《紫式部の歌のなまおぼおぼしきことと朝顔》

瀬谷こけし

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 『紫式部集』に「方たがへにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて、帰りにける早朝、朝顔の花をやるとて」との詞書をつけた次の一首がある。

> おぼつかなそれかあらぬか明け暗(ぐれ)の空おぼれする朝顔の花  (4)

「明け暗(ぐれ)」を「明け暮(く)れ」とあてるのは誤りで、これは南波浩のように「夜明け前のうす暗いころ」と解するのが間違いなく正しい。そう解さなければ「空おぼれ」する「時」が定まらなくなってしまう。「おぼつかな」は「その真意がわかりません」と問いただす趣だろう。たしかになにごとかはあった。「それ」である。ここの「それ」は、対称(あなた。お前)を指すと考えてしまうと、話が大雑把になりすぎて歌を遣る意味すらなくなってしまう。しかし「空おぼれする」とはどういう意味だろう? 「空とぼけをする」と解する向きが多いかもしれないが、「空」は「ぼっとして上の空になっている」と取って、「朝顔」を(「相手の(とぼけた)朝の顔」ととるのではなく)詠み手みずからの姿の比喩とることはできないだろうか。
 詞書の方であるが、「わたりたる人」と特に敬語もつけずに語っているのは、そうする必要があるともみえないからだろう。そして「なまおぼおぼしきこと」である。「おぼおぼし」は「朧朧し」であり、これは何事かをまさしく朧化して語っているのであるが、その前に(接頭語のように)つく「なま」の方には何かしら表現の著しさがつく。「なまに」は「なまな、半端な、未熟な、不十分な、生身の」などのニュアンスがあるが、ここは「半端でまたなまなましいこと」、「なまなましいがはっきりと言えないこと」であろうが、そのエッセンスは「本気がどこにあるのかわからない(なまみの)こと」というところにあるだろう。ここにも、作者紫式部のものごとをはっきりと認識しようとする性格が見て取れるであろう。
 この歌の「おぼつかなそれかあらぬか」には『伊勢物語』六十九段の斎宮の歌の「おもほえず夢か現(うつつ)かねてかさめてか」と共通するところがある。式部の歌のAか非Aかがはっきりわからないという思考の形式は斎宮の歌の問いの形式を包摂するが、斎宮の歌は「夢/現」の中間状態、「ねて/さめて」の中間状態を暗示的に示唆する。他方で式部の歌は「それかそれでない」かを明確に問い詰めるという形式を持ちつつ、肝心の「そこ」のところがはっきりとわからないという曖昧さの中に宙吊りにされた状態に思考が置かれてそのためにぼっとなってしまっているという状態を示す。ここでは思考停止状態から欲望への流れが生じているのである。朝顔につけた歌は単に相手を詰問しているわけではなく、欲望が流路を探してみずからを提示しているのである。詞書の「朝顔の花をやる」とはその意味であり、歌は朝顔であるみずからの姿を示しているのである。
 まずはこのくらいのことをわたしの読解としておこう。


*本稿は中野幸一「『源氏物語』の歌、紫式部の歌」、『日本歌人』2018年12月号(通巻747号)所収、にヒントを得て書かれたものです。

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