《二つのピエタ像 -ミケランジェロとケーテ・コルヴィッツ》

瀬谷こけし

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 わたしは子を失った嘆きや怨みを天に訴えかけるピエタ(Pietà)のマリア像を好まない。ミケランジェロのピエタ像(ヴァチカーノ、Vaticano)は、そうした気配が微塵もない。それだけ深く、純粋に見える。その像はヨブ記のヨブのように次のように語っているように見える。
> Dominus dedit Dominus abstulit sit nomen Domini benedictum. (Iob I-21)
(主は与え、主は奪った。主のみ名はほむべきかな)
その姿は美しい。

 だがケーテ・コルヴィッツ(Köthe Kollwitz)のピエタ像(ベルリン・ノイエヴァッヘ、NeueWache)のマリアはそのどちらとも違う。嘆きを天に訴えることもせず、また主の善意思に思いを委ねることもしない。嘆きと悲しみのすべてを自分一人のうちに引き受けるのだ。

 わたしはケーテのそれの方をより好んでいる。


《963というウィスキー》

瀬谷こけし

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 このウィスキーのことわかるひといるだろうか? どこの産物か。

 ものは普通においしいウィスキーだ。説明を見れば冷却濾過をしていないと書いてある。甘く華やかな香り、クリーンでスムースな口当たりが特徴だと書いてある。確かに飲んだ印象もそうだった。特別な頑固な味わいがあるわけではない。

  問題はどこの産かということ。この963という名づけ方が上手い。住んだことのある人なら思いあたることがあるだろう。京都の左京区ならば606になる。そう、郵便番号のはじめ3桁。

 こんなところに隠れた愛情が浮かんでいる。わかるひとはわかる。福島県の郡山市。


《おかしな人間(der tolle Mensch)の語ること FW,125 ニーチェを読む(1)》

瀬谷こけし

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《おかしな人間(der tolle Mensch)の語ること FW,125 ニーチェを読む(1)》

