《神の死の体験: 『ツァラトゥストラ』を読む(4-2)承前》

瀬谷こけし

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 先にわれわれは『ツァラトゥストラ』第三部の「幻影と謎」の章で、「無底への落下」が語られているのを確認し、それが神の死の体験と考えられることを指摘した。これは今まで指摘されたことのない観点であった。われわれはここでさらにニーチェが「神の死」を語る代表的なテキストにおいて、ニーチェにおいて神の死が無底への落下として体験されていることの徴を示してみることにしよう。取り上げるのは“Die fröhliche Wissenshaft“(『喜ばしい知の技』。以後FWと略)125番の「おかしな男」(Der Tolle Mensch)のアフォリズムである。ここにわれわれは次の言葉を見いだす。

> Stürzen wir nicht fortwährend?
> われわれはどこまでも落下してゆくのではないか? (拙訳)

である。これまでひとはここにニーチェの恐るべき体験のひびきを聴き取ることを忘れてきた。二つの訳を紹介しよう。
(1) おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか? (信太正三訳、ちくま学芸文庫、全集)
(2) おれたちは絶えず突進してゆくのではないか? (氷上英廣訳、白水社、全集)
 二つの訳が揃って猪突猛進的に訳すのは、彼らが迂闊にもニーチェ自身の神の死の体験の響きをこの文章に聴き取るという発想をもたなかったためであろう。-ニーチェ自身がわたしは自分が克服してきたことしか語らないと言っているにもかかわらず、である。

 ちなみにピエール・クロソウスキーの仏訳はこうだ:
(3) Ne sommes-nous pas precipités dans une chute continue? (Gallimard, 1982)
完璧な訳ではないだろうか。

 われわれはいまここで細論をする必要がない。この「おかしな男」のアフォリズムは極めて重要なテキストで、ひとはここに神の死の後の生の形の根本姿勢を読み取ることができるのだが、それについてはまた別のところで論じることにしよう。むしろここでは次の一首の歌を示しておくことにしよう。
 
> 無辺際の落下にあればためらはず神と垂直にわが身を投げむ
      山中智恵子『空間格子』
 
ここにわれわれはわが国の感受性ががはじめてニーチェの神の死の体験の深みに達した記念碑を読み取るのである。「無辺際の落下」という言葉遣いからもわれわれはこの体験を思考するための有益な手がかりを引き出すことができるだろう。





==== 《神の死の体験: 『ツァラトゥストラ』を読む(4)》再掲 ====
https://25237720.at.webry.info/201906/article_4.html

 『ツァラトゥストラはこう言った』第三部の「幻影と謎」の中にこういう表現がある。
>おお、ツァラトゥストラよ! 知恵の石よ、石弩(いしゆみ)の石よ、人びとの仰ぐ星の破壊者よ! あなたは、あなた自身をかくも高く投げた、---しかし投げられた石はすべて---落ちる! (氷上英廣訳、岩波文庫;一部変更、以下同)
> “Oh Zarathustra, du Stein der Weisheit, du Schleuderstein, du Stern-Zertrümmerer! Dich selber warfst du so hoch, --- aber jeder geworfene Stein --- muss fallen! (KSA, Bd.4)

これを言うのは「半ばこびとで半ばもぐら」(halb Zwerg, halb Maulwurf)と性格表示される「重力の精神」(Geist der Schwere)であるが、それはツァラトゥストラから「わたしの不倶戴天の宿敵である悪魔」(mein Teufel und Erzfeind)とみなされる存在者である。この宿敵の語る「投げられた石はすべて落ちる」(jeder geworfene Stein mussfallen!)という言葉は重く、その真理の洞察はきわめて深い。ツァラトゥストラ自身、その真理を否定することはできないのである。
 その宿敵の悪魔が「おまえはおまえ自身をかくも高く投げ上げた」と言うのである。したがって、それに引き続くのは、「おまえ自身も落ちる」ということである。ここに自らを高く投げ上げたツァラトゥストラの「落下の運命」が記されている。真理として、そして必然として。われわれが強調したいのはこの落下の運命である。
 それではこの必然的な落下はどのような性格を持つのだろうか? ひとつは、この投げ上げられた自分自身という石は、「自己の上にふたたび落ちてくるだろう」(auf d i c h zurückfallen werden)と言われている点である。投げた石がすべて自分の上に落ちてくるという刑罰をツァラトゥストラの投石は受けることが定められている(verurtheilt)のである。特別な、「彼に固有の石打の刑」(eigene Steinigung)が彼の投石には罰として定められているのである。なぜツァラトゥストラは特別な、固有の石打の刑をうけなければならいのだろうか? これが第一の点である。
 もうひとつ、ここで見逃してならないのは、ツァラトゥストラの落下が、奈落への落下、底のない奈落、つまり無底(Abgrund)への落下として把握されている点である。この落下は地面(Grund)に落ちる落下ではなく、無底へと落ちる落下なのである。つまり投げ上げられた自分自身は、自己の上に落ち、自己と共に無底の中へ落ちてゆくのである。この落下の固有の性格をツァラトゥストラは知り、そしてこびとである重力の精神も知っているのである。このような落下を、われわれは「神の死の体験」として理解するのである。しかしわれわれは後にこの無底への落下をさらに明確にしてゆくであろう。無底への落下とは、無限の落下なのか? 無限の落下であればそれもまた永遠に回帰するのではないか? あるいは、無底への無限の落下こそ、永遠回帰の体験に他ならないのではないだろうか。そして先の節(『ツァラトゥストラ』を読む(3))で示したように、1882年8月25日に、この体験を発作(Anfall)として苦しんでいたのではないだろうか? これがわれわれの打ち出そうとしている新説である。




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