《上田閑照先生が亡くなったと知った》

瀬谷こけし

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 去年宇治市のゆうゆうの里にお訪ねしたのはブログを見れば12月13日のことだったようだ。その時は以前と変わらぬほどにご健勝で、まだまだ何年もご指導をいただけるものと感じ、喜びまた大いに頼もしく感じていたのだった。その時は持参した日本宗教学会の発表紀要をとても喜んで読んでくださっていた。だからかわらずにお元気なことと思っていた。わたしは今年も日本宗教学会で発表をし、それはわたしなりに大いに自負のあるもので、それだけに先生のご批判を仰ぎたかった。その発表紀要の校正稿が届き、時間の取れる時が来たらお見せしに伺いたいと思っていた。そして今日ようやく時間ができて、伺いたく、ゆうゆうの里の方にご連絡した。---そこではじめて先生のご逝去を知らされた。
 さびしさに言葉もない。

  拙吟

  朗らかな磯菊ばかりまゐらせむ


 墓は、相国寺の西谷啓治先生の墓のおそばだときいた。

《上高野から国際会館駅へ》

瀬谷こけし

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 ギャラリー高倉通に「五人展」を見にゆくためにまず国際会館前まで歩く。その道筋。一枚目は稲を稲架干しいていた田の今の風景。藁を敷いて、霜よけというより、来年度の土づくりの準備をしているのだろうか。いずれ藁を土に鋤きこむことによって。「土づくり半作」という言葉を思い出した。もう秋も晩秋、来年の準備に向かっているのだ。二枚目以下は晩秋の風景。

《山茶花を探して 一乗寺葉山》

瀬谷こけし


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 数日前に原付での買い物帰りに見かけた垣根に咲いていた白山茶花がなかなか新鮮で、後日また探しに来ようと思っていた。木曜になって少しひまになったので探しに行ったがどこだったかよくわからない。結局見つからなかった。金曜には葉山(一乗寺)の方に行ったが、そこは先日も通っていないので、前に見た山茶花を探したわけではなく、ただこのあたりにも咲いていないかと思って行ったのだった。林丘寺に縁のある静かな一画だ。原付を停めてさがす。このあたりは気配も京都の町中とは違い、閑雅さが残っているが暗さもある。---小ぶりなサザンカらしきものの花が咲いていた。普通の椿と較べれば半分ほどの大きさか。これなら、場所柄も含めて姫椿とよぶにふさわしいのではないだろうか? 近くに何かの赤い実もあったので写真に写してきた。(レンズはOMマクロ・ズイコー50mm 3,5)
 ―――この白い花の木、どうやら茶の木だったようだ。

《清水寺に行ってきた》

瀬谷こけし
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 阿弖流為・母禮の碑の法要に清水寺に行ってきた。晴天。今年は25周年ということで鬼剣舞の奉納もなされた。剣舞の剣は振り下ろすことなくひたすら防衛の形。全力を挙げた専守防衛の精神だ。ひょっとこの踊も面白く深い。そして心静かな森美和子の笛の奉納。僧侶の読経、等々。秋のとてもよい一日だった。
 
 拙詠:
> 蛮族の狩出の声の精妙に読経の声の和するや否や

 インドネシアの話だったと思うが、小泉文夫は、集団で狩猟に出るとき、事前に歌わせ、上げる歌声に精妙な和があるかどうかを聴き取って狩の成否を判断し、出る出ないを決めるということを語っていた。読経の成否も同じようなところがあるだろう。
 他に驚いたのは、清水寺の本堂工事の足場が、パイプではなく、木で組まれているということだった。これも良日のこと。

《秋を表現するためには》

瀬谷こけし

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 秋を表現するためには紅葉した木や木の葉を見せるのが一番手っ取り早い。というよりも、これはそもそも木の葉の紅葉によって秋を感じる人が多いということなのだろうか? わたしはむしろちょっとした光の変容によって秋を感じることが多いのだが。一枚目の写真が、わたしにはたっぷりと秋を感じさせてくれる。
 とはいえひとに秋を感じさせるには、やはり木の葉の紅葉が一番なのだろう。---いやいや、これは多分違う。木の葉の紅葉が感じさせるのは、秋ではなく、あくまで木の葉の紅葉なのだ。そこのところを騙されそうになってしまう。秋はもっと巨大なものなのだ。歳の、冬に近づく巨大な歩みなのだ。




《ネコ族の家》

瀬谷こけし
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 ちょっと変わった表札プレートが目に入った。近づいて見ていると、何となく「この家はネコ族の家だ」という気がしてきた。とりわけ「本」という字のデザインがその原因のようだ。垂れたネコのしっぽが見えてこないだろうか? それとも前手を伸ばして正座したネコの姿だろうか? ちなみにこの辺りで猫の姿を見ることはまず滅多にない。わたしにはまったくそんな記憶がない。いるとしてもそれはきっと「深窓の令猫」のようなネコなのだろう。