだろうか?」(Wie?)と問いを投げ、これ以上の論理の解明を試みることを放棄しているかに見える。だが最後の文「Und dies wäre nicht --- circulus vitiosus deus?」がつづき(Und)、問いと追究はさらに進む。この最後の文において「dies」は何を指示しているのだろうか? A)既出名詞を指しているのか、B)前文を指しているのか。既出名詞を指す場合、それはa)「dies Schauspiel」(この劇)を指すのだろうか、それともb)「Dem, der」(その者)を指すのであろうか? あるいはc)この両者が分けられないのだろうか? ここにはニーチェの言葉の超絶的な技術が認められる。つまり「dies」(これ)はまずこの劇を指し、世界のこの劇が「circlus vitiosus」であると、劣悪な繰り返しであることが言われる。しかしそれが同時に、何の繋辞による接続もなく神(deus)であることが言われる。劣悪な芝居の繰り返し、それがそのまま世界肯定的意志である(ディオニュソスの)神の肉体化であるというのである。この劇もこの神的な者も「劣悪な繰り返し即神」という記号によって表現されるのだ。あるいはこうとさえ言える「最悪の円環即神」。この「circulus vitiosus deus」という記号の内に、JGB 56のアフォリズムのすべての内容が表現されている。この記号の内にA)、B)の区別も廃棄されている。
 あともう一つ問うべきことは「wäre」である。この接続法2式は何のためらいを示しているのだろうか? それはニーチェがいまだディオニュソス的なものの本質の究明を完了していないことを示しているだろう。換言すれば「vitiosus」の「悪」をどう規定できるかという問題である。それは月並みな劇しか上演されないということだろうか? 最終的には「悪」はこの円環の中に新しいものは何もないということを意味するだろう。

1-2. テキストの紹介:JGB 56.
Wer, gleich mir, mit irgend einer räthselhaften Begierde sich lange darum bemüht hat, den Pessimismus in die Tiefe zu denken und aus der halb christlichen, halb deutschen Enge und Einfalt zu erlösen, mit der er sich diesem Jahrhundert zuletzt dargestellt hat, nämlich in Gestalt der Schopenhauerischen Philosophie; wer wirklich einmal mit einem asiatischen und überasiatischen Auge in die weltverneinendste aller möglichen Denkweisen hinein und hinunter geblickt hat --- jenseits von Gut und Böse, und nicht mehr, wie Buddha und Schopenhauer, im Bann und Wahne der Moral ---, der hat vielleicht ebendamit, ohne dass er es eigentlich wollte, sich die Augen für das umgekehrte Ideal aufgemacht: für das Ideal des übermüthigsten lebendigsten und weltbejahendsten Menschen, der sich nicht nur mit dem, was war und ist, abgefunden und vertragen gelernt hat, sondern es, s o w i e e s w a r u n d i s t , wieder haben will, in alle Ewigkeit hinaus, unersättlich da capo rufend, nicht nur zu sich, sondern zum ganzen Stücke und Schauspiele, und nicht nur zu einem Schauspiele, sondern im Grunde zu Dem, der gerade dies Schauspiel nöthig hat --- und nöthig macht: weil er immer wieder sich nöthig hat --- und nöthig macht --- --- Wie? Und dies wäre nicht --- circulus vitiosus deus?

注:「Circulus vitiosus deus」の「vitiosus」は「悪意ある」(wicked, vicious)を意味せず、むしろ「欠陥のある」(full of faults, defective)を意味している。(下線、及び太字による強調は引用者)

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