《ツァラトゥストラとこびとの対決 『ツァラトゥストラ』を読む(3)》

瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラ』第三部2の「幻影と謎」の章は、ニーチェがもっとも強い決意をもって書いた一章だと思うが、言語と文章力の限界を超える試みがなされているように思う。いままで語られたことのないことが語られているのだ。だがこの章の読みかたをよく分かっていないひとがまだ多くいるように思う。ハイデガーもまだ十分ではないが(N,I, S.289ff)、その正しい強い読み方のできない人は、まず文中の表現で言えば、「Seine Schweigen aber drückte mich」ということ、「こびと(Zwerg)の沈黙がツァラトゥストラを圧迫した」というこの圧迫を正しく理解しようとしないためだ。そうしたツァラトゥストラの(こびとに対する)優位を自明のこととして読んでしまっては、何も読んだことにならない。ここでツァラトゥストラはこびとの言った「すべての投げ上げられた石は落下せざるを得ない」という真理と、その事態についてのこびとの沈黙に、圧迫され、ほとんど押し負かされているのである。ルー・アンドレアス・ザロメ(Lou Andreas-Salome) が直接にこの箇所の読解を示していないのは残念なことであるが、ルーが「当時(1882年8月)は永遠回帰の観念がニーチェにとっていまだ確信(Ueberzeugung)となっておらず、やっとひとつの恐怖(Befürchtung)になっていたばかりなのだった」(拙訳)(FN,S.224/訳本p.276)と言い、いわばニーチェが自らをこびとの立場に置き、そして次のメモをその証拠として示すのは『ツァラトゥストラ』解釈としてこの上なく適切なことなのである。つまりルーあての8月25日のメモ「Zu Bett. Heftigster Anfall. Ich verachte das Leben. FN.」(床に就きます。極めて激しい発作です。わたしは生(きること)を尊重しません)(N書簡集290番)。
 とすると、この激しい発作において、ニーチェは投げ上げた石が自分の上に落ちてくるほかないこと、自分自身に等しいい思想を高く投げ上げ、それが自分の上に落ちてくるほかないこと、さらには遠方に投げた石も自分の上に落ちてくるほかないこと、自分がいわば石打の刑の判決を受けていること(Verurtheilt …zu eigenen Steinigung)、この運命を人間の命運として理解しているということ、こびとが示すこの真理をツァラトゥストラも否定することのできないのである。---このこびととツァラトゥストラが共通にもつ洞察の本質は何なのだろうか? それこそが神が死んだということ、その帰結なのではないだろうか? こびととツァラトゥストラは共通して神の死の現実の効果である「無辺際の落下」に苦しみ、傷つき、それによって神の死の現実を徹底して認識した者たちなのである。こびとの沈黙は、神の死んだ現実の恐ろしさを無言のうちに示し、それによってツァラトゥストラを極限まで圧迫するのである。---それによってツァラトゥストラはわけもなく夢に憑かれたように坂をうろつき回り、思考をめぐらし、病人のように悪夢にうなされて目覚めるのである。---そのようにしてまわって、それによってツァラトゥストラは自分の内にこびとの洞察に説得されきらない何かがあることを自覚してゆくのである。---それを彼は「勇気」(Muth)と名付ける。
 ここから、この「勇気」という武器によって、『ツァラトゥストラ』のひとつの頂点をなす反撃が始まる。その勇気は「高らかに響き渡る遊戯」(klingendes Spiel)を伴い、その響きの遊戯と本質的に一体化して働くものなのである。それについては次に語ろう。


 

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