《ヤブカラシ》

瀬谷こけし
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 夕方が近づくまえ、三時半ごろだろうか、北向きの窓の下を見ていて、そのヤブカラシの葉を見ていて、そのヤブカラシは二階の窓まで這い上がってきていて、窓から切れる範囲は切ったのだが、一階の窓は開けられないし外からも簡単には周れないしで、仕方なくほっといたものが、風の吹いた午後、ガタッという音がしていたのだが、ヤブカラシが下まで、一階の地面よりさらに下、擁壁の下まで落ちていた。もしかしたらだれかが切ってくれたのかもしれない。そのヤブカラシの葉を見ていた。それで思ったのだが、スズメバチをはじめ昆虫たちに花があれほど好かれる植物なのだから、もしかしたら葉っぱは食べれるのではないだろか、と考えた。食べられるなら有力な野菜が身近なところで調達できることになる。アシタバのように使えないものだろうか?
 そんなことを思ってWebを調べてみると、ヤブカラシの食べ方というコーナーがあった。アクが強いので塩ゆでした後長いこと水さらしをしないといけないが、食べれて、ワラビなどのようにぬめりと辛みがあって、納豆と混ぜても、てんぷらにしてもおいしそうだと書いてある。これは見つけものだ。---まだしばらくはやらないが、いずれ試してみよう。以前縄文食を探っていて、コナラの水さらしはだいぶ上達したので、食べれる度合いの計りかたはわかってゆくだろう。またおいしい時季もあるのだろう。

 ひとつ問題は、除草剤を浴びせられていない「健康」なヤブカラシが手に入るかどうか。食べたりするとアクより先に除草剤にやられてしまうかもしれない。


《『ツァラトゥストラ』の中の「最も孤独な放浪」について 発表要旨》

瀬谷こけし
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 標記のものの400×400のものをアップロードします。後日日本宗教学会のHPで「発表要旨」として公開されるものの原稿です。ニーチェの問題に深い関心のある方にいち早くご覧いただけるようにとの配慮です。ご意見などいただければ幸いです。

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《『ツァラトゥストラ』の中の「最も孤独な放浪」について》

             2019年9月15日 日本宗教学会発表要旨
Von der einsamsten Wanderung in “Also sprach Zarathustra”.
NAKAJI Masatsune

