《流れ Stroeme:『ツァラトゥストラ』第四部を読む》

瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラはこう言った』第四部19「酔歌」-4に次の言葉がある。氷上英廣訳で「もうわたしは死んだのだ。終わったのだ。…[中略]…ああ! ああ! 露がおりる。時が来た--- (Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt—)」と言われているところにすぐ続くところである。

>  —die Stunde, wo mich fröstelt und friert, die fragt und fragt und
 fragt: „wer hat Herz genug dazu?
   —wer soll der Erde Herr sein? Wer will sagen: s o sollt ihr laufen,
 ihr grossen und kleinen Ströme!“

試みに訳しておくと、
> ---わたしを凍えさせ氷らせる時が来た。時は問い、問い、さらに問う:「だれがそれに十分な心を持っているか? と。
  ---だれが大地の主であるべきか? だれが、おまえたちは そ う 走るべきだ、お前たち大小の流れたちは! と言おうと欲するだろう?」と。

 「流れ」(Ströme)が問題であり、大小の流れがどう「走る」(laufen)かが問題である。ここで「走る」については第三部2「幻影と謎」-2の中の「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?」(氷上訳)(Muss nicht, was laufen kann von allen Dingen, schon einmal diese Gasse gelaufen sein?) の「laufen」(走る)を思い起こすべきである。「走る」とは時間の中を走ることであり、生成するということを意味する。またここで「Ströme」(流れ)においては、ヘルダーリンの「... Wenn nemlich über Menschen/ Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig/ Die Monde gehn, so redet/ Das Meer auch und Ströme müsssen/ Den Pfad sich suchen. ..」(MNEMOSYNE、 Zweite Fassung)の詩句を思い出すべきではないだろうか? ヘルダーリンは(天上で熾烈な争いがおこる危機的な状態で)数々の「流れ」がそれぞれ自らのための道を探さねばならない必然を語っていた。ニーチェは、瞬後に真夜中が訪れる危機の瞬間に、何者かが大地の主として流れにこう走れと命ずる事態を思考している。その命ずる者、大地の主はだれか? それは一神教の神ではなく、流れを構成する多元的な要素の意志であり、多元的なすべての意志の名前であるディオニュソスであるというべきである。ということはここでニーチェが言おうとしていることは、ヘルダーリンの歌う、溢れた流れがみずからここを走ろうとして見出す流路(Pfad)を走りゆくことと違うことではない。流れみずからが大地の主になって、みずからはこう流れるべきだと決定してゆくのである。選ばれた流路が、意志され、肯定された流路になるのである。そのように、意志され、肯定された流路になることこそが唯一重要なことだとニーチェは語っている。



《静原晩秋の草地》

瀬谷こけし

 12月20日、 大原里の駅での買い物をしたあと静原によった。バイクで行ったが、この日は装備をしっかりして行ったので寒いことはなかった。静原ではたいていK字路のところでひとやすみする。ベンチがあり、自販機がある。たいてい自販機で何かを買って、そこのベンチで飲みながら休憩する。静原がこんなに気に入ってしまったのは、「七彩の風」に行ってからだ。もちろん普段は「七彩の風」まで行かないし、その奥にも行かない。だが一度訪ねたことで、村の生活の形が少し見え、そして土地の生産的な力に立脚した生業の形が見えてきたからだ。例えばK字路の近くにもビニールハウスがあって、三色スミレなどの鑑賞用の花を育て、それを出荷して経済を成り立たせている。「労働はひとを自由にする」という思想は誤用さえされなければ深い真実を捉えているだろう。

 一枚目の写真は、そこのベンチからいちばん正面に見える植物だ。それをちょっと近づいて撮った。そしてそこの小川の隣の草の道を奥の方へ少し入って行った。10mか20mか、そんなところだ。そして何枚か撮っているうちに、この景色の中のエッセンスが見えるようになってきた。サヌカイトのような楽器をいじっていていい音が出るポイントが分かって来るのと同じ感じだ。そこからの撮影は悦楽としか言いようがない。次から次に美が見えてくるのだ。レンズはキャノンEF135㎜一本だけ。このレンズが驚くべき合焦の点々を捉えてくれる。息をつかさぬような映像の連続。撮影の醍醐味を味わう時間だった。
 
 クライマックスの一定の持続の後にはアンチクライマックスのものの見え方になってくる。そこにある葉や花が、ひとつずつ、隣接するものたちの中でおのれを語りながら見えてくる。この風土の中で、この風土を形成しながら、それぞれ生命の時をもっている。


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