《「ドイツ語で『ツァラトゥストラ』を読み抜く会」近日発進》

瀬谷こけし

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 同志社の学生を核にした上記の会(勉強会)を4月から開始します。時間は一回3時間程度。二年間で『ツァラトゥストラはこう言った』のドイツ語版(KSA)を終わりまで読み抜くことをめざします。開催は当面月二回、土曜(もしくは日曜)に、場所は京大周辺のオープンスペース(カフェ、ラウンジなど)を予定しています。
 参加の条件は、『ツァラトゥストラ』のテキストをドイツ語で徹底的に読み抜く意志があることです。基礎としてドイツ語の初級文法を習得し終えていることが要求されます。
 日時、場所はまだ未定ですが、初回内容は第四部"Das Nachtwandler-Lied"8-12を予定しています。テキストは「Gruyter」版を使用しますが、初参加の方はネットのグーテンベルクプロジェクト提供のドイツ語テキストを用意しておいてください。
 勉強会の規模は5人程度、最大で10人程度を予定しています。参加希望者は私のところ(Gメールアドレス等)までご連絡ください。プロの研究者も歓迎します。




《羚羊すら行く道を失うところ…:ニーチェの1876年夏の詩》

瀬谷こけし

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 もう三年半という少し昔の話になるのだが、わたしがタウテンブルク(Tauntenburg、ドイツ・チューリンゲン州)にいって4泊した時、そこのある案内板に記されていた詩のことなのだ。その案内板によればニーチェは1876年夏に創ったこの詩をルー・フォン・ザロメ嬢に捧げたということなのだ。まずその詩を写真とともに紹介したい。

Sommer 1876

>Nicht mehr zurück? Und nicht hinan?
>Auch für die Gemse keine Bahn?

>So wart‘ ich hier und fasse fest,
>Was Aug‘ und Hand mich fassen lässt:

>Fünf Fuß breit Erde, Morgenroth,
>Und unter mir – Welt, Mensch und Tod.

>Meiner Lieben Lou. – Sommer 1882

 訳してみると:

1876年夏

>もはや戻れないのか? そして登ってゆくことも?
>羚羊にとってさえ進む道はないのか?

>そこでわたしはここで待ちしっかりと掴む、
>目と手がわたしに掴ませてくれるものを:

>五歩ばかりの広さの大地、朝焼け、
>そしてわたしの下には---世界、人間、そして死が。

>わたしの愛するルーに 1882年夏
(拙訳)

 この詩で興味深いのは羚羊(Gemse)を引き合いに出しているところだ。かなり知られていることだと思うが、羚羊は人間には素手ではとても不可能なほどの絶壁でも、道をみつけて登ってゆく生きものだ。ここでニーチェは絶壁の途上の小さな平にたどり着いたものの、もはや下に戻ることもできず、上に登ることもできない状態を語っている。そしてそこでこの状況を目と手でもって細心に捉え、掴むことのできるものを見出してしっかりと掴み、把握しようと心を決め実行するのである。わかる人は分かるだろう。できることは他にない。
 この詩をルーにプレゼントするとき、それはニーチェが今置かれている状況を彼女に示すということが一つにはあるだろう。たやすい安定した場所にいるわけではないのだ。だがもう一つ、この詩をルーに捧げることには、お前もこの場所に来て、羚羊ならば見出せるかもしれない道を協働で見つけ、一緒に登ってゆこうという誘いがあるだろう。伊東静雄の「冷たい場所で」をさらにひとまわり明晰にしたような詩だと言えるだろう。

 やや細かい話だが、この詩の1876年のテキストをわたしはまだ発見できていない。しかし1882年夏のノートには、この詩のタイトルと強調の有無、コロン/感嘆符の違いの点でわずかに違った詩を見出すことができる([1 = N V 9a. N VI 1a.]、I[105];KSA, Bd.10, S.35)。それを紹介しよう。

I m G e b i r g e.
>  (1876.)

>Nicht mehr zurück? Und nicht hinan?
>Auch für die Gemse keine Bahn?
> **
>So wart‘ ich hier und f a s s e fest,
>Was Aug‘ und Hand mich fassen läßt!
> **
>Fünf Fuß breit Erde, Morgenroth,
>Und u n t e r mir – Welt, Mensch und -- Tod.