1.ニーチェの著作の中には「最も孤独な」(einsamst)の語が二十回表れる。それは概ね『曙光』以降は彼の哲学の核心をなす永遠回帰の思想と密接する仕方で使われる。『曙光』91番では「全知全能であってしかも自分の意図がおのれの被造物によって理解されることを少しも配慮しない神」は善意をもちながら己の意図を明瞭に表現(ausdrücken)できぬ者として「最も孤独な者」と呼ばれる。また同書423番では岩礁の立つ海辺の風景が観察され、岩塊や岩礁は「最も孤独な」ところを探し求めているように海の中につき進んでゆくと描かれ、その孤独の本質は「語ることができない」ことに見いだされている。
2.『FW』341と『Za』3-1「旅びと」においては[einsamst]が所有冠詞(mein,dein)を冠して用いられ「最高の孤独」は明示的にみずからの体験の連関の中で語られる。前者においては「お前の最も孤独な孤独」の中にデーモンが忍び込んできて私は「この人生、お前が今生きていて、これまで生きてきた人生を、お前はもう一度、そしてさらには無数回にわたって生きねばならない」という啓示を受ける。この教えは自分が別の時空で別の過去(と未来)をもった生を生きる可能性を遮断するが、今後の生についての私の決定の自由は手つかずに残される。この啓示の真理性に圧倒されそこに自らを賭けるとき永遠回帰の倫理学と呼ばれるべき一つの宗教的倫理学説が導かれ、人間にとっては自分のあらゆる行動に際して「お前はこのことを今一度、またさらに無数回繰り返すことを欲するか」という問いへの最終永遠の答えを確認し封印すること(Besiegelung)が行為の最大の重しとなる。それは言表することの彼方で行う最も孤独な行為である。
3.『Za』3-1-1においてはZaが「ああ、わたしはわたしの最も孤独な放浪を始めたのだ!」と自分に語る。これはZaが「おのれの最後の頂上」に立つことをめざして最終永遠の確認と封印をしたことを示す。その最後の頂上の内容は次の『Za』3-2「幻影と謎」で示される。そこでZaはまずこびとから試練を課される。こびとは「お前は自分自身を高く投げ上げた、だが投げ上げられた石はすべて落ちるのだ」と重力の本性を語りZaはその真理に苦しむが、やがて「勇気」(Muth)を発見する。勇気は「これが人生であったのか?よし!もう一度」と語る。これもまた人生の永遠回帰のもとでの最終永遠の「確認と封印」を表現し、「よし(Wohlan)!」に含まれる一度の肯定が墜落の恐怖に打ち勝つことを表現している。
4.「幻影と謎」2においては、前後に広がりをもって流れる現在の瞬間を出発点に「永遠の」存在を説く時間論が語られた後、岩礁のもと黒く重たい蛇に口から侵入され、喉をしっかりと領有され、言葉を失い、もがく牧人の幻影が語られる。牧人はZaの全力の叫びに呼応して蛇の頭を噛み切り吐き捨てる。そして「かつて地上で人間が彼が笑ったように笑ったことはなかった」と表現される笑いを笑う。この時彼はもはや人間ではなかったとされる。蛇は「最も重たいもの、最も黒いもののすべて」としての生成の全体を表す。
5.Zaの「最も孤独な放浪」はいつ終わるのか。形式的には第四部の終りで獅子の到来を見る時である。だが思考の肯定的な本質は牧人の笑いを提示した時に最初の完成を見ている。そして永遠回帰の体験は、私が喉を蛇に領有されて言葉を失い、言表の空間の彼方に消え、神の死の体験である「絶え間のない落下(Stürzen)」(FW125)を経験しそこで私を神のまなざしすら届かぬ無として把握し、確認し、それゆえ神が死んでいることを確認し、われわれが生成する万物とともに果てのない無のなかをさまよっていると把握するときに最も深まる。対して蛇の頭を噛み切る牧人の行為は万物が回帰すると捉える思考を廃棄する。ただ牧人の新しい笑いをわがものとした者だけがロゴスを越えて生を活気づける。

《『ツァラトゥストラ』の中の「わたしの最も孤独な放浪」について》

瀬谷こけし
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 標記のタイトルで日本宗教学会 第78回学術大会の会場(9月15日10:40から、第2部会)で「発表の要旨」として配布したテキストをここに再掲します。ご意見などいただければ幸いです。



『ツァラトゥストラ』の中の「わたしの最も孤独な放浪」について
中路正恒 京都造形芸術大学
日本宗教学会 第78回学術大会発表要旨  2019年9月15日 於帝京科学大学

