《宮沢賢治「銀河鉄道論」 書評の予告》

瀬谷こけし

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 『宮沢賢治研究アニュアルVol.28』に渋谷百合絵の「「銀河鉄道の夜」の文学的達成---祭の祈りを〈描く〉ということ」という論文が掲載されていて、17日東京に行く時新幹線の中で読んでいたのだが、とても感心した。祭式の意味についてのこのような解釈は今まで見たことも聞いたこともないものだったからだ。--だが、その後考えているうちに、この考えには賛成できないという思いが湧いてきた。それで反論のようなものを書きたくなっている。それは「無限性を含む願望の祭式的な回収に対する反論」ということになるだろう。「銀河鉄道」で言えば「ほんとうの幸い」という無限性を含み、曖昧さにどこまでも付きまとわれる願望を描写の中に取り込むことによって回収し、その願望も成就したとする仕組みを賢治の「銀河鉄道」はもっているという読解を渋谷は示すが、このような回収方法は願望の精密化と言う概念的かつ実践的な努力を見失わせてしまうと思うのだ。葬式でいえば、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて、そして会葬者がみな死者の冥福を祈れば、それで「死者の冥福」という無限性を含み曖昧な願望が吸収され、それでその死者の逝去に関する本質的な問題の解決が着くという発想とよく似たやり方だ。--この考え方を批判したい。

 もう一点は、銀河鉄道の中でジョバンニの「さびしさ」が解消されかおるとも普通に話せるようになるきっかけとしての「工兵隊の発破」という男性的で、生者(魚)の殺害を含む行為の実行者にジョバンニが自らを近づけることによって、かおるたちへの優越感が持て、それによって「さびしさ」が解消されるという着想を賢治が(とりわけ第一次稿では)顕著にもっていたことを見落としてはいけないと私は考えるのだが、渋谷はその地点を明確に押さえていないと見えるという点だ。

 この二点について、ブログで短くまとめてみたい。

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補足:新校本全集第10巻本分篇、初期形1、pp.22-23。

「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛りだされて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもう踊りだしたいくらゐ愉快になって云ひました。「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒や何かゞまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかなが居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談につり込まれて云ひました。
「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。


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