《精神とは何か? ---ニーチェ読解》

瀬谷こけし

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  わたしが問題にしたいのはニーチェが精神(Geist)をどう把握していたか、その特異な捉え方である。それについては何よりも重要なのは『ツァラトゥストラはこう言った』第二部の「名高い賢者たちについて」で述べられていることである。その説の前提として語られるのは、名高い賢者たちは、ぼんやりした(blöde)目をした民衆同様、精神とは何かを知らない、という主張、彼らとツァラトゥストラ自身とを隔てるこの一本の切断線である。それをツァラトゥストラは名高い賢者たちに向かって言うのである。こういうものとして、ニーチェはツァラトゥストラの精神論を明示しようとする。その文章は一見わかりやすく見えるがしかし実際には突き止め難く、読み抜きがたいものであろう。何よりも原典から紹介する。

> Geist ist das Leben, das selber in’s Leben schneidet: an der eignen Qual mehrt es sich das eigne Wissen, --- wusstet ihr das schon? (KSA Bd.4, S.134)

 最初の段落は以上である。精神の定義がここに示されている。

 氷上英廣はこれを

> 精神とは、みずからの生命(いのち)に切りこむ生命(いのち)である。それはみずからの苦悩によって、みずからの知を増すのだ。---あなたがたはまだこのことを知らない。(岩波文庫、上、p.176)

と訳す。これを三つの部分に分ければ、1)Geist...schneidet:まで、2)an der engnen...Wissen,まで、3)--- wusstet ihr das schon?のとこと、に分けられる。3)に関しては氷上の訳「---あなたがたはまだこのことを知らない」に問題はなく、他の部分の現在時制に対して [wusstet] と過去時制で語られることの意味もよく表現できている。もっともわたしなら「あなたがたはこのことをすでに知ったことがあるのだろうか?」と疑問文の形を残して訳すところであるが。

 また2)に関しては文中の [es] が [Leben]を受ける人称代名詞なのか、[das eigne Wissen] を先立って受ける形式主語なのか、判じがたいところがあるが、氷上のように「それは」と訳してしまうと、「精神」を受けるように誤解されるおそれがあり、文意を曖昧にしかねないところがある。それと並行して [mehrt ... sich] の [sich] が三格(dativ)か四格(accusativ)かということが文法解釈上の問題点になる。動詞 [mehren] に関して、[sich]を三格にして使う例が多くあるとは思えないが、ここでは生(das Leben)において知(Wissen)がどのような仕方で増加するかという一般論を述べていると解釈すべきところであり、個々の生あるものがおのれの責め苦のような苦難(Qual)の経験においてみずから(生についての固有な)知を獲得し増やしてゆく、という主張であると解釈すべきである。おのれの受ける責め苦や苦難によってしか生についての知は獲得できないというのである。そして [eigen] であるが、「固有の」「自分の」と言いうるためには、画定され自立性を持った「生あるもの」が考えられていると考えなければならない。その生あるもののおのれ自身の責め苦においてのみその生あるものの固有の知は増えるというのである。生と言っても、ここでニーチェが考えているのは分子的な個別の生であり、その分子的な個別の生が獲得する生の深みの洞察としての知である。以上のような考察からして、 [es] は生(das Leben)を受ける人称代名詞ではなく(まして「精神」を受けるものでもなく)、後に出てくる [das eigne Wissen] を先行的に受ける形式主語と見なければならない。そして [mehrt ... sich] の [sich] は四格と見れば十分である。とりあえずそこのところを訳しておけば「おのれみずからの責め苦においておのれみずからの知は増えるのである」というところだろう。

 次いで1)である。この [Geist ist das Leben, das selber in’s Leben schneidet] の文章の難しさは、[schneidet]が自動詞かそれとも他動詞かという問題が一つであり、そして [selber] が本来の文法通り主格強調のために使われているのか、そうでないのかという問題である。氷上訳は先にも示した通り「精神とは、みずからの生命に切りこむ生命である」でありなかなかの名訳であると思うが、みずからの生命の中に切りこんでゆく自傷性こそが精神と呼ばれるべき生の本質をなすものだという主張がニーチェの主張として示されることになる。しかしここで疑問に感じるのは、「みずからの生命に」と [selber](みずから)の強調が「切りこまれる生命」の側に掛けて訳されていることである。管見、副詞 [selber] をニーチェが主格強調のためにではなく補足語強調のために用いた例をわたしは知らない。この文章においてもその読解の原則を貫くならば、むしろ「(精神とは)みずから生命に切りこんでゆく生命である」と(「みずから」という)強調を主格の側に掛けるべきではないかと思う。自傷性ではなく切りこんでゆく勇気こそが強調されていると理解するのである。動詞 [schneiden] と同系の名詞 [Schneid] が気概、果敢というような意味を持つようにである。そして、動詞 [schneiden] の解釈も、あえて他動詞風に理解する必要はなく、自動詞として [in+acc. schneiden] の基本の通り「…の中に切り込んでゆく」という意味に従って理解すればよいであろう。試みに訳せば「精神とは、みずから生の中に切り込んでゆく生のことである」と訳せるであろうか。勇気をもってみずから切り込んでゆくことなしには生についての深い認識は得ることができない。氷上訳は自傷性に傾き過ぎているように見える。もちろん、生の中に切り込んでゆけば、生からのさまざまな反発や反撃は遭うことは避けがたいであろう。しかしその切り込みなしには生についての深い、貴重な知は得られるはずもないのである。生についての深い貴重な知、これが精神と呼ばれる生の求めるものである。精神と呼ばれる生のみが得ることのできる知が存在するのである。

 拙訳を示しておく。

> 精神とは、みずから勇敢に生の中に切り込んでゆく生のことである。おのれみずからの苦難においてこそおのれの知は増えるのである、---あなたがたはこのことをすでに知っているか?




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