1.ここではニーチェの著作に20回現れる[einsamst](最も孤独な)の語を含むテキストの考察を通して彼が「わたしの最も孤独な」ことをどう考えていたかを考察したい。初めにテキストの点検から。「最も孤独な」は形容詞の最上級であるが、彼のテキストでその比較の対象が明確である例は少なく、「きわめて孤独な者に」①「きわめて寂しい自然の中へ」②などこの語の日常的な了解の中で用いられている例も比較的多い。⑤⑦⑰⑱もそれに含めることができるだろう。
2.しかしまたこの語を定冠詞をつけ名詞化して使う例も多く、その場合もニーチェが「孤独」の概念を明確化しているケースは乏しい。①⑧⑫⑬⑭⑮⑯⑳である。『Za』の極めて重要な「幻影と謎」の中で「最も孤独な者の幻影」と出てくる場合もこれに含めておく。
3.ニーチェが「最も孤独な」という状態をどう把握しているかについて最も明瞭な概念を提供してくれるのが『曙光』91番③のテキストである。そこで立てられるのは、「全知全能であってしかも自分の意図がおのれの被造物によって理解されることを少しも配慮しない神」(Ein Gott, der allwissend und allmächtig ist und der nicht einmal dafür sorgt, dass seine Absicht von seinen Geschöpfen verstanden wird)とは何だろう、それは善意の神なのだろうかという問いである。その神をニーチェは善意の神であって、ただおのれを明瞭に表現(ausdrücken)できず、救済に関わる真理を被造物に伝えられず、徒に悩ませ苦しめる存在と見るのであるそのような神をニーチェは「あの最も孤独な者」(jener Einsamste)と呼ぶのである。
4.さらに『曙光』423番④では岩礁の立つ海辺の風景が観察され、「岩塊の帯や小さな岩礁は、最も寂しい孤独なところを探し求めているように海の中につき進んでゆく。それらもみな語ることができない。突然途方もない沈黙がわれわれを襲う。それは美しくわれわれを戦慄させる。そしてわたしの心は胸がいっぱいに膨らむ。---」(Die kleinen Klippen und Felsenbänder, welche ins Meer hineinlaufen, wie um den Ort zu finden, wo es am einsamsten ist, sie können alle nicht reden. Diese ungeheure Stummheit, die uns plötzlich überfällt, ist schön und grausenhaft, das Herz schwillt dabei. –)と語られる。語られているのは巨大な沈黙であり、そこにおのれみずからを越えて安らう(über sich selber ruhend)ものの存在が確認され、人間もみずからを越えて崇高に達すべきではないかという教えが与えられる。最も孤独であることが崇高として評価され、それは「語れぬこと」即ち「沈黙」を必須の構成要素にしている。言表の空間が破れ、発話することのできない「x」が、発話できないことを必須の要素として崇高な安らぎにあるというのである。
5.『FW』341⑥と『Za』III-1⑫においては「最も孤独な」という形容詞の最上級が所有冠詞(mein, dein)を冠して用いられ、比較の対象がみずからの経験の中に求められていることが示される。最高の孤独がみずからの諸体験の連関で語られているのである。⑥においては「お前の最も孤独な孤独」の中にデーモンが忍び込んできて私はいっさい間を取ることのできない形で一つの教えを聞く。「この人生、お前が今生きていて、これまで生きてきた人生を、お前はもう一度、そしてさらには無数回にわたって生きねばならない。そしてそこには新しいことは一つとしてなく…」(Dieses Leben, wie du es jetzt lebst und gelebt hast, wirst du noch einmal und noch unzählige Male leben müssen; und es wird nichts Neues daran sein, sondern...)と。この教えは自分が別の時空で別の過去(と未来)をもった生を生きる可能性を遮断するが、今後の生についての私の決定の自由は手つかずに残されている。その真理性の承認からニーチェはひとつの宗教的な倫理学的教説を導き出す。