 このテキストには杉田弘子の訳があるので紹介しておく(白水社版全集第II期第5巻)。

山にて(1876)

>もはやひきかえせぬ? そして登ることもできぬ?
>カモシカにも道はない?
>    **
>それでは私はここで待つ、そしてしっかりつかまえるのだ、
>目と手がわたしにとらえさせるものを!
>    **
>五尺の大地、曙の光
>私のには--世界、人間そして—死。

 この訳はどうだろう。わたしにはよく理解できない。「fassen」は「つかまえる」というより「つかむ」ではないか?




《東京小景》

瀬谷こけし

 東京はまだCOVID-19にふるえる景色ではなかった。地下鉄の吊り輪を掴むのに皮手袋をしているのはわたしだけだった。---そしてその手袋は汚れてもよいようにコートの左ポケットにしまう。---思い浮かぶのは花鎮の祭。

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《Hashimoto Shigezou's Cabin》 

瀬谷こけし

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 橋本繁藏さんの小屋はまだそのままあった。高山へ移ってからも、折敷地に小屋を維持していて、スノーモービルなどもここに置いていた。狩りに出かけるときの出発点だった。高山から出るよりも30分は早く出発できる。その奥の五味原にあったという家は2001年の時点でもう存在していなかった。ここに家があったという場所は教えてくれた。ダムができるまでの日々、五味原はなんという遊び場だっただろう。スノーモービルで走り回る格好の遊び場だった。ここから約50分ほどスノーモービルで山に入る。しかるべき場所に、そのまま帰れる形にして停めて、そこからは歩いて山に入る。
 繁藏さんが亡くなって何年になるだろう。あの二人だけで山に入った日のことがとりわけ思い出される。腹ごしらえをして目的地に向かって歩き始める。だが、一つの峠を越えたところで、お前は足が遅すぎる。スノーモービルのとことに戻って待っておけと言われた。モービルは彼がピラミッドと呼ぶ場所に停めていた。わたしは何時間か、短くても三時間はひとりで待っていなければならない。彼は目当てがあって奥へ行った。それは相当な強行軍だということは分かっていた。Tという相当腕の良い猟師を連れて行ったとき、帰路Tはもう一歩も歩けなくなって、「ここで置いていってくれ、あとで骨だけ拾いに来てくれ」と言われたことを繁藏さんは話してくれた。
 繁藏さんは奥の目当てのところに行く。だが、もしかしたら、この近くにも冬眠しているかもしれない。そう思って、モービルのところに戻る途中、近くの木の根のあたりを探して歩いた。数カ所は探した。五つ目ぐらいに探したところは太いブナの木で、そこにはむかしクマが登った爪痕がついていた。そして空洞があった。わたしは耳を澄ませた。生き物がいれば呼吸音がするはずだ。慎重に耳を澄ませたが、音はなかった。それからコンデジを取り出してストロボを発光させて穴の中を撮った。生き物は写っていなかった。
 後で4時を15分ほど過ぎたところで繁藏さんが戻ってきた。わたしが探したクマ穴を彼も点検して戻ってきたようだ。あそこに洞のあるブナがあったが、クマがいるかどうかどうやって確かめたか、と尋ねてきた。写真を撮ったが写らなかったとわたしは答えた。「いいだろう、光を当てれば何かの動きをするはずだ」と彼は言った。
 今の荒城温泉の交差点に近いところの道のわきにモービルを止めて、小屋のところに停めていた車に乗って高山の彼の家に戻った。クマ狩りに連れて行ってもらう時はいつも彼の家に寝泊まりさせてもらっていた。繁藏さんから「弟子にならないか」と言われたのはその時だった。わたしは「まだ足に自信がないから」と遠慮させてもらった。あのピラミッドの近くでわたしが独自にクマ穴を探していたこと、そして自分で火を起こして凍えないようにしていたこと、そんなことで見どころがあると思ってくれたのだろう。うれしいことだったが、わたしの脚力や体術はそうとうに力不足で、弟子としてついてゆけるようになるためにはまるまる一年間のトレーニングが必要だっただろう。その道には進まなかった。