◇ ◇ ◇ はじめに

 ニーチェが神の死について語った最も基本的なテキストである『喜ばしい知の技』(Die fröhliche Wissenshaft)125番のアフォリズムの中から、主人公として登場する「おかしな人間」(der tolle Mensch)が語る三カ所中で、神の死がどういうことなのかを考える上でもっとも中心的な最初の語りを紹介し、拙訳を示してみたい。この「der tolle Mensch」(おかしな人間)をピエール・クロソウスキーは端的に「l'insensé」と訳す。この「l'insensé」は古典的には「気の狂った人間」という意味だが、今日では「非常識な人間」ほどの意味であり、妥当な訳と言うべきだろう。気違いぶりを強調する必要ない。むしろ当面心得ておくべきは『詩篇』52-1の「愚か者は心の内では神はいないと言う」(dixit stultus in corde suo non est Deus.VULGATA)を受けているということだろう。「神はいない」と言えば、ひとは自動的にこの『詩篇』の「愚か者」(stultus)の系譜に位置づけられるだろう。そういう文化伝統が存在する。しかし「神を殺した」と言えば、この伝統的な系譜付けは失効し、新たに、新しいリアルな問題の一体系が開けてくるのである。その新しいリアルな現実は「神は死んでいる」という体験のうちにその根拠をもつであろう。われわれはニーチェのテキストの内にもその「神は死んでいる」という体験のひびきを読み取るべきなのである。そしてその上でこの体験は「神を殺した」という事件として思索される。それはいつどこで起こった事件なのか? 神を殺した殺害者は誰なのか? そして、この「かつて世界が所有した最も神聖で最も力強い者」の死の後、われわれは何をすべきなのか? 「われわれが神を殺した」というこの事件は上述の「おかしな人間」によって語られる事件ではあるが、その語りの中で神を殺したことも、神が死んでいることもともに直接法で、つまり事実として、確定的事実として語られている。この語りの話法は重要である。というのもわれわれにはこの事件は、われわれには直接法の現在完了ないしは過去で提示されているからである。われわれは『詩篇』の作者に倣って「おかしな人間は神を殺したと言う」と言うべきなのだろうか。そのような逃げの余地を残してニーチェはこのアフォリズムを書いていると考えるべきなのだろうか? だがこの事実、この事件はとんでもない。というのも第一に、それはそれ(神殺し)を行った当人が、このおかしな人間を除いてだれもそのことを自覚していないからである。---神が死んだという事件について、われわれは神を殺した(ないしは殺された)という自覚を持つ人間として考察すべきなのであろうか? それとも神を殺した(ないしは殺された)という自覚も意識も予感もない人間として考察すべきなのだろうか? 明らかなのは、後者のような人間はこの事件について何一つ知ってはいないのだ。そのような者に耳を貸しても何の役にも立つまい。---ニーチェはここでも適切な語りの構造を見出していると言うべきだろう。
 直接法によって「われわれが神を殺した」ということが確定的に言われるのに対して、接続法が使われるのは、間接話法として第一式が用いられる二か所を除けば「Mit welchem Wasser könnten wir uns reinigen?」(どのような水によってわれわれはみずからを清められるのだろうか?)という疑問文の一カ所のみである。この願望だけが、(そしてそれに付随する「müssen wir…?」(われわれは...しなければならないのだろうか?)を伴う二三の疑問文のみが)われわれの未解決の、ほんとうの課題として提出されているのである。
 さらにわれわれはこの「おかしな人間」の語りの一人称複数(wir)の戦略的使用についても理解しておかねばならない。彼は市に群がる神を信じない者たちと自分を含めて「Wir」(われわれ)による語りをする。しかしこの「われわれが...」という語りにもかかわらずその語られる内容を共有していると見える者は聴衆の中にいるようにはみえない。「聴衆たちもまた沈黙し彼をけげんなまなざしで見ていた」(auch sie schwiegen und blicken befremdet auf ihn)のである。どれだけ知られていない事柄にせよ認識を共有し広めてゆくためには、物事をわれわれが共に知っていることであるかのように語るという一人称複数の使用は戦略的に採用される語り方である。そうした語りであるからこそ、語られる内容からわれわれは一人称単数の体験を注意深く読み取ってゆかねばならないのである。神の死の体験、そのなかに神を殺した体験も神を殺されて喪失した体験も含まれているような基本的な体験を読み取ってゆかねばらなない。

◇ ◇ ◇ 

 以上のような前置きのもと、まず原文から紹介する(残念ながらドイツ語の引用符等は再現できない。ご寛恕いただきたい)

> "Wohin ist Gott? rief er, ich will es euch sagen! W i r h a b e n i h n g e t ö d t e t , – ihr und ich! Wir Alle sind seine Mörder! Aber wie haben wir diess gemacht? Wie vermochten wir das Meer auszutrinken? Wer gab uns den Schwamm, um den ganzen Horizont wegzuwischen? Was thaten wir, als wir diese Erde von ihrer Sonne losketteten? Wohin bewegt sie sich nun? Wohin bewegen wir uns? Fort von allen Sonnen? Stürzen wir nicht fortwährend? Und rückwärts, seitwärts, vorwärts, nach allen Seiten? Giebt es noch ein Oben und ein Unten? Irren wir nicht wie durch ein unendliches Nichts? Haucht uns nicht der leere Raum an? Ist es nicht kälter geworden? Kommt nicht immerfort die Nacht und mehr Nacht? Müssen nicht Laternen am Vormittage angezündet werden? Hören wir noch Nichts von dem Lärm der Todtengräber, welche Gott begraben? Riechen wir noch Nichts von der göttlichen Verwesung? – auch Götter verwesen! Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet! Wie trösten wir uns, die Mörder aller Mörder? Das Heiligste und Mächtigste, was die Welt bisher besass, es ist unter unseren Messern verblutet, – wer wischt diess Blut von uns ab? Mit welchem Wasser könnten wir uns reinigen? Welche Sühnfeiern, welche heiligen Spiele werden wir erfinden müssen? Ist nicht die Grösse dieser That zu gross für uns? Müssen wir nicht selber zu Göttern werden, um nur ihrer würdig zu erscheinen? Es gab nie eine grössere That, – und wer nur immer nach uns geboren wird, gehört um dieser That willen in eine höhere Geschichte, als alle Geschichte bisher war!"