それは「お前はこのことを今一度、またさらに無数回繰り返すことを欲するか」(willst du diess noch einmal und noch unzählige Male?)という問いを自分のあらゆる行動に際して問いこの問いへの最終永遠の答えを確認し封印すること(diese letzte ewige Bestätigung und Besiegelung)のみを求めよ、という教えである。「封印」はそれが自分の行為であることを蜜蝋によって永遠に封印することであり、P.クロソウスキーが「sanction」と仏訳するように神聖化することであり、それ以外の報いを何一つ求めない宣言でもある。それは言表することの彼方で行う「最も孤独な」行為であると言える。この倫理学説が宗教的なのは「この生の永遠の循環」というデーモンの宇宙説を真理と認める所にひとつの賭けが存在しているからである。
6.『Za』III-1「放浪者」⑫においてZaが「ああ、わたしはわたしの最も孤独な放浪を始めたのだ!」(Ach, ich begann meine einsamste Wanderung!)と言う時、彼は前項で述べた永遠回帰の倫理学に従ってその不退転の道、確認し封印した道を歩き始めたのだと考えられる。ちなみに放浪者(Wanderer)は「長いこと腰をおちつけていられない(nicht lange still sitzen können)」者を意味し、「登山者」(Bergsteiger)は「平地が好きでない(die Ebenen nicht lieben)」者を意味する。そして彼の最も孤独な放浪はわたし自身を見おろし、わたしの星々をも見おろす「わたしの最後の頂上」に立つことをめざし、そのためにまずこれまで下りたことのないほど深く、苦痛の最も暗い満ち潮のなかに、降りてゆく。彼が見るのは固い褥の上で夢をみながら身をくねらせる海である。彼は海に対して「お前を悪しき数々の夢のから救済してやりたい」と思うが、自分の手にそのための十分な強さがないこと自覚して嘆く。
7.さらに『Za』 III-2 幻影と謎⑬においてZaは船乗りたちに謎を解いてみろとばかりに自分の見た謎、「最も孤独な者の幻影」(das Gesicht des Einsamsten)を語る。幻影は二つの部分からなる。第一の部分ではこびとがZaに「お前は自分自身を高く投げ上げた、だが投げ上げられた石はすべて落ちるのだ」と語り、その後沈黙する。その沈黙がZaを圧迫する。だがやがてZaは「勇気」(Muth)を発見する。勇気は「これが人生であったのか? よし! もう一度」(War _das_ das Leben? Wohlan! Noch Ein Mal!)と語る。この定式的表現の要点は「5」で述べた『FW』 341⑥の永遠回帰の倫理学説と同じものであり、このことを今一度、さらには何度でも繰り返し欲する「確認と封印」を表現し、それが一度の肯定 (Wohlan!) によって墜落や破滅の恐怖にも打ち勝つ力をもつ思想であることを示している。
8.幻影の第二の部分⑭においてもそれが「最も孤独な者の幻影」であることが再度語られるが、そのはじめに時間論が語られる。「この瞬間という門から一本の長い永遠の小道が後ろ向きに走っている。われわれの後ろにひとつの永遠が横たわっている」(Von diesem Thorwege Augenblick läuft eine lange ewige Gasse _rückwärts_ : hinter uns liegt eine Ewigkeit)と言われ、この現在の瞬間が過去に向かって永遠の時とつながっているという考えが確認される。つまり現在という瞬間が厳密な点ではなく、つねに多少とも広がりをもった時の流れとして動いている限りにおいて、この流れる時を過去に向かって無限につながるものとして思考することができるという思想である。しかしすぐ次には「およそ走りうる一切の事物は、すでに一度、この道を走ったはずではなかろうか?」(Muss nicht, was laufen _kann_ von allen Dingen, schon einmal diese Gasse gelaufen sein?)という命題が示される。しかしこの命題は、先の命題とはちがって、どのような経験によって裏付けられるかが示されないまま、問いとして提示されるにとどまる。しかしこのような疑問形による疑問の提示を無効にするように、近くで犬の吠え声が聞こえてくる。満月が屋根の上に昇っている。と突然場面が変わりZaは荒々しい岩礁の間に立っている。そこにひとりの人間が横たわっている。そばで犬が吠え、叫ぶ。