《ニーチェの「墓の歌」》

瀬谷こけし

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 ニーチェのこんな表現はどうだろう。『ツァラトゥストラはこう言った』第二部の「墓の歌」(Das Grablied)の中のものだ。

> …meine Feinde! Machtet ihr doch mein Ewiges kurz, wie ein Ton zerbricht in kalter Nacht! Kaum als Aufblinken göttlicher Augen kam es mir nur, --- als Augenblick!
(Zar II, Das Grablied, KSA)

上掲文中の人称代名詞 [ihr] は前文の [meine Feinde] を受け、[es] は [mein Ewiges] を受ける。
 そこのところ、幾つかの日本語訳を紹介しよう。

> わたしの敵たちよ! 〔中略〕あなたがたはわたしの永遠なもののいのちを縮めてしまった。それは、夜寒が急に来て、いままで聞こえていた楽の音が絶えたようだった! それは神的な眼がちらとわたしのほうにむかってひらめいたというだけだった。文字どおり---瞬間だった! ①
(氷上英廣、岩波文庫)

> わたしの敵たちよ! けだし、きみたちは、寒い夜なかに物音が砕けるように、わたしの永遠的なものを束の間のものたらしめたではないか! この永遠的なものがわたしに来るや、ただわずかに、神々しい両目のまたたきとしてにすぎなかったのだ! ②
(吉沢伝三郎、ちくま学芸文庫)

> わたしの敵たちよ、〔中略〕おまえたちはわたしの所有した永遠的なものを短くしてしまったのだ。まるで一つの楽音が寒い夜空にくだけて消えるように。それは、神々しい目のつかのまの輝きよりも短く、ただ瞬間として、わたしの所有であったのだ。 ③
(手塚富雄、中公クラシックス)

 大意は以上の訳から汲み取れるだろう。できるだけ逐語的に記すなら、[mein Ewiges](わたしの永遠のもの)を [meine Feinde](わたしの敵たち)が [kurz](短く)してしまった。あたかも [ein Ton](ひとつの音)が [in kalter Nacht](寒い夜のなかで) [zerbricht](壊れる)ように、というのだ。そしてその [mein Ewiges = es] (わたしの永遠のもの)は [kaum](かろうじて)わたしのところに [nur](ただ) [göttlicher Augen](神的な眼の)[Aufblinken](閃光) としてやってきた(だけ)というところなのだ、--- つまり[Augenblick](瞬瞥-瞬間)として! というところだろうか。

 この文章はニーチェの中でも際立ってデリケートな文章ではないだろうか。難解な表現に満ちている。まずは (1)「[mein Ewiges](わたしの永遠のもの)」である。これをどのように捉えたらよいのだろうか。次いで、そして最も神秘的な表現が(2)「 [ein Ton](ひとつの音)が [in kalter Nacht](寒い夜のなかで) [zerbricht](壊れる)」というところである。夜中に水が氷結してグラスが割れるとうならわかりやすいが、そういう暗喩の表現ではないだろう。そして最後の(3) 「[Augenblick](瞬瞥-瞬間)として!」も簡単にはゆかない。誰の [Augen] であり [Blick] であるのか。単に「瞬間」と訳して済ましていられるものではないだろう。

 これらの問題を考えていてわたしは山中智恵子の次の歌に思い当った。

> 瞬息のこころそそぐとたまひてしからくれなゐや眼閉ぢ思はむ
      『虚空日月』

もみじの景色のなかあたかも永遠なる天から一瞬わたしにそそがれた心、その貴さ、それを歌った歌と見える。
順々に見てゆこう。

 そもそもまず [meine Feinde] をどう訳すかという問題だが、ここはむしろ、わたしに仇なす者たち、わたしに敵対してくる者たち、という捉え方の方が適切なのではないだろうか。彼らがわたしの[Ewiges](永遠のもの)を [kurz](短く)してしまったのだから。短くした能動的行為者はわたしではなく、彼らなのだから。ここは「わたしを敵とする者たち」と訳す方がニーチェの思考の流れにふさわしい。そして(1)「わたしの永遠のもの」についてであるが、これについては、とりあえず安易に何と考えるわけにもゆかない。わたしはそれをニーチェの「最も魅惑的な夢」と考えたいのだが、それについては後で述べる。

