《牧人の笑いとテレンス・スタンプの叫び 『ツァラトゥストラ』を読む5》

《牧人の笑いとテレンス・スタンプの叫び 『ツァラトゥストラ』を読む5》
瀬谷こけし
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 『ツァラトゥストラ』第三部の「幻影と謎」の章はニーチェの思索表現にとって最も重要なテキストの一つだが、その頂点をなすのは牧人の笑いだ。まずはそのテキストを紹介しよう。
>  Meine Hand riss die Schlange und riss: - umsonst! sie riss die Schlange nicht aus dem Schlunde. Da schrie es aus mir: "Beiss zu! Beiss zu!
>  Den Kopf ab! Beiss zu!" - so schrie es aus mir, mein Grauen, mein Hass, mein Ekel, mein Erbarmen, all mein Gutes und Schlimmes schrie mit Einem Schrei aus mir. –  
[…]
>  - Der Hirt aber biss, wie mein Schrei ihm rieth; er biss mit gutem Bisse! Weit weg spie er den Kopf der Schlange -: und sprang empor. –
>  Nicht mehr Hirt, nicht mehr Mensch, - ein Verwandelter, ein Umleuchteter, welcher lachte! Niemals noch auf Erden lachte je ein Mensch, wie er lachte!
(テキストはKindleによる)

 ニーチェが筆力の限りを尽くして書いたものを異国語に翻訳するのは至難のことである。そこはあだな望みをいだくことなく、ただ要点について議論ができる程度の日本語に直しておきたい。
 状況は、犬がツァラトゥストラに向かって助けを求めて激しく吠え叫ぶ。近寄るとそこにひとが一人倒れている。若い牧人が喉を詰まらせてもがき身をくねらせている。その口からは黒くて重たい蛇が垂れ下がっている。蛇が寝ていた牧人の喉に入り込み、喉にしっかりと食らいついたのだ。ツァラトゥストラは蛇を掴んで引き抜こうとするのだ。
> わたしの手は蛇を引きに引いた、---無駄だった! ---手は蛇を喉から引き抜けなかった。そのときわたしの内部から何かが、「噛みつけ! 噛みつけ!
> 頭を噛み切れ! 噛むんだ!」と、- こう何かがわたしの中から叫んだ。わたしの恐怖が、わたしの憎悪が、わたしの吐き気が、わたしの憐れみが、わたしの善意と悪意のすべてが一声の叫びとなってわたしの内から叫び出た-
[…]
> -しかし牧夫は噛んだ、わたしの叫びが忠言したように; 彼は歯でしっかりと噛んだのだ! 遠くへ彼は蛇の頭を吐き捨てた、―:そして跳び起きた。―
> もはや牧夫ではなく、もはや人間ではなかった、-ひとりの変身した者、光につつまれた者であり、その者が笑った! 彼が笑ったように笑った者は、この地上にいまだかつてひとりもいなかった。(日本語訳はいずれも拙訳)

 「もはや人間ではない」この人物は序説で予示された「超人(Übermensh)」と呼ぶにふさわしい存在である。彼は笑う。光につつまれて笑う。超人を規定するのは、蛇の頭を噛み切ること、そして笑うことである。しかしそもそも蛇の頭を噛み切るとはどういうことだろうか? 後に然るべき解釈を示すつもりだが、それは永遠回帰を忘却することではないのか? 問題は時間の構造、永遠に続く時間の構造そのもののもたらす並外れた責め苦である永遠回帰の体験、それによって日常の有限の時間体制から隔てられそこへ戻れなくなる体験、---そのような永遠回帰の体験を忘却する行為ではないのだろうか? 永遠回帰の時間構造を象徴する黒く重たい蛇、それに入り込まれ窒息しかかってのたうち回る人間がそこから逃れるためにする断固たる忘却の行為、蛇の頭を噛み切るとはそうした断固たる忘却によってこの世に回生する行為なのではないだろうか?
 その断固たる噛み切りをなし遂げた牧人は、踊り上がり、光につつまれ、そして笑ったのである。「彼が笑ったように笑った人間はこの世にいまだかつてひとりもいない」と言われている。この彼がしたような笑いをわれわれは映画の中でもよい、見たことがあるだろうか?
 ---いろいろ思い浮かべてもそのような笑いは思いつかない。ただおそらくその一歩手前のような叫びをわれわれは思い出すことができる。それはフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の映画『Toby Dammit(悪魔の首飾り)』の中で見せるテレンス・スタンプ(Terence Stamp)の笑いである。一つは迷路のような街の運転に疲れ、とある教会の近くで水を飲み、車の中であげる全力の叫び声である。この叫びは神が死んでいることを彼に最終的に確認させる笑いであるように見える。そしてもう一つは、悪魔的なもの(diable)にどこまでも憑りつかれて最後に決死の賭けに挑む時の叫びである。声が出せれば蛇に喉の中みまで入り込まれた牧人が蛇の頭を噛もうとして上げたであろう叫び声はそのようなものであろうと思える。われわれは変身した牧人のあげた笑いを、現実にも、またどのような映像表現、絵画表現においても見たことがない。だがその輝かしい笑いの効果は並外れている。

> Meine Sehnsucht nach diesem Lachen frisst an mir: oh wie ertrage ich noch zu leben! Und wie ertrüge ich's, jetzt zu sterben! – (この笑いへのわたしの憧れはわたしをむしばむ。おお、どのようにしてわたしはおめおめと生きていることに堪えられるだろう! そして今死ぬことにどのようにして堪えることができるだろう!--)

 ニーチェはその笑いをありありと思い浮かべられたのだろう。

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