それはひとりの若い牧人で、倒れ身をよじりながら顔をゆがめ、その口からは一匹の黒い重たい蛇が垂れ下がっている。眠っているところを蛇が這って喉に入り込み、そこにしっかり噛みついたのだ(Da kroch ihm die Schlange in den Schlund—da biss sie sich fest.)とZaは見る。Zaは蛇を引き抜こうとするが抜けない。「噛みつけ、頭を噛み切れ」とZAは全力で叫ぶ。---牧人はしっかりと噛み、噛み切った蛇の頭を吐き捨てる。そして起き上がった彼はもはや人間ではなかった(nicht mehr Mensch)と言われる。そしてその彼が笑った。「かつて地上の誰も彼が笑ったように人間が笑ったことは一度もなかった」(Niemals noch auf Erden lachte je ein Mensch, wie _er_ lachte!)と描写される。
9.『Za』では他に第二部「救済」⑨⑩のなかに、『そうあった』という過去を意志の最も孤独な苦しみとして語るところがある。意志は遡って欲することができない。意志が時を破れないこと、時の欲望を打ち砕けないこと、---これが意志の最も孤独な苦しみである」(Nicht zurück kann der Wille wollen; dass er die Zeit nicht brechen kann und der Zeit Begierde,—das ist des Willens einsamste Trübsal.)と言われる。この「そうあった」という意志の苦難、転がすことのできない躓き石に対して、Zaはその「そうあった」を「そうわたしは欲した!」(so wollte ich es!)と言えるように意志を創り変える必要性を説く。そのために意志は「創造する意志」(der Schaffende Wille)となって自らを越えなければならない。
10.考察
Zaの「最も孤独な放浪」はいつ終わるのだろうか。形式的に見れば、それは第四部の終り、獅子の到来を見る時である。第一部冒頭の「三つの変身」において、最も孤独な砂漠の中で第二の変身が起こり駱駝が獅子に変身するという変身が完成すると言われているからである。だが思考の肯定的な本質は、第三部末の「七つの封印」において語り終えられているのではないか。しかし「最も孤独な孤独」は永遠回帰の体験において体験されるように見える。そして永遠回帰の体験は、喉を重たい蛇に領有されて、声を失い、言葉を失い、言表の空間の彼方に消え、絶え間のない落下を経験し(Stürzen wir nicht fortwährend? | FW 125])、そこでわたしを誰からも存在を認められない無として把握し、あるいは最も孤独な海として、生成の全体として把握し、そこには神のまなざしも届かぬことを確認し、それゆえ神が死んでいることを確認し、われわれが生成する万物とともに果てのない無のなかをさまよっている(Irren wir nicht wie durch ein unendliches Nichts | ibid)と把握するときに最も深まるのではないだろうか。永遠回帰の体験、つまり生成の全体をわたしとして把握する体験は神の死を確認する行為あるいは神を殺す行為と重なる。そうであれば牧人のする重たい蛇の頭を噛み捨てることは、万物を永遠回帰するものとして把握する思考を廃棄することである。そして笑うのであるが、そのような笑いはこれまでこの世の誰一人として笑ったことのない笑いである、とニーチェは言う。このような笑いであればこそ、その「lachen」を「哄笑」とか「高笑」とか訳すことは慎まなくえてはならない。そのわらいをわれわれはそもそも聞いたことがなく、ましてどよめくように笑うこととはまったく違っている。それがはたして高い笑いであるか低い笑いであるか、われわれは知らないのである。それを知っているかのように訳すことはニーチェの本意から外れる。
 ニーチェが「einsamst」という最上級を最も多く使うのは『Za』においてであるが、それはこの「最も孤独な」という最上級が比較としては意味を持たず、むしろ絶対の無を指し示すのに好適であるがためである。最も孤独な存在は、主体である個々人がであるが、それは何者にも見られぬゆえに無である主体である個々人を指し示し、その無なる主体の全体である生成者の海を指し示すためである。放浪(wandern)は「さまよい」(irren)と等しく、放浪者は迷動者と等しい。ただ牧人の新しい笑いをわがものとした者だけが生を活気づけることができるだろう。
 (了)

