《『ツァラトゥストラ』を読む(2) ゲーテの影》

瀬谷こけし

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  『ツァラトゥストラ』3-1の次のような文章、これを見てゲーテの影を見て取る人がどれだけいるだろうか? このあたりである:

> Du aber, oh Zarathustra, wolltest aller Dinge Grund schaun und Hintergrund: so musst du schon über dich selber steigen, - hinan, hinauf, bis du auch deine Sterne noch unter dir hast!
Ja! Hinab auf mich selber sehn und noch auf meine Sterne: das erst hiesse mir mein Gipfel, das blieb mir noch zurück als mein letzter Gipfel! -"

 問題はこのなかの[-hinan, hinauf]のところである。上記のところ氷上英廣訳(岩波文庫)はこうである。

> おお、ツァラトゥストラよ。おまえはあらゆる事物の根底を見、その背後にあるものを知りたいと願った。だから、どうしてもおまえはおまえ自身をのりこえて登らなければならない。-上へ、上方へ、おまえがおまえの星々をも眼下に見おろすようになるまで!
 そうだ! わたし自身を見おろし、わたしの星々をも見おろす。これこそはじめてわたしの山頂と呼ぶにあたいするものだ。これこそわたしの最後の山頂として、いまま残されていたものだ-」

 的確な大変よい訳だと思うのだが、しかし「-上へ、上方へ」では[-hinan, hinauf]のニュアンスは伝わらないと思う。[hinan]と[hinauf]、この二つの副詞のニュアンスはどのように違うのだろうか? 両者に共通の[hin]は「あちらへ」という話者から遠ざかる方向を示す語であるが、[an]と[auf]ではかなりニュアンスが違うと思う。大まかに言って[an]は同じ高さでの接触、[auf]は何かの上に立つというイメージだと言ってよいのではないだろうか? ここで直ちに思い出すのがゲーテの『ファウスト』の最後の言葉である。それはこうだった:

 神秘的なコーラスが歌うのは

Alles Vergängliche
Ist nur ein Gleichnis;
Das Unzulänliche,
Hier ist’s getan;
Das Ewig-Weibliche
Zieht uns hinan.

 ここのところ山下肇訳(『ゲーテ全集』潮出版社)を紹介しておく。
 「すべての移ろいやすきものは/およそ比喩なるにほかならず。/足らずしておわるものも/ここでは実現となりつくす。/表現の及ばざるものも、ここについに成しとげられたり。/永遠の女性的なるものこそ/われらを高みのかなたへひいてゆいく。」

 この最後の最後の語が[hinan]なのである。この最後のコーラスについてニーチェはその重要な詩の中でも論究しており、このコーラスに示されるゲーテの思想がニーチェが大いなる関心を持っていたのは明らかだ。ゲーテは「永遠の女性的なもの」がわれわれを「あちら」に(高みのかなたへ)引いてゆくと言う。これに対して言えばニーチェが示そうとするのは「永遠に男性的なもの」がわれわれに救済をもたらすという思想だと言える。だからこそツァラトゥストラは、梯子もかかっていない急坂を独力で登ってゆかなければならないのだ。

 そしてここで注目しておくべきことは、ゲーテが[zieht ... hinan]と言っているところだ。いわば蜘蛛の糸が高みから引っ張り上げるようにわれわれを引き上げるのではなく、永遠に女性的なものはわれわれに密着しつつ引き上げる、ということなのだ。蜘蛛の糸方式であるならばここは[zieht ... hinauf]と言っていたことであろう。上へ、あちらへという方向は共通ながら、その引き上げの方式はずいぶんと違う。ツァラトゥストラの方では[steigen ... hinan]は急坂と密着しながら上へと昇ってゆくことであろう。その時、「自分の上るべき最後の頂上」はしっかりとイメージされている。そのことこそニーチェが[hinauf]で示そうとしていることだろう。それの成し遂げられた時には「自分の星たち」(そこにはゲーテも含まれているだろう)も自分の下方に持たれることになるだろう。

 ゲーテの『ファウスト』はこのようにニーチェの思考と著作に重要な影を落としている。それは例えば、1982年8月のタウテンブルクで、ニーチェとルー・フォン・ザロメの間で交わされたとみられるやりとりの中にも見て取ることができる。ニーチェはこんな風に書いている。

> Heroismus – das ist die Gesinnung eines Menschen, der ein Ziel erstrebt, gegen welches gerechnet er gar nicht mehr in Betracht kommt. Heroismus ist der gute Wille zum absoluten Selbst-Untergange. (Ernst Pfeiffer, 1970, S.211)
(英雄主義 --- それは、その目標と引き比べれば人間のことがもはやまったく問題にならないような目標を追究する人間の心的態度のことである。英雄主義は絶対的な自己-没落へのよき意志である。)(拙訳)

> Der Gegensatz des heroischen Ideals ist das Ideal der harmonischen All-Entwicklung – ein schöner Gegensatz und ein sehr wünschenswerther! Aber nur ein Ideal für grundgute Menschen (Goethe zb.). (ibid.)
 (英雄的理想の反対物は調和的な全体的発展の理想である --- 見事な反対物でありまことに望むに値する反対物である。しかしこれはきわめて根のよい人間のための理想である(例えばゲーテのような)。)(拙訳)

 この時期のやり取りでルー・ザロメはニーチェの内に「英雄的性質」を読み取る。

> In N’s Charakter liegt ein Heldenzug und dieser ist das Wesentliche an ihm, das, was allen seinen Eigenschaften und Trieben das Gepräge und die zusammenhaltende Einheit giebt. (Pfeiffer, 1970, S.184)
(ニーチェの性格の内にはある英雄的傾向がありそれは彼の本質的なものであって、その本質が彼のすべての固有性や衝動に刻印を与え、ひとつに結び付いた統一性を与えているのである。)(ルーの日記、1882年8月18日)(拙訳)

 そしてルーは自分自身を「自然必然性に似た仕方で自分を成長させる、自己に集中した存在」と見ているのである(Und während ich es für ganz richtig halte was N. von mir sagte: >>daß für ein in sich concentriretes Wesen wie ich, welches sich ähnlich naturnothwendig entwickelt, ...)(ibid. S.189)。

 ルー・ザロメのするニーチェのこのような「英雄主義的存在」としての見方はどこまでニーチェの思想の深みに届いているのだろう? そしてそれはゲーテ的な生とどう対決させられるのだろうか? そして1882年8月のニーチェとルーのやりとりはどう捉えたらいいのだろうか? このような問題についてはまた稿を改めて考えたい。




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