 最大の問題は(2)の「一つの音」(ein Ton)でありそれが「壊れる」(zerbricht)という表現である。これは「わたしの永遠のものが短くされる」という経験の比喩として導入されている表現である。ここは吉沢のように「物音が砕ける」②と訳しても何ら明確なイメージを与えてくれない。また手塚のように「一つの楽音が寒い夜空にくだけて消える」③と「夜空」を持ち出して、さらに [zerbricht] を「消える」にずらしても、「永遠のもの」を「楽音」と言い直しただけで、その壊れ方について何のイメージも与えてくれない。それを言うのならニーチェは動詞に[zerbrechen]ではなく[schwinden]なり[verschwinden]なりを使っていただろう。ここは[wie ein Ton zerbricht in kalter Nacht!]と直喩を使って表現されているのだから、喩の方に、明確なイメージが委ねられていると取らねばならない。問題は「ひとつの音」の方である。それは(敵対者たちに)短くされるのであるから、壊されるまでツァラトゥストラの頭の中で鳴っていた音に違いない。氷上が「いままで聞こえていた楽の音が絶えたようだった!」①と訳すのはこの点で適切である。そして[in kalter Nacht] である。ここでは [Nacht](夜)が無冠詞で使われている。「ある寒い夜」に壊れるのではない。もちろんあの寒い夜に壊れたのでもない。「寒い夜のなかで」壊れるのである。ここは氷上①の「夜寒が急に来て、--[中略]--聞こえていた楽の音が絶えた」ということとも違う。あえて言うなら「ひとつの音が寒い夜の中で(何かが来て)壊れた」のである。壊したものが何かはわからないが、それは急に来た夜寒ではない。それが何かを言うことができない出来事によって、寒い夜のなか、ひとつの音が壊れるのである。こう訳せるだろうか。「いままで頭のなかで聞こえていたひとつの音が、寒い夜のなか、壊れ消えるように!」と。

 「ひとつの音」とは何か。それはニーチェの思考においては、[der entzückendester Traum meines Lebens](わたしの人生の最も魅惑的な夢)(ルー・フォン・ザロメの日記、1882年8月14日)と言うべきものではないだろうか。その夢は半年ほどで壊れるのである。おそらく1882年11月のライプチッヒで。これこそがニーチェの頭のなかで聞こえていた「ひとつの音」であり、短くされてしまった「わたしの永遠のもの」なのではないだろうか。

 (3)の神的な眼の閃光としてわたしのところのやってきたものもまた、「最も魅惑的な夢」と別のものではないだろう。しかしここでは神的なものにはディオニュソスという名がふさわしいであろう。ルーを通じて束の間ニーチェは神的な者の眼の輝きが見えるようになる。山中智恵子は、自分に、「からくれなゐのもみぢ」を通じて「こころをそそぎ与え」てくれた者の名をいわない。それは瞬息の出来事なのである。ほっと息をつくひと時の出来事なのである。ニーチェが[als Augenblick!] (瞬瞥・瞬間として)と記す時、この[Augen]、この[Blick]が誰のものであるか曖昧にしておいてはいけない。それは「ディオニュソス」の眼であり「ディオニュソス」の瞥見なのである。ディオニュソスについては改めて説明しなければならないが、ここでニーチェはディオニュソスと呼ぶべき神的な者の一瞥に会ったという出来事を語っているのである。

 最後に、上掲の箇所を再掲しその拙訳を示しておこう。 

> …meine Feinde! Machtet ihr doch mein Ewiges kurz, wie ein Ton zerbricht in kalter Nacht! Kaum als Aufblinken göttlicher Augen kam es mir nur, --- als Augenblick!
(Zar II, Das Grablied, KSA)

> わたしの敵対者たちよ! わたしの永遠のものをお前たちが短くしてしまった。あたかも、いままで聞こえていたひとつの音が、寒い夜のなかで壊れて、消えるように。そしてそのわたしの永遠のものは、かろうじて、わたしのところにただ神的な眼の閃光としてやってきただけなのだ、--- つまり瞬瞥-瞬間として! 
(拙訳)



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