[einsamst] テキスト一覧Nietzsche-Kindle
①MM 142、②WS 219「不定住」、③M 91「神の誠実」、④M 423「大沈黙」、⑤M 481「二人のドイツ人」、⑥FW 341「最大の重し」、⑦Za I-1「三変身」、⑧Za II-10「墓歌」、⑨Za II-19「救済」、⑩Za II-19 「救済」、⑪Za III-1「放浪者」、⑫Za III-1「放浪者」、⑬Za III-2「幻影と謎」、⑭Za III-2「幻影と謎」、⑮Za III-4「日の出前」、⑯Za IV-5「魔術師」、⑰JGB 212、⑱NW「抗議所」、⑲EH「Za4」、⑳DD「アリアドネの嘆き」

[einsamst] 原典少々Nietzsche-Kindle
①MM 142 
Bald übt der Heilige jenen Trotz gegen sich selbst, der ein naher Verwandter der Herrschsucht ist und auch dem Einsamsten noch das Gefühl der Macht gibt;
②WS 219 不定住
Nicht seßhaft. – Man wohnt gerne in der kleinen Stadt; aber von Zeit zu Zeit treibt gerade sie uns in die einsamste unenthüllteste Natur:
③M 91 神の誠実
Einem derartig schließenden und bedrängten Gläubigen wäre wahrlich zu verzeihen, wenn ihm das Mitleiden mit dem leidenden Gott näher läge als das Mitleiden mit den »Nächsten«, – denn es sind nicht mehr seine Nächsten, wenn jener Einsamste, Uranfänglichste auch der Leidendste, Trostbedürftigste von allen ist.
④M 423 大沈黙
Die kleinen Klippen und Felsenbänder, welche ins Meer hineinlaufen, wie um den Ort zu finden, wo es am einsamsten ist, sie können alle nicht reden.
⑥FW 341 最大の重し
Das größte Schwergewicht. – Wie, wenn dir eines Tages oder Nachts ein Dämon in deine einsamste Einsamkeit nachschliche und dir sagte: »Dieses Leben, wie du es jetzt lebst und gelebt hast, wirst du noch einmal und noch unzählige Male leben müssen; und es wird nichts Neues daran sein, sondern jeder Schmerz und jede Lust und jeder Gedanke und Seufzer und alles unsäglich Kleine und Große deines Lebens muß dir wiederkommen, und alles in derselben Reihe und Folge – und ebenso diese Spinne und dieses Mondlicht zwischen den Bäumen, und ebenso dieser Augenblick und ich selber.
⑦Za I-1 三変身
Aber in der einsamsten Wüste geschieht die zweite Verwandlung: zum Löwen wird hier der Geist, Freiheit will er sich erbeuten und Herr sein in seiner eignen Wüste.
⑩Za II-19 救済
Nicht zurück kann der Wille wollen; daß er die Zeit nicht brechen kann und der Zeit Begierde – das ist des Willens einsamste Trübsal.
⑪Za III-1 放浪者
Und noch eins weiß ich: ich stehe jetzt vor meinem letzten Gipfel und vor dem, was mir am längsten aufgespart war. Ach, meinen härtesten Weg muß ich hinan! Ach, ich begann meine einsamste Wanderung!
⑭Za III-2 幻影と謎
So ratet mir doch das Rätsel, das ich damals schaute, so deutet mir doch das Gesicht des Einsamsten! Denn ein Gesicht war's und ein Vorhersehn: – was sah ich damals im Gleichnisse? Und wer ist, der einst noch kommen muß?
⑳DD アリアドネの嘆き
Gib Liebe mir – wer wärmt mich noch? wer liebt mich noch? gib heiße Hände, gib erzens-Kohlenbecken, gib mir, der Einsamsten, die Eis, ach!