◇  ◇  ◇

 次いで上記の部分の拙訳:
> 「神がどこに行ったかって?」と彼は叫んだ。「お前たちに言ってやろう。 われわれが彼を殺したのだ、お前たちとおれが。われわれはみな彼の殺害者なのだ! だがわれわれはどうやってそんなことをしたのだ? どうやってわれわれは海を飲み干すことができたのだ? 地平線をすべて拭き消すために、われわれにスポンジを与えたのは誰なのだ? われわれがこの地球をその太陽から解き放った時、われわれは何をしたのだ? 地球は今どこへ向かって動いているのだ? あらゆる太陽から離れていってるのか? われわれはどこまで落下してゆくのではないか? 後ろへか、横へか、前へか、あらゆる方向へなのか? まだ上や下が存在するのか? われわれは果てのない無を貫いてさまよっているようなものではないのか? 空虚な空間がわれわれの顔に息を吹きかけているのではないか? ますます寒くなっているのではないか? 絶えず夜が、ますます深い夜が来ているのではないか? 昼でもランタンを灯していなければならないのではないか? われわれにはまだ、神を埋める墓掘り人夫たちのざわめきがなにも聞こえてこないのか? われわれにはまだ、神が腐ってゆく臭いがなにもしてこないのか? - 神々もまた腐敗するのだ! 神は死んでいる! 神は死んだままだ! しかもわれわれが神を殺したのだ! どのようにしてわれわれは自分を慰めよう、殺害者の中の殺害者であるわれわれは? これまで世界が所有した最も神聖でもっとも力強い者、それがわれわれの小刀の下に血を流して死んでいるのだ、 - 誰がこの血をわれわれから拭き取るのだ? どのような水でわれわれは自分を清めることができるのだろうか? どのような償いの式典を、どのような聖なる遊びを、われわれは考案しなければならないのか? この行為の偉大さはわれわれには大き過ぎるのではないか? この行為にふさわしいと見えるためだけにも、われわれはみずから神々にならねばならないのではないか? かつてこれほど偉大な行為はなかった、- そして今後われわれの後に生まれて来さえすれば、その者は、この行為のおかげで、これまで存在したすべての歴史よりも高いひとつの歴史に属しているのだ。

◇ ◇ ◇

とりあえずまずは以上をもって公開しておきたい。語注を付けたいところが少なからずあるので、それを公にしておきたい気持ちがある。入手しやすい日本語訳に信太正三訳のもの(ちくま学芸文庫 ニーチェ全集10)、氷上英廣訳のもの(白水社 ニーチェ全集10)があり、参照しているが、読解の細部においてまで最も有益だったのはピエール・クロソウスキーのフランス語訳(ガリマール、1982年、TOME V)だった。上に引用したテキストの最後で「おかしな人間」はわれわれよりも後に生まれた人間はみなこの行為の恩恵を受けるのだと語るが、この恩恵がひとびとに広く自覚されるようになるまでに、われわれはまだ幾つかの悲惨を経験しなければならないだろう。

《神の死の体験: 『ツァラトゥストラ』を読む(4-2)承前》

瀬谷こけし

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 先にわれわれは『ツァラトゥストラ』第三部の「幻影と謎」の章で、「無底への落下」が語られているのを確認し、それが神の死の体験と考えられることを指摘した。これは今まで指摘されたことのない観点であった。われわれはここでさらにニーチェが「神の死」を語る代表的なテキストにおいて、ニーチェにおいて神の死が無底への落下として体験されていることの徴を示してみることにしよう。取り上げるのは“Die fröhliche Wissenshaft“(『喜ばしい知の技』。以後FWと略)125番の「おかしな男」(Der Tolle Mensch)のアフォリズムである。ここにわれわれは次の言葉を見いだす。

> Stürzen wir nicht fortwährend?
> われわれはどこまでも落下してゆくのではないか? (拙訳)

である。これまでひとはここにニーチェの恐るべき体験のひびきを聴き取ることを忘れてきた。二つの訳を紹介しよう。
(1) おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか? (信太正三訳、ちくま学芸文庫、全集)
(2) おれたちは絶えず突進してゆくのではないか? (氷上英廣訳、白水社、全集)
 二つの訳が揃って猪突猛進的に訳すのは、彼らが迂闊にもニーチェ自身の神の死の体験の響きをこの文章に聴き取るという発想をもたなかったためであろう。-ニーチェ自身がわたしは自分が克服してきたことしか語らないと言っているにもかかわらず、である。

 ちなみにピエール・クロソウスキーの仏訳はこうだ:
(3) Ne sommes-nous pas precipités dans une chute continue? (Gallimard, 1982)
完璧な訳ではないだろうか。

 われわれはいまここで細論をする必要がない。この「おかしな男」のアフォリズムは極めて重要なテキストで、ひとはここに神の死の後の生の形の根本姿勢を読み取ることができるのだが、それについてはまた別のところで論じることにしよう。むしろここでは次の一首の歌を示しておくことにしよう。
 
> 無辺際の落下にあればためらはず神と垂直にわが身を投げむ
      山中智恵子『空間格子』
 
ここにわれわれはわが国の感受性ががはじめてニーチェの神の死の体験の深みに達した記念碑を読み取るのである。「無辺際の落下」という言葉遣いからもわれわれはこの体験を思考するための有益な手がかりを引き出すことができるだろう。





==== 《神の死の体験: 『ツァラトゥストラ』を読む(4)》再掲 ====
https://25237720.at.webry.info/201906/article_4.html

 『ツァラトゥストラはこう言った』第三部の「幻影と謎」の中にこういう表現がある。
>おお、ツァラトゥストラよ! 知恵の石よ、石弩(いしゆみ)の石よ、人びとの仰ぐ星の破壊者よ! あなたは、あなた自身をかくも高く投げた、---しかし投げられた石はすべて---落ちる! (氷上英廣訳、岩波文庫;一部変更、以下同)
> “Oh Zarathustra, du Stein der Weisheit, du Schleuderstein, du Stern-Zertrümmerer! Dich selber warfst du so hoch, --- aber jeder geworfene Stein --- muss fallen! (KSA, Bd.4)

これを言うのは「半ばこびとで半ばもぐら」(halb Zwerg, halb Maulwurf)と性格表示される「重力の精神」(Geist der Schwere)であるが、それはツァラトゥストラから「わたしの不倶戴天の宿敵である悪魔」(mein Teufel und Erzfeind)とみなされる存在者である。この宿敵の語る「投げられた石はすべて落ちる」(jeder geworfene Stein mussfallen!)という言葉は重く、その真理の洞察はきわめて深い。ツァラトゥストラ自身、その真理を否定することはできないのである。
 その宿敵の悪魔が「おまえはおまえ自身をかくも高く投げ上げた」と言うのである。したがって、それに引き続くのは、「おまえ自身も落ちる」ということである。ここに自らを高く投げ上げたツァラトゥストラの「落下の運命」が記されている。真理として、そして必然として。われわれが強調したいのはこの落下の運命である。
 それではこの必然的な落下はどのような性格を持つのだろうか? ひとつは、この投げ上げられた自分自身という石は、「自己の上にふたたび落ちてくるだろう」(auf d i c h zurückfallen werden)と言われている点である。投げた石がすべて自分の上に落ちてくるという刑罰をツァラトゥストラの投石は受けることが定められている(verurtheilt)のである。特別な、「彼に固有の石打の刑」(eigene Steinigung)が彼の投石には罰として定められているのである。なぜツァラトゥストラは特別な、固有の石打の刑をうけなければならいのだろうか? これが第一の点である。
 もうひとつ、ここで見逃してならないのは、ツァラトゥストラの落下が、奈落への落下、底のない奈落、つまり無底(Abgrund)への落下として把握されている点である。この落下は地面(Grund)に落ちる落下ではなく、無底へと落ちる落下なのである。つまり投げ上げられた自分自身は、自己の上に落ち、自己と共に無底の中へ落ちてゆくのである。この落下の固有の性格をツァラトゥストラは知り、そしてこびとである重力の精神も知っているのである。このような落下を、われわれは「神の死の体験」として理解するのである。しかしわれわれは後にこの無底への落下をさらに明確にしてゆくであろう。無底への落下とは、無限の落下なのか? 無限の落下であればそれもまた永遠に回帰するのではないか? あるいは、無底への無限の落下こそ、永遠回帰の体験に他ならないのではないだろうか。そして先の節(『ツァラトゥストラ』を読む(3))で示したように、1882年8月25日に、この体験を発作(Anfall)として苦しんでいたのではないだろうか? これがわれわれの打ち出そうとしている新説である。




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《神の死の体験: 『ツァラトゥストラ』を読む(4)》

瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラはこう言った』第三部の「幻影と謎」の中にこういう表現がある。
>おお、ツァラトゥストラよ! 知恵の石よ、石弩(いしゆみ)の石よ、人びとの仰ぐ星の破壊者よ! あなたは、あなた自身をかくも高く投げた、---しかし投げられた石はすべて---落ちる! (氷上英廣訳、岩波文庫;一部変更、以下同)
> “Oh Zarathustra, du Stein der Weisheit, du Schleuderstein, du Stern-Zertrümmerer! Dich selber warfst du so hoch, --- aber jeder geworfene Stein --- muss fallen! (KSA, Bd.4)

これを言うのは「半ばこびとで半ばもぐら」(halb Zwerg, halb Maulwurf)と性格表示される「重力の精神」(Geist der Schwere)であるが、それはツァラトゥストラから「わたしの不倶戴天の宿敵である悪魔」(mein Teufel und Erzfeind)とみなされる存在者である。この宿敵の語る「投げられた石はすべて落ちる」(jeder geworfene Stein mussfallen!)という言葉は重く、その真理の洞察はきわめて深い。ツァラトゥストラ自身、その真理を否定することはできないのである。
 その宿敵の悪魔が「おまえはおまえ自身をかくも高く投げ上げた」と言うのである。したがって、それに引き続くのは、「おまえ自身も落ちる」ということである。ここに自らを高く投げ上げたツァラトゥストラの「落下の運命」が記されている。真理として、そして必然として。われわれが強調したいのはこの落下の運命である。
 それではこの必然的な落下はどのような性格を持つのだろうか? ひとつは、この投げ上げられた自分自身という石は、「自己の上にふたたび落ちてくるだろう」(auf d i c h zurückfallen werden)と言われている点である。投げた石がすべて自分の上に落ちてくるという刑罰をツァラトゥストラの投石は受けることが定められている(verurtheilt)のである。特別な、「彼に固有の石打の刑」(eigene Steinigung)が彼の投石には罰として定められているのである。なぜツァラトゥストラは特別な、固有の石打の刑をうけなければならいのだろうか? これが第一の点である。
 もうひとつ、ここで見逃してならないのは、ツァラトゥストラの落下が、奈落への落下、底のない奈落、つまり無底(Abgrund)への落下として把握されている点である。この落下は地面(Grund)に落ちる落下ではなく、無底へと落ちる落下なのである。つまり投げ上げられた自分自身は、自己の上に落ち、自己と共に無底の中へ落ちてゆくのである。この落下の固有の性格をツァラトゥストラは知り、そしてこびとである重力の精神も知っているのである。このような落下を、われわれは「神の死の体験」として理解するのである。しかしわれわれは後にこの無底への落下をさらに明確にしてゆくであろう。無底への落下とは、無限の落下なのか? 無限の落下であればそれもまた永遠に回帰するのではないか? あるいは、無底への無限の落下こそ、永遠回帰の体験に他ならないのではないだろうか。そして先の節(『ツァラトゥストラ』を読む(3))で示したように、1882年8月25日に、この体験を発作(Anfall)として苦しんでいたのではないだろうか? これがわれわれの打ち出そうとしている新説である。




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《プラナー1,4/50》

瀬谷こけし

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 むかし一眼レフのフィルムカメラを使っていたとき一番の魅力はフォーカシングによってピントが合ってきて像がくっきりするその瞬間だった。この手動のフォーカシングが気に入っていたので、AFカメラが普通になってからもなかなか使う気にはならなかった。最後の最後にちょっと使ってみたという程度だ。だからデジタルのAFカメラが世の標準になってからもピントをそのままオートフォーカスに任す気にはならなかった。今もそうだ。いわば合焦の魅惑に憑りつかれているのだ。それでMFのレンズを随分持っているが、その中の気に入りの一本がコンタックスに使っていたプラナー50mm1,4のレンズだ。これをアダプターを使って4/3のカメラ(LumixG)に使ってみようとしたことがあるが、その時は何のせいか、色収差が気になることがあって、使うのをやめてしまった。マクロプラナー60mmの方は申し分なく素晴らしい映像が撮れたので、近接撮影では相変わらず最も信頼できるレンズとして使っていた。

 だが今日はちょっと思うところがあって、50mm1,4のプラナーをLumixGX1に着けて原っぱに行ってきた。他のレンズはまったく使わない。自動絞りが効かないのでディスプレイでボケ具合も確認しながら撮ることになる。このカメラは焦点位置の像を数倍に拡大して正確なピント合わせをアシストする機構がついているので、合焦しているポイントはきわめて正確にピントが合っているはずだ。それは拡大してみれば確認できるはずだ。それで思うのは岡本太郎の写真だが、岡本はピントを合わせたいところにはっきりとピントを合わせて撮っているので、合焦している像に注目すれば彼が何に注目して撮ったかははっきりと掴むことができる。彼はいいかげんな写真は撮っていないのだ。

 そんなわけで、今日はとても楽しんで写真を撮ってきた。風の待ち方も以前と同じような具合だ。ご覧いただければ幸い。


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《ツァラトゥストラとこびとの対決 『ツァラトゥストラ』を読む(3)》

瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラ』第三部2の「幻影と謎」の章は、ニーチェがもっとも強い決意をもって書いた一章だと思うが、言語と文章力の限界を超える試みがなされているように思う。いままで語られたことのないことが語られているのだ。だがこの章の読みかたをよく分かっていないひとがまだ多くいるように思う。ハイデガーもまだ十分ではないが(N,I, S.289ff)、その正しい強い読み方のできない人は、まず文中の表現で言えば、「Seine Schweigen aber drückte mich」ということ、「こびと(Zwerg)の沈黙がツァラトゥストラを圧迫した」というこの圧迫を正しく理解しようとしないためだ。そうしたツァラトゥストラの(こびとに対する)優位を自明のこととして読んでしまっては、何も読んだことにならない。ここでツァラトゥストラはこびとの言った「すべての投げ上げられた石は落下せざるを得ない」という真理と、その事態についてのこびとの沈黙に、圧迫され、ほとんど押し負かされているのである。ルー・アンドレアス・ザロメ(Lou Andreas-Salome) が直接にこの箇所の読解を示していないのは残念なことであるが、ルーが「当時(1882年8月)は永遠回帰の観念がニーチェにとっていまだ確信(Ueberzeugung)となっておらず、やっとひとつの恐怖(Befürchtung)になっていたばかりなのだった」(拙訳)(FN,S.224/訳本p.276)と言い、いわばニーチェが自らをこびとの立場に置き、そして次のメモをその証拠として示すのは『ツァラトゥストラ』解釈としてこの上なく適切なことなのである。つまりルーあての8月25日のメモ「Zu Bett. Heftigster Anfall. Ich verachte das Leben. FN.」(床に就きます。極めて激しい発作です。わたしは生(きること)を尊重しません)(N書簡集290番)。
 とすると、この激しい発作において、ニーチェは投げ上げた石が自分の上に落ちてくるほかないこと、自分自身に等しいい思想を高く投げ上げ、それが自分の上に落ちてくるほかないこと、さらには遠方に投げた石も自分の上に落ちてくるほかないこと、自分がいわば石打の刑の判決を受けていること(Verurtheilt …zu eigenen Steinigung)、この運命を人間の命運として理解しているということ、こびとが示すこの真理をツァラトゥストラも否定することのできないのである。---このこびととツァラトゥストラが共通にもつ洞察の本質は何なのだろうか? それこそが神が死んだということ、その帰結なのではないだろうか? こびととツァラトゥストラは共通して神の死の現実の効果である「無辺際の落下」に苦しみ、傷つき、それによって神の死の現実を徹底して認識した者たちなのである。こびとの沈黙は、神の死んだ現実の恐ろしさを無言のうちに示し、それによってツァラトゥストラを極限まで圧迫するのである。---それによってツァラトゥストラはわけもなく夢に憑かれたように坂をうろつき回り、思考をめぐらし、病人のように悪夢にうなされて目覚めるのである。---そのようにしてまわって、それによってツァラトゥストラは自分の内にこびとの洞察に説得されきらない何かがあることを自覚してゆくのである。---それを彼は「勇気」(Muth)と名付ける。
 ここから、この「勇気」という武器によって、『ツァラトゥストラ』のひとつの頂点をなす反撃が始まる。その勇気は「高らかに響き渡る遊戯」(klingendes Spiel)を伴い、その響きの遊戯と本質的に一体化して働くものなのである。それについては次に語ろう。


 

《京都造形芸術大学の大学院の教科書》

瀬谷こけし

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 京都造形芸術大学通信教育部の大学院の教科書として『芸術環境を育てるために』とう本が平成22年3月20日に角川学芸出版から発行されていて、わたしもその一部を書いていた。第1部第2章「作られる場所2---芸術・環境・地域学」というものだ。わたしはそもそも大学院に教科書があるということに納得が行かず、むしろ学部学生に与えている教材よりも平易なものをと思って書いたのだった。内容は芸術とその根との関係を素描したもので、主としてルソーとデューイと宮沢賢治を扱った。この度それを電子書籍とオンデマンドブックとして新しく制作することになり、その再掲載の許可をもとめて依頼が来たのだった。そこで、脱稿して以来一度も目を通したことのない自分の書いた章を読んでみたのだが、その最後の賢治について書いたところをみると、なかなかいい。この本は鶴見俊輔さんにだけお送りして、「芸術環境の試みに参加していることに敬意を感じる」というようなご返事をいただいたものだった。鶴見さんの賢治論(『限界芸術論』のなかの)を取り上げ直して、賢治の「復命書」の中から新たに「浮立」という概念を芸術の源として取り出したものだった。それは「浮き立つ心」のようなものだ。わたしは地域開講の「環境文化論演習」などの科目の授業を、この浮き立つ心を引き出すようなものにしたいと思って努力してきたのだった。わたしにとってはその実践の理論的裏付けのような意味のある一章を書いたものだった。

 それで修正したいところがあったら修正してくれという注文があって、書いたところをはじめから読み直したのだが、修正したいのは、今はhtppからhtppsになっている二か所の修正と、大正一三年と表記されているところを大正十三年という表記に修正してほしいというその二点だけだった。ルソーやデューイなどにわかづけの勉強で書いたところが、意外ときちんと書けていて、特にデューイのものは訳者の訳文をだいぶ変えているのだが、それで破綻は見つからなかったのだ。
 そのほか『土佐日記』について書いたところともとてもよい。ここに何故かはわからぬがひとは貫之の慟哭を読み取ることをしてこなかったのだ。土佐の地で娘を失ったその慟哭が貫之を国家の役人から異人に変質させ、土地の霊と交わるひとにしていたのだ。
 多言はやめよう。読み直してみたら結構いいことを書いていた、というはなしだ。
 この「浮立」の精神は、今も毎年続けている「お月見会」の基本精神でもあるのだ。---わたしはそれを沖浦和光さんから学んだのだった。