《おかしな人間(der tolle Mensch)の語ること FW,125 ニーチェを読む(1)》

瀬谷こけし

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《おかしな人間(der tolle Mensch)の語ること FW,125 ニーチェを読む(1)》

◇ ◇ ◇ はじめに

 ニーチェが神の死について語った最も基本的なテキストである『喜ばしい知の技』(Die fröhliche Wissenshaft)125番のアフォリズムの中から、主人公として登場する「おかしな人間」(der tolle Mensch)が語る三カ所中で、神の死がどういうことなのかを考える上でもっとも中心的な最初の語りを紹介し、拙訳を示してみたい。この「der tolle Mensch」(おかしな人間)をピエール・クロソウスキーは端的に「l'insensé」と訳す。この「l'insensé」は古典的には「気の狂った人間」という意味だが、今日では「非常識な人間」ほどの意味であり、妥当な訳と言うべきだろう。気違いぶりを強調する必要ない。むしろ当面心得ておくべきは『詩篇』52-1の「愚か者は心の内では神はいないと言う」(dixit stultus in corde suo non est Deus.VULGATA)を受けているということだろう。「神はいない」と言えば、ひとは自動的にこの『詩篇』の「愚か者」(stultus)の系譜に位置づけられるだろう。そういう文化伝統が存在する。しかし「神を殺した」と言えば、この伝統的な系譜付けは失効し、新たに、新しいリアルな問題の一体系が開けてくるのである。その新しいリアルな現実は「神は死んでいる」という体験のうちにその根拠をもつであろう。われわれはニーチェのテキストの内にもその「神は死んでいる」という体験のひびきを読み取るべきなのである。そしてその上でこの体験は「神を殺した」という事件として思索される。それはいつどこで起こった事件なのか? 神を殺した殺害者は誰なのか? そして、この「かつて世界が所有した最も神聖で最も力強い者」の死の後、われわれは何をすべきなのか? 「われわれが神を殺した」というこの事件は上述の「おかしな人間」によって語られる事件ではあるが、その語りの中で神を殺したことも、神が死んでいることもともに直接法で、つまり事実として、確定的事実として語られている。この語りの話法は重要である。というのもわれわれにはこの事件は、われわれには直接法の現在完了ないしは過去で提示されているからである。われわれは『詩篇』の作者に倣って「おかしな人間は神を殺したと言う」と言うべきなのだろうか。そのような逃げの余地を残してニーチェはこのアフォリズムを書いていると考えるべきなのだろうか? だがこの事実、この事件はとんでもない。というのも第一に、それはそれ(神殺し)を行った当人が、このおかしな人間を除いてだれもそのことを自覚していないからである。---神が死んだという事件について、われわれは神を殺した(ないしは殺された)という自覚を持つ人間として考察すべきなのであろうか? それとも神を殺した(ないしは殺された)という自覚も意識も予感もない人間として考察すべきなのだろうか? 明らかなのは、後者のような人間はこの事件について何一つ知ってはいないのだ。そのような者に耳を貸しても何の役にも立つまい。---ニーチェはここでも適切な語りの構造を見出していると言うべきだろう。
 直接法によって「われわれが神を殺した」ということが確定的に言われるのに対して、接続法が使われるのは、間接話法として第一式が用いられる二か所を除けば「Mit welchem Wasser könnten wir uns reinigen?」(どのような水によってわれわれはみずからを清められるのだろうか?)という疑問文の一カ所のみである。この願望だけが、(そしてそれに付随する「müssen wir…?」(われわれは...しなければならないのだろうか?)を伴う二三の疑問文のみが)われわれの未解決の、ほんとうの課題として提出されているのである。
 さらにわれわれはこの「おかしな人間」の語りの一人称複数(wir)の戦略的使用についても理解しておかねばならない。彼は市に群がる神を信じない者たちと自分を含めて「Wir」(われわれ)による語りをする。しかしこの「われわれが...」という語りにもかかわらずその語られる内容を共有していると見える者は聴衆の中にいるようにはみえない。「聴衆たちもまた沈黙し彼をけげんなまなざしで見ていた」(auch sie schwiegen und blicken befremdet auf ihn)のである。どれだけ知られていない事柄にせよ認識を共有し広めてゆくためには、物事をわれわれが共に知っていることであるかのように語るという一人称複数の使用は戦略的に採用される語り方である。そうした語りであるからこそ、語られる内容からわれわれは一人称単数の体験を注意深く読み取ってゆかねばならないのである。神の死の体験、そのなかに神を殺した体験も神を殺されて喪失した体験も含まれているような基本的な体験を読み取ってゆかねばらなない。

◇ ◇ ◇ 

 以上のような前置きのもと、まず原文から紹介する(残念ながらドイツ語の引用符等は再現できない。ご寛恕いただきたい)

> "Wohin ist Gott? rief er, ich will es euch sagen! W i r h a b e n i h n g e t ö d t e t , – ihr und ich! Wir Alle sind seine Mörder! Aber wie haben wir diess gemacht? Wie vermochten wir das Meer auszutrinken? Wer gab uns den Schwamm, um den ganzen Horizont wegzuwischen? Was thaten wir, als wir diese Erde von ihrer Sonne losketteten? Wohin bewegt sie sich nun? Wohin bewegen wir uns? Fort von allen Sonnen? Stürzen wir nicht fortwährend? Und rückwärts, seitwärts, vorwärts, nach allen Seiten? Giebt es noch ein Oben und ein Unten? Irren wir nicht wie durch ein unendliches Nichts? Haucht uns nicht der leere Raum an? Ist es nicht kälter geworden? Kommt nicht immerfort die Nacht und mehr Nacht? Müssen nicht Laternen am Vormittage angezündet werden? Hören wir noch Nichts von dem Lärm der Todtengräber, welche Gott begraben? Riechen wir noch Nichts von der göttlichen Verwesung? – auch Götter verwesen! Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet! Wie trösten wir uns, die Mörder aller Mörder? Das Heiligste und Mächtigste, was die Welt bisher besass, es ist unter unseren Messern verblutet, – wer wischt diess Blut von uns ab? Mit welchem Wasser könnten wir uns reinigen? Welche Sühnfeiern, welche heiligen Spiele werden wir erfinden müssen? Ist nicht die Grösse dieser That zu gross für uns? Müssen wir nicht selber zu Göttern werden, um nur ihrer würdig zu erscheinen? Es gab nie eine grössere That, – und wer nur immer nach uns geboren wird, gehört um dieser That willen in eine höhere Geschichte, als alle Geschichte bisher war!"

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 次いで上記の部分の拙訳:
> 「神がどこに行ったかって?」と彼は叫んだ。「お前たちに言ってやろう。 われわれが彼を殺したのだ、お前たちとおれが。われわれはみな彼の殺害者なのだ! だがわれわれはどうやってそんなことをしたのだ? どうやってわれわれは海を飲み干すことができたのだ? 地平線をすべて拭き消すために、われわれにスポンジを与えたのは誰なのだ? われわれがこの地球をその太陽から解き放った時、われわれは何をしたのだ? 地球は今どこへ向かって動いているのだ? あらゆる太陽から離れていってるのか? われわれはどこまで落下してゆくのではないか? 後ろへか、横へか、前へか、あらゆる方向へなのか? まだ上や下が存在するのか? われわれは果てのない無を貫いてさまよっているようなものではないのか? 空虚な空間がわれわれの顔に息を吹きかけているのではないか? ますます寒くなっているのではないか? 絶えず夜が、ますます深い夜が来ているのではないか? 昼でもランタンを灯していなければならないのではないか? われわれにはまだ、神を埋める墓掘り人夫たちのざわめきがなにも聞こえてこないのか? われわれにはまだ、神が腐ってゆく臭いがなにもしてこないのか? - 神々もまた腐敗するのだ! 神は死んでいる! 神は死んだままだ! しかもわれわれが神を殺したのだ! どのようにしてわれわれは自分を慰めよう、殺害者の中の殺害者であるわれわれは? これまで世界が所有した最も神聖でもっとも力強い者、それがわれわれの小刀の下に血を流して死んでいるのだ、 - 誰がこの血をわれわれから拭き取るのだ? どのような水でわれわれは自分を清めることができるのだろうか? どのような償いの式典を、どのような聖なる遊びを、われわれは考案しなければならないのか? この行為の偉大さはわれわれには大き過ぎるのではないか? この行為にふさわしいと見えるためだけにも、われわれはみずから神々にならねばならないのではないか? かつてこれほど偉大な行為はなかった、- そして今後われわれの後に生まれて来さえすれば、その者は、この行為のおかげで、これまで存在したすべての歴史よりも高いひとつの歴史に属しているのだ。

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とりあえずまずは以上をもって公開しておきたい。語注を付けたいところが少なからずあるので、それを公にしておきたい気持ちがある。入手しやすい日本語訳に信太正三訳のもの(ちくま学芸文庫 ニーチェ全集10)、氷上英廣訳のもの(白水社 ニーチェ全集10)があり、参照しているが、読解の細部においてまで最も有益だったのはピエール・クロソウスキーのフランス語訳(ガリマール、1982年、TOME V)だった。上に引用したテキストの最後で「おかしな人間」はわれわれよりも後に生まれた人間はみなこの行為の恩恵を受けるのだと語るが、この恩恵がひとびとに広く自覚されるようになるまでに、われわれはまだ幾つかの悲惨を経験しなければならないだろう。

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