《澤瀉久孝『万葉集注釈巻第七』が手に入った》

瀬谷こけし
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 ほんとなら図書館に行って必要なところをコピーして来ればよいのだが、『万葉集巻七』は好きな歌が多くて、鑑賞するにも近くにあって困ることもないと古書で買うことにして、今日やっと届いたのだった。それで早速1122番の歌を調べたが、「山のまに」と訓んで、

>【訓釈】山のまに---「山のま」は山の際、山の間(1・17)

と記すばかりだ。
 それで仕方なしに巻一・17番を繙いてみる。巻一の『注釈』は前から持っていたのだ。澤瀉の訓では、17番の歌は:

>味酒(ウマサケ)三輪乃山(ミワノヤマ)青丹吉(アヲニヨシ)奈良能山乃(ナラノヤマノ)山際(ヤマノマニ)伊隠萬代(イカクルマデ) …〔後略〕

と訓まれている。「山際」を「やまのま」と訓んでいるのだ。この歌は一般に額田王が近江の国に下る時に読んだ歌としてよく知られた歌だ。澤瀉はこの歌を基準にして「山際」の訓みを定めようとしたようだ。
 このような澤瀉の訓みに対して、「山際」のところを除けばわたしにも何の異論もない。だが「山際」の訓みに関しては承服することができない。それは、おのれの訓みを説明して、彼が次のように訓釈しているからだ。できるだけそのままに紹介しよう。

>【訓釈】... 山のまにい隠るまで---原文「山際」を古訓にヤマノハニともあるが、「山のは」(3・393)は別である。「山のま」は原文の文字のやうに、山の際、山の傍ら、又は山の間である。〔中略〕三輪山が奈良山の山間に隠れるまでの意。奈良山を越えれば三輪山は見えなくなるので、せめてそれまではといふのである。

393番の歌は「山之末」をどう訓むかという問題で、これはこれで「山のは」と訓むのがよいというのが先述したようにわたしの説だ。つまり「~の端(は)」「~の端っこ」という解釈するのが正しいとわたしは考えている。
 それで、上掲の澤瀉の「山の間」説は、「山の際、山の傍ら、又は山の間である」とまるで取って付けたように「山の間」説を滑り込ませているのである。これは「山の間」説を支える傍証はなにもないということだろう。してみれば「山際」を「山の間」と訓読するのは奈良山との位置関係を考えて生み出した澤瀉独自の考えなのだろう。17番について精選本で契沖は「山ノマは山ノ閒也」と記しているがその意味はやや取りにくい。が、「山のま」と訓むのは「閒」の字の訓みで「山際」の訓みとは違う、と言いたいのであろう。ちなみに「間」は「閒」の俗字で「閒」の「月」は月光の意味ではなく「肉」の意味だと白川静は解きこの説は正しいと思う。契沖が「閒」の字にどのような考えを持っていたのかわたしは通じていないが、門の上に肉を置くという呪法をおそらく知らなかったであろう。
 ともあれ、「山際」を「山のま」と訓読する説は17番の三輪山歌でも根拠があるとは思えない。むしろ「山際」が、先述した「窓際」と同じように、山とは違う物の山と近接したところの意味だと考えれば、「奈良山の山際に」とは奈良山とは別のもの(=三輪山)が奈良山の稜線に接したところにあり(それが奈良山の後ろに隠れる)という関係を適切に表す表現であることになるであろう。『字統』の「際」の解を読むとさらにこの「際」の「際会」の深い意味を読み取ることができるだろう。今はただ、「山際に」は「やまぎは(わ)に」と訓んで置くべきではないかという説を改めて述べおくことにとどめる。




《「山の端」と「山際」 万葉集巻七 1122番の歌》

瀬谷こけし
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 面倒だが纏めてしまおう。万葉集巻七、1122番の歌、
>山際尓 渡秋沙乃 行将居 其河瀬尓 浪立勿湯目
であるが、この歌を折口信夫は(口訳万葉集)
>山の端に渡る秋沙の、行きてゐむ其川の瀬に、波立つな。ゆめ 
と訓んでいる。秋沙は鴨の仲間の「アイサ」のこととして問題ないのだが、問題は「山の端に」と訓でいるところだ。「山ぎはすれすれに飛んでゆく」という鑑賞も問題なく、一首の想いを「何卒波が立つて、鳥を苦しめてやってくれるな」と解釈するところも問題ないのであるが、折口は「山際」と「山の端」の違いを理解していなかったのだろうか? 他方最近の訓みは佐竹昭広も中西進も「やまのま」/「山の際(ま)」と訓んでいて、これにもあまり納得が行かない。と言うのも、というのもこのとき秋沙はもう着水も近い姿勢で山際を飛んでいたのだろうと思えるからだ。ここは「山際(ぎは)に」と訓むべきではないだろうか?
 語義の基本として、「~の端」は「~の一部をなす端っこ」の意味で、「山の端」と言えば山の端っこでなければならないと考える。他方、「~際」は「~」とは違うものの「~」に極めて近いところの意味で、例えば「教室の窓際の席」と言えば、窓の一部をなすところではなく、むしろ教室の一部をなす場所の「窓」にきわめて近いところを意味すると考えられる。
 しかしこの語義の違いを契沖もよく理解していなかったようで、『万葉代匠記』ではあやふやなことを書いている。その初稿版では「山のはに 山きはにともよむべし」としており、その精選本においても、「ヤマノハニ」の他に「ヤマノマニ」とも訓む古訓を紹介し「山閒ヲ山際トカケル所アルハ、山ノアヒタノ意ナリ。今ハ天際雲際ナト云如ク、和語ニテハヤマノキハノ意ナリ」などと言いつつ、「哥ニヨムハ然ラス。ソレモ山ノハナリ」と「山の端」説(折口も同じ説だ)を主張し、例として源氏若菜上の「山キハヨリ指出ル日ノハナヤカナルニ云々」を挙げている。しかし契沖はまさにここで考察を進めるべきだったのだ。「山際より指出る日」というのは、「山の極めて近くの空の部分より出る日」の意味で、「山の端っこから出る月」では全くないのだ。先にわたしが語義の基本として説明したとおりだ。
 それでは、佐竹/中西が契沖/折口の「山の端説」を退け、「やまのま」と訓むのはなぜなのだろうか? 折口以降に有力な説が立てられたのだろうか? 思い浮かぶのは澤瀉久孝の『万葉集注釈』だが、それは第一巻しか私の手許にないので今は論究できない。だが契沖も紹介している「山のあいだ」のようなぼんやりしたところを飛んでいたとしたら、あまり歌にならなそうに思うのだが、そいういことでもないのだろうか? 
ともあれこの歌、わたしは「やまきわに」と訓んでおきたい。


《裏の密林》

瀬谷こけし


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 ある確認のために『ニーチェ対ワーグナー』を読んでいたせいか、ふと『カルメン』のある旋律が浮かんできて、これはどのシーンだったか確かめたくなって、CDを聴き出した。わかっているのだが、主人公のドン・ホセの母がいて美しい婚約者のミカエラのいるバスク地方の故郷への郷愁を掻き立てる曲なのだが。ビゼーはこうして、ホセに間違った道から本来の場所に帰るために機会を何度か与えている。それがとても説得力のある曲であり旋律なのだ。故郷に錦を飾りたくて軍隊に入り、きわめて真面目に勤めていた彼なのだが、一度捕縛すべきカルメンを同情心から逃してからは、軍隊の中での出世の道を失い、逆にカルメンには恩に篤いところがあって、特別な恩返しをしてくれる。そこからは犯罪の手引きをしたりで、世のお尋ね者になって転落してゆく。しかしそんなホセにも、ほぼ最後まで故郷の田舎でやり直す可能性を教え諭してくれるミカエラを登場させるビゼーの演出は心憎いばかりだ。ニーチェがこの歌劇だけは何度も観た(上述の本では20回も観たと言っている)というのもうなづかれる。典型的で温かく完璧な描き方なのだ。もちろん闘牛士エスカミリオも持て男の代表として典型的に極めて魅力的に描かれている。ワグナーのような、とりわけ『パルジファル』のような異様な設定は何もない。そしてニーチェはワグナーに長く捕縛されてしまっていたのだ。

 ニーチェが最初に『カルメン』を観たと思われるノートを、一度見つけたのだが、それがいつだったかもう忘れてしまった。多分あの1882年秋のライプツィッヒなのだ。

 ニーチェの命日は8月25日だが、今年も何もしないで夏の熱さにうだりながら過ごしてしまった。3年前に、1882年秋にニーチェがライプツィッヒで借りていた家の近くの森で、ニーチェの書簡などを読みつつ過ごしたのが、ただ一度の命日にした慰霊だったかもしれない。ニーチェはドン・ホセ以上に迷いが深かった。

 聴きたかった曲は第二